【北川八郎 人生を変える出会い】
こんにちは、プロインタビュアーの早川洋平です。
北川八郎人生を変える出会い、この番組はポッドキャストとYouTubeでお届けしています。
チャンネル登録、番組のフォローをよろしくお願いいたします。
ということで先生、今週もよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
5月ということで、連休のあたりかなと思うんですけども。
番組から先月もお知らせさせていただいたんですけども、
長年にわたってサポーターの方を募集させていただいてきて、
皆様の支援のおかげでこの番組を400回以上お届けすることができたんですけども。
何年になるんですかね。
今日で435回なんで、どうしようね。
8年ぐらい。
8年ぐらいですね。
今日続きましたね。
そうなんですよ。
その中でね、もう5年6年ぐらい前からね、
やっぱりこの番組にかかるいろんな経費なんかも含めてなかなか厳しいところがあって、
テイメントでやってきたんですけどサポーターの方に支援いただいてここまでやってきたんですけども、
実はちょっと今ピンチでサポーターの方が少し減ってきていて、
新しいサポーターの方で大募集なんですけど先生からも一言いただけますか。
本当にこの放送が続けられるかどうか今ちょっと議論にかかってるんですね。
だから僕は皆さんサポーターになって経費がかかるので、
収支しないといけないところまで来てるっていうかね。
だからちょっと皆さん是非サポーターになって少し援助してほしいなと思います。
物価高とスタッフの揃えるというやっぱり経費がとてもかかるので、
このまま行くと中止せざるを得ないなというところまで来てるって言いますかね。
でもまあ私たちの問題はお金儲けではなくて、
本当に世の中の人々に不安とそれから恐れとそういう偉大なことを取るいい番組だと思うんですよね。
喜びと生き方、迷う人に道を与えたり、
怒る人にわからないところを教えていく、
なんか安らぎをもたらす方法があれなので、
まあ神が遠慮はしてくれると思うんですけれども、
皆さんの援助も是非、
赤羽君と私たちを助けていただければこの放送が続けられます。
その議論に立っているので是非よろしくお願いします。
ありがとうございます。サポーターの方にはですね、
北川先生の特別なここでしか聞けないお話を音声映像でお届けしています。
最近のテーマはね、無敵に生きる人生見直しの進めだったりもありますけど、
今月末にですね、お届けするお話はまさにね、
先生がずっと長年お話してきた2025年問題ということで、
いよいよ待ったなしの段階になってきてますので、
どんなことを心がければいいのか、そして世界はどう変わっていくのかということをですね、
よりディープにお話しいただいていますので、
是非ですね、このサポーターになっていただく方には、
なんて言うんでしょう、直接ではないんですけど先生ともね、
以前お話ししましたけど番組を一緒に作っていく、
同志、仲間っていうとあれですけど、
でもそういう感じをね、やっぱり味わっていただきたいなというふうに思ってます。
で、もちろんその中でこそ先生に聞ける質問なんかもあると思いますので、
是非ですね、皆さんと一緒に人生を変える出会いを、
これからも楽しくディープに続けていけたらと思っていますので、
概要欄の方から是非サポーターになっていただけたら嬉しいです。
はい、ということで今週ですが5月に入りましたが、
先生、今日は人生のハンディキャップという話。
そうですね。
なんか、結局ウクライナの人たちやアフリカに生まれた人たちだけではなくて、
同じ日本人の中でも様々な裕福な家に生まれたり、
良い両親に生まれてきたり、頭が良かったり、学歴が高い家に生まれたり、
スポーツができる人とできない人と、
すごいみんなハンディキャップがあると思うんですよね。
いい糧に生まれたり、兄弟が仲が悪かったり、良かったりとかいう。
見た目も違うと言いますかね。
やっぱりそのことをよくしていてほしいと思うんですけども、
我々は神様からハンディキャップを与えられていると言いますかね。
でもハンディキャップを持っていない人は一人もいないと思います。
すべて恵まれている人なんていなくて、
みんな何かいくつかのハンディキャップを背負っているということを、
じゃあなぜそんなものを与えられたのかっていうのを、
博也君とここで少しだけ、
こういうような教育を与えられているのはなぜなのか、
どうしたらいいのか、みんなハンディキャップを背負っているということを話し合ってみたいなと思うんですよね。
博也君もだいぶ今まで生きてきて、若い時は大抵そういうハンディキャップの大きさを感じてきたと思うんですよね。
学生とか足の速い人とか勉強できる人とか、
それだけではなくて見た目のかっこいい人とか、そういう意味でも表面的なハンディキャップを感じて、
なぜだろうと思ってきたと思うんですけどね。
本当になぜだろうって、若ければ若い時ほどいろいろ考えたり目の当たりにする機会多くなってきましたけど、
ご質問のお答えお求めにかなうかわかりますけど、
最近はあんまり考えなくなってきたというか、少なくても自分のことは考えなくなってきましたね。
その通りなんですよ。
だからハンディキャップというのはハンディキャップではなくて、平等になれるように努力するために神が作った罠という感じがするんですね。
だから持っていない人はいないので、この穴を埋めることができるのか埋めることができると言いますかね。
みんな別な才能を持っているし、対応性があるから、一つの才能が全てではないというか、一つの用紙が全てではないというか、
見た目も個性として発揮すれば、それこそ逆に魅力があると言いますかね。
それをことに今、おそらく早くはこのまま気づいて、もうハンディキャップを克服しつつあるとは思うんですね。
みんな違っていいんだというかね。
でも若い時とか、特に国家間のハンディキャップってあるなってすごく思いますね。
チベットやウクライナやウイグルに生まれた人たちと、中国に生まれた人たちと、日本に生まれた人たちと、国のどの国に生まれるかというと、大きなハンディキャップがありますよね。
だからそれは何なんだろうというかね。
確かに。個人のところでいけば、特にこの日本に生まれるという時点で、国家のハンディキャップという意味では、やっぱり日本は恵まれているというふうに、
やっぱりそれは自多共に思うと思うんですけど、個人においては先ほど先生とお話しあったように、
そのハンディキャップなるものがあっても、先生おっしゃったように、ポジティブな意味で、それは根性。
もともとスピリチュアルとか僕は勝手な会社ですけど、生まれてくる前はみんな完璧な存在だったけど、この人生を楽しむとか修行のために、
そういうハンディキャップという言葉が適切かわからないですけど、いくつか自分で選んできたので、それを今回宿題、課題で何かやってるのかなと思うんですけど、
ただ今先生お話しあったように、国家観というところでいくと、やっぱりなぜなぜって考えた時に、シンプルですけど、
例えばウクライナだったり、イスラエルとかパレスチナとか、そこの人たちは生まれた時点で、特に今のウクライナとか見てると、
やっぱりこの平和な日本でいる僕のようなさっきの考え方、理想かもしれないけど、とてもそうは思えず、しかも実際どんどん命を落としていくというか、
そこは神はなぜそうしたのかなみたいな、逆に質問になっちゃいますけど。
やっぱりそれを乗り越えて気づくように、すごく与えられていると思うんですね。
そこで乗り越えて気づいて身に染みて、その不公平感を見て、次はそういうことない世界に生きようと思う人たちが、
次の世代のリーダーになれるのだと思うんですね。
だから、はっきり今のハンディキャップ、フェイブマンの意味と、そこで何を成すべきかを学んだら、すごい人物に次はなれると思います。
地球全体の平和のために貢献できる人たちが逆に増えるのではないかな。
高価感の高価感の不公平ですよ、ハンディキャップ。
北朝鮮に生まれて食べるものがなくて、貧富の差と階級の差の中に生まれて、
自由のない大々な人たちに囲まれる生活と、ちょっとわずかな距離の差で、
日本に生まれてこの平和を受け取ってきている人たちの違いは大きいですよね。
本当にこの国はある意味発言は自由だし、
食べるものも着るものも努力次第で得られる環境にありますよね。
ちょっとの方法として生きていられるし、
北朝鮮の人たちの現状をチラチラと見るだけでも、すごいハンディがあるなと思いますよね。
それは何なのかって言ったら、やっぱりそこで何かそれを学んで乗り越えて、
学んだときあなたはすごい、
一つの境地に行ける、この人類を救う何かを得られるためにそこにいるのではないかなっていう感じはするんですよね。
でもその人たちは嫌だと思うでしょうけども、
よく試してみて、この身分の差とハンディを乗り越えるように神は作っているという感じはしますね。
平和を乗り越えて、何かそこにはっきりとした哲学なり方なり、
苦しみの意味を見つけた人はとても強いと思うんですね。
だからその障害を乗り越えるために与えられているというか、
全ての人たちにはハンディがあるんですけども、
ひどいハンディの中に住んでいる、特に高科官のハンディは大きいなと思いますね。
同じ民族の中でもかっこいい人と、世の中に出る人と出ない人と、上下の差がいっぱいあるけれども、
みんな人生のハンディキャーを背負っていて、
今、早貝君が最近は感じないというのはおそらく、
学生時代に感じたハンディキャップを乗り越えたと思うんですね。
みんな学歴の差とか能力の差が違うんだって言いますかね。
そうですね。
それぞれの分野での才能があるんだって言いますかね。
私も早貝君もこうやって喋る能力があるけれども、
喋る能力のない人、絵を描く音楽の人から、
肉体的な労働が得意な人、いろいろな形があると思うんですよね。
だからそれぞれでいいし、その分野で世の中に貢献できるようにして、
そこでのハンディとか苦しみとかハンディとかの意味を悟ったときに、
その人は自由になれるのではないかな。
政治的な、ちょっとスピリチュアルに生きるということも、
学ばされるためにこのハンディを与えられているのかなって思いますね。
今のハンディはほとんどスピリチュアルなハンディではなくて、
現実的なハンディですね。
見た目や人種や国や風土や、アフリカか日本かアメリカかヨーロッパかアジアかっていう、
そういう違いなんですけども、
だからそこに行きながら偏見とかをどういう形かで乗り越えないといけないと言いますかね。
そのためには、神がハンディを与えられているという感じがしますね。
だからこそ今の先生の話を聞くとやっぱり思いましたけど、
本当にハンディっていうところでは、特に国で本当に大変な国にいると、
その度合いはちょっとあれですけど、
でも本質的には先生がおっしゃったようにすべて、
いわゆるハンディキャップっていうのは外部的なというか、
表面的なものだと思うので、
先生がおっしゃったように、
その中でやっぱり大事になっていくのはどんな環境でも、
先生がずっとおっしゃっているスピリチュアルに生きるというか、
そこは環境とかすべて関係なく、
自分の中でどう生きるかっていうのは選択できると思うので、
そういう意味で解釈というか考えが合っているかわかりますけど、
僕は最近ハンディキャップはあまり感じなくなったっていうのは、
決して能力が俺はすごいとか、
何か別になっているわけでは全然なくて、
ある意味、もちろん努力は今後も続けていきたいと思ってますけど、
自分にできること、できないこととか、
結構やっぱりわかってきたように思うので、
その中で何をしていくかっていうところで、
あんまり迷いがなくなった。
それよりもやっぱり先生にこうやって10年近くいろいろ教えていただいて、
やっぱりまだまだですけど、
スピリチュアルに生きることがやっぱり一番、
どんな時代、環境にとっても大事なのかなっていうふうに、
なんか感じさせていただいたので、
あんまりハンディハンディとか考えなくなったってところが正直なところですかね。
もう一つは、分野の違いって言いますかね。
どうしても社会は一つの定義で図ろうとしますよね。
見た目の美しさとか、学歴とか、
肉体的な尺とか、
でもそれは能力の違いっていうよりも、
分野の違いって感じがするんですね。
自分の得意分野、その必要な分野って言いますよね。
絵とか演技とか、
いろんな意味での分野の違いだと思うので、
そこにハンディを感じなくていいというか、
それぞれの分野で能力のある人と、
それぞれの分野で能力を発揮すればいいのではないかなと思いますね。
音楽が優れてる人、数学の能力ができる人、
学校の勉強できる人、
そうではなくて歌うのが上手い人とか走るのが上手い人とか、
社会貢献ができる能力を持っている人とか、いろいろあると思うんですよね。
だからこれは分野の違いで、そこにハンディという考え方をしないで、
つまり競争とか格差とか評価っていうものはあまり考えなくていいんじゃないかな、
そういう世界に行くためにハンディがあるのではないかなと思いますね。
中傷的ですけど、今先生の話にかかってて思ったんですけど、
ハンディキャップって考えてた、自分にできないって考えた時は、
先生がおっしゃったように、その分野の違いっていうのをあまりポジティブに捉えてなくて、
いわゆる絵が得意、おしゃべりが得意っていうそれぞれの箱があった時に、
自分は絵が得意っていう家の中に住んでるのに、
おしゃべりが得意っていう他の人の家の中に入った時に、
おしゃべり得意じゃないじゃないですか。
自分はダメだって思っちゃってたんですけど、
それぞれの得意分野の家が自分とは別だって思ってるから、
ハンディを感じるわけで、それをさらに覆うような一つの東京ドームみたいなところに
みんな家入ってればいいかなみたいな。
ちょっと中傷的ですいません。
もう一つは、ハンディキャップという言葉自体が日本にはなかったと思うんですね。
各社っていう考えたけども、それをハンディとは捉えられなかったっていうか、
逆にハンディと捉えた方がいいと思うんですね。
なんか乗り越えられるものなんだって。
各社だと乗り越えられないですもんね。
言葉だけでも違いますね、確かに。
民族各社っていうのがあると、なかなか乗り越えられないけども、
ハンディキャップっていうのは、なんか乗り越えられるものっていう捉え方できると思う。
だから、そういう意味では、
次の平等に向かって我々が努力するためにこれが与えられてるっていうかね、
競争しないために、競争ではなくて協調と、
それから分野の違いで助け合うということを学ぶために、
このハンディがあるのではないかな、
民族間やそれぞれの時代や、
それを嘆かなくていいんだということを言いたいなと思ったんですよね。
そうですね。
ハンディキャップとか格差っていうと、
いろいろとにかく重たくて、
超えられないみたいに一見思いがちですけど、
なんか非常にフラットに考えられる部分もあるのかなっていうのが、
今日の話に込めましたね。