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S5 6回目は大宰府の防衛ラインの一つ古代の山城を歩く
2019-11-10 30:32

S5 6回目は大宰府の防衛ラインの一つ古代の山城を歩く

倭国は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れ、今度は倭国が攻められると思い防御の態勢をとります。

その一つが水城になりますが、水城を作ったあとは山城を防衛ラインにします。

その山城の一つが大野城であったわけです。

その大野城を歩きます。大宰府側から登っていきますと目の前に飛び込んでくるのが土塁と礎石群です。

最初の礎石群は尾花礎石群、又の名を焼米ヶ原ともいいます。

焼米が今でもでてくる場所です。といっても礎石の上に立った倉庫が焼けて中の米が焼けたのではなく、米の炭化が進んで黒くなったものだそうです。

ここの建物に保管してあった米は何でも四千石だったそうで、これは4000人が一年に食べる糧に当たるのだとか。

ここからの大宰府側の景色はすばらしく、眼下に阿志岐山城のある宮地岳もよく見えます。
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00:08
古代の福岡を歩く シーズン5
遥かな昔 海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました
その足跡を尋ねる 古代の福岡を歩くシーズン5
この番組は 宮益の企画共産
道の駅村方 餃子の山鉢の提供でお送りいたします
道の駅村方 営業部長の久藤です 村方の新鮮な海の幸 山の幸がたっぷりです
いつも旬のものをお届けします 世界遺産 神和鳥島 村方 沖の島と関連産群を私たちの手で守っていきましょう
おはようございます 坂田周大です シーズン4では大宰府の防衛ということで水着について詳しくお伝えしましたが
水着が作られたのが664年 そして大野城という山城ができたのが665年と言われます
この頃各地に山城が築かれました 今週はこの古代山城の大野城を歩きます
特別施設大野城跡にやってきました 大宰府口から登ってきました
ここに案内板があるんですけども ここに大野城と万葉集という風に書いた看板が出てますのでちょっと読んでみますと
奈良時代の人は大野城があったこの山を大野山 大木山と呼び歌に読みました
この大野城を読んだ万葉集がここには書いてあります この看板のすぐ横から
えー
太宰府市が展望できます 遥か彼方に宮城岳の山が見えます
その手前にも小さい山がいくつか見えますが そのここから南の方へ向かって右側に
太宰府市の住宅街がずーっと展望できますね そして一番向こうに美濃連山が
霞んで見えるといったような風景がここから見えます そんな風景を見ながらお話を
03:02
こと太宰府保存協会 太宰府史跡解説員の小沼秀人さんに大野城の話を伺っていきます
まずあの大野城がなぜ作られたかということですね まあ言わばあの7世紀の
一つの東アジア情勢っていうんですかね いわば党は朝鮮半島に進出を狙ってたしそれから
幸福利白木それから九太郎三国は当然あの三冠統一というですね 半島のまあいわば覇者になるということでまあいろんな意味で争い合ってたし
その中でもいわばあの7世紀代まあ聖徳太子あれ 水光天皇ですかねそういった人たちがまあ日本の歴史になってたんですけれども
だいたいあの九太郎とはそれ以前からまあ仏教伝来とかですね 儒教伝来とかまあおそらく古代文化の基本的なルートは中国から九太郎を通じて
まあ和国に入ってきたというそういうケースが非常に多いでまぁどちらかといえば 三国の中では九太郎と日本は友好関係にあったと
そうですねそういう中でまあいわばあの 人質ということではありませんけども
ちょうど7世紀の半ば頃あのくだらの王子の予報書というのが 飛鳥の方にまあ人質扱いみたいな形で入ってきてて
まあ ある意味ではまああの何かの時には使うんでしょうけども
くだらはそのくだらが滅びてしまったわけですね664年 擬似王という王様の時にまあそういう中でくだらが滅びたので
くだらの残党と言いますかねあの寄出福神とかまあそういうような方々が日本にですね あの予報書をですね戻してくだらを立て直しに協力してくるということで
早速予報書に5000人ぐらいの兵隊を引き連れて あの限界などを渡ってくだらにくだらというは朝鮮半島に入ったわけですね
でまぁそれでもなかなかまだ決着つかないということでその後やっぱり 安倍の平夫とかそういうかなり強いですね兵隊を送って2万人ぐらい
2万7000かなそれぐらい行ってますさらに3度目が663年に 1万人の兵を増員して約4万近い兵がですね朝鮮半島の中からに和国の真兵送り込まれて
戦ったんですがあの663年の8月くらいですかね夏に あの白村公というところで破れてまあはっきり言えば日本はまだまだ
あの続長軍というんですかねあの党はもう完全統一国家ですから 非常に統制の取れた戦い方やるんですけどまだあの和国軍ってのは各地域の王様たちの
集まりみたいなねそのトップにまあ 一応飛鳥が立っているような状態だったんで割先といったような戦い方するもんですから
結局のところ統制が取れないまま負けてしまったというまあ そういうふうにだいたいあの白村公解説する人たちはまあ言ってるわけです
06:03
そういうことでまぁ破れされますでその後当然 あの相手側としては日本にそういうね
もうはっきり言えばあの 戦う状況ではないと思って攻めてくるだろうということで
まあ当然は国がもそれに対する備えとして まあよくこれも小学校の教科書から出てくるんですけど
先森というね ええいわゆる北九州沿岸一帯に一つの警備の兵とかあるいはあの
のろしというのが出た津島とか行きとかあるいは糸島 だいたい北九州沿岸に各地に作られてそれがまあ
一種のネットワークみたいな形で明日かまで早急にあの攻めてくるですね連絡もみたいな ものを作る
さらに北九州には この地域を中心としてまああの各城が作られるというですね
日本最古の城が続々とでき始めます その線弁を切ったのがこの大野城だと思ってください
それが665年です665年ですねはい であのその前に664年にはの平野部分に水木がまずできます
ですからおそらく663に負けてますんでね早急な立て直しということで あのいわば北九州沿岸の警備をした様子はこの水木
大野城それから佐賀県にあります 紀伊城ですかね
この3つの城はまあ連動しててあの日本初期にあのこの3つのことは記載されています ただまあ私自身の見解としても664年1年間で本当にあるだけの長さ
1200メートルのですね 長大なねあのまあああいう城のことを遮断状と
いわば敵が攻めてきた時に平野部にですねああいう奴隷をこう作って あの打財布というですね
新たに当時の奈良時代のダイフとちょっと違うんですけども 研究家はまあ現打財布というような言い方で
原っぱの原を書いて現打財布という言い方をしますけども あのとりあえず防衛の拠点基地として打財布があの
まあ選ばれたんだろうとそこを守るために水木が作られ さらに大野城がもしそこを突破されたらここに
逃げ込んでいく逃げ城的な性格として この大野城はあるんじゃないかなというふうに言われています
性格的にはそういう逃げ城という性格ですかまああのずっと回ってみたら何メートル ぐらいあると思われますだいたい平方メーターで
平方メーターいやーわかりませんね 180万平方メーターだそうで場内はそんなあるんですかだからあの東京ドームだったらやっぱ356
入りますあれ5万平米ですからね 計算上はだいたい356個入ります
ヤフードームは7 確か7万平米ですからもうちょっと少なくなりますけどね
a そう考えると広いもんですねはい一応場内はそれだけですけどね
09:00
あのここはあの昭和28年に国の特別史跡という まあいわばあの仏像とかあのやり彫刻とかですね芸作にできれば国宝に当たるですね
史跡指定というのですね受けた段階で 現在
まあちょっと史跡は拡張していますそれを合わせれば 確か754万平方メーターです
180もっと大きいね要するにあのふもとの方まではいずーっと それはダダイフの方だけじゃなくて大野城市の方
それから海町の方と言うはいだ場内だけじゃなくて下の方まで 特別席に指定されてますので大変大きなね
大きいですね白になるんですよね だからあの面積比べでしたら日本では第2位ですね
はいあの場内だけで行くと江戸城が一番だそうです あそうで2番目がここ江戸城確か230万平米です
ここ180万ですからねー 僕は江戸城はそんな大きいと思わなかったからですねあんまり
公共になってますからよくわからなかったんですけどね
そういうことですかはい石してまで比べたこっちの方が大きいわけですよね そうですねはい
だからあの本当にあの大野城いろんな方はあんまり知らないんですよね表示言って 全国来てただ日本百名城に入ったんでなんか古代の山城があるなぁと
いうことで皆さんを仕掛けてきてあのスタンプだけパンパンパンと押してですね 変えられるんですけどね
ここは日本で一番大きい城なんですよと だからもう1点私が強調するのは日本で一番古い文献に乗ったお城では古いんですよ
あの大野城の場合はあの日本書紀に記載されている 日本ここだけじゃなくて紀伊城もそうなんですよね
それからの長戸の国中今の山口県に長戸城というこれはの 言葉はあまりはっきりしないです長戸の国の城ということで長戸城と命名されたかどうかは
わかりません だけどまぁ大野城と紀伊城ははっきり出てます
その後にあの金田城あの津島にありますねそれからの大阪にある高安城 八島城がだいたい2年後ぐらいに大体できてます
そういうことで節内海周辺にもあのいわゆるこういった あの国家的プロジェクトに基づいた
はいはいちょっと前置き長くなりましたけど 今から具体的なところに行きますので
今朝は古代の山城大野城を歩いています お話を古都太宰府保存協会の太宰府史跡解説員
小沼秀人さんに伺っています 大野城の土類と石垣の草原町はおよそ8キロということでした
祖籍群は8箇所ありますが小沼さんの話ではそのうちの2つ 御殿場祖籍群と項目天祖籍群は時代が少し違うのではという話でした
12:12
太宰府側から登ってきまして焼米ヶ原に入ってきました
これ一応土類跡ですので あそうですか
えっとここがもう焼米ヶ原に入ってきてます
えっと今土類の実が悪いって言ってますけども
土類だって結構大きいですねこれも3メーターか4メーターぐらいありますね ここで見ると4メーターぐらいでしょうね
地表面から ただ向こう側6メーターぐらいあります
あそうですか ここは緩やかです向こうは絶壁です
太宰府側から 大野城に登ってきましてその頂上です
頂上に焼米ヶ原の駐車場がありまして
その駐車場の横をずっと今 中の方へ入っていってます
ちょっと土類についてせっかくあそこで見てきましたのでお話をしますと
あのここらへんある意味で整備されてるんです
平成15年ここものすごい大洪水で雨でですね崩れていったんです
土類がですか
土類がここらへん
全部ここらへんはその辺りぐらいからずっと修復しています
入り口からだいたい100メーターぐらいずっとゆるやかに坂が
上り坂が続いてるっていう感じのところですね
そこに土類がだいたい2メーターから4メーターぐらいの高さがずっと続いてます
ここは焼米ヶ原と言いましたけども
小花地区特別施設大野城あと小花地区という看板がありますね
あの組織建物群があった場所だということです
組織っていうのは柱の下に建物を支える石ですよね
まああのおそらく河原屋根だったろうと思うんですよね
屋根柄も見つかってますんで
あのそういう経緯から考えるとやっぱりもうあの河原屋根の重さあるいはこの
蔵の中にはお米がね最大重量で4千石入ったという風に
研究者の方が言ってますんで本当かなと私はちょっと疑うんですけどね
昔私たちが1年間食べるお米は1石だという風にね
教わった記憶があるんですよ
そういう経緯考えるとね4千人分の食料はまかなえるんかいと
1年間のねそれぐらいこの倉庫に入ってしまうぐらい大きいのかなと思いますけどもね
それは後であの組織を見た後に感じていただければいいと思います
大体7メーターぐらいのね
ないし7.5メーターぐらいのあの建物だろうと言われてます
15:02
そういう建物がこの小花には現在のところ10棟見つかってます
で先ほどの一点組織の建物は8あると言いましたよね
そのうちのまあ6棟ぐらいがだいたい先ほど言ったように
大野城との関連の組織だろうと言いましたね
でだいたい今のところ70棟ぐらい全部ではトータルで見つかってます
場所は一応8箇所あの鉱木店とかも入れてですね
そのうちの10棟というまあこの地域では首条丸が一番多いんですけどね
それから八津波が2番目3番目がここです
あのいわゆるあの桁行きと梁行きというね建物は長い部分の言い方があるんですが
桁の部分まあ横なら横と言いましょうかね
6個石があります
でこれあの間が5件ありますから5件
それからこちらの梁の方が1,2,3,4つあるのでちょっと石が1つ消えてますけど
間が3ありまして5×3の5件3件の建物とだいたい言うんです
そして長さこの石のど真ん中とど真ん中の間がだいたい2.1メーターです
2.1メーターでだいたい基準が決まってるんだそうです
だから合わせれば10.5メーターの建物と言い方をします
桁がですね
それから同じようにこちらの方の梁の方も同じように2.1の差があるんだそうで
合わせれば6.36.3×10.5でだいたい66平方メーターの
ちょうど小学校の教室ぐらいちょっと小さいぐらいですけどもね
その広さになると結構広いんですから
それからここは総柱建物と言いましてここら辺にも石があるんですけど間真ん中にも
ど真ん中にも全部ということは
人間がそこで生活するだけだったらですね川柱だけでいいんですよ
要するにそんな人間の重量って大したことないですしね
だからそこ板なんか吹けばもうそれで終わりで
だけどここの場合はその板の下に
いわゆるこうやってまた木を乗せていくわけですから
総柱という呼び方で呼びます
組織総柱建物
だからお米が4,000石入っても十分に支えられる機能を持っていると
この組織は重さを支えるための組織?
そうです組織はそうです
米の重さであると特に川原屋根を吹きますんでね
あーそうか川原の重さもありますね
そういったようにここには組織がてんてんとしてますね
結構広い空間になりますね
先ほどご質問あったように焼米が原
何でそういうかというと
これちょっと火場の時にここをほじくるんですよ
18:00
そしたら炭化米が出てきますから
ちょっとこれ石の上ですけどね
僕はもうちょっと時間がないのですみませんが
子供たちが海小学校の生徒たちが
自分たちで掘り掘って見つけた炭化米を写真で載せてますから
あんまり出てくるんですか?
出るんです
だから子供の遠足の時にはそれさせますけどね
何でその焼けた米が出てくるんですか?
これは炭化米ってみんな焼き米なんていう言葉があるもんだからですね
建物が焼けて真っ黒になったんだろうと
いうことじゃなくて先ほど言ったように
876年から歴史で大野城は姿を消します
はっきり言うと
律令国家から平安時代は貴族政治へと変わっていきまして
どちらかと言えば中央政権が
地方政権に対する緩みみたいなものがいっぱい出てきて
武家の世の中に変わっていきますよね
そういう状況下の中ではっきり言えば大野城は捨てられていくんですね
わざわざここを守る手立てなんかする必要ないということで
おそらく平安時代の中頃には兵隊も引き上げていって
ここは放置されます
建物は当然100年200年経っていけば雨風に
結局台風なりにいろんなので潰れていって
そのまま残った米が土の中に
それが真っ黒くなるんです何年か経てば
もう千年以上経ってますんで
焼けたわけじゃないですね
焼けたわけではない
古くなった米
ただエピソードとしてはあるんですよ
エピソードとしてはこれは国師の例ですけどね
心の例としてじゃなくて
わざと中の食料全部取ってしまって
火つけるんですよ
そしてこれは神火だとか報告を出してね
それによって建物焼けて中のものはもうありませんと
だから全部自分のものにしてしまうっていうのはね
そんな悪い国師はいろいろ地方の
そういった資料の中に出てきますんでね
そうですか
だからそれの場合でも焼けてるわけではないわけでね
ないわけで建物は
米が焼けて
そういう人もおったんですね
だから私は思うのは最初のうちは
大野城はそういう逃げ城として
そして建物の城として
食料のための倉庫は当然必要だった
だけど状況が変わって
奈良時代になると
はっきり言えば東白城との全面戦争っていうのは
向こうが攻めてくることは考えられない
そういう中で
どちらかと言ってもこれは緊急避難というかね
あるいは緊急対策の時に基金共済
そうした場合に
ここにあったお米をですね
九州から集めたお米ですけどね
それを放出して
庶民を救うような
そういうための倉になっていったんだろうと思うんですね
なるほど
だんだん使い道が変わってくるという
21:00
そうです
最初は戦のための食料
ところがそうではなくて
税金として集めたお米を
やっぱりダダイフの街の中だとね
泥棒に合うんですね
それから火事に合う可能性もある
それから湿気が多いところですから
お米も腐るということ
ここだとやっぱり
400m以上のところですから
そういう問題からやっぱり逃れることができるというね
利便性はあります
下から運んでいくのは大変でしょうけど
それは農民たちの力で自分たちが関係ないわけですからね
農民たちの労働でやっぱりやらせるから
そういう意味合いで
この倉庫は使われて
だけど律令国家自体が弱体化した中で
放置されていったという考えができます
そうですか
放置された跡が
この焼米ヶ原のお米という感じはいたしますね
ここは焼米ヶ原
お花そせき群
お花
このお花という花はですね
後からつけた名前でね
要するにお芽の花
ずっと下がってきているお芽のね
とっぺんの方だからお花というね
それにまあ
今朝は古代山城大野城を歩きました
お話を
古都太宰府保存協会の
太宰府史跡解説員
小沼秀人さんに伺いました
来週も古代山城大野城を歩きます
ここで古代の福岡を歩く
リポーター中島理恵さんです
おはようございます
今朝は餃子の山鉢の
藤本大志社長に話を聞いてきました
神宿島
室方沖之島と関連遺産群
この世界遺産を守り
次につなげていこうということを
大切に思っていらっしゃるんですが
なんといっても
餃子の山鉢の餃子の原材料が
世界遺産のそば
福津で育っている
というのもあるんですよね
さらに藤本社長
新しいお店も
世界遺産のある町に作りました
そしてさらにはこの時期
食欲の秋はお得な大層餃子屋もあるので
その辺のお話も
伺っていくんですけれども
もともと福岡市中央区の福浜で始まって
東区和次郎
そして福津と
どんどんキャベツ畑の近くに
東に東に会社が移っていったという
山鉢なんですよね
本当ですね
やっぱりその福津のキャベツを
使っているんですけど
新鮮で作っている人が
分かっている安心感があって
さらにこんないいところがあると
おっしゃっています
大きいし
綺麗し
あと食べてもおいしいし
かん玉というちょっと
24:01
硬いキャベツを使っているんですけど
かん玉とわせとあって
わせはちょっと柔らかい
フワフワ系じゃなくてギシギシ系
ギシギシ系ですね
そっちの方が餃子にはいいんですか
いいですね
シャキシャキして
シャキシャキが大事ですね
知らなかった
かん玉というキャベツなんですね
キャベツはもちろん畑で
農家さんたちが作ってくださっているんですが
社長自身はニンニクを作っているんです
しかもシンバルの山古ふんぐんが見える場所で
こんな感じだそうですよ
あんまりニンニクは作っている人が少ないので
自分で作ろうと思って
古墳の横でほのぼのと
古墳の横でほのぼのと
ほのぼのとやっています
いいですね
景色が見えてくるようですね
でもやっぱり世界遺産になってから
観光客とっても増えましたねとおっしゃってました
そんな中ですね
今年の6月
村形市の稲本というところに
新しいお店をオープンなさったんですよ
やっぱり世界遺産のある村形市でしたんだなと思ったんですけど
パッと見はヨーロッパ風の小さなカフェっぽいビジュアルで
え?餃子屋さんと分かんないよなって感じ
しかもお店の名前がモンテオットって言うんですよ
モンテオットってどんな意味なんでしょう?
イタリア語で山鉢です
モンテ オット
オシャレですね
オープン当初はちょっとイタリアっぽい
メニューもあったんですが、今は通常のヤマハチ餃子のラインナップに戻っています。
そのうち、突発的にイベントの感じで、いろんなイタリア系メニューも出てくるかもしれないので、これから先、要チェックなんですけれども、
要チェックといえば、食欲の秋はヤマハチ創業祭なんですよ。
今年は17周年大創業祭、福津本店のお店が11月の22、23、24日の3日間になります。
今日が八幡西区の春さん餃子の創業祭の最終日になるんですけど、
チェックポイントとしては、ヤマハチ餃子が50個入り、通常1200円なんですけど、これが980円になったりとか。
お得ですね。
でしょ。福袋が出たりとか、11、12月限定のもっちーズが出てきたり、あと冷凍食品が15%オフなんですが、
この中で要チェックはですね、これからのシーズン、炊き餃子という一品なので。
炊き餃子。
餃子を炊く、そうなんです。
炊き餃子は、ニンニクが入ってないんで、キャベツと豚肉と鶏肉も入ってます。
ほんとか、違いますね。
違いますね、あっさりしてるんで、何個でも入れる感じですね。
27:04
他の具は無しで餃子なんですか?
餃子とあと、ネギとお豆腐ぐらい、あとキノコ。
これからの季節炊き餃子。
別売りのスープがあったり、あと極みだしを使うのもオススメとおっしゃってました。
全部ヤマハチで揃うんで、食欲の秋。
ぜひ世界遺産散策の後は、おいしいお土産買って帰ってください。
中島リエさんでした。
ここで番組からのお知らせです。
ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
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また、ラジオクラウドという無料アプリをダウンロードすれば、スマートフォンやタブレットでもお楽しみいただけます。
この番組は、宮山市の企画協賛、道の駅室方、餃子のヤマハチの提供でお送りいたしました。
ご案内は高田修大でした。
×少女隊の×ラジオ隊。
×少女隊の春のキーナと青いリドマです。
RKBラジオでお送りしているガールズパンツ。
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