思考の喫茶店へようこそ。
ここは、店長のつじり犬と愉快な仲間たちが、お客様と一緒に自分の思考を深めていく喫茶店です。
いらっしゃいませ。店長のつじりです。
従業員のうたです。
従業員のまりまりきです。
アルバイターののりこです。
今日はこの4人でおしゃべりしていきます。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
何が正しいかみたいな話とか、何を信じるのかみたいな時にさ、
確かに今まで過ごしてきた自分の時間を信じてるわけやけど、
今度、次世代の自分の子供の時間を重ねてみるとさ、またちょっと見方が変わるというか、
自分が過ごしてきた時間っていうのは、親とか近い家族とか近いものの環境に与えられた自分の信じるっていうのがめっちゃあるよなって思ってて、
まりまりちゃんが言う直感イコールひらめきみたいなものって、私は今までの経験から来るものが直感です。
そういう直感ももちろんあるけど、子供にもだって直感はあるやん。
ちっちゃい子がさ、なんでそんな遊び方すんの?みたいな大人が思いつかないような遊び方を始めたりとか、
どこからそんなアイディアが来たんですか?みたいなものって見てるとあって、
それは経験からでは多分なくて、本当にひらめきみたいなものがあってさ。
だからそういう直感ももちろんあるんやけれども、そこに解釈を与えるのは、子供に対しては、子供同士でいいねってなることももちろんあるんやけれども、
やっぱり周りにいる大人が、それはいい、ダメ、やっちゃダメ、これはやってもいい、みたいなそういう解釈を大人が与えて積み重ねているものがめっちゃあるよな。
それが全て聞いてくれるわけではないんだけれどもね、って最近は思うんやけれども。
だから言ったところで、結局最終的な判断を本人もしている。
本人もそれはそうかって腹落ちしたから受け入れてるところももちろんあると思うんやけれども、
そういうことを考え始めると、信じることに対して信じられなくなってくるというか。
でももう起こってしまった過去なので、自分の場合、自分のそれの場合はもう戻せないし、
今から思い出すたびに解釈を自分の中でし直す、みたいなことはできる。
子どもがやっていることを通して思い出しながら、そういう解釈のし直し、みたいなことをすることはあるかなとも思うんやけれども、
自分が今まで過ごしてきた時間、世界、みたいなものが正しさみたいなふうに思ってしまうと、
やっぱり私は正しいのか?みたいなのしか思えないからさ、信じられないというか。
今の自分、その時の私は確かに存在したけど、今の自分から見てそれは正しいのか?みたいなのってまだ違う話で、
そういうふうに考え始めると、過去ですらも信じられないわけじゃないな。
過去の自分、過去の私、これまでの私をそのまま解釈し直さずにそのまま出すことができないから、
じゃあ一回解釈して、し直してから出そうって思っていると、タイムラグが生じてしまって、
直感ですら信じられない、みたいなものになってきたりとかするな、みたいな話。
直感女がどっか行ったけども。
直感女がどっか行きましたけど。
直感女、一回待ちます?
いや、まあ。
ちょっとだけ話しとくか。
喋ってますか?
たぶんここの3人の直感は基本的にその実績ベースなんだよね。
経験値、実績ベース、時間とか。
過去を再解釈しながらっていうのは、そりゃそう。
それが過去にやったこと、事実がたぶんそれが本当に正しいかどうかは後にしかわかんないからね。
そうしてると、あなたは自分のことも信じられないんですねって自分に言ってしまうっていう。
そういうことの方が多いけど、過去にやった過ちを認めたくなくて再解釈っていうか、さらに歪める人もいるよね。
俺はあの時正しかったんだっていうのを貫いた人みたいなね。
その辺の信じる信じないみたいな、何を信じるかの差。
そこの差は本能的というか、自分を守る力が先行するか、
それよりも自分の非を認めて他者と融合するみたいな。
辻褄を合わせるじゃないけど、そっちを優先するかみたいな。
そういう本能的なところがあってからの、みたいなのはありそうとは思ってるけれども。
あとまあ、実績訓練とかって言ったけど、
単純、信じるっていうか、難しい。
これはもうちょっとスピーの話なのかもしれないんだけど、
人って多分昔の人とか古代の人がどれだけ、全員が全員文字が読めたわけじゃないし、
科学者も考古学者も哲学者もそんなに有名な人はいたけども、全員が全員そういうわけじゃなかったっていう時代とかさ、
紀元前とかに遡ればさ。
例えば、何月何日、この時に太陽がこう昇った時に、川が大洪水するっていうのを発見したけど、
それをみんなに理論立てて説明しても、なかなかみんなが納得しないとか、理解してくれない時に、
何を使ったかって、物語を作ったんだよね、人は。
で、この建物のこの穴に火が入る。
ここに火がちょうど差し込む時に、神様が怒るとかね、川の神様が怒って川が氾濫するから、
その頃になる時には逃げましょうみたいなのとかっていう、物語、何かしらのそういう神様が怒ったら泣いたら、
そういうお話をつけることでみんなが共感するみたいなのとか、
事実とは異なるんだけども、そういう物語の方がみんなが受け入れてくれたから、
そういうお話を作って信じさせるみたいな習慣づけていくみたいなのがあったとか。
お、部屋が変わった。
おかえり。
ただいま。
っていうのがあるから、
イエス様が死んでから何日後に復活したとか、
ブッダが生まれた瞬間に天上天下有為属存とか言ったとか、
ウサギが焚火に飛び込んだとか、
いろんなお話がいろんな神話の中にあるけども、
そっちの方がみんな信じてくれやすいからっていう。
でも実際はそれは本当は何かしらの意味が込められているものなんじゃないかなっていうのは思ってる。
それがどんどん拡大解釈されたりねじ曲がったりしながらさ、
いろいろいろんなところに分析していっちゃったとか、
昔のこととはちょっと違うかもしれないけど、
そういう歴史があったからなんじゃないかなっていうのはある。
そうね。物語を作って、
その方が覚えやすいとかさ、記憶に残るとか、
そういう脳の特性を使って、
ハックして物事を広めたりとか、
信じさせたりとかするのって人間の特性なのかしらって思うんやけれども、
自分は物語を楽しむものとしては好きなんやけれども、
現実世界の物語性みたいなものにあまり共感しきれない側で、
そこも事実ベースみたいな、
生物学的な観点からいうと、
解釈、ただの結果論ではみたいに思ってしまうタイプやからさ、
あまり人間の物語性みたいなものにもあまり共感しないんやけど、
ただそういうムーブメント、人間としての動きみたいなものがあるのはそうなんだろうね。
確かに文字がなかったら何で伝えるのか、みたいなのを考えてみると、
物語っていうのはすごく有効だし、
歌とか、歌の中に教えとか物語とかがあって、
ただの言葉の羅列よりも歌にする方が伝わるとか、
そういうことなんかなって思ったりもするから、
っていうのをニュージーランドの先住民族、マオリ族っていうのは文字を持たない人たち、
全部口頭で伝えてきた人たちで、
結構歌がすごくたくさんあって、
それは民族で共有しているというよりは部族ごとに違うみたいな、
そういうのを知ることで、
確かに文字ないと歌があった方がいいよな、みたいな。
そういうとこに自分たちの部族が暮らす川とか山とかの話とか名前とかが出てきて、
そうやって伝えてきたんやね、みたいなのを実感。
ここに現場に来て実感することで、
その辺にちょっとこう、あ、そっかってなるっていう。
逆に言えば日本で、今の日本で学校に通って勉強ちゃんとしてたら、
逆に物語性みたいなものには私は共感しないままここまで来たんやけれども、
私でもやっぱりそうやって暮らしてきた人たちの習わしとか文化とかに触れることで、
あ、そっか、そういうこともあるか、みたいな。
認めざるを得ない、みたいな。
信じざるを得ない、みたいな感じになってるから。
だからそういう、自分が移動して違う文化に触れたことで、
その信じるっていうことをもう一回解釈し直したいな、みたいなのもあって。
信じるってなんすかっていう話を今日は振ったわけなんやけれども、
なんか、そうね。
誰もさ、人とかって言わないのがすごいなって思いながら聞いててさ。
人ね。
人は信じられないっしょ。一番。
人なんてさ、信じるもんじゃないっしょね。
信じるものじゃない。
でも、最近ちょっとね、短いショート動画を見てたら、
どっかの部活動のコーチ、小学生とかのそういう団体の部活動のコーチが、
人に嘘をついちゃいけない理由っていうのを子供たちに説いてて、
人の心にはもともと純粋で疑う心を知らない。
人は誰しも信じる力を持っているのが最初の状態だっていう。
なんだけど、そこに自分が嘘をつくっていうことは、
その人に疑うっていう気持ちを植え付けてしまうっていう、その先。
ピュアな状態とか純粋な気持ちをその人から奪い取ってしまうっていうことなんだって。
自分が嘘をつくっていうのは、そうやって相手を傷つけて、
純粋な気持ちを奪ってしまう行為であって、絶対にしちゃいけないんだっていうのを説いてたのね。
なるほどなーって思った。
だから信じるっていうのは、疑う、逆に言うと疑わないっていうことじゃん。
そうだね。
そうか。でも確かに人に裏切られるみたいなのって、
人を疑うのって結構確かに人間として結構辛い部分というかさ、
なんか裏切り、ピュアな気持ちを裏切られるっていうのは生きてりゃあるわけで、
これでいけるって思ったらいけんかったみたいな。
自分の行動一つにとってもさ、なんなら赤ちゃんの寝返りだってさ、
いけるって本人はやってるけど全然うまくいかんわけやん。
うまくいかんくて、でもずっとやり続けてる、この信じてる状態で続けるからこそできたみたいなのがあるけれども、
でも実際うまくやっぱできんかったーって泣き始めたりするわけやん。
生きてりゃそういうのはあるんやけれども、
自分の中だけで解釈してんだらね。
自分のできたできないとかだけじゃなくて、人から嘘を言われるとか裏切られるみたいなもので、
同じ期待を裏切られるみたいなののハードルが一個上がる。
だからそもそも人間のベースは、信じるじゃないのがゼロベースであって、
信じるっていう言葉の裏には、信じられないとか疑うっていうのが出てきてしまった状態みたいな。
あなたは何を疑ってますか?みたいな。何を信じてますか?の同じ意味で、あなたは何を疑ってるんですか?っていう感じ。
あーなるほどねー。
信じると行動はセットだな、そう考えると。
信じると行動はセットだから、人にそれを求めてしまうと行動するしないなんてさ、それはもうコントロールできるわけじゃないから。
言ってることとやってることが違う人とかさ、そういうことじゃん。
そうそうそうそう。だからそこに人に対して信じるっていうのは、私の中ではなくてっていう。
だからそれを別にその人を否定してるとか疑いっていうよりも、信じると行動はセットだから、それができるのは自分自身だけだよねみたいな感じ。
やればね。
まあやるもやらないもみたいな。
その決定権は自分にしかないっていう感じ。
それを相手に信じたことで、それをするわけがないんだから、それでがっかりするのも違うしって感じ。
あれ?あれ?何の話?
人?
いやーまあそうね。
人が出てきたもんだからさ。
ちょっと誰も人を信じてないってことでよろしいですかね?
人って主語クソデカじゃないですか。
まあまあ、そうね。だからなんか、そうね。
他人。
他人?
他人?
まあ誰でもいいんやけど。
時と場合によるっていうか、その人の実績による。
どれだけその人が、嘘をつかないできたかっていう話だよね。
嘘をつかれとしても、それも込みでその人を信じる。
信じるって言わんのかなもう。
何をその人の。
認めるというかさ。
その人の何を信じるかによるんじゃないかな。
信じるかよくわからん。
この前回の話で、信頼と信用の違いみたいな話ちょっとしたじゃん。
信用っていうのはその人のやっぱり実績ベースなんだよね。
信用銀行。その信用っていうのは、あなたこれだけお金持ってるから担保できますよっていうのが信用。
その人がどれだけ仕事ができる人だからこの仕事任せてもいいなとかね。
っていうのが信用。
信頼はその人の実績とか行動とかの価値じゃなくて、その人そのものの存在価値みたいな。
が信頼。
実績とかそういうものがなくても信じられるっていうのは信頼。
長く付き合ってるとかね。
その人の損得とかじゃなくて、どれだけっていうのが信頼かなと思ってて。
友達とか他人であっても、何をその友達について信じられるかみたいなとかね。
集合時間にはこいつ絶対来ねっていうのは信じてはいないけどみたいな。
だけどまあ友達だしなみたいな。
そういうのもあるしね。
なんかそれってその人を信頼してるっていうより、その人を思う自分の気持ちを
うたたみたいなこと言ってるな。
信じてるみたいな感じ。
うたきょがインプットされてきた。
うたきょようこそ。
そういう考え方なんじゃない?
そうなんやね。
結局、それぐらいの距離感の方がさ、人間関係としてはむしろいいのかなと思うし。
これがさ、こじらせたりすると妄心的に信じてるとかさ。
逆に相手に期待しすぎちゃって、あんたのこと信じてたのにみたいな。
振り回されるよね、自分が。
こうであってほしいっていう願望みたいなのが信頼になっちゃうと怖いよね。
それがこうあるべきに変わっちゃうからね、そのうち。
怖いよね。
妄心だよね、それは。
なんかそれもさ、だからその人を、それもその人を信じてるというよりは
こうあるべきみたいな、自分のその考えを妄心してるみたいな感じだよね。
だからやっぱり自分なのに。
全部自分じゃないか。
おっと帰ってきた、帰ってきたぞ。
そうだよね、結局自分の相手の印象もさ、自分が見たこの印象を信じてるからそういうことが起きちゃうんでしょ?
全部自分に帰ってきた、ほら。
あー帰ってくる、すごい。
でもさ、やっぱそれってさ、やっぱなんか自分がそうやって信じてる。
だけどさ、今話しててやべえやつってわかるじゃん、周りから見たら。
だからやっぱ自分のことは信じちゃいけないんじゃないかって。
あら、転がっていくな。
これはカウンターかもしれない。
のりこの心情に転がっていった。
でものりこは、
やっぱ危ないよね、それって。
自分にも盲目的になっちゃいけないってこと?
やばい自分を疑うっていう、疑ってる自分を信じてるんでしょ。
だからどっちもだよね。表裏一体でさ、どっちも大事なんだわ、やっぱね。
信じる心と疑う心と、自分に対して。
のりこはパラドックスできてる。
やばいと思って、自分やばいと思って、自分を信じちゃいけないって思ってる自分を信じてるんだよね、のりこ。
でもまあなんかそれは、なんかわかるかもしれない。
でもやっぱ最終的には自分を信じてるね。
自分のその疑うっていう。
いろんな捉え方してるけど、みんな結局は自分を信じて、それをしてるってことね。
すごいわ。
面白いな。
え、じゃあもう、やっぱり信じるものは自分だけ、信じられるものは自分だけみたいな。
信じるべきものは自分。
いやー、だけどさ、それ難しいのがさ、自分に担保がないんだよね、信用が。
そうそうそうそう。
ないねー。
信頼を、信頼できたとしても信用がないんだよな、マジで。貯金ゼロみたいな。
だからさ、のりこは貯金のない自分を信じてればいい。
やばいなー。
いくらでも重ねてこれないね、やっぱり。
なに、未来への投資ってこと?じゃあ。
そう、貯金がなくて信じられない自分を信じていればいい。
なんか変なものがこっからかわされてるんじゃないかっていう。
なんかさ、もう今、生きてるだけで信用に値するんやと自分では思っていて。
いやー、でもそれ、ああ、あの自己肯定感ってやつじゃないですか?
なんか、その、まあちょっと、ちょっともうその言葉あんまり言われなくなってきたような気もするけど、なんかその、だから、なんていうのかな。
もう、死んでないやん。死んでないし、今生きてるし、こうやって笑って喋れてるってことはさ、それなりに不幸でもなくて、いやもうそれで良くないって思ってる。
もうそれが。
極端な幸福論だな。
自分、だから、自分を信用するためには十分な担保みたいな。
なるほどね。
そうそう。だけ飲んでる暇があるってことは、そう。
ゼロには欠けられないけど1はあるでしょみたいな感じ?
0.5ぐらい。
はい、いるから、いるから。ゼロではないよね、みたいなところでね。
そうそうそうそう。っていうのはあるかもな。いいんじゃない?それでも。
なるほど。
なんかそうね、なんか自分に、自分を信じてはいないんやけれども、やっぱりその、なんか、なんやかんやここまでやってきたしな自分、ぐらいの感情はあってさ。
まあそれを自己肯定感って言えばそうなのかもしれないけど、そんな大層なものでもないというかさ。
肯定っていう言葉がでかいのかな。
なんか肯定って言うほどポジティブに捉えてませんけど、みたいな。
成功体験の積み重ねまでいかないんだが、なんて言ったらいいんだろうね、そういう穏やかな感じ。
だからプラマイゼロみたいなさ、なんか自己肯定感って言うと、なんかプラス、なんか肯定するって言われるとどうしてもプラスに捉えるみたいな感じになるけど、あくまでプラマイゼロの状態で、ここまでこうしてきたし
ね、ぐらいの感じで受け入れてるみたいなぐらいの、これを自信と呼べばそうなのかもしれないがぐらいの感じではあるよね。
じゃないと多分、それぐらいの自信がないと、こうやって人と自分の考えをしゃべることってなかなかできないのでは?って思ったりもする。
なんかそこに、だから自分がこれを言ってもいいっていう信じる心がないとさ、信用なのかな。実績ベースなのかもしれないけれども。
なんか発言ってできなくない?って思う。
自分の、仕事でもないのに自分の考えを述べるっていうのはさ、どうしてもさっきあったことをしゃべりたいとかは衝動に近くてあるかもしれないけど、自分の考えをこうやって巡らせて打ち明けるって結構な負荷がかか
ってると思うんだよね、頭に。
で、しかもそれを言ったからって、そうだよねって受け入れてくれるっていう保証があるわけでもないし、なんだろ、バンバン反論飛んでくるし、みたいなのをさ、なんかそういうのもやっぱこう、信用も信頼も多分両
方ありつつの、この場みたいなものも、最近全部私ここに持ってくるの。
すべての道は喫茶店に通ず。
すごい。
やべ、すごい。これ新しい宗教かもしれない。
ここに疑いなんてまつられてるからね。
やべやべ、喫茶店という場がね、そう、なんかあって、みたいな。
あたれ、なに、モスク、なに?
何だっけ?
なんか名前、名前考えて、でも八百代津だから、そのうちなんとか神社って別名がつくんじゃない?
つくん。
別名、宴神社とかって。
神社になるんここ。
気づいたら表に鳥居とかできてんじゃね?
マジか。
ますます人、寄らんくて大丈夫?
寄らなくなるね。
いや、逆にこすくわれたい人は来るかもしれないし。
怖いもん。
そんなに責任は持てませんが。
持てません。
いやいや、そうね、結局自分か。