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おはようございます。 コウブンです。
栃木県の片田川にある 蓮城院というお寺で副住職をしております。
はい、今日は少しね、あの重たいお話になります。
はい、というのは、
今日、11月の24日というのは、私にとってね、
とても
思い出深い、というのかな、忘れられない日なんですよね。
というのは、私のいとこ、
同い年のいとこがね、私にはいたんですが、そのいとこが、6年前の今日ね、
亡くなった日なんですよね。つまり、今日が七回忌の日なんですよね。
ちょっとね、あのちょっと前の放送に、私の友人、
お坊さんの友達が亡くなったという、そんなお話もしたんですけども、実は、
そのお坊さんの友達が亡くなって、
1週間後に、私のいとこも亡くなったんですよね。
もちろん因果関係はありませんが、 そのような形で6年前にね、立て続けに私にとって、
大事な人をね、 亡くしてしまったということがありました。
で、七回忌、私の友人の方、
お坊さんの友達の方はですね、 七回忌法要の方に参加させていただいて、
無事にね、式の方を行うことはできたんですが、
今日の、私のいとこの方はですね、
残念ながら、家族の遺行って言ったらいいんでしょうかね。
お呼ばれすることはなかったですね。 一応、事前に、
ちょっとね、お話はしたんですけども、
なんかやっぱり耳のあまりね、
なんて言うんでしょう、 大きくやりたくないみたいなね、意思があったらしくて、
残念ですが、まあいとこは今回は呼ばないということで、
呼ばれなかったと。もちろんね、無理にね、 言えば参加することもできたでしょうし、
やり方次第ではね、 そういう式の方に、もう何からも手伝いをすることはできたんですが、
ただ、やっぱりね、私としては、
まあそのね、その、 陶家の遺行というものをね、
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入れ替えしてまでというところもありますし、 また私自身が、
自分でお墓参りをして、
自分なりのね、七階教養を務めれば、 いいのかなというふうに思ったんで、
今日は、その、いとこのお墓まで行って、 そしてね、一人で、
お線香をあげてね、お供えをして、 お花をあげて、
お供えをして、ということをやってこようかなと思っております。
はい、で、ですね、まあ、
その報告だけで終わるというわけではなくてですね、
その7年前、あ、ごめんなさい、6年前ですね、 6年前に感じたこと、思ったこと、
というのを、私のいとことの思い出を振り返りながら、 少しね、語っていきたいなと思います。
私のいとこは、まあ、同い年というお話をしました。
まあ、男性のいとこですね。 彼は、
そうですね、私の住んでいたところから、
20キロぐらい離れた地域に住んでいる方でしたね。
なので、時々ね、まあ、母、母方のいとこなんですね。
うちの、私のお母の、
お兄さんの子供というわけですね。
なのでね、あの正月とか、あるいは夏休み、お盆とか、春休みだったりとか、
まあ、そういった時々、子供の頃はね、親に連れられていて、
で、一緒によく遊んだ仲ですね。同い年だし、同じ男同士だったというのもあってね。
結構ね、あの元気な方だったんですよ。
なんて言うんでしょうかね。
まあ、ガキ大将までは行かないんですけど、割とね、はきはきと物事を言う。
でね、あの、なんていうのかなぁ、家の中で何かするよりも外で遊ぶ方が好きっていうようなね。
まあ、かといってね、何かスポーツを一生懸命やってたかというと、そうではなかったようなんですけども、
まあ、ともかくね、家の中より外が好きというね、そういうタイプの人でした。
私はどちらかというとね、家の中でゲームをやる方が好きだったんでね。
当時は多少会わない部分はあったんですけど、それでもね、一緒にね、その、
外で遊ぶっていうのはね、いろいろやったなという、そんな思い出があります。
その彼は、高校になって、高校生の年代になってね、
私と同じ高校だったんですよね。
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いとこ同士で同じ高校に通っていたということですね。
で、しかも同じクラスになりました。
そんな感じでね、若干のね、小学生の頃のような、そこまで親しい感じではなかったんですけど、
それでもね、同じクラスですからね、ある程度は話す、そういった間柄だったんですよね。
そんな彼との一番の思い出は、中学生の頃ですね。
はい、ちょっと時間戻っちゃうんですけど、中学生の頃。
私はね、当時、
あまりね、一人で出かける、遠くまでね、出かけるっていうことをやったことがなかったんですよ。
田舎の子供だったっていうのもあると思うんですが、
まだ中学生だったんで、バスに乗ったりとか、電車に乗ったりとかっていうのを一人でやったことがなかったんですよね。
なので、私の住んでいる地域で、
栃木県でね、大きい都市というと宇都宮市になるんですけども、その宇都宮市に遊びに行くっていうことをしたことがなかったんですが、
その中学生の時にね、私のいとこ、彼とね、映画を見に行くっていうことがありました。
映画館は宇都宮市にしかなかったんで、その時はね。
なので、宇都宮市まで行くというところで、その彼と、いとこの彼とね、バスに乗って、そして宇都宮市に向かったというわけなんですね。
私はね、その、もちろんバスは乗ったことはあるんですけども、自分でね、切符を、切符?
乗った時に最初に、小さい紙を取りますよね。
あれ、なんて言うんだろう、あの紙。
とにかく最初に紙を乗って、で、そのバスの前の方にね、掲示板?液晶の表示板かな?
ナンバーがいくらみたいなのが書いてありますよね。
それを見ながら、降りる時にね、ナンバーがいくらっていう。
自分のね、その取った、最初の白い紙のところに書いてあるナンバーを見てね、それで支払うわけなんですが、
当時はね、あのスイカとかパスモとかありませんから、当然現金なんですよ。
で、ある程度ね、そのスムーズに降りるためには、事前にね、現金を用意しなくちゃいけない。
というところでね、そういったことを今までやったことないから、大丈夫かな?なんてドキドキしながら、
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一緒にね、うつろみ屋市の方に向かった記憶があります。
で、うつろみ屋市にいざついてね、無事について、で、確か、
映画館、目的の映画をね、見るまでに少し時間があったんですよ、おそらく。
ちょっとあんまり覚えてないんですけど、とにかくね、時間があるということで、
うつろみ屋に住んでいる親戚の家に行って、で、自転車を借りて、
そして、その自転車でね、市内をね、いろいろ巡りながら映画館に行こうということになったんですよね。
そういうことを私のいとこが言い出したんです。
で、私はそんなこと想像もしなかったんで、ちょっとね、その発言にびっくりしてたんですけども、
なんだか楽しそうだったんで、行こう行こうとなったんですね。
で、もちろん当時携帯もありませんから、あの、あぽなしでいきなり行くわけですよ。
で、しかも、そのいとこの家、まあいとこの家はもうお寺だったんですけど、
そのお寺もね、あの、どこにあるかっていうのはざっくりしかわからないんですよね。
なんとなく、あの辺りにあるぐらいしか知らなくて、うん、行ったことないですからね、私は。
で、いとこは確かに行ったことあったんですよ。
で、あの辺にあるんだっていう話をしてて、ああそうなんだと思ってついて行ったんです。
そしたらね、案の定迷ったんですよ。
あっち行ったりこっち行ったりしてね、まあそんなことを知らからもうなんとかたどり着いたと。
思ったより早く着いたから、自転車に乗る時間はあったんで。
で、ともかくね、いきなり訪ねて行って、親戚のおじさんおばさんね、びっくりしてたんですけど、
そのおじさんが自転車が好きで、自転車を何台も持っていたっていうことを知ってたんで、
それで借りに行くっていうことになってたんですね。
まあそのおじさんがね、心よく自転車借りかしてくれたからよかったんですけども、
まあともかくね、いきなりね、そんな得票しもない行動を思いつくような、そんな方だったんですね、私のいとこは。
当時の私、さっきも言いましたけど、
そんなバスに乗って大きい都市の方に行くっていう、そんなことをね、自分でやったことないんで、その行動力、そのいとこの行動力にびっくりしました。
なんか大人だなってその時思ったんですよね。
まあね、今思えば強がってただけかもしれないんですけどね、そのいとこもね、そんな経験があるわけじゃないでしょうから、
まあ大人びて、なんかちょっとテンション上がって、いろいろなことをやりだしたんだと思うんですけど、
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まあともかく無事にね、自転車を借りて、目的の映画を見て、そして自転車を開始して、帰ってきたてで楽しい一日を過ごしたと、
そういう思い出がよく一番覚えております。
そんないとこがですね、6年前。
6年前なんですが、亡くなったのは6年前なんですが、病気が発覚したんです。
病気を発覚したのは、そうだな、いつだったかな。
記憶はね、あんまりはっきりはしてないんですけど、2012、2013年ぐらいだったかな。
ちょっとね、ごめんなさい、はっきり覚えてないんですが、結婚したのが、確か9年前かな。
9年前に結婚したんですよ、彼は。9年前に結婚をして、そして1年後ぐらいにね、子供が生まれて。
1年後かな。そうですね。
で、家を建ててね、そういう状態だったんですけども、
結婚して、子供が生きてぐらいの時にね、病気を発覚したんですね。
どんな病気かというとね、いわゆる白血病というやつですね。
血液の癌といわれる白血病です。免疫不全症候群というらしいんですけども、その病気にかかりました。
それが発覚して、それまでやっていた仕事というのもできなくなってね、闘病生活に入ったんですよね。
闘病生活、白血病という病気、免疫力が弱くなっちゃう、免疫力が低下するという恐ろしい病気です。
すぐにね、ウイルスとか体に害をなすものに対しての抵抗力がなくなってしまうという病気ですので、
普通の生活ができなくなっちゃうんですね。
免疫室、滅菌室というのかな、とにかく空気がきれいな状態の部屋にいなくちゃならないという状態になっちゃうんですよ。
なので、基本的に面会遮絶、会うことは許されない、そういう状態だったんですね。
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私は僧侶として修行に行って、苦しんでいる人に対して力になってあげたい。
僧侶として仏教を頼ってほしいという気持ちはあったんですけど、
私のいとこは面会遮絶を理由に、なかなか会うという許可をくれなかったんですよね。
会いたくないというわけではないとは思うんですが、
面会遮絶を理由に会えないと。
会いたいというこっちは脱身をしても断られたということがありました。
結局、最後亡くなるまでずっとその状態が続いて、会えず仕舞いだったんですけど。
なんで会ってくれないのかなって思ったんですよ。
今思うと当時はわかりませんでした。
とにかく自分が病気で衰えている姿を見せたくなかったのかなと思っていたんですけど、
私としては僧侶として、お坊さんとしてやっているわけですから、
なんとなく仏教の教えというか、苦しみを抜くような、
少しでも和らげるような言葉をかけてあげたかったんですけど、
それも叶わずという状態でした。
そのまま帰らぬ人となってしまったというわけなんですね。
今思うと、自分の苦しみを苦しんでいる姿を見せたくなかったというのはあったと思うんです、確かにね。
その苦しんでいる姿を見せたくなかった理由が何なのかというところまで当時は考えることはありませんでしたけど、
今思うと、なんとなく罪悪化みたいなものを持っていたのかなと思うんですよね。
もちろん本人はもう言わせるので確認しようがありませんが、
私がなんとか励ましたいという気持ちがあったとしても、
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なかなか答えてくれなかったというところの理由としては、
いとこが思っていた自分が病になってしまって、もしかしたら迷惑をかけてしまうかもしれない。
私に迷惑をかけてしまうかもしれない。
というのは、私が訪れたことによって、何かのきっかけで病が進行し、そして亡くなるということが万が一起きたら、
私が一生それを背負って生きていくんじゃないか、そうなったら申し訳ないなという気持ちになったんじゃないかなって思うんです。
ほとんどの人に会わなかったみたいなんですよ、私のいとこは。
やっぱりね、自分の苦しんでいる姿を見せたくないというよりかは、
自分の今すぐにでも消えてしまいそうな命、そのきっかけとなるようなことを誰にも与えたくなかった。
ということなのかなって思うんですよね、罪悪感。
罪悪感って言っていいのかな、ちょっと分からないんですけど。
ともかくそういう気持ちがあったから、会ってくれなかったのかなって思います。
私は会いたかったんですよ。
でもね、向こうはそういう気持ちだった。
私は相手の意思を尊重して会わなかったんですけども。
けど今思うと、もっとアプローチの仕方があったのかもしれないなって思います。
もっと寄り添うこと、そういうことができていれば、もしかしたらね、一言二言でも会うことできたかもしれないし、
最後に声を聞くことぐらいもできたかもしれないですね。
とにかく私は病気だから仕方がないっていう、私自身も思ってました。
だから会えないんだっていう。
だけどね、今思えばやるべきことをやってなかったなって。
もっと寄り添う言葉をかけたりとか、
何かこう、相手の心を動かすような何か言葉、温かい言葉をかけることができたんじゃないかなって思うんですが、
そういったことができていなかったっていうのがね、今大変悔やまれます。
僧侶としてその力量が足りなかったっていうのも当然あるんですが、
私自身の行動ですね。
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本当に苦しんでいる人に対して寄り添うことということができていなかったな、相手の立場に立つことができていなかったな、そんなふうに思うんですね。
だからやっぱりね、今ね、いろいろこういう放送を通じて仏教のことを偉そうに語っておりますけども、
やっぱり一番大事なのは、相手の立場に立って寄り添うことっていうのは大事なのかなと思います。
それができていれば、その仏教の知識、ひきらかずようなことは必要ないのかなと思います。
ただただ寄り添う、ただただ相手の心に安心を与える、それさえできていれば立派な僧侶なのかなって今思います。
とりともにもないお話になってしまいました。
だいぶ長い時間お話ししてしまいました。
これをもし最後まで聞いてくれた方、ありがとうございます。
こういった自分の心の中の引っかかる部分っていうのを時々トローするような場面がこれからもあるかと思います。
どうぞその時は温かい目で見ていただければ幸いです。
では今日の放送はここで終わりたいと思います。
蓮城院副住職の幸文でした。ではまたね。