エッセイ①:キューピーの三分間と、私の不時着人生
私はこれまで、予習という言葉を辞書から消し去って生きてきた。教科書を先に読むくらいなら、現場で盛大に転んで膝をすりむく方が、よっぽど情報の入りが良いと信じていたからだ。しかし、この歳になってようやく「予習」という名のカンニングペーパーの重要性に気づき始めている。
その代表格が『キユーピー3分クッキング』だ。大人はあの番組を「本当に3分で終わるか」なんていう、小学生の「うんこ」並みの低レベルな視点で見たりはしない。私たちが圧倒されるのは、あの3分のために費やされた狂気じみた事前準備の凄みだ。
オープンキッチンでありながら、調味料一つどんぐらがしゃん(転倒)させず、汚れた姿を一切見せない。調理技術以前に、あの「散らかっていない」という一点にこそ、プロの腕が凝縮されている。Netflixの『白と黒のスプーン』に出てくる一流シェフたちもそうだ。キッチンが綺麗であればあるほど、料理は美味くなる。
私は今、明日のハンバーグという不時着予定のフライトを前に、生まれて初めて「散らかさない予習」をしようとしている。しかし、15分かけて歩いて聞きに行った祖母の助言は「玉ねぎが好きなら生、嫌いなら炒める」という、味の真理をどこかへ置き去りにした「好き嫌いの二択」だった。おばあちゃん、私は美味しいか否かを聞いているのに。
エッセイ②:肉のハナマサという名の衝撃と、繋がれたい愛
私の自炊能力が壊滅的だった高校時代、お弁当という名の戦場を救ってくれたのは、コンビニの121円のチルドハンバーグだった。ひじき煮やきんぴらごぼうがその奥ゆかしい量で同じ値段をとる中、ハンバーグだけは圧倒的なボリュームでメインを張り、ご飯の上に虹(ふりかけ)を降らせてくれた。
しかし、レトルトハンバーグへの概念を根底から覆したのは、肉のハナマサだった。2個入り298円という、この世のものとは思えない安さ。パッケージを突き破らんばかりの、大人の手のひらサイズ。一口食べれば、そこにあるのはレトルト特有の練り物感ではなく、脳内メーカーが「肉・肉・肉」で埋め尽くされるほどの圧倒的な肉感だ。島へのお土産にしたいと願うほど、それは私にとっての福音だった。
世のグリルレストランはこぞって「牛100%・つなぎなし」を謳い、目の前で半分に切るパフォーマンスを披露する。しかし、私は声を大にして言いたい。ハンバーグは、繋がれていてほしいのだ。
肉感だけを追求するならステーキでいい。ハンバーグに求めているのは、つなぎという名の優しさと、手ごねという名のカモフラージュされた愛だ。ふわふわとしていて、どこか霧がかかったような「モヤフード」であってほしい。
結局、祖母のみかんジュースを飲んで帰るだけの予習になったけれど、私は知っている。明日のハンバーグが成功するかどうかは、玉ねぎの炒め具合でも肉の配合でもなく、最後にすべてを包み込む「ソース」が美味しいかどうか、ただ一点にかかっているのだということを。
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