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おはようございます、コウブンです。
栃木県の片田川にある蓮城院というお寺で、副住職をしております。
今日は、ゲームで学ぶ無常観というテーマでお送りしたいと思います。
ゲームと言うと、皆さん何を思い浮かべるでしょうか?
私は現在年齢が46歳ですので、ファミコンやプレイステーション、いわゆる末置き型ゲーム機、テレビゲームというものを思い浮かべます。
小学生の頃に登場したファミコンは衝撃的でした。
すごく楽しくて、よく学校帰りに友達の家に寄って対戦型のゲームを楽しんだという記憶があります。
私は対戦ゲームはそんなに好きではなく、RPG、ロールプレイングゲーム、ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーなどのゲームが好きでした。
じっくりやるのが好きでした。
そんなゲームを例えに使いながら、仏教の諸行無常、無常観を皆さんにお伝えしたいと思います。
ただし、最初に断っておきたいのは、最近のゲームはオンラインで繋がっています。
ゲームというものが途中で変化します。
いわゆるアップデートというものがされます。
アップデートすること自体を諸行無常と言いたいわけではありません。
私が今日伝えたいのは、変化というものがあるんだということを伝えたいと思います。
ゲーム会社も商品を皆さんに楽しんでいただきたいからアップデートするわけです。
それがそのまま諸行無常になってしまうと、若干ニュアンスが変わってきます。
そこだけ少し勘違いしないでいただきたいなというところを、最初にお断りしたいところです。
さて、早速本題の方に行きたいと思います。
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まずは、無常観という言葉についてお話をしたいと思います。
仏教には、諸行無常という言葉があるんですよね。
これは、この世の全ては移ろい変わっていくと。
常にね、刻々と変化して同じ状態ではないという意味なんですよね。
生まれたものは滅びる。
今日の自分と明日の自分というのは厳密に言うと違う。
あとは人間関係ですね。
私たちの人間関係だって常に変化するし、
自分の社会的な立ち位置というのも徐々に変化していくというところがあると思うんですね。
そういった色んなものが変わっていく。
そういったことを受け止めることが、仏教の無常観ということなんですよね。
この無常観というものを身につけると、何かが変わってしまうということに対して、
事前の心の準備というものができるようになるということなんですよね。
物事が変化するというものは当然で、むしろ不変なものというものはない。
そんなふうに思っていると、いざ変化が訪れたときにしょうがない。
次に生かそうというふうに前向きなふうに捉えることができるんですよね。
全てのものを変化するのを受け入れろと言っても、なかなか難しい。
理解するのも難しいというところで、ゲームというものを使いながら皆さんに分かりやすく伝えたいということなんですよね。
ゲームの世界にも、ゲームの世界ですかね、ゲームの中でも無常観というものは宿っている。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれないんですけども、
さっきもお伝えしたように、ゲームのバランス調整というものは、現代のゲーム、オンラインのゲームというものはよくあります。
このゲームのバランス調整というものは、人間が意図的に行う変化というもので、
仏教が説く無常観のように万物が必然的に移り変わるということは性質が厳密に言うと違うということなんですよね。
ただ、どちらにも変化をするということが共通のポイント。
これがゲームを無常観の例に挙げるときの一番の大きな理由ということなんですよね。
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例えば、オンラインゲームですよね。定期的にアップデートというものがあるんです。
これは何をアップデートするのかというと、キャラクターであったりとか武器という強さ、いわゆるパラメーターというものですよね。
そういったものがバランスをとる、つまりガラッと変化をするということがあるんですよ。
以前、最強のキャラクターとされていたものが弱体化したりとか、全然使えないと思われていたアイテムが突然脚光を浴びたりとか、そういうことがあるんですよね。
そういった変化に対して、私たちというのは時に驚いたりとか、あとは混乱したりとか、ワクワクしたりとかね。
まさに現実でも急に職場の人が変わったり、あとは流行り物というものがあっという間に廃れたりとか、そういったときの感情にちょっと似ているかなという部分があると思いません?
他にもロールプレイングゲーム、私が好きなロールプレイングゲームですね。
そのストーリーだって最初に始まりあって、そして長い冒険の果てにラスボスマサイを倒すわけですから、終わりを迎えるということですよね。最終的にエンディングを迎える。
これはどんなものにでも完結、あとは消滅の瞬間があるという無情感をある意味わかりやすく体験しているとも言えるんじゃないでしょうか。
もちろん、ゲームにおける計画されたエンディングと人の一生が終わることをイコールで語るのは無理があるんじゃないかという声もあると思うんです。
でもそこは全く同感で、あくまで変化や終わりが訪れる体験を擬似的に味わえるという例としてのゲームということなんですよね。
慣れ親しんだ世界がクライマックスで一旦幕を下ろすという感覚は、やっぱり何事にも終わりがあるんだなというふうな気づく入り口になるかもしれません。
ところで、もう一つ面白い視点があるんです。
それは、ゲームを繰り返しプレイするというプロセスというのは、一種の仏道修行、仏教の修行に似ているということなんです。
例えば、難易度の高いボスとか、難易度の高いステージに何度挑んだとしても、負けるたびに動きを学習して少しずつ攻略をしていく。
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これは仏教の禅、あとは瞑想というものの反復的な修行と似た面というのはあると思いませんか。
修行を通じて少しずつ自分の心の動きをコントロールしていくように、ゲームではキャラクターの動きや敵のパターンというものを学びながら上達をするということなんです。
もちろん、瞑想とゲームの攻略法は全く別物なんですけれども、でも少しずつ繰り返すという過程で得られる達成感、
あとは失敗とか客観的に振り返る姿勢というものは、仏教の考え方にも似ている部分というのがあると言えると思うんです。
では、こうした無常観に気づくヒントというものをどう日常とかゲームライフに生かせるのでしょうかね。
ゲームはアップデートや環境の変化に変化というものはつきものです。
今強いキャラクターが来月も強いとは限らない。人生でも今の状況がずっと続くと思いすぎないことは大切ですよね。
あとはゲーム内のバランス調整やエンディングなど、変わっていくことというのは厄介だと思う反面、新しい刺激でもあるんですよね。
なので、無常というものはネガティブなだけじゃないと捉えてみると気持ちが軽くなるんじゃないでしょうか。
こんなふうに変化するのが当たり前という感覚を育てていくと、日常で起こる大きな転換点にも柔軟に対応できるようになるかもしれないということなんです。
今日はですね、ゲームで学ぶ無常感というテーマでお話をさせていただきました。
ゲーム内にも変化を体験する仕組みというものがあって、それが無常感と通じる一面があるというお話です。
ただね、もう一度繰り返しお伝えしますけれども、ゲームのアップデートイコール諸行無常と直接イコールで結びつけているわけではないんです。
あくまでも何かを通じて移り変わりが当たり前という感覚に触れていると、仏教の無常感をより身近に実感しやすいではないかという考え方なんですよね。
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ぜひとも普段のゲームや日常生活の中で、これも変わるんだなと意識してみてください。
その積み重ねがいざ何かが変わった時に、動揺しすぎない心の持ち方というものにつながっていくんじゃないでしょうか。
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では本日の放送はここで終わりたいと思います。念状院副住職の幸文でした。ではではまたね。