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2026-02-08 12:49

禅に学ぶ「無い」という希望:本来無一物(ほんらいむいちもつ)


🌈 虹と自分に共通点?心が軽くなる禅の知恵
「虹って、本当は存在しないのでしょうか?」
今回のテーマは、禅語「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」について。
「虹を触ることができない」という身近な例えから、仏教の核心的な考え方である「縁起」や「自分という存在」の正体を紐解いていきます。

✨ こんな方におすすめのエピソードです
* 失敗して落ち込み、自分を責めてしまうとき
* 人間関係で悩み、「あの人は苦手だ」と決めつけて苦しいとき
* 他人と自分を比べて、焦りや不安を感じているとき

🧘‍♂️ お話ししている主な内容
* 虹の麓(ふもと)を追いかけて気づいたこと
* 「本来無一物」は「虚しい」という意味ではない?
* 自分は固定された物体ではなく「流れ」である
* 心が楽になる3つのヒント(失敗・人間関係・比較)
「人生は変わり続けるからこそ、希望がある。」
今、心が少し重いと感じているあなたに、ぜひ届いてほしいメッセージです。

#禅 #禅語 #本来無一物 #仏教 #マインドフルネス #生き方 #心の平安 #蓮城院 #副住職
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サマリー

このエピソードでは、禅の教え「本来無一物」を通じて、虹や自身の存在について考察しています。存在の本質を理解することで、人生に変化がもたらされ、希望が生まれることが示されています。

虹の不思議
どうも、コウブンです。
栃木県の片田舎にある蓮城院というお寺で、福住職をしております。
今日はですね、少しだけ不思議なお話をしたいと思います。
突然ですが、質問です。
虹って存在しますか?
もちろんね、存在はしますよね。
空に見えるし、写真にも撮れるし、何より綺麗です。感動しますよね。
ではもう一つ質問をします。
その虹を触ったことがある人っていますか?
おそらくいないんじゃないかなと思います。
ちなみに私、虹が出たところで、虹の麓に行ってみたいと思って追っかけたことがあります。
でもいつまで経っても追いつかないし、いつの間にか消えてしまう。これが虹ですよね。
すごく近いところまで行ったことがあるんですよ。
あそこに虹があると思ったんだけど、近くに寄ると消えちゃう。これは虹です。
虹というのは確かに見えるんですよ。
でもね、触ることはできないんです。
実はここに、今日お話しする前後に理解するヒントがあるんですよね。
ということで、今日は前後のお話です。
今日の前後は、本来無一物という言葉ですね。
この言葉、本来無一物、あまり聞いたことない言葉だと思うんですが、
これを直訳すると、もともと何一つ存在しないよというような意味ですね。
本来無一物。
ですが、これは世の中は空っぽですよとか、人生は虚しいですよとか、そういう意味ではないんですよね。
禅として伝えたいことというのは、独立して存在するものはないんだ。
独立して存在するというものは本来ないんだよということですね。
そういう見方なんです。
それを虹と、あとは自分という二つの例から考えてみたいなというふうに思います。
まず、虹の話から。
虹というのはどうやってできているかご存知でしょうか。
虹というものは、太陽の光、あとは空気中の水滴、そしてそれを見る人の位置。
その3つの条件が揃ったときにだけ現れる現象なんですよね。
だから雲が動けば虹が消えちゃうんです。
雨が止むと虹が消えます。
太陽が隠れても虹は消えます。
見る角度が変わったら虹は消えます。
ということなんですよね。
じゃあここで考えてみますと、虹はどこにあるんでしょうか。
空の中に固定された物体として存在しているというわけではないんですよね。
虹というのは条件が重なった瞬間に現れる現象。
これを仏教では縁起というふうに呼んでおります。
つまりあらゆるものは様々な条件が重なって生まれている。
そういう考え方ですよね。
ここで本来無一物という言葉が出てくるんです。
虹というのは確かに存在しています。
でも虹という固定された実体はないよと。
そういうことなんですよね。
ではもう一つの例としまして、
自分の存在への考察
本来無一物、固定された実体はないという構造ですね。
これは虹だけではないんですよね。
私たち自身、自分ですね、自分。
これも同じ構造をしているというふうに禅では考えるんです。
自分という存在、何でできているでしょうか。
ちょっと思い浮かべてみてください。
自分というもの、記憶がありますね。
あとは自分の性格というものがあります。
体もありますよね。経験もありますよね。
あとは感情もあります。人間関係もあります。
社会での役割とかもありますよね。
そういったものの合わさった集合体、これが自分なんじゃないかなというふうに思いませんか。
一方で、10年前の自分、これを思い出してみると、
考え方は多分今と違いますよね。
体、体つき、太ったり痩せたりもあるでしょうし、成長したり衰えたりあるでしょう。
体も違いますよね。
好きなもの、おそらく趣味とか、没頭しているものとか、
10年前と全く変わりませんという人は無理ないんじゃないかなと思いますね。
好きなものも変わってくると。
多くの部分が変わっている事実というのが気が付くかなと思うんですよね。
でも私たちは自分というのは同じ存在だというふうに感じています。
でもね、体も変わって、考え方も変わって、環境も変わって、
それでも自分というのは続いているというふうに感じます。
じゃあ、自分ってどこにあるのかなというところですよね。
果たしてどこかな。脳ですかね、頭の中の脳。
それとも脳に記憶されているもの、自分の記憶でしょうか。
それとも体自身でしょうか。
でもね、それも全部変化し続けているんですよね。
自分とは結局のところ条件が重なった瞬間の流れに過ぎないんだよというところですよね。
つまり自分も虹と同じ構造をしているというところなんですよね。
非常に難しいお話になっていますね。
そうなんです。これは難しいお話なんです。
まとめますと、虹も同じです。
まとめますと、虹も自分も確かに存在しています。
でも固定された実体として存在していない。
これが本来無一物という言葉の意味なんですよね。
おしょ、さっきからなんだか小難しいって言ってるけど、だからなんだっていう、そういうふうに思った人いっぱいいると思います。
じゃあこの考え方はね、私たちの人生でどういうふうに役立つんだっていう、そこも聞かせてくれよというところですよね。
じゃあ私なりに考えた答えですけど、まず一つ目、失敗が軽くなるんじゃないかなと思います。
もし自分が固定された存在であるのであれば、失敗は自分の価値を壊す出来事になっちゃいますよね。
でも自分が虹みたいな、そういういろんな条件によってできているということであれば、失敗はただ条件が変わった出来事にしか過ぎないということなんですよね。
つまり失敗というものは自分自身そのものを否定する材料というわけではないんだよということですよね。
二つ目、人間関係が楽になる。私たちはよくね、あの人はこういう人だ、そんなふうに決めがちですよね。
ですが、その人もまた条件が重なった瞬間の姿に過ぎないということなんですよね。
つまり人というのは変わる存在なんですよね。この視点を持つだけでも人との関わり方、少し柔らかくなるんじゃないでしょうか。
嫌な奴だなと思っていたとしても、嫌な面だけではなく、たまたまそれは嫌な面が見えているだけ、条件が変わったらいい人かもしれない。
というような、全部否定するんじゃなくてその一部分だけ見ているんだよって思えば、人間関係ももしかしたら今はたまたまそういう状態、
自分にとってちょっと嫌だなと思うような状態かもしれない。でも時間が経てば変わるかもしれない。そういうふうに思えますよね。
同時に自分の方も関わり方、良い関係をずっと維持したいのであれば、良い状態になるような努力をしようと変化しちゃうんですから。
油断しているとだんだん悪い方向に行くかもしれない。だから良い関係を維持できるように頑張ろうとか。
そんなふうに柔軟に考えること。いつもいつも同じ態度じゃなくて、その都度この時はこういう相手はどういうふうに思うかなというところを考えながら行動できるようになる。
というところがあるんじゃないかなと思います。
3つ目、比較の苦しさというものがいるんじゃないかなと思うんですよね。
変化の中の希望
比較というのは固定した自分がいるという前提で生まれてくることですよね。
でも自分自身というのが流れであり、また相手も流れであるのであれば、比較そのものの意味というものがそもそもそんな意味ないんじゃないかなと。
意味ないとまでは言わないですけど、その瞬間瞬間でしかない。たまたまの現象でしかないということですよね。
ただちょっとね、こうやって言っているとすごく誤解しやすい部分はあると思うんですよね。
実体がないというふうに聞くと、じゃあ全部幻なのとか思うかもしれませんよね。
でもそうではなくて、虹というのは触れることはできません。でも確かに存在しています。
人生というのも同じですよね。存在はしています。私たち人間というもの。
でも固定されてはいないというところですよね。だから絶対死しないというところですね。
私たちの存在というもの。それが大事だよというのが、これが本来無一物です。
だからもし心が苦しくなったときは、このように自分に問いかけてみるというのはいいんじゃないかなと思います。
これは虹のような現象かな。これは固定された自分なのかな。それとも条件が重なって現れているだけなのかなみたいにね。
そんなふうに思うと楽になってくるのかなと思います。虹が美しいのはつかめないから。
そして私たちの人生も変わり続けるからこそ生きているというふうに言えるのかもしれません。
だから本来無一物というものは何もないという絶望ではなくて、全てが変わり続けるという希望を与えてくれる。
そういうことなんですよね。だいぶ厚く語りましたけども。
今日は本来無一物という前後を虹と自分という例からお話をさせていただきました。
もしよろしければ日常の中でこれは固定されたものなのかなという少しだけ立ち止まってみる。
そういう癖をつけてみるといいかもしれません。きっと心が少し軽くなるんじゃないかなと思います。
というわけで今日のお話はここで終わりたいと思います。
蓮城院副住職の幸文でした。ではまたね。
12:49

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