エッセイへの憧れとその背景
こんにちは、たがけいこの、今日もコーチング日和、スタートです。
はい、ということで、今日も伊藤優子がお邪魔しておりますが。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
もう優子さん頼みですよ。
いやいやいやいや、おけいさんのね、毎回こんな風にね、お話ができるのは非常に嬉しいんですけど。
はい。
さあ、そんなおけいさん、今日はどんなテーマで話そうかって、ちょっとね、今打ち合わせをしている時に出てきたテーマなんですけど。
そう、そもそもなぜ私がスタイフをやりたいのかということで、優子さんから質問を受けまして、何でだろうって考えた時に、私はエッセイを書きたい憧れがあって、
エッセイを書くようにラジオ、この音声に残すもの、残すものなのかな、残せるような作品を作りたい。
素敵。
エッセイを書けるようになりたいんだけれども、書くってハードルが高いから、まず喋れるようになろうかなっていうことですね。
エッセイ書きたいね。憧れ。憧れです。
そうなんだね。憧れが今日何回一個単語で出てきたかっていう。
憧れますね。
そうなんですね。その憧れの背景は何で?
なんだろう、若い頃にエッセイを読んでいて、こんな風に日常を切り取れるっていいなって思ったんだよね。
だから私が、今のさ、SNSって、バエとかさ、こんなとこ行きましたみたいな、そんな感じなんだけど、もうちょっとそれとは違う体験のストーリー性というか、体験が物語になる瞬間みたいな、
そんなところに魅力を感じているのかもしれないね。
いいですね。でも今日のテーマって結構このスタートFMでね、自分で発信している人たちにも意外と共通するんじゃないかなと。
なんかやっぱり話したいが前提にあるはずだけど、やり続ける中で聞いてもらわないことには、みたいなところで。
そうだよね。
そのバランスというか、でもなんかこう自分の世界観、自分の作品として思いも伝えて、そこが共感してくれる人がキャッチして、そこにコミュニケーションが生まれるっていうのはすごく理想的な気がするので。
思ったことを話すことへの葛藤
さっきの話したい人がっていうことで言うと、話したいだと、私研修やっているので、どうしても自分が持っている知識を出したいとか、伝えたいとか、そういう感じなんだけど、それ以外に話したい人っているんだって今思った。
でも最初にさ、打ち合わせの時にさ、思ったことを話せたらいいなっておけいさん言ってたんだよね。
そうなんだね。
そうだね。思ったことを話すっていうのは、結構私から遠いところにあるかもしれない。
すごい面白い。
だからこそ、でもそうでもないのかな、勝手に私が思ってるだけかもしれないけど、思ったこと感じたことを話す、気軽に話すっていうのは遠いところにある気がする。
だけど、エッセイに憧れるってことは私の中にその欲求があるっていうことだから、そこがこううまくつながってないのかもしれないね。
そうだね。
思いを話すのが遠いところにあるっていうのは、それを何か万が一話したとしたら、どういう思考のからくりになるのっておけいさんが聞いた。
思考のからくり?話すとしたら思考のからくり。
さっきもこういった、私の体験を話す、それがストーリーになるっていう憧れラインがあって、私が話をするとそのストーリーラインに乗らずに単純なお笑い系に行くんじゃないかみたいな、そういう感じかもね。
お笑いかな?お笑いに行く?
お笑いに行かなきゃ、みたいな感じになるのかな。
こういうの面白いでしょっていう方向に行く感じがして、もうちょっと穏やかに流れるようなものがあるから、途中でその道が右か左かみたいな、そんなところがあるのかもしれないね。
本当はエッセイ路線に行きたいんだけど、エッセイ路線ではなくて、なんかやっぱオチを求めたりだとか、笑いを求めたりだとか、そんな方にウイって行ってしまうのかもしれない。
なんか今おっしゃってて私が勝手に思ったのは、そのなんかやっぱり職業柄、研修とか、何かしら持ってる知識をきちんと伝えなきゃいけないという大前提の中で生きているお経さんにしてみると、何か伝えたいことがあったとしても、その最後にはやはり聞き手の人にとって何か持って帰れるものがあるようなオチをつけないといけないみたいな、
その路線と、もしかしたらエッセイっていうのは、その持ち帰るものがないとして、もしくは持ち帰るものがじんわり心が温かくなるみたいな、それでもいいんだけど、それをするのがまだちょっと慣れてないみたいな、そんな感じなの?
そんな感じ、そんな感じ。
慣れてないのかもね。
ほんとにそっちの方の道に行ったときの、その先に何があるのかがわからないから、
そうだね、なんかこう、もうちょっと明確にわかりやすい笑いの方に持ってくとか、そんなバカなみたいなことに持ってくとか、したくなるっていうのがあるのかも。
だから一人で撮るってなったときに、何でもない日常を切り取るっていうのが不明確、そう不明確なんです。
意外な感じが見えてきて、私は非常に個人的に面白いんですけど、おけいさんの。
エッセイと自己アピールへの懸念
だからユコさんがスタイフに込むことがあってて、話をしてこんなことを感じて、こうなったぜーっていうふうにできてるのが、うわーすげーってやっぱ思う。
すごい、面白いなって思ったのは、逆に私は、例えばこのスタイフをね、自分のビジネスにもつなげていくっていう一環でやってる面もあるから、
それこそ知識をお伝えするとか、意義のあるものっていうのが、逆に私すごく苦手で、
そう、だからそういうのがあんまりできないっていうか、やればやるほど自分がつまらなくなっちゃうっていうのもあるんですよね。
そうそう、だから少しその面では、ちょっと似てるというか。
そうだね。みんな何を求めてスタイフや音声配信をしているんだろうね。
なんかすごい気になってきた。
おけいさんはそもそもどういう意図で、何か求めてるもの、どんなものあります?
やっぱりこう、ちょっとあったこととか、ちょっと感じたこととか、そういったことが気軽に、
そうね、気軽に物語にしたいんだよね。物語にしたい勇気が強いのかも。
そう、見栄えを良くするとかではなくて、静かに流れる物語っていうものが、
なんかできないかなーって思う。
それは根拠のない欲求なのかもしれない。
一番でも人間の本質的な欲求な気もするけど、根拠のない欲求。
そもそもエッセイを書く人はさ、なんでエッセイを書いてるんだろうね。
書きたいからじゃない?
そうだけどさ、書きたい。なんで書きたいのかっていう。
でもなんか、私がエッセイは書いてないけど、例えば私の配信とかっていうのは、もうこう、
とどめで置くにはできない感情が動くというか、
それをベロベロ出してるっていうところがあるんだけど。
お経さんもその日常の何かを、例えばエッセイみたいな感じで発信できたとしたら、
その時のお経さんってどんな状態になったんですか。
どんな状態になってるんだろう。
うーん、そうだよね。
なんとなく日常の感じることのそのセンサーが、もうちょっと感度が良くなってんじゃないかなとか。
一つ一つの、その、起こっていることの表現みたいなのが広がって、感性が豊かになってんじゃないかとか。
そんなことを感じるね。
日常の切り取りと麻婆豆腐のエピソード
感性が豊かになるとどうなるんですか。
生きてる感が増す。
あー、なるほどね。
うーん、なのではないかな。
あとは、そうだよね、自分の人生の主人公感が増すのかもしれないね。
まあ、今その主人公感がないわけではないけれども、もうちょっと客観的な主人公感が増すのかもしれない。
客観的なんだ。
そう。
自分、なんだろうね、もう一人の自分がいるみたいな、こんな感じなのかもしれない。
雑誌をね、一枚めくると、だいたい最初にエッセイみたいなのが入るじゃない、シリーズものでさ、ああいうのが書きたいんだよね。
へー。
じゃあ、例えば書くとしたら、どんなテーマで書けますか。今書いてくださってる。
困るねー。
困るんだ。書きたいのに困るんだ。
困る。
そうだねー。
うん。
そうだよね。だからこの日常のどこを切り取ればいいのかっていうのがわかってないのかもね。
うん。
なんかほら、そういう雑誌のやつって旅行した先のことを書いているとか、
うんうんうん。
そうだね、街のことを書いていたりだとか、そんなこと様々だと思うんだけど、
一つのテーマに寄らないと思うから、何を書くんだろう。
ね、だからそこが、なんか特別なことをしなきゃいけないんじゃないかって思ってしまうのかもね。
さっきさ、エッセイで日常を切り取るって何度もおっしゃってた気がするんだけどさ、
お母さんにとっての日常なのかなって。
そうそうそう、日常日常。
お母さんって日常は?
例えば、夕方5時過ぎ、6時近くになると、
あ、そろそろ夕飯の準備しなきゃいけないなーみたいな感じになり、
麻婆豆腐作ろうと思って買ってあった豆腐があるんだけど、
いざ作ろうと思ったら麻婆豆腐の元がなくて、
近くのスーパーまで歩いて、まあ10分くらいなんだけど、
行くか行かないかを悩んで10分みたいな。
結局どうなったの?それは。
結局、その時は、違うものにメニューを変えるっていう。
そうなんだ、麻婆は食べなかったんだね。
麻婆は後回しにしようと。
また次の時に買い物に行ったついでに忘れずに、
麻婆の元を買ってきて、マルミアの中辛を買ってきて作ろうと。
で、昨日の夜、よし今日は買ってきたぞって、
結局昨日の夕方買いに行ったんだけど。
買ってきて、よし作ろうと思ったら、
私、麻婆の豆腐なんだけど、
最初にひき肉を炒め、そして人参をちょっと入れたり、
きのこをちょっと入れたり、先にして、
それに麻婆の元を入れて、
お豆腐を入れてっていう風にするんだけど、
人参がない。どうしよう。
もういいか。今日はもうお肉とネギだけにしよう。
感じにして。
そんな感じのことを書きたい。
他者の反応と自己アピールへの恐れ
今言ったことがさ、もう反省されたものだとしたらさ、
反省されたものをご自身が読んだり聞いたりした感想はどうですか。
どうなんだろう。どうなんだろうね。
なんかそういう時にも、
そんなダメダメな私みたいなのをアピールしてるんじゃないか、
みたいなのは気になるかも。
おっと、意外な面が出てきたぞ。
え?
私はいくつか疑問なんですけど、
今の話にどこにダメなポイントがあったのかが全然わかんないんだけど。
そうなんだ。
ほら、何の材料も用意していないのに、
夕飯に取り掛かるっていう。
作り始めてからない、みたいな感じ。
まあ露天するではないけど、
それ自身を、
なんかそれ自身が自分をアピールしていることになっていないだろうか、
みたいなことは気になるかも。
ちなみに自分をアピールするっていうのは、おけいさんにとってさ、
どういうイメージを持っているの?
えー。
どういうイメージなんだろう。
そうだよね。
まあいくつかあると思うんだけど、
今みたいな、なんだろうな、
今みたいな感じだと、
なんか、そんなことないよって慰めてほしいと思われていないかとか、
私も一緒だよって思われていない、
慰めの方に行かないだろうか、
っていうのがあるかも。
そう。
答えになってないね。
望む受け取り方への願いと習慣化
なってるなってるなってるなってる。
なってる?
なるほどね。
そうそう。
でも別にそれを私は求めていないから、
そっちの方になるのもな、
っていうのがよぎるかな。
おけいさん的には求めていない、
自分の認識としては別に慰めてっていう思いもないし、
ただ切り取って、それを喋ったという事実があるとして、
受け取る側は自由に受け取るじゃない。
だとしても、やっぱり受け取る側にはなるべく、
おけいさんが望む受け取り方をしてほしい、みたいな。
あー、そうかもね。
そうだね、だから望む受け取り方をしてもらえるかどうかっていうのが、
気になるのかもしれないね。
なんか、今までのSNSなどでも、
こんなことを間違えちゃいました、こんなこと大変です、みたいなのを切り取って流すと、
それはこうでこうなんだよ、とか、そんなの切り取っていいですよ、とか、
これはこうしたらいいんじゃないでしょうか、みたいなのが結構きて、
いや、そういうことを言っているわけではないのだよ、と思うんだけど、
やっぱり人の反応って様々だし、
それ自体をコントロールすることができないですもんね。
それ自体ももしかしたら、自分が望む反応を求めているって言えば、そうなんだろうね。
そうかも。そこを気にすると、
こんな風に取られたら嫌だとか、こんな風に思われたら嫌だっていうのに勝手になるよね。
うーん、そうか、確かにね。
逆の立場で言えば、エッセイを読んで私がどう思ったかとか、
それはそう取られることは不本意だって思っている節はいっぱいあるもんね。
今までのエッセイを読んだ数々の方々はね。
でもそれは関係ない風味。
そうだよね。面白いですね。
エッセイを書きたい理由と創作欲求
プロのコーチが一人で思考を巡らせております。
エッセイを書きたい人って何で書きたいんだろう?
あれ?また戻った?
また戻りましたね。
ちょっと聞いてみよう。
エッセイを書きたい人はなぜ書きたい?
チャッピーに聞いてるの今。
うーんと、そのまま検索に入れてます。
検索だね。
さあ何て出るんでしょうか。
エッセイの。
これを聞いている人たちは結構共感する部分があるんじゃないですかね。
どう見られるか、どう思われるか。
そう。
出ましたか?
坂井純子さんがなぜエッセイを書くのかっていう本を出してますね。
そうだよね。枕草紙とか土産日記とかエッセイだもんね。
これは本だからなぜ書くのかっていうところは、読まないとわかんない。
ちなみにそこを他者の意見を求めているお経さんですが、
お経さん自身はなぜエッセイを書きたいと思っているんでしょうか。
うーん、なんだろう。
自分を通じて感じたことを、私なりに書いてみたい。
私というフィルターを通じて生み出される言葉に憧れがある。
ということは、やっぱり自分、なんだろう、自分の思いを書きたい。
自分の思いを書きたいとか、そういうのとはまた感覚が違うんだけどね。
私が感じたこと、私が思ったことを知ってほしいというよりは、そこから出てくるもの。
そうだね。
出てくるものが形になるということを求めている。
かっこよく言えばね。
いいじゃん、いいじゃん。
自己表現としてのSNSとアート
かっこよく言えばそういうことなんだろうな。
最初にさ、表現したいっておっしゃってたから、
なんかでもそういうのってあるんじゃないかなって、
私すごく思うんだけど、こういうSNSって、
誰かにわかってほしいとかっていう、理解してほしいのもあるけど、
やっぱり全部自己表現の場だと思うんですよね。
ビジネスも含めてね。
だからそこはそれこそコーチングがアートみたいな部分はあるのと一緒で、
SNSもやっぱりアートだし、そこには自由に表現していいはず。
だけど人目にさらすような場に表現物があるわけだから、
いろんな他社の見解とかは達成するわけで。
そこはそれとして分けて、あくまで表現者として発するっていうことができたならば、
おけいさんの憧れる何かしらの生き方を最終的に手に入れられるみたいな、
そういうのがあるのかなって感じました。
そうだね。
そうだね。そうかも。
それが残ることによって何がどうということも考えないのだけど、あまり。
でも、そうだね。
でも何らかの、何らかの、
何らかの物語ができていく、ストーリーができていくっていうのは、
作りたい欲求に近いのかもね。
残したい欲求よりは作りたい欲求の方があるかも。
そんな感じですね。
人間が持つ創作欲求と音声配信
結構その作りたい欲求はこれを聞いている皆さん、私もしっかりだけど、結構共通する部分な気がしますよ。
人間もともと、やはり作りたい欲求というのは、持っている何かを作りたい、何かを創作したいっていう欲求はあるって言われてるから、
多分そこにこういうSNS、音声配信を使いたいっていうことなのかもね。
深い。
深いね。
写真撮りたいのと一緒だろうね。
写真撮りたいか、だって写真を撮りたい。
とにかく歩きながら写真を撮りたい。
っていうのがあるから、やっぱりその瞬間を聞い取りたい。その瞬間。
それが写真もそうかもしれないけれども、その日常。
そういう中で、世界ではないけれども、大きい話になってくると、人間が生きるとはどういうことなのかみたいな感じを味わいたいのかもしれないし、
そういう切り取られた日常が一人一人の周りを覆ってるみたいな、こんなイメージもあって、そういうひとつひとつがストーリーみたいな、そんな感じかな。
いいですね。いいですよ、けいさん。
習慣化への挑戦と受け入れ
あっちゃこちゃ言ってますわ。
全然いいっすよ。これをね、音声配信を習慣化しなきゃいけないね、これはもう。けいさんのためには。
だよね。
これはね、できますよ。必ず。
できますか。
できますね、できます。
はい、私と一緒ならとかって。
ゆうかさんと一緒なら。
はい、できます、おけいさん、一応。
さっきの麻婆豆腐みたいな話が気軽にできることを目指します。
うん、ね。
できるはできるんだよ。だから、おけいさんがそれを受け入れられるか問題な気がします。
受け入れられるか、か。
受け入れるっていう言葉がちょっと適切かあれだけど。
これを出していいんだ、これでいいんだ、みたいな感じ。
読んでくれる人の反応とかを考えて。
そうそう、気にしなくてもいいし、あと読んでくれた人が、いやちょっと違うんだよ、そういうこと言ってるんじゃないんだよなっていうコメントがついたとしても、
あ、この人はこういうコメント入れたかったんだね、ありがとうって思えるぐらいな感じ。
そうだね、そうだね。
そうかも、そこだね、そこだと思う。
習慣化の先にあるもの
慣れの部分も多分あると思うんで。
10回ぐらいベロベロって出したら多分。
そうだよね。やっぱりそれに対する筋肉がないというか。
まだ孫ついてるって感じだよね。
本当に新しい家に引っ越して、あれだっけとか、なんか無意識に動けない状態だからまだまだ。
だからこう無意識に動けるようになるまでには、やっぱり習慣、これが習慣化か。
その習慣化というんですね。
いいですね、いいですね、おけいさんが。すごい面白い。こんな大先輩なのに男の発信に関しては。
今ちょっと言ってみて思ったんだけど、習慣化っていいけど習慣化ってつまんないんだなって思った。
あー。
なんか一つ一つを劇的にはできなくなってくるよね、慣れるとね。
うん。
でも習慣化だね、なるほど。劇的にやりたいのかもね、私ね。
もうちょっとこう、もうちょっと自分の中の、なんだろうな、
まあ習慣だから、いいも悪いもないみたいな、そういうところとセットにして考えてもいいのかもしれないね。
その反応とか、自分が喋るとオチがないとかっていう、そのいいも悪いもないよねみたいなところからやっていくのは良さそうな気がしてきました。
ぜひ今後のね、おけいさんの一人配信をぜひ皆さん楽しみにしていただけると。
はい。
ということで、今日はちょっとね、すごく私的にも非常に面白い回になりましたので、また皆さんぜひ感想とかもね、書いていただければとても嬉しいです。
よろしくお願いします。
はい。
はい、では田垣恵子の今日もコーチング日和、おしまいです。また聞いてねー。バイバイ。
バイバイ。