ちょっと怪しいね、怪しい質問から始めたわけですけれども。
たぶんこれ、前回の配信でもちょっと信じるについて話したいっていう私の雑談からね。
いくらか、宇田さんいなかったけど、話してるのを入れてたぶん配信すると思うんで。
でも前回何話したかほぼ覚えてない。
覚えてない。
ほぼ覚えてないので。
信じるって何なんかなっていうのをぼんやり思ってたわけですよ。
で、なんか喫茶店で喋ってると、なんかその、より強く思い始めるというか。
なんか、例えば、前回はテーマが理性やったけれども、その中で理性を働かさないで、でも本能でもなく、直感とかって。
直感って本能でも、本能的なところもあるし理性なところもちょっとあるんやけど、なんかちょっと分離したものがあって。
違うなって、どっちでもない。本能でも理性でもないところが直感にはあって。
で、それは何なのかなってちょっと考えてたんやけど。
やっぱその経験とかから来る、なんか自分がこうだってこうある程度信じてないと選択できないものが直感だと思うのよね。
なんか単純に生まれた時から持ってる感覚ももちろん多少はあるやろうけど、やっぱ今まで生きてきた中での経験からこれはこうっていうのをもう考えなしにこうだって決めるのが直感かなって私はこう。
喋りながらなんか思ってたよね。で、そこには感情ももちろん多少入るし、本能だって入るし、理性も働いている可能性は全然あるんやけれども、
これまでの経験が主軸みたいなのが私の中での直感のイメージなんやけれども、でもこれまでの経験を信じてたり自分自身を信じてないとその直感っていうのはなかなか働かないんだろうなって思ってさ。
で、そうするとさっきのノリコの答えでさ、疑う気持ちっていうのが、だからその今まで経験してきた自分の時間とかその感じてきたものを信じるのと、そのそれを疑う気持ちとがどっちが勝つのかみたいなので、その直
感って鈍ったりもするだろうし、あえて鈍らせて考えを巡らせてみたいな風にもなるし、
どっちも別にどっちが正解とかないと思うんやけれども、その人の思考パターンみたいなのにそうやって分岐していくのかなってぼんやり思っててさ。
で、結構その、何を見て思ったんやろな。やっぱり世界を見るとさ、なんか信仰みたいなものがすごく強い国とかって、なんかあの自分で考えたのかもしれないけれど、やっぱりその宗教と呼ばれる教えの中で言われてる
ことがある。
そういうことを自分の思考よりも先に持ってきて、それを信じて行動できるっていうのはさ、なんかあの信仰心がそこまでない人間からすると、ようそんなことできるなっていうのが素直なリアクションというか、すごいな
と。
だから信じてないと、それが正しいって信じてないと、やっぱ行動に起こすのって怖いやん。でもそれを疑いもないものだ、疑いようもないものだって信じてるから、それができるわけで。
みたいな。なんか、日本人だとどっちかっていうと義務感とかでさ、「やらなきゃ!」みたいな感じで、こう体が動くことはあっても、なんかその宗教のそのやらなきゃ、同じやらなきゃなんだけど、なんかちょっとこうベ
クトルが、ベクトル?何かな。
なんか受け身ではなくて、どっちかっていうと進んで、なんかこう目的が何なのかちょっと私にはよくわかってないけれども、進んでいってる感じがするなって思う。
店長が言う宗教の盲目的に信じて行動するって具体的にどういうアクションのことを指してるの?日曜日にミサに行くぐらいとか、なんで行くのとかそういうこと?肉を食べないとかそういうこと?根拠なしに。
でもほぼほぼほぼ全部ではって思ってるんやけど、もちろんその教えができたゆえんみたいなものとかがあったりして、自分で納得して実行してるものとかももちろんあるんやけれども、
でも最初は絶対誰かにそれをやれって言われて、それがこのなんとか教の教えですって誰かに言われてなのか、その聖書とかそのバイブル的なものを読んでなのか、そっかって思ってやるわけやん。
で、最終的にはその教えが違う人たちを攻撃したりとかもできてしまうのは、やっぱりその信じる力があってこそみたいなのかなって。それがいいものと信じてるからできるんじゃないかなって思ってたんですけれども。
なんかその信じる力ってどっからくるのかなっていう。いやそもそも信じるってなんなんすかねみたいなところから疑問だったわけですよ。
みんな何をまず何を信じてて、じゃあなんでそれを信じられるのかみたいなところから入っていくと、ちょっとその信じるとは何かみたいなものが見えてくるのかなと思って質問したわけですけれども。
なんか聞いててまず直感の捉え方が私と店長は違うなって思って聞いてたんだけどね。
直感は私の中でひらめきに近くって、直感を本当にこれで合ってるのかみたいな思考を巡らせて、確認作業とか入ってくるともう私の中でその直感は鈍ってしまって、もはやわからなくなるの。直感ではなくなるっていう
か。
直感は今その瞬間でのひらめきだからその直感と言えるわけで、だからそこでそれを検証とかし始めたらもはや直感ではなくなるしなってところから私とは違うと思って聞いてたんだけど。
なんか私も直感を信じる意味での感覚なんだけど、なんかでもそれって私にしかわからないことだし、私の中でしかないものだからそれを信じてるみたいなところがある。
だから周りがどうなんだろうとかって確認したらもう違うっていうか。もはやこれは私しかわからないことで、私の中のひらめきがそう言ってるからじゃあ信じるかみたいな感じ。
だからむしろマリマリちゃんがそれを信じなくてスルーしてしまうと完全にこの世に存在しないものとして。
そうそうそう、これを認識したのは私だけだし、私が信じなかったらもはやこれはもうないみたいなものでもあるって感じ。
なるほどね。
それへのカウンターが私はちょっと疑う心なんだけど。
だからさ直感ってさ多分自分の経験とかのデータベースの蓄積から導き出される答え、瞬間的な答えみたいな感じかなって思ってて。
だけどそれってパッと思い浮かんだとしてもそれが本当に正しいかどうかってさ自分の中にしか答えがないわけじゃん。
だけどそれがさ外に出た時にさ本当に正しいかどうかってわかんないじゃん。
だから一旦それはやっぱ私は疑うべきかなとずっと思ってる。
正しいかどうかっていうのは人から見てそれが合ってるかどうかとか世間的に合ってるかどうかの正しさであって、
のりこから出てきたものっていうところには疑いはないってことでいいの?
出てきたものには疑いはないけれども、
世間的とか第三者の目線からそれって違うんじゃないって言われた時にあまり自分の意思を突き通そうとは思わない。
だからまにまにちゃんと同じように自分から出てきたものに対しては信じてるけど、
だからそれが世間とか他の人から見てどう受け取られるかみたいなところに対する疑いの気持ちを忘れない感じ。
大抵一体多数になった時絶対自分の方が間違ってるからね。
まあね、確かにね。
でもそこでね、答えは求めてない私。採用がうまって感じ。
そこの正解不正解のジャッジはもはや関係なくて、
今私がこれをすることが正しいのか間違ってるのかみたいな感じ。
直感のひらめきで感覚で信じてるって感じ。
なんかその正しいとか間違ってるっていうのもちょっとそのうち。
いやでも信じるってことはそれが正しいと思うことじゃないのかなと思うよ。
だからさ、お互いの気持ちを信じるってすごい逆説的ってマリマリちゃんも言ったけどさ、
どういうこと?って逆に私はまだ浮かんでるんだけど。
なんか自分にとってそれが正しい。自分がそれをすることが正しいのか。
自分にとってっていうか、自分がこの世界でそれをやることが正しいのかどうかみたいな感じ。
やったことでその瞬間の結果どうこうよりもみたいな。
あんまりそこにこだわりはなくてっていう感じ。
そこで起きる影響とか、自分がわからない範疇に対しての正しいなのかなみたいな感じ。
もはやその判断は自分でできるもんではないと思ってる。
信じるっていう気持ちだけで行動にまでもはや想定に入ってるのが私にはすごいなって思うんやけれども。
自分から出てくるもので信じれるもので、
感情とか気持ちみたいなものはそのまま受け取れるかなって思うんやけれども。
やっぱりあれしたい、これしたいみたいなものがそもそもあまり基本的にベースが出てこない人間なだけに。
どうなんかな。
やっぱ行動に起こす、行動したいみたいな気持ちすら疑ってる節があって。
私は自分の感情とかそういうものは一切信じられない。
自分の行動もあんまり信じられないっていうのがあれなんで。
それで疑う気持ちを信じてる。
自分はすぐやろうって決めたことをしないじゃん。
それはあるよね。
これをやろうはさ、そもそも感情じゃなくて。
気持ちとかそういうものってすぐ移り変わるじゃん。
そりゃそう。
そういう移り変わる部分も含めて信じてるというか、受け入れてるというか。
でもそこでその気持ちが出てきたっていう事実は真実なわけや。
自分の中では。
真実と信じるは違くない?
違うけど、でも真実、真だと思うことが信じるに伝わるわけじゃないの?
違うの?
真実じゃなくても信じれるってこと?どういうこと?
ちょっと分からんくなってきたよ。
何を言ってるの?
面白いなあ。
さっきその正しいと思うことが信じるでしょ?
真実は正しくはないってこと?
自分にとって真かどうかではなくて、世間的に見て正しいかどうかってこと?
天は変わってくるやん。
正しさについては、今日は語るつもりはなかったんやけど。
正しいって何なん?ってずっと思ってるよ。私はそれについても。
誰が決めるの?ってずっと思ってる。
だから、それって誰が決めるの?って。
それって自分じゃん。信じるのは自分だろう。
だから私の中に正しさっていうのはないわけよ。
かといって多数決で決まるものでもないけど、
自分のことぐらいは自分でこれが正しいって思えるかもしれないけど、
でもさ、自分のことですらこれが正しいって言える要素ってめっちゃ少ないと思ってて。
少なくとも言えるのが、私は逆に感情じゃなくて行動の結果そのものだけだと思ってる。
どっちかっていうと、信じられるのは自分が積み上げてきた行動の結果だけ。
だから、過去にこういうことをやったから次も成功するだろうとか、
このパターンだったらこれでいけるだろうみたいな実績が積み上がってるから信じられる。
それをやってもいいとか、感情ではあまり信用ならないと思ってる。
だからさっきの信仰の方、宗教のもそうだけど、
その聖書に書いてあることとか、それが日常生活の中にだいぶインプットされてたりする行動っていうのは、
過去にそれを実践してきた人たち、自分以外の人たちが実践してきたことが積み上がってる歴史がある上で、
それをやった方がいいだろうみたいな。
手を合わせることとか、礼拝の前に体を清めるってことは、
風呂に入る習慣と同じで、体を清めるっていう神聖的なものじゃなくて、
単純に汚いものを流すことで清潔になって健康になるとか、
そういうレベルで経験として実践してきて、それをやった方がいいっていう習慣とか行動の実績があるから、
自分もやろうとか、それをやった方がいいんだろうみたいなことを信じるって感じ。
何もゼロベースで信じてんじゃなくて、それをやってきた人たちの行動が積み上がってるから、
それを信じられるっていう。私は実績ベースだと思ってる。
そういう人もいると思う。そういう人ももちろんいるし、
そうじゃないと受け入れられないみたいな人ももちろんいるし、いていいと思うし、
信仰に対するイメージは私はそうではなくて、
それって情けは人のためならずみたいな感じでさ、
とりあえずやってみる。やってみたら結局自分にとっても良かったから、
これっていいんだって信じられるみたいな順番は確かにあると思うんだよね。
自分のことを信じられないっていうのは、それは何もやってないからですってよく今時聞くけれども、
とりあえず目の前のことをやってみれば、それは失敗しても全然失敗も込みで経験とか学びがあるのであって、
それを重ねていくことで自分にも自分に自信が持てるみたいな、
自分のことを信じられるようになるみたいなのがあると思うんやけれども、
やっぱりその実績ベースっていうのは確かにある、ある、ある、絶対ある、それはあるし、
だから私が時間を信じてるっていうのは、これまで過ごしてきた時間とか、
明日も来るだろうっていう根拠のない自信、自信?根拠のない信じてる気持ちみたいな、
自分の人生が明日終わると思ってないみたいな、それぐらいの信じる、
そういう意味での時間を信じてるっていう、自分自身を信じてるっていうよりは、
今まで過ごしてきた自分の時間を信じてるみたいな感じがあって、
むしろそれしかなくないって思ってるから、そういう意味では、
のりこが今言ったその実績ベースみたいなものにも通じるかなって思うんやけれども、
なんか宗教のそれはそれだけではない気がすると思っていたんやけどな。
そういう面もあるよ、そういう面もあるんやけど、それだけじゃなくないって思ってるっていうか。
たとえば?
たとえば?
そこまで身体を清めることとか、手を合わせることに対してそこまで解像度高く、
これをこうするとこうなるからこうやるんです、それがいいんですって思ってる人って、
1パーぐらいじゃね?って思う。1パーは言い過ぎかな。
そういう掟だからそうしてますみたいな考えなしに、
AからBまで行っちゃう人の方が多いんじゃないかなっていう。
じゃあ神社参りする時に鳥居でお辞儀するのは何でなんですかとか、
あとその二礼二拍手みたいな一礼みたいなそういうのは何でなんですかとかって考えたことないやん。
なんかぼんやりこれが神様に挨拶する時のルールですぐらいしか思ってなくて、
なんで2回手を叩くのかとかさ、なんかそんな考えたこと私はないんやけれども、
でもなんかそういうちっちゃい積み重ねを積み上げて、
日本の神道とかも何千年と来てるんやろうけれども、
でもなんかそれがなんでそうなってるのかとかって考えてない人の方が多い。
けどでもそうするもんだって。
信じてるというよりはそれがルールだからみたいな習ってる状態。
それはその実績を積み上げてるにも途中とも言えるというかなんで、
それが積み上がっていったらもっと信じられるっていうのもあると思うけど、
でももう最初からこういうもんですって言われてはいそうですかって行動できるのって
信じる力がある人じゃないと、
だからそういうことを疑ってるとなんでみたいな、
嫌ですけどみたいになる人もいいんじゃねと思ってたんですけど、
そろそろ疑ってさも出てきてもらっていいですか?
ごめんごめんごめん。
お芝居はもう終わりで。
うたさんにね。
うたさんはできる妄想の話をするかなって勝手に思ってたからさ。
八百万の神が出てきてびっくりしたんやけれども。
一応うた神様で出たからこれかなと思って。
そっちはそっちの仲間なんやって初めて知った。
一応ね、一応ね、死んだ晩商の中にいるからね。
お疲れ様でした。
個人的には皆さんの言ってること全部わかるなと思っていて、
私も何を信じるかって言ったらまず出てくるのは結局自分だよねっていう話なんだよね。
神様を信じるとかそういう諸々のなんだろう、日本だったら神道とか仏教とかあるけど、
その作法をちゃんと守るっていうのも結局は自分がそれを信じているからやるものであって、
神様を本当に信じている信じていないのは置いといて、
神様を信じるっていうその感情とか行動とかそういうのも全部結局は自分に戻ってくるものだよなって私も思ってはいるんだよね。
やっぱそれをどうしてそういうふうに信じるようになったのかっていうのはやっぱり自分が今まで感じてきたこと、経験してきたことっていうものに付随するものだと思うし、
なんだかんだでやっぱり全てを考えていくと結局最終的に自分に戻ってくるなって思っていて、
信じる、何を信じるかとか信じないとかそれこそ疑うとかそういうのはなんだかんだでやっぱ自分の中から出てくるものだから、
やっぱ最終的にその疑うっていうのも信じるっていうのも全部自分の中にあるものだから、
何を信じてるかって言われたら、元をたどれば全部きっと自分を信じてるからなんだろうなっていう話。
だから全部辻れ犬もいたし、まりまりちゃんもいたし、のりこもいてたし、言うことねえなと思いながらずっと目をしてたんだけど。
すごい、まとめがすごいよ。さすがやわ。
なるほどね。
前さちょっと話したことあると思うんだけど、うちにその、なんか勧誘じゃないけど、
キリソの今日の話をね、聖書の話をしに来てくれる人たち、まだ来るんだけど、
まだ来るんだけど。
ちょっとずつ込めて。
まだ来るんだけど。
お答えしてみましょうね。
私が話聞くからさ。
あ、聞けたのね。
私はいけないかもと思われてるのね。
で、ほんとつい最近、テーマに近い話をちょっとしたのよね、その人たちと。
勉強してるね。
話してる。
さすがだなあ。
経験値上がってるわ。
それでほんとに同じこと聞かれたんだよね。神様信じてます?って聞かれたのよ。
神様を信じてます。
世界のそこでつながるんだ。
その方たちが言ってる神様って、キリストとかエホーボとかスチ系なんだけど、
信じてますか?って聞かれた瞬間に、私は、
いや、私は自分を信じてますって言ったよね。
神すぎる。
神だね。
神すぎるね。
私が神ですがみたいな。
優雅独尊みたいな。
で、ちゃんとさっきみんなに言ったようなことを、もうちょっと簡単にだけど、話したら、
さすがだね。
なるほど。
聞かせるんだもんね。
お金増やしちゃったよ。
すごい、すごい。
教祖の素晴らしさ。
振り返ってくるじゃん、その時。
新しい宗教を生きたい方だな。
あのTシャツ着てきてよ。
あのね、Tシャツね。
神にはなれないやつ。
神は私にはなれない。
面白い。
で、その時にちょっと、一番最初に聖書では、
まず、仏教でいうと説法みたいなそういうことをするんだって。
そうそう、みたいなのをするらしくて、
まず、いわゆる基本的なルールみたいなもの、
これをしなさい、あれをしなさいみたいな、
そういうものをまず人々に解いていくんですよっていうふうに言ってて。
で、その中に、ちょっと私もうろ覚えなんだけど、
なんか話の中に、こう、
なぜそういうふうに信じる必要があるのかっていうのを説明するところがあるみたいなことを言ってて、
それは、そう、要は人間が生きていくために守らなければならないルールだから、
これをやっていれば幸せになれますみたいな、
そういう感じの話らしいのよ。
でも規約があるけど。
だってキリスト教徒の信じるものは救われるってそういうことでしょ?
そうそう、そういうことみたい。
で、やっぱりその、何だろう、
例えば、同じ話をしたから全然自信ないから、
本当に私の中の例えばなんだけど、
例えば、ほら、人のものを盗んではいけませんみたいな。
要はそういう明確なルールを何も知らない人間に神が与えることによって、
その人が幸せな生き方ができ、
さらにそういう人たちが増えることによって社会が平和になりっていう、
なんかそういう流れで言われたと思うんだけど、
結局でもそれも全て自分が信じるか信じないかじゃんみたいな、
思ったけど言わなかったけど長くなるからと思って、
あ、そうなんですねって終わらせたんだけど、
堂々巡りですからね。
そうなっちゃう。
結局愛入れないなと思いながら聞いてたんだけど、
そのルールを守る守らない、それがいいと思うか思わないか、
それも全て結局は自分だし、
って思うとやっぱり何を信じているのかって言ったら、
今までの生きてきた自分だよねっていう、
私の結論でございます。
ありがたや。
なんかその何が正しいかみたいな話とか、
何を信じるのかみたいな時にさ、
確かに今まで過ごしてきた自分の時間を信じてるわけやけど、
ここに今度次世代の自分の子供の時間を重ねてみるとさ、
またちょっと見方が変わるというか、
自分が過ごしてきた時間っていうのはやっぱり親に、
親とか近い家族とか近いものの環境に
与えられた自分の信じるっていうのがめっちゃあるよなって思ってて、
子供、マリマリちゃんが言う直感イコールひらめきみたいなものって、
私は今までの経験から来るものが直感です。
そういう直感ももちろんあるけど、子供にもだって直感はあるやん。
ちっちゃい子がさ、なんでそんな遊び方すんのみたいな、
大人が思いつかないような遊び方を始めたりとか、
どこからそんなアイディアが来たんですかみたいなものって見てるとあって、
それは経験からでは多分なくて本当にひらめきみたいなものがあってさ、
だからそういう直感ももちろんあるんやけれども、
そこに解釈を与えるのは子供に対しては、
まあ子供同士でいいねってなることももちろんあるんやけれども、
やっぱり周りにいる大人が、それはいい、だめ、やっちゃだめ、
これはやってもいいみたいな、そういう解釈を大人が与えて積み重ねてるものがめっちゃあるよな。
まあそれは全て聞いてくれるわけではないんだけれどもねって最近は思うんやけれども。
だから言ったところで、結局最終的な判断を本人もしている。
本人もそれはそうかって腹落ちしたから受け入れてるところももちろんあるとは思うんやけれども、
だからそういうことを考え始めると、信じることに対して信じられなくなってくるというか、
でももう起こってしまった過去なので、自分の場合、自分のそれの場合はもう戻せないし、
今から思い出すたびに解釈を自分の中でし直すみたいなことはできる。
子供がやってることを通して思い出しながら、そういう解釈のし直しみたいなことをすることはあるかなとも思うんやけれども、
なんかその自分が今まで過ごしてきた時間、世界みたいなものが正しさみたいなふうに思ってしまうと、
やっぱり私は正しいのか?みたいなのしか思えないからさ、なんか信じられないというか。
今の自分、その時の私は確かに存在したけど、今の自分から見てそれは正しいのか?みたいなのってまだ違う話で、
なんかそういうふうに考え始めると、なんか過去ですら信じられないわけじゃないな。
過去の自分、過去の私、これまでの私をそのまま解釈し直さずにそのまま出すことができないから、
じゃあ一回解釈して、し直してから出そうって思ってると、何も、だからタイムラグが生じてしまって、
直感ですら信じられない、みたいなものになってきたりとかするなぁ、みたいな話。
直感女がどっか行ったけども。
直感女がログアウトしましたね、ちょっとだけ。
直感女がどっか行きましたけども。
直感女、一回待ちます?
いや、まぁ、ちょっとだけ話しとくか。
今回も話がつきませんでしたね。
この続きは次回の配信で。またいらしてくださいね。