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  2. #32 マネから始まる成長の道
2024-07-09 10:14

#32 マネから始まる成長の道

こんにちは、蓮城院副住職のコウブンです。今回のエピソードでは、「マネをすることの大切さ」について深く掘り下げていきます。

私たちの人生において、「マネ」は意外と重要な役割を果たしています。赤ちゃんの言葉の習得から、芸術家の創作プロセス、そして仏教の修行に至るまで、マネは学びと成長の基礎となっているのです。

このエピソードでは、以下のような興味深いトピックをお届けします:

• なぜマネは成長に不可欠なのか
• ピカソの名言に見る、真のマネの本質
• 108歳まで永平寺の住職を務めた宮崎奕保禅師の教え
• マネを通じて、いかに自分らしさを見出すか

人生をより豊かに、より穏やかに過ごすためのヒントが詰まった20分間。あなたの日々の生活に新たな視点をもたらすかもしれません。

ぜひ、このエピソードを聴いて、あなたなりの「マネ」と「成長」について考えてみてください。皆さんの感想やご意見をコメント欄でお待ちしています。

#禅の教え #個人の成長 #人生の知恵 #マインドフルネス
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おはようございます、コウブンです。
多禅をしたり、明日を育てたり、野菜を作ったり、最近ではアートギャラリーの企画をしたりしています。
さて、本日はですね、マネをすることの大切さについてお話をしたいと思っております。
マネという言葉を聞くとですね、
もしかしたら若干ネガティブなイメージを持たれている人もいるかもしれません。
けれども、私たちが何かを学ぶときというのはですね、
基本的に誰かのマネをすることで学ぶということが始まるんですよね。
赤ちゃんが言葉を覚えるときなんかはまさにそれですよね。
お母さんのしゃべっていることをマネをして、だんだんと言葉を覚えていく。
お父さんのしゃべっていることをマネしたりとか、
とにかく周りの人のことを赤ちゃんはですね、よく観察して、
それを自分なりにしゃべってみて、そしてだんだんだんだん覚えていく、そういうふうな行動。
皆さんもですね、過去を振り返ってみれば、
そういう環境があったことを見たことがあるのかなと思います。
ついですね、マネをするということに対して、
想像性みたいなものがない、独自性というものがない、個性がないみたいにね、
思ってしまうというふうに思うんですけれども、
たぶんそれは何でそういうふうに思ってしまうかというと、
ゼロから何かを作り出すというふうに勘違いしているからなんじゃないかなと思うんですね。
なかなかゼロから何かを生み出すというのは難しいですよね。
きっと今世の中いろんなものであふれていますけれども、
こういったものを作ってくださった方々も、
その作った人の、発明した人の以前に、
誰かが作り上げてきた、蓄積してきた知識、あるいは技術をもとに、
ものというものができてきたのかなと思います。
ですので、誰かを真似をするということを批判するというか否定的に捉えるというのはですね、
成長する上で決定的にマイナスなこと。
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成長が遅れてしまうのかなというふうにね、そんなふうに思います。
言ってみれば、真似をするというのはある意味、創造性の筋トレみたいなものかなと思います。
自分で実際に体を動かして真似をしてですね、
何度も何度も真似をすることで、だんだん自分の力になっていく。
そういうことで、100%真似をするというのは無理ですから、
それがだんだん自分の味に変わっていく。
そして創造性に変わっていくのかなというふうに思うわけです。
有名な芸術家、あるいは発明家ですね。
最初は誰かの真似をすることから始めたという有名なエピソードがあります。
ピカソさんの抽象画で有名なピカソさんですね。
ピカソさんはこんなことを言っているそうです。
有名な芸術家はコピーをし、偉大な芸術家は盗むというふうに言っているそうなんですよ。
これは単なる模倣ではなくて、他者のアイデアを深く理解をして、
自分のものに消化させる、そういった過程を指しているのかなというふうに思います。
私の尊敬するお坊さんの中で、
永平寺の住職、いわゆる禅師様、禅の師匠と書いて禅師と言います。
永平寺の住職さんですね。
もう亡くなられた方なんですけれども、宮崎益保さんという方がいらっしゃったんです。
宮崎益保禅師ですね。
この方は108歳まで永平寺の住職を務めた方なんですけれども、
この方は大変修行というものに対して厳しいというか真面目というか、
とにかく修行の中で定められたことをきっちり行う方だったんですね。
そんな素晴らしいお坊さんだったんですけれども、
その方の言っていた言葉の中で、
仏の真似を一日すれば一日の仏、
三日真似をすれば三日の仏、一生真似をすればそれは本物だ、
そういうふうにおっしゃられたと言われております。
つまりですね、仏の真似をすると言われてもなかなか難しいんですけれども、
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要するに私たち僧侶の中で僧侶としての生き方をきちんと守ることをやっていけば、
それはもうすでに仏様のであるということで、
それをどれだけ真摯に努めていくかということをやれば、
それがいつの間にか一生続けることができれば、
一生仏として生きることができるんだ、そういったことですね。
なかなか真似をしろって言っても難しいんですよね。
ましてや一生真似をし続けるなんていうのは、
もう普通の人ではできないんですよね。
やっぱりサボってしまう、怠け心が出てしまう、
傍着をしてしまうというところがどうしても出てきてしまいますので、
それをいかにそういったところを抑えて真似を続けるかということ、
やっぱり大変難しいことなんだと思います。
だからこそそれができたからだからこそ、
多くの人から尊敬を集めて、
そして今も二人継がれるような存在であるのかなというふうに思います。
尊敬をする人のことを真似をすることで、
自分自身も成長できるのかなと思います。
なので私も宮崎禅師を見ながらって、
少しでも立派なお坊さんになれたらなと、そういうふうに思うわけです。
注意点としては盲目的な真似ではなくて、
なぜそうするのかということを理解すること、
そういったものは重要なのかなと思います。
宮崎禅師が何で仏の生き方を真似するのか、
私も考えてみたことがあるんですけれども、
やっぱりそれは自分の人生をいかに穏やかなものにするか、
いろんな世の中の多くの情報に振り回されて動揺する、
そういった人生じゃなくて、いつも心が穏やかで落ち着いていられる、
そういう人生を過ごしたいと思ったからこそ、
そういう仏の真似をしようということだったのではないかなと思うんです。
私自身ももちろんいろんなことに振り回されるような人生よりも、
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自分らしく心穏やかに生きたいと考えているわけですから、
やっぱり宮崎禅師を真似をする、
引いては仏様の生き方の真似をするということを、
この一生掲げていきたいなと思います。
ずっと真似をし続けるというのは難しいんですけれども、
その時はまた反省をして、
また今日も一日、仏様の真似をするんだということで、
そういうふうに思い直して、反省をして、
また一日は改めるということで、
そんなふうにしていきたいなと思います。
ちょっと後半はグタグタとした展開となってしまいましたが、
本日は真似をすることの大切さについてお話をさせていただきました。
今回のお話を聞いて、感想、ご意見等ございましたら、
どうぞコメントの方へよろしくお願いいたします。
蓮城院副住職の幸文でした。ではでは、またね。
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