1. 喪失感は、突然に
  2. #27 過去の私のわかってる感に..
2025-06-10 20:33

#27 過去の私のわかってる感について

過去に私が書いたことを振り返り機会を得ると、あのときに考えたことが指標となり今の自分がいることに気付かされることや、辛かった気持ちを一番にわかっているのは私だなと思うことなど、お話しました。

過去のメモを見る / 5月6月は兄の命日に関する投稿が多い / 感情を整理するために書くことが大事 / 手書きとスマホでは思考のスピードが違う / 手書きだと落ち込んでいる時は字が小さい / 過去の日記を読み返し自分を客観視できる / 喜びや楽しさの表現は難しいと感じる / 兄の友人に死を伝えた言葉に後悔した / 過去の自分を振り返ることで成長を実感する / 日記やログを振り返ることで自分を褒める機会

サマリー

第27回目の配信では、過去の自分の感情や思考を振り返ることで成長してきた過程について語られています。手帳やアプリを使って記録した思い出が、自身の変化や感情の波を視覚化し、過去の自分との対話を促す貴重な手段として位置づけられています。このエピソードでは、過去の感情や表現に対する反省が述べられ、自らの命についての思索が中心になります。また、日記やアプリを通じて自己の経験を振り返ることの重要性が強調されています。

過去の感情の振り返り
喪失感は突然に、第27回目の配信です。
今回は、過去の私のわかってる感について、お話ししたいと思います。
私のわかってる感って、なんかちょっと変な日本語だなって、思いましたかね。
ちょっと変なんですけど、何を言ってるかというとですね、
結構昔から、メモ帳とか、手帳とか、ノートに結構いろいろ書いたりとかしていて、
自分の気持ちとかを書くようになったのが、10年ちょっとぐらい前だと思うんですけど、
日記というよりも、今、たった今思ったことみたいなことをパーって書く、みたいなことをしていて、
それが手書きのノートだったり、iPhoneのジャーナルという日々の日記を書くようなアプリに書いていて、
私が使っているのが、Day1というアプリなんですけども、
そのアプリっていうのが、過去の今日の何を書いたかっていうのをですね、上がってくるんですよ。
それでですね、この5月、6月っていうのが、ちょうど兄の命日があったぐらいの時なので、
そういった言葉が結構上がってきてたんですね。
それを読むと、毎年毎年いろいろ書いてあったりするんですよ。
記録することの重要性
つらくて眠れないとか、体調を崩しているとかっていうのもあったりとかしていて、
それで、つらい気持ちというのも、今読むと、
わかるわかる、超わかる、みたいな気持ちになるとか、
あと、母と結構いろんな喧嘩を今までもしてきて、
つい最近もね、すごい口喧嘩して、
でもなんとなく、今いい感じで仲直りができているんですけども、
兄が亡くなったぐらいの時は、20年ぐらい一緒に暮らしてないわけで、
私も母も、距離感とか、子供の頃でもあんま覚えてないし、
いろいろ口喧嘩をしていて、
それで、明らかに私が、やはり今と違うのは、
母の言ったことに対して、なんでそういうこと言うんだとか、
その意味は何なんだ、みたいなことを、ものすごく詰めているんですよね。
それで、そのことに関して、それは自分がやっちゃダメだっていうふうに書いてあったんですよ。
そこに書いてあったのは、私は、母だけじゃなくてね、友達だったりとか、
亡くなった兄に対しても、こうやってリズメのようなことをして、
追い詰めていってしまう傾向があるみたいなことが書いてあって、
だから、これからはもう母と一緒に生活していくし、家族はもう2人しかいないんだから、
こんなことしちゃダメだって書いてあった。
それを今読むと、あの辺りから、やっぱり自分が変わってったというか、
変わらなきゃいけないって強く思ったことを思い出したんです。
なんか、思うこともすごく大事なんですけど、
書くっていうものをすると、すごく整理しないと書けない。
あと面白いのがね、手帳に手で書くのとiPhoneで書くのとかだと、
またまたそことの思考が少し違っていて、
私はiPhoneの方が結構、その感情の赴くままに思考するレベルというか、
喋るレベルと同じぐらいにバーって書ける。
だから割と生々しいんですよ、気持ちが。
手だと、やっぱりもう少しゆっくり書くだったりとか、
語彙力と感情表現
時間がもう少し多分遅いから、なんかちょっとね、
もう少しまとまったというか、冷静なものになる。
もうちょっとね、バーって書いて、早く書いたりするのもあって、
生々しい感じもあったりするけど、
ちょっと字があんまうまくなくてね、下手っぴだったりしてるから、
たまに何書いてあんのかよくわからなかったりとかするんですけど、
手書きがしかわからないのは、文字の大きさなんですね。
私が落ち込むとか、へこんだりしてる時って、ものすごく字がちっちゃい。
ちっちゃくてギュッていう風に書いてあるんですよ。
でも、例えば字がちっちゃくてギュッて書いてあって、
ページもめくって、次の文章にはすごい大きな字で書いてあったりとかするんですよ、今度。
そうすると気持ちが明るくなってる。
そのページをめくった時に、どう私の感情が動いたのか、
もちろんその辺は覚えてないんですけど、
でも明らかに感情は変わったのもわかるんですよ。
だから、iPhoneだとね、そんなちょっと全然わかんないけど、
iPhoneとかスマホで書くと、手帳に書くとそういったことの変化があって、
後々読むと、私って大変だったんだなって思ったりとかするんですよ。
だから、過去に書いたものを読み返す。
書くっていうことで、自分の気持ちだったりとかを強く定着させるっていうことと、
過去のものを後で読むことで、
自分があの時はこうだったんだっていうふうに客観視もできるし、
私はこれはできるようになったんだっていうようなものだったり、
あ、これはまだまだだなって思うこととかもあって、
本当にいろんな発見があると思うんです。
なんかこうね、自分のことは自分によくわからないっていう感覚だったりとかするのもあるんですけど、
またそれとは別で、過去の私はやっぱり自分が通ってきた道なので、
辛かった悲しかった、自分はこれが良くないとか、
あんまり良いことは書いてないので、何でしょうね。
最近はそんなことないと思うんだけど、やっぱり良いことってなんでそんな書かないのかなっていう。
良いことって、なんかこう、語彙があまりない気がするんですね。
嬉しかった、楽しかった、楽しかったとかっていうものではあるけど、
それだけでその本当の楽しみを表現できないというか、
だからこう、小説を書く人とか、詩人の方とかって文字を専門にしている人達って本当にすごいなと思うのね、その語彙力というか。
少し話がずれるんですけど、私がこのセリフ表現本当にすごいな、その喜びだったりとか、
自分の心に刻まれたこの嬉しい感覚っていうのを表現した言葉の一つが、
愛の不時着、私すっごい好きなんですよ。
多分ね、二、三十回見てるんですけど、そこでね、主人公の女性と主人公の男性がある大きな橋のところでね、
二人で会話するシーンがあるんですけども、結構それって重要なシーンなんですけど、
そこで女性の方が言うセリフが、今この時っていうのは、きっと私の走馬灯の中に刻まれるみたいなことを言うんですよ。
その走馬灯というのは、亡くなる前に過去で起きた出来事がこう、
フラッシュバックのように見えるっていう風に言われている、もう本当かどうかちょっと私わかんないけどもって言われてるんですけども、
そこにですよ、今このシーンというか、出来事がきっと刻まれるだろうみたいなことを言うのって、
嬉しいとか、絶対忘れないとか、そんなことよりも、もっと根源的な体に刻まれているみたいな風に表現になって、
すごいなーって思ったんですよね。
愛の不時着ってなんかそういうセリフとかが、心に残るようなとこ結構多くて、何度も見てしまうんですけど、
で何の話をしたっけ、あそうそう、語彙力、
喜びとか楽しみとかの語彙力って難しいなーって話だったね。
日記にもちろん楽しかったこととかもあるにしても、私の使い方というか、
今考えたことをすぐに書くっていうことがやっぱりちょっと辛かったとか、悲しいとかそういうことが結びつくことが多いからだと思うんですよね。
もちろんアイディアとか、これ見てやってみたい、あれやってみたいみたいなことはもちろん書くんですけども、
ただその結構激しいというか、高ぶった感情を残しておこうかなというのはあって、
それでここ最近出てくるものっていうのが割とちょっと生々しいものが多くて、
生々しいってのは感情がね、思考、考えているものとだいたい同じようなものがある。
ふざけんなよみたいな、そういうような言葉とかも書いてあるっていうか、
私は一体何なんだよみたいな、そういう何かこういうものもあるんです。
例えば何かこう、兄のね、
が亡くなったことを、兄の友人たちに、LINEで直近喋っている人たちに何かこう伝えたっていうような日記がメモがあって、
その時に私は何で亡くなったのかって聞かれて、
自ら命を絶ったっていうふうに私は書いたんです。
その後に命って何だよって書いたんですよ。
でも何で私はその言葉を使ったのかが、
いまいち、今でもちゃんとわかってない、自殺自死とかもあったはずなんですね。
その2文字で、あの時おそらく何かこう、自ら命を絶ったっていう言葉の方が、
感情が何かすごいこう入る入る入っているような感じがするんですよ。
その自殺とか自死っていうことだと、自傷というか亡くなり方というような行為だったりとかする事実。
でも、自ら命を絶ったってなると、そこに情感がこう、何か乗るような感じで、
過去の感情の表現
劇的というか、何かそういうふうに私は表現をしてしまったような気がしちゃって。
淡々と言えなかったというか。
何だろう、何かわかんない。
普通の、もし対面だったら自ら命を絶ったって言葉は言わないような気がして、
テキストだからあの言葉を何か使ったような気がするんです。
何かこう、何かちょっと悲しみが乗った感じがするイメージがあるんですよ。
自ら命を絶ったって何か。
だからこう、悲しみを演出、私はしようとしたのかわからないんですけど、
だから何かこう、命って何だよっていう、自分に対してのやや怒りみたいなのがあって、そのメモが残っているんじゃないかなーって。
何かタイトルにもなっている、過去の私のわかってるかについてって話し始めたものの、
これに関しては、もう少しこう、具体的に書いてくれれば良かったのになぁと今の私は思うけど、
まあちょっと、命って何だよって多分怒ってるんですよ、多分私あれ。
なぜなら、その悲しみに暮れている自分っていうのを、もし表現したいっていうので、
なんとなくあの言葉を使ってしまったのだとしたら、
お前のせいで死んだんじゃねえかって、私はあの時、今でも少し思っているから、あの時もっとその気持ちは強かったはず。
だからこそ、悲しんでんじゃねえよってきっと思ったような気がする。
もう少し説明欲しかったなぁ。
とはいえね、亡くなって、たぶん3日とか、
そこらで、お兄ちゃんの友達に連絡しなきゃって思ったから、
あの時は本当に辛かったから頑張った頑張ったっていうか、
なんかね、話がちょっとだんだんこう違うところに行ってしまって恐縮なんだけども、
なんかね、指が初めて震えたんですよ、あの時。
私はiPhoneを触る時に、左手で、親指でフリック入力をしているんですけど、
なぜか右の親指がこう震えてて、
人間って指震えるんだと思って、
昔ね、20年くらい前かな、初めてね、人がこう、
友達がこう、まあちょっと結構いろんな大変なことがあった時に、
なんか紙に書いてる時に私一緒にいて、
そしたらその人がね、手を震えながら書いてたんですよ。
その時に、人間ってこう本当に震えるんだって、ちょっと驚いたことがあって、
どういった時にこう震えるものなんだろうかって思ったら、
まさに自分が指が震える瞬間が来て、
でもなぜかこう、使ってる指とは違う指が震えてたから、
まあたまたまだったからかもしれないですけど、
まあそういうこともね、書いてあったりとかしてて、
何が言いたかったかというと、
自分が気持ちを言葉にしていくことによって、
自分に問い聞かせるというか、
一度こう立ち止まって、そのことを真剣に考えるっていう機会を得て、
それが未来の自分が過去のテキストを見た時に、
あ、今これ、この時こうだったから、今こう来てるんだなっていうふうに振り返って、
自分が普通にこう生活をしていく中で、
あれができた、これができたって、なんか割と難しいと思うんですね。
そのテストのように、はい始め終わりましたって言って、
○×○がついて、点数が出るわけでもないから、
そのためにね、タスク管理とかでチェックしてって、
これできた、あれできたってやるのももちろんあるんですけど、
こういう悲しみがこうなったとか、
こういう自分のダメなとこが改善されたとか、
改善までいくかどうかちょっとわからないですけども、
なんかそういったものをトラッキングという言い方が合ってるのかちょっとわかりませんけども、
過去のねノートとかメモを見ることによって、
自分ちゃんと生きてきた偉いとかいうように、
なんか褒める機会っていうので、
私は割と今を健やかに生きていってるんではないかなというふうに思ってます。
日記とアプリの活用
iPhoneの人だったら、
無料でAppleが提供しているJournalっていうアプリがあって、
あれは本当にすごい簡単に自分の日記を作れるんですよ。
撮った写真だったりとか、行った場所とかも地図とかも出てくるし、
なおかつ向こうから簡単なお題とかも出してくれて、
それに答えることもできるし、
後でまたこう振り返ることもできるので、
そういった日記だったりとか、ログとか、
そういったものにもし興味がある方がいたら使ってみるのも良いんじゃないかなと思います。
私はそのDay1ってやつで、
1年間、無料でも使えるんですけど、
ノートいっぱい作るとお金がかかるんですけど、
1年間で、いくらだっけな、6,000円とか、
ちょっと忘れてしまったんですけども、
またちょっと最近Journalを使い始めようかなと思っていて、
2つを同時に使って、他にもいくつかいろんなアプリがあるから、
何が一番いいのか、試していっている途中でもあります。
なんかあれだな、最近タイトルから、またちょっと逸脱する感じになるな。
前回のタイパーの対岸だって、結局対岸にいるのか、みたいな。
今思うと、結果論としてのタイパーはあったかもしれないけど、
タイパー目的のために何かやるかとは、
割と難しいなって、喋った後に思ったりとかしてました。
というので、喋ってみると、
あれも違う、これも違う、これはこうだった、みたいなのが、
割とあるのが、自分の中の発見でもあると思っているので、
そういったものに、また今後もお付き合いいただけると幸いです。
それでは今日はこのあたりで終わりにしたいと思います。
またねー
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