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このポッドキャスト、まなびのはなしでは、大人のまなびをサポートしている2人が、それぞれ見つけた、考えたことを話したいから話しています。
今日もよろしくお願いします。
お願いします。
今日はですね、認知的多様性、英語で言うとCognitive Diversity、それについて話してみたいなと思いました。
認知的多様性っていうのはね、一人一人の経験の違いとか、教育だったり、いろんな特性の違いであって、その一人一人がどういう違いを持っているかって、そこにフォーカスが当たっているっていう話なんですよね。
そうですね。具体的に、そういういろいろな背景をもとに、どういうことを考える傾向があるかとか、情報をどうプロセスするか、情報を解釈するパターンとか、またはなんか、目の前に課題があった時にどういうアプローチの仕方をする傾向があるか、みたいなところがそもそも多様なんですよ、という前提で、認知的多様性というものがありますという話なんですよね。
それのお話をちょっとしてみたいなと思った背景の一つとしては、文化的背景に特にフォーカスした質問をですね、よく学びのデザインをしている文脈の時に聞かれたりするんですよね。
例えば、コーチングの勉強をしている方に、日本人の部下にはこういうのをやる練習できたんですけど、日本人じゃない人が相手だった場合、文化的な違いとかを配慮して何を変えたらいいですかとか、変える必要ありますかという質問があったり、あとは習語研修を日本人チームにデリバリーした後に人事の担当の方に、これ海外のオフィスのメンバーにやりたいんですけど、
それってできますかね?みたいな、これ同じで大丈夫なんでしょうか?みたいなそういう質問をされるんですよね。文化的に何か違うときっと学びの体験が違うんだろうなと思ってらっしゃる方が多いんだろうなと思っていたので、文化的なことにとらわれず、えみさんと広めに話してみたいなと思ったというのがあります。
なるほど。今のトモコさんがおっしゃった文脈っていうのは、日本と外国みたいなね、いわゆる異文化理解の話なんだけれど、それではなくて、例えば日本人の中でもいろんな違いがあるよねっていうことですかね?
そうですね。そういうところにも多様性ってあると思うので、さっきのその例えば部下に対するコーチングを日本人向けに学んだ人が外国人向けにすると急にモードが変わるのではなくて、同じ日本人の部下の中にも多分いろんな人がいて、一人一人に合わせてアプローチをするのと同じように日本じゃない人に対してもするっていうベースは変わらないと思うっていう話をしたんですけれども、
学びの文脈での多様性って、ジェンダーとか国籍とか年齢とか結構外から見えやすいもの以上に隠れていることが多いじゃないですか。結構学びをデザインしたり届けたりしている中で、パクタールなって私は思うんですよね。
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アミさんもね、マンツーマンでやってるからなおさら多分、多様性どころか一人一人が違うみたいなデータメートだと思うので、多様性ってあんまり考えてないのかもしれないんですけど。
そうなんですよね。私の場合一人一人を見ているので、多様も減ったくれもないっていうか、そもそもみんな違う。なのでくくる必要もないし、くくりようがないっていうのが実際のところですね。
実際、クライアントさんを一人一人に持った20人とかをちょっと引いてみて、メタで振り返ったときは、いくつかの軸で多様性を意識することってあるんじゃないかなとちょっと思うんですけど、
極端な話、例えば言葉が多い、話すのが多い人とゆっくり丁寧に話す人っていうだけでもちょっと多様性ってあるような気がしていて、この軸で見てこの20人はこういろいろだったなぁみたいなのってなんかあるんですか?
今ね、ちょうどある大学の依頼で大学生どんどんセッションやってるんですね。
そうなんですね、マンツーマンね。
マンツーマンで40人ぐらい連続でセッションやってるんです。
どうですか、超贅沢ですね、その学生。
いやいや、私も贅沢な体験なんですけどね。
だから同じ大学のある同じコースを取っている40人をどんどんどんどん一人一人会っていくんですけど、
でも皆さんそれぞれ違っていて、今トモコさんに言われて考えているんですけど、
あんまりそれを後からこういうタイプみたいな風に分類したりはしないですね。
なんか学習者本人が、例えば自分は日本人だからこういうやり方が合ってますよねとか、
英語学習といえばまず単語を覚えるですよねみたいな風に、自分をくくってるなっていう感じがすることはあります。
なるほどなるほど。
どういうとこから来てるんですかね、そういう語学学習の中でいくつかある多様性の可能性の中の一つの箱に自分を
入れちゃう。
箱としてでも置いてるわけじゃないですか。
どういう風なところでそれは起きていて、かつそれをすることで本人にはどういう影響があるんだろうかと思います。
分からないですが、おそらく彼らにとって一番最近で大きい体験っていうのは受験に成功したことだと思うので、
受験に成功するパターンっていくつかしかないじゃないですか。
単語をたくさん覚えているとかが成功につながったっていうのを実際に知っているので、
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その先の英語学習にもそれを応用しようっていうまだそういう段階で自分が何者かとか学び方がどうだっていうのは無視して、
確率的にこう何かやっていってうまくいったっていう方が彼らの中ではまだ記憶として新しいんだろうなという推測です。
学部生の時もね。
そうです。
まだ10代。
20歳前後の人たちですね。
なるほど。
それを聞いてて思ったのは、私がたまに接する40代、50代の方も必ずしも長く生きているからといって、
自分オリジナルの過去っていうんですかね。
自分はこうっていうふうに、その意識するタイミングがあんまりいなくて、見つけられないわけじゃ全くないと思うんですけど、
スキル的には考えたら見出せるスキルを持っている人ばかりだと思うんですけど、
そういうのをやる機会がなかった人多いだろうなって思っていて、
語学学習ではそんなにあまり多様性の軸っていうね、決まった軸がないんだなって聞いてて思ったんですけど、
結構組織の中である程度の期待役割があって、目標を達成しなきゃいけないみたいな結構決まった場所にいるリーダーシップとかマネジメントの文脈だと、
いくつか頻度の高く考えられる軸っていうのが例えばあって、リーダーシップを発揮するときに先頭を走るタイプなのか、
周りの人をサーバントリーダーシップみたいな形で立てて、けど実はリーダーシップを発揮しているみたいなタイプの人もいれば、
部下に厳しいフィードバックをしなきゃいけないときに、ちゃんと相手のためを思ってサクッと言える人と、
どうしても厳しいことを言うのを回避している傾向のある人とか、
あとメールの一つでも、メールを送るときに一行でサクッと送るような上司もいれば、
2パラグラフぐらい長くコンテクストにくっつけてコミュニケーションする人もいるなど、
いくつか軸があるなってちょっと聞いてて思ったので、
それを勝手に語学学習でもあるのかなって期待していた自分がいたんだなというふうに思いました。
いや、それは本当にその通りだと思います。
どういうふうに言語を使うかっていうのは本当に人それぞれなので、
間違いを恐れずバンバン知らない人にでも話しかけていける人から、
人見知りで慎重な人だったり、学び方としても聞きながらどんどん吸い込んでいく人がいたり、
読みながら、調べながらの方が着実に覚えていけるとか、
いろんなタイプがあるはずなんですよね。
先ほどの例は20歳前後の若者、大学生でしたけど、
本当大人の方たちでも、かむこさんおっしゃった通り、
枠なんてないんだよ、自分は自分なんだよって気づくきっかけがなければ、
そのまま大人には別に慣れてしまうっていうのは、
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確かに私も実際お会いして思うことありますね。
カテゴリーって便利ですからね、いろいろ。
一回カテゴリーをすると、コミュニケーションがしやすくなるときもあるじゃないですか。
だから、自分も時々やってしまうなとは思うんですけど、
主語が大きくなる問題ってあるじゃないですか。
日本はとか、アメリカは、みたいな。
人は。
あながち間違ってないときもあるんだけど、
やっぱり注意書きが結構ないと使っちゃいけないようなフレーズって、
多いと思うんですよね。
仮説を立てるために、例えば学習者もそうだし、
同僚で一緒に働いてる相手もそうだけれども、
結局一人一人違うという前提で働くときに、
出発点として、自分とどのぐらい何が離れてるんだろうな、
みたいなのを手探りでキャッチしないと、
学習者とティーチャーの関係性も、
上司と部下とか同僚の関係性も、
物事を前に進めにくいなと私は思っていて、
仮説を立てる出発点として、
例えばさっき言っていた、その人がやってきた経験とか、
成功体験もそうですけど、
どういう国とかで育ってきたとか、
どういう教育を受けていたかっていう情報は、
レンジを仮説を考える上では、
参考になるなって思うことも私はあるんですね。
例えばですけど、東京で生まれ育って東京の会社で働いている人に、
ニューヨークで出会うときと、
同じ地区内に小学校が1個しかありませんみたいな、
都市部ではない地域のところで日本で生まれ育って、
ずっと大人になるまでそこで過ごした人に、
ニューヨークで会うときって、
自分の中で多分少し仮説のレンジっていうのが生まれる。
この人がギリギリなんですけど、
思い込みを落ち着けちゃいけないし、
だけれども自分は東京で育っている人だから、
自分が盲点となっているものが絶対あるはずって思うために、
相手のレンジを考える参考になるんですよね。
ないですか、そういうのは。
ないですね。
考えたことがなかったなと思って。
そうなんですね。私、なんでやってるんだろう、それ。
例えばパキスタンの首都からニューヨークに、
大学でやってきた同世代の友達に会うときに、
その人が生まれ育ったときの環境の、
一般的な社会のスタイル、その国での。
彼女はそうじゃないかもしれないけれども、
彼女が見聞きしていた世界って、
多分アメリカのニューヨークの私立の学校に行っていた
白人のことは違うだろうなっていう仮説があって、
それを体験しつつ、今ここにいる彼女みたいなものを、
ちょっとおぼろげに、なんとなく妄想しながら、
彼女がやっていることを聞くとか、
彼女が感じていることに対して思いを馳せるみたいなこと、
多分私はすることが多いんですよね。
もちろん外れるときもありますよ。
あ、彼女はタキスタン出身だと思ってたけど、
結構若い頃にドバイのインターナショナルスクールに
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行ってたんだなみたいなことが、
途中で情報としてキャッチできると、
完全に私の仮説は上書きされるわけなんですけど、
けど、なんかそういうことを私はするときに、
多分軸っていうんですかね、
いろんな軸を意識するかもしれない。
いや、今思い出したんですけどね。
私はアメリカに行って、
一番最初の学期の最初の週に、
コミュニケーションの、
それ多分言語と文化みたいなタイトルの、
20人ぐらいのディスカッションだけをするクラスで、
そこでテーマがなんかステレオタイプだったんですね。
そうそう、そういうのありますよね。
オリエンテーションがとき高いね。
で、ステレオタイプの話をみんながしていて、
すごく活発に、
こういう出身の人はこういう傾向があるから、
こういうふうに接するようにしているみたいな、
そういう経験談とかを語られていたときに、
ディスカッションの形式にも慣れていない、
アメリカ人たちが勢いよく話している英語にも慣れていない、
さらに私にとってはステレオタイプっていうのも、
理解できていないっていうので、
すごくこっついていけなかったんですね。
それで、教授のオフィスアワーにオフィスに行って、
私にはステレオタイプで語れることが何もないっていう、
相談をしに行った記憶が今、よみがえってきました。
なるほど。そしたら教授はなんて?
多くの人がステレオタイプのようなものを持っていて、
それを便利に使っているっていうことは、
君は知っておいたほうがいいよって言われました。
あー、なるほどね。
で、今ね、トモコさんおっしゃった通り、
違っていたら修正するっていう準備をしておけば、
ステレオタイプも悪いものではないって言われた記憶があります。
なるほど、なるほど。
私もどこでそういうのを学んだのかあんまり記憶がなくて、
多分日本で働いてた時はそんなに意識してなかった気がするんですよね。
多分、前職のNPOとかですごく相手のことを一人一人を見ましょうとか、
話に耳を傾けましょうみたいなのを多分、
すごくカルチャーとして強い組織だったので、
それで自分が無意識のうちに相手を傷つけていることについて考えたりとか、
その文脈でステレオタイプとか出てくるんですけど、
出てきたことは結構影響してるのかもなと今話を聞きながら思って、
大学院で学んだ記憶は全くないのでね。
いやー、もうだから大学院の最初にみんながあれだけ活発に話せたということは、
それ以前に彼らはそういう経験なり、自然に培っているものがあって、
それをもうすでに持っていたんだと思うんですけど、
私はそこまでの人生で自分がステレオタイプで考えた経験がなかったと思うんですけど、
うーん、なるほどな。
でもそういう分類があると便利だっていうのは本当そうだと思います。
脳的にはエネルギーが省けるし、
たぶん私みたいに、もしかしたら教授の授業に参加してた他の学生みたいに、
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急いでる人が身につける手段なのかもしれないですよね。
早くチャチャと処理をするための仮説を立てなきゃ、チャチャチャチャみたいな。
本当に仮説を立てずに、もうそのままエミさんのようにありのままを、
それがエマージング、出現するまでゆっくり待って、
なるほどってキャッチするっていうのは理想な気がするんですよね、
人に対する精神。だってチャカチャカするじゃないですか、私みたいに。
自分とここが違うかもしれないとか、
いろいろ無意識から多分思っているぐらいチャチャチャチャしてて、
情報が出てくるたびにチャチャチャチャと呼吸器してたら、
なんかね、ちょっと無駄なことに頭使ってるんじゃないかなっていう気も。
いやー、そうか、速度の違いか。確かになー、遅いんだなー。
あとは速度もそうですけど、さっきおっしゃった成功体験じゃないですけど、
脳ってどんどんどんどんフィルターが発達するじゃないですか、我々。
だから考えなくても結論にスキップするように脳がどんどんやっぱり
適応してしまうっていうものがたまたま自分と違う人のことを
ジャッジするところに活用されるときもあるんだろうなっていう、
脳の仕組み的にそれがオンになりやすいっていうのもあるんじゃないかなとは思いますよね。
でもまあね、身を守るためとかそういう意味でもね、
過去の経験をフィルター化するっていうのはとても大事な機能ですからね。
あとさっきトモコさんがおっしゃったマイクロアグレッションみたいなものだって、
別に一人一人を見てても知らずに傷つけてしまうことっていうのは防げないことでもあるので、
まあそうですよね、防げないことが多いですよね。
必ずしもそのくくらないことだけがいいわけでもないとは思いますね。
やっぱりマンツーマンで学びを届けるか集団でやるかの間違いも大きいとは思いますよね。
いやでも世界的にも日本の中でもなんかこう多様の決めがだんだん細かくなってきている気はするので、
それは全体の傾向としては良いなという気がしていますね。
その流れで言いたいなと思ったのは、そうやってだんだん決め細やかに存在するんだってことが認識され始めた社会だからこそ、
キュークプだみたいな、特に若い世代ですよね。
上の世代がそうじゃなかった時代からちょっと学ばなきゃいけないとなるのと、
生まれ育った時からジェンダーのことだったり、障害の話であったりとか、性的資本の話とか、
とりあえずすごくいろんな切り口で、認知とかに限らずね、
多様性を配慮してクラスメイトと一緒にプロジェクトをしなきゃいけないとか、
そういうことでちょっと気を使いすぎて疲れてるみたいな若い世代はいるなという感じがアメリカではしていて、
それもアメリカって守護も大きいんですけど、
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多様性の網が細かくなったら苦しくなる人が増えるのかなっていう話と、
気にしない人の方が世の中の大半だとまだ思うので。
そうか。窮屈っていうのは面白い表現ですね。
なんかその優しさとか思いやりが自分を苦しくさせてしまうことがあるっていうことですかね。
人によってもちろんそれもあると思いますし、
自分が鈍感であるというふうに見られたくないみたいな自分の防衛も多分あると思うんですよね。
完全にこれは仮説ですけど、いろんな理由で窮屈だって思ってる人がいる。
普通に面倒くさくてやりたくないっていう人もいるだろうし、
気をつけないで何か発言とか行動をして、他の人にあいつはダイバーシティに鈍感だと言われたくないっていう人もいるし、
あの人たちのことも考えなきゃ、この人たちのことも考えなきゃって思って疲れちゃうっていう優しい人もいると思うので、
いろんな理由があるんじゃないかなとは思うんですけど、
やっぱり社会の空気がちょっと変われば変わるほど人間に求められるとか、
人間の認知で起きることとか行動が影響されるっていう話なのかな、
多様性が見えるかはみたいな思ったりはしてます。
なるほどね。なんかその敏感さ、鈍感さもいろんな人がいてくれないと対応が成立しないですけどね。
鈍感な人は絶対生き抜けると思う。
必要ですよね。なんか変えなくてもいい。
なんか私がその多様性について思うのは、
多様性っていうものを考えるときに、なんか人間を工業製品みたいに思うのかなっていう気がするんですよね。
例えば色鉛筆だったら、全部赤とか全部青じゃなくていろんな色を揃えましょうみたいな、
そういう意味での多様性の話をしている気がして、
それは全部赤とかよりはいろんな色の方が多様ではあるけれど、
そもそも色鉛筆って同じものを揃えてしまうことができるので、
これもう人間に当てはまらないことだよねって思うんですよね。
人間って自然の産物だから、一個一個絶対違うので、
逆に一様な組織っていうものを作ることが不可能だっていう違和感として感じるんですよね。
そういう意味では会社っていう組織体が工業革命の時の産物であって、
それに最適化された学校の仕組みとか、
生徒は何歳になったらこの勉強をしなきゃいけないみたいな、
学位的な鉛筆を尖らせるレールが決まっててみたいなのが、
あったことが全然まだ残ってるんだろうなっていう気がしてて、
ふみさんが考える人間は、
つい先日うちの子がイースターエッグのハンティングに行ったんですね。
卵がたくさんあって、中にいろいろ入っている。
みんなおもちゃを詰めた卵をレイキャーに持って行ったんですよね。
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そしたら持って帰ってきた子供のやつを見たら、
エッグのサイズもバラバラ。
エッグの中にいろいろ入れているのが、本当に多様で、
シールが入っている人もいれば、折り紙みたいなのが入っている。
粒が入っている人もいれば、グミみたいなのが入っている。
伸びるやつ、びょーんって伸びるやつとか、
本当にいろいろあって、ああいうことなんだろうなという風に聞いてて、
本当に放っておけば多様なんですよね。
そういう人たちが会社っていう組織で生産活動をするみたいなところに、
今後どうなるかですね。
それが変わらないと多分、それのゴールを目指す教育の一部も変わらないというか、
働くっていうところがもっとイースターエッグがたくさん活躍できるのがベースの社会になると、
もうちょっと違う価値観がメインになるとかなんだろうな、みたいなことを思ったりしますね。
もちろん会社にいる自分と、それ以外の自分というものを分けて役割を果たしていくっていうやり方も、
あるとは思いますけどね。
なんかあんまり空気読んで周りに合わせてっていうのが習慣化しすぎると、
本来持ってるはずの多様性が失われて、
誰かみたいなコピーロボットみたいな自分にだんだんなっていっちゃうんじゃないかなっていう気が。
そうですよね。中身がわかんなくなっちゃったりもしそうですよね。
だから本当ね、そういうのを取っ払って自然にしとけば、勝手に多様になっていくと思いますね。
多様っていう単語がなくなるんでしょうね、そういう世界になったら。
普通の状態です、それがね。
ただあるっていう風になるんだろうなと思いますね。
そんな感じで。
今日は、もともとは認知的な多様性の話だったんですけど、
そこから大きくいろんな話に行きましたが、
つながってるからね、学ぶって。
何か、えみさん、印象に残ったことはありますか?
いやー、なんかやっぱりステレオタイプって、
久しぶりにこのコンセプトに再開したなっていう感じがしました。
確かに、そうですね。
私もその、えみさんのその時の反応が、一番想定外の展開になりそうだった。
え?みたいになったっていうのが、一番印象に残ってますかね。
いやー、面白かった。
そうですね。
今日は、認知的多様性について話しました。
まなびの話は、毎週配信予定です。
それではまた、次回。