1. コウブン和尚の寺子屋ラジオ
  2. #29 悲しみを喜びにする方法
2024-07-05 13:16

#29 悲しみを喜びにする方法

🎙️ 供養の深い意味を探る

蓮城院副住職のコウブンが、供養の本質的な意味について語ります。幼少期から現在に至るまでの経験を通じて、供養が単なる儀式ではなく、生きている私たちと亡くなった方々を結ぶ大切な架け橋であることを解き明かします。

🌟 本エピソードのハイライト:

1. お寺で育った少年時代の疑問
2. 祖父から教わった「供養」の意味
3. 永平寺での厳しい修行と葛藤
4. おばあちゃんへの供養を通じた気づき
5. 「共に救われる」ことの真意

供養は私たちの人生を豊かにする機会です。コウブン副住職の温かな語りを通じて、供養の奥深さと大切さを再認識できる、心に響くエピソードです。日々の生活に新たな視点をもたらす、貴重な15分間をお楽しみください。

#供養 #仏教 #人生 #お寺 #瞑想 #マインドフルネス #感謝 #生き方 #スピリチュアル #心の豊かさ
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おはようございます。コウブンです。
画然をしたり、明日を遠ざけたり、野菜を作ったり、最近ではAI漫画にチャレンジしたりしています。
さて、連日暑いですよね。
栃木県でもね、ぼちぼち蝉が鳴き始めて、もうね、梅雨終わったんじゃないかなと、ほぼ夏の様相を呈している。
そのような状況でございます。
夏になるとですね、お寺ではだんだん忙しくなってくるんです。
というのはですね、お盆が近づいてくるからなんですよね。
お盆中も忙しいんですけども、お盆の準備も大変なんです。
一番大変なのは、お灯場を描くということですね。
灯場って皆さん知ってます?板状のもの。
細長い板に文字がずらずらって書いてあるあれですね。
この灯場、お盆の時期にね、お墓に一本あげていただくんです。
なのでそのためのお灯場を、お残花さんの数だけ準備をする。
ということで、うちのお寺の場合はですね、そんなに数は多くはないんですけども、
お寺さんによっては300、400とものすごく多い数を準備しなくちゃいけない。
だからね、やらなくちゃいけないんですよね。大変なんです。
それとですね、この時期、草が伸びるんですよ、ものすごい勢いで。
ですので、草刈り、除草というのをですね、すごく真目にやらなくちゃいけないんですね。
ちょっと油断するとね、あっという間に伸びちゃいますから、成長しちゃいますから、
真目に草刈りをしてですね、いつもきれいな状態を保つという。
これがですね、暑いから大変なんです。
でもね、そのお盆に向けて来てくださる皆さんが気持ちよくお墓参りしていただくためにも、
これは欠かすことはできないんですよね。
そんなわけで私も連日草刈りをしているわけですが、
今日はですね、そのお盆が近いということで、供養についてのお話をちょっとしたいかなというふうに思っております。
私は以前にもお話しした通り、お寺の生まれ、霊場院で生まれてですね、育ったわけなんですね。
小さい頃、幼い頃ですね、週末になると本堂の方からお経の声、お経の音が聞こえてくる、そんな環境で育ったんです。
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そのお経の、供養の様子というのをですね、小さい頃にね、ちょっと覗いたり本堂の様子を覗いたりなんかしたときにね、
なんとも不思議な行動だなって思ったんですよ。
というのは、本堂にお写真、あとはお花、穀物、こういうのをお供えをして、そしてそこに対して手を合わせて照光をしてという、こういうね、
システムを見てね、何やってるのかなって思ったんですよ。誰かいるわけじゃないんですよ。
お写真に向かってやってるんです。何だろうと思ったんですね。
それを、その時の当時の住職の私のおじいちゃん、先代の住職なんですけども、そのおじいちゃんに聞いてみたんです。
くよって、何のためにやるの?って聞いたんですね。
そうすると、おじいちゃんは、存亡を共に救われるためにやるんだって言ったんですよ。
ちょっと難しいので訳しますと、存亡の存は、存在の存って書きます。
要するに生きてる私たちのことですね。
もうは、亡くなるという字を書きます。
なので亡くなる、もういなくなった方、大切な人ですね、ご先祖様とか、そういった亡くなった方、
生きてる私たちと亡くなった方たちが共に救われるんだというふうに言ったんです。
だから、供養って言うんだよ、供養という字ってよく見るとね、
人連に供、共有の供って書いてる、供、それに養は養うですから、人と共に養うって、そんなふうに読めるんですね。
生きてる私たち、亡くなった方たち、一緒に養われる、心が養われる、つまり救われる。
だから供養って言うんだというふうにおじいちゃんは言ったんです。
子供の頃の私にとって、亡くなった人に対していろいろやってますから、
お写真ですけどね、相手は、お写真とかに対してですけど、いろんな養う行為、食べ物とか備えたりとか、手を合わせるとか、それはわかります。
その逆、亡くなった人たちが、亡くなった人が私たちに対して養っている、というのがね、よくわかんなかったんですよね。
だけどね、おじいちゃんがそうやって言うんですから、そういうものなのかななんて当時は思ったわけです。
で、その後ですね、成長して私も修行に行くことになってね、
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その時に修行に行くようになってからようやく供養というもののね、
そのおじいちゃんの言ったことの意味というのが、ある出来事によって理解することができたんです。
というのはですね、えいへじに修行に行ってからなんですけども、
えいへじというのはですね、とてもすごく厳しい、修行が厳しいということで有名なわけなんですが、
修行に入って最初の方に言われるのはね、
修行は決して中断してはならないということを言われるんです。
たとえ肉身を失っても中断してはならないんだというね、言われるんですよ。
そういった厳しいルール、決まりがあるようなえいへじで過ごしてたわけなんですが、
ある日、不法が届きました。
おばあちゃん、私のおばあちゃんがですね、亡くなったというね、そういった連絡が来たんです。
やっぱりね、それを聞いたら私もね、すごくおばあちゃんに対して手を合わせたいなとか、
ありがとうって言いたいなとか、お疲れ様でしたとかね、何かしら気持ちを伝えたい、そういう感情には駆られたんですけども、
だけどもね、そのえいへじで決められた、決して途中で中断しはならないというルールもありましたし、
そのえいへじで私が一生懸命修行することこそが、ちょっとおばあちゃんにとっての供養になるんだ、
と自分を言い聞かせてですね、帰らずに過ごしたわけなんです。
でもね、やっぱりどこか心のどこかでですね、ちょっと引っかかるものがあったんですけども、
そんな思いを抱えながら、お葬式も無事終わったというような連絡を受けてですね、
少しだけホッとしながら、それでもまだなんとなくもやもやとした思いを抱えながら修行をして、
そして修行に一段落をつけてですね、お寺に戻りました。
戻って一番最初にあったお寺のこと、それはね、おばあちゃんの供養です。
当時ね、父とか、今もいますけど、父もいたんですが、
おばあちゃんの供養を一人でやりますと言ってですね、一生懸命努めたんですね、
永平寺で習ったいろんなお作法を駆使しながらね。
そういった供養をしている時にですね、いろんなことを思い出したんです。
おばあちゃんとの思い出です。
小学校の時、友達と遅くまで遊んで真っ暗になってね、
火が落ちて真っ暗になって、それを心配したおばあちゃんは、
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お寺の門のところでね、私が帰るのを待っててくれたりとかね、
あとは学校から帰ったら、必ずお菓子を準備してくれてね、
ちょっとでも退屈しないようになるのかな、
可愛がってくれたわけですよ、とても。
そんな優しいおばあちゃんだったんですけども、
そのおばあちゃんにいろんな愛情を注がれていたということを思い出したんです、
供養をしながら。
その時に気がついたんですよ。
もうすでにいろんなものを受け取っているんだなっていう事実。
私はね、おばあちゃんからね、もういろんなものをすでに受け取っていて、
私がおばあちゃんのために行ったつもりの供養は、
同時にね、おばあちゃんから与えられた贈り物を再確認する場所だった
ということに気がついたんです。
で、思い出したわけです、もう一つ。
おじいちゃんの言葉を思い出したんですね。
とんもをともにすくわる。
生きている私たち、亡くなっている方々がともにすくわれる。
ともに養われるんだ、だから供養って言うんだよ、と。
この言葉を思い出したんですよね。
ああ、こういうことなのかと。
もうすでにいろんなことを受けていた恩を思い出して、
自分はおばあちゃんからね、いろんなものを受け継いできたんだっていう。
今生きているのはおばあちゃんがいたから、
おばあちゃんとの関わった時間があったから、
それが自分の必需となって、今私はここにいるんだっていうことを思うことができたんですよね。
そういう供養というものはね、すごくありがたいものだな。
そんなふうに思ったわけです。
これを聞いている皆さんもね、身近で大切な人、あるいは身近じゃないけども欠点の人。
そして亡くなって、お葬式行って、供養して、そういった経験があるかと思います。
供養というのは伝統的に伝わっている作法、儀式なわけではございますけれども、
その意味は、私たちの人生を穏やかなものにするため、
自分がどういう恩を受けて、どういうふうに生きてきたんだ、
どういうものを与えられて、それを自分の糧としてきたんだということを再確認すれば、
そういったことを少しでも心のどこかに思いながら、
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こういった供養というものを望んでいただければ、きっと今まで以上に供養の大切さ、
自分の今生きているということのありがたさというものを感じながら、
瞬間瞬間、今この目の前を大事にできるのかなと思います。
引いては自分の人生を豊かにすることができるのかな、そんなふうに思うわけです。
どうと、そういった供養、ちょっと面倒だなって思うこともあるかもしれません。
私も正直それがないわけではありません。
けれども、それでもなお大切にしていただきたい、そういうふうに思うわけです。
本日は今日についてちょっとお話をさせていただきました。
今日のお話を聞いてご感想、ご意見等ございましたら、どうぞコメントの方へお願いいたします。
蓮城院副住職の黄文でした。ではでは、またねー。
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