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#370 禅に学ぶ「考えすぎ」を手放すヒント:不戯論(ふけろん)
2026-04-26 17:29

#370 禅に学ぶ「考えすぎ」を手放すヒント:不戯論(ふけろん)

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上司の一言やLINEの未読で、つい悪い妄想を膨らませていませんか?
そんな心の暴走を止めるヒント「不戯論(ふけろん)」についてお話しします。

私たちは、まだ何も起きていないことに対して、勝手に悪いシナリオを作って苦しんでしまいがちです。
仏教ではこの心の働きを「戯論(けろん)」と呼び、2500年も前から苦しみの原因として考えてきました。

この「心の自動再生」を止めるには、妄想を消そうとするのではなく、ただ「あ、今妄想が動いているな」と気づくことが大切です。

放送では、妄想の正体や、言葉を超えて心を整える「坐禅」の実践についても詳しく解説しています。
心が疲れやすいと感じる方は、ぜひお守り代わりに聴いてみてください。

#副住職 #蓮城院 #禅 #禅語 #メンタルケア
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00:05
どうも、コウブンです。
栃木県の片田舎にある蓮城院というお寺で副住職をしております。
今日は久々に、皆さんにもぜひとも覚えていただきたい禅語をお送りしたいと思います。
この禅語というのは、座禅の禅に言語の語と書きますね。
つまり、禅の言葉ということです。
この禅語の特徴としては、その言葉自体に意味が書いてあるというよりかは、
どちらかというとヒントになるような、何かを導くような状態になっているのが特徴的です。
なので、どうかお守りみたいに心に大切にしまっていただいて、
いざ皆さんが何か大変なことがあったときに、困ったことがあったときに、
ぜひともこの禅語を思い出して使っていただければ、そんなふうに思ったりもするわけです。
ということで、まず、今日ご紹介する禅語の前に、皆さんに一度思い出していただきたいんですけども、
どういうことかというと、例えば、職場で上司からちょっと後で話があるからと言われた瞬間、
どう思いますか?あるいは、LINEを送ったのに既読がつかない、それで何時間も経ってしまう、
そういう状態のとき、どう思いますか?
頭の中できっと何かまずいことをしたかなとか、あとは叱られるんじゃないかなとか、
もしかしたらクビになるかもしれないとか、そんなふうに思ってしまうかもしれませんよね。
他にも、あるいはLINEの場合だと、切られたかなとか、もう連絡したくないってことなのかなとか、
事故にあったんじゃないかなとか、そういった、別に理由を聞いたわけじゃないのに、
自分の頭の中で勝手にいろんな妄想が広まっていく、
そういう状態で、気づいたら1時間も2時間も経っちゃったみたいな、
そういう経験はきっとあるんじゃないかなと思うんですよ、誰だって。私も当然ながらあります。
実はこういう状態のことっていうのを、仏教では2500年も前から問題にしてきた心の働きなんですよね。
今日ご紹介する禅語は、この心の働きにピタッと当てはまるような言葉ということなんですよね。
さて、今日ご紹介する禅語は、不家論という言葉です。聞いたことあるでしょうか。聞いたことないですよね。
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あんまりメジャーではない言葉だと私は思っております。
どういう字を書くかというと、不は不思議とか否定する意味の不ですね。
不家論の家、家は戯れると書いて書く字ですかね。戯れる。論は論じるですね。
合わせて不家論ということなんですけども、意味を一言で言うんであれば、家論をなさない、家論から離れるということですね。
家論って何だって話ですよね、そうすると。
家論という言葉の意味なんですが、戯れる、論じるというふうに書きますから、
ふざけたお話とか無駄話とかそんなふうに思われがちなんですけども、これはちょっと違うんですよ。
家論とはもともとインドの言葉、サンスクリット語というんですけども、
そのサンスクリット語ではプラパンチャと言ったんですよね、プラパンチャ。
日本語に訳すとね、これは妄想、概念の増殖、心の拡張機能、そんなふうに訳されるんですよね。
要するに心が勝手に意味づけを作り出して、それを膨らませていく働きということなんですよ。
妄想ですよね、まさに。
冒頭でお話しした上司に話があると言われて勝手に頭の中でいろんなシナリオ、そういったものを再生してしまう状態。
これがまさに家論ということなんですよね。
仏教ではこの家論こそが私たちの苦しみの大きな原因の一つだというふうに考えてきたということなんですよね。
だから家論から離れましょう。
つまり不家論が大切だというふうに言っているということなんですよね。
でもね、何で家論から離れることが大切なのかというところね。
さっきの説明でも大筋はわかったと思うんですけど、もう少し詳しく説明したいと思います。
よくよく考えてみますと、上司に話があるというふうに言われた瞬間、本当に起こっている事実というのはただ話がある。
06:01
と言われた。それだけなんですよね。
それ以上のことはまだ何も起きていないんですよね。話があるというふうに言われた。
そういう事実があるだけということなんですよね。
ところが私たちの心はそこから勝手に物語を足していくんですよね。
叱られるとか、クビになるとか、人生終わったとか。
事実は一つしかないのに心の中で何十倍も苦しみが生まれているというような状態なんですよね。
これが家論の怖いところというところなんですね。
怒ってもないことで私たちは勝手に苦しんでいるという状態なんです。
しかも厄介なのはこの家論自体、家論という状態、これを本人が気づいていないということなんですよね。
勝手に頭の中で暴走しちゃうという、その暴走している事実ということに対して気がついていない。
自覚していないということなんですよね。
つまり大抵の場合は自分が膨らませた物語というものを現実そのものだと思い込んでいるということなんです。
ここに父家論という教えの大切さがあるということなんですよね。
家論を完全になくすことというのは実は誰にもできないんですよね。
心は放っておけば自動的に物語を作る、そういうふうな構造になっているんですよね。
でも今家論は動いているなと気づくことはできるんです。
気づくだけでその物語との距離が一歩生まれるということなんですよね。
これが2500年前からお釈迦様が説いてきた父家論の入り口ということなんです。
もう少しイメージしやすいように二つほど例えをお話をしたいと思います。
一つは現代の言葉で言えばバイアスですよね。
バイアスがかかっている、そんな言い方はしますけれども、
このバイアスというのは知らないうちにかかっている心の偏りのことですよね。
私たちは生まれてからずっといろんなバイアスを心の中に積み重ねてきています。
育った環境とか、あとは過去の経験とか、あとは自分の性格、社会の空気、
そういうものが世界の見え方に勝手にフィルターをかけているというところですね。
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例えばある人が無表情でこっちを見ている。
ただそれだけのことなのに自信がないときには嫌われているかもというふうに思っちゃったりしますよね。
機嫌がいいときなんか面白いことでも考えているのかなと感じたりもします。
事実は全く同じなのに心のバイアスで受け取り方が全く異なっちゃう。
そういったこともあるんですよね。
ケロンというのはまさにこのバイアスの働きそのものと言っても過言ではありません。
自分では気がつかないうちに世界に忌み付けをしてしまっている。
最近では認知バイアスという言葉もよく聞きますよね。
仏教では2500年ほど前からこうした心の働きを問題にしてきたということなんです。
たとえの二つ目。勝手に始まる物語のたとえ。
例えばスマホで動画を見ていて一本終わったら次の動画が自動再生されることってありますよね。
あれと同じで私たちの心の中でも何かのきっかけで勝手に次の物語が再生されてしまうということなんです。
既読するされたというワンシーンがあったとすれば嫌われた物語、自分はダメな物語、もう連絡しない物語というようにシーンが次々と切り替わっていく。
止めようとしてももう動画が始まってしまう。
これがケロンの働き方ということなんですよね。
バイアスにしても自動再生される物語にしても共通しているのは自分では気づきにくいということなんですよね。
だからこそ不ケロン、つまり気づくことが修行になるということなんです。
ここまでケロンについての説明をしてきました。
バイアス、勝手に再生される物語。
でも実はもう少し深掘りしてみますと、仏教ではもっと根本的なケロンがあるというふうに考えているんです。
どういうことかと言いますと、そもそも言葉を使っている時点で私たちはすでにケロンをしているという見方なんですよね。
これはどういうことかというと、
例えば目の前にあるものをコップと呼んだ瞬間に、私たちはそれをコップというものとして認識します。
机と呼んだ瞬間、机が机として固まるみたいな感じですね。
12:05
自分と呼んだ瞬間、自分が自分として浮かび上がるというふうにも言えるかなと思います。
言葉を使うということは、世界を切り分けてラベルを貼る、ラベリングをするということと同じなのかなということなんですよね。
そのラベルを貼った瞬間に、私たちはそのラベルが指すものが確かにそこにそういうものとしてある。
そんなふうに思い込んでしまうということなんです。
この思いこそが実はケロンの根っこであるということなんですよね。
だから厳密に言えば、こうして私が今言葉を通じて皆さんにお届けをしているということ、
これ自体がもう実はケロンなんだということなんですよね。
不ケロンという言葉を使った瞬間、不ケロンというものが何か、実体としてあるかのように感じられてしまう。
本当はそんなものはどこにもないということなんですよね。
ちょっとややこしいお話なんですけども、ここはあまり深酔いすると、それこそケロンにとられてしまうというところですので、この辺にしておきたいと思います。
ただ一つ覚えていただきたいのは、ケロンを言葉で完全に説明することはできないんだよということなんですよね。
だから禅では言葉を超えるための実践として、座禅という方法を大切にしてきたということなんです。
ちょっと話を戻しますね。
不ケロンとはケロンから離れること。
そしてケロンとは心が勝手に作り出す物語。
世界に勝手に色をつける働き、引いては言葉そのものが持つ働きのことでしたよね。
ではどうすればいいのかというところなんですけども、ケロンを消そうとしないこと。
これがまず大切ですよね。
消そうとすると、ケロンを消そうとしている自分という新しいケロンが生まれてしまう。
そういうパラドックスが生まれちゃうんですよね。
そうではなくて、ただ気づく。
今、頭の中で物語が勝手に再生されているなとか、今バイアスがかかっているなとか、それだけでいいということなんですよね。
気づけば巻き込まれる度合いが少し減るんじゃないでしょうかというところです。
そしてもう一つ、相当種の私の立場からすると、やっぱり座禅なんですよね。
座禅というのは言葉を使わない時間ですよね。
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ただ座って呼吸を整えて、頭の中に浮かんでくる言葉、物語、そういったものを追いかけずにただただ流していくという行為なんです。
これがケロンとの向き合い方を体で学ぶ最も古くて確かな方法ということなんですよね。
気づくという言葉も突き詰めればケロンかもしれませんが、だからこそ言葉を超えた実践として座禅があるというわけなんですよね。
今日はフケロンという禅語をお話ししました。
最後にもう一度整理をしていきたいと思います。
ケロンとは心が勝手に作り出す物語、勝手に貼られるラベル、勝手にかかるバイアスのこと。
フケロンとはそれを完全になくすことではなくて、起こっている、ケロンしているという事実に気がつくこと。
もし明日また頭の中で勝手に物語が始まったら、ぜひともこの言葉を思い出してみてください。
あ、今ケロンが動いているなと。それだけで少し心が軽くなるかもしれません。
そしてもしもう一歩踏み込みたい方はぜひとも1日5分でもいいので座禅、座ってみてください。
ちなみに私のお寺蓮城院では月礼の座禅会をやっています。
ご自宅で一人で座っていただくのでも構いませんが、みんなで座る。
そうすると座りやすい、座る勇気をもらえる、そういう刺激をしようということもできますので、
ぜひともお近くの方は蓮城院までお越しください。
というわけで今日のお話はここで終わりたいと思います。
蓮城院副住職の幸文でした。ではまたね。
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