ここは、店長のつじり犬と愉快な仲間たちが、お客様と一緒に自分の思考を深めていく喫茶店です。
いらっしゃいませ。店長のつじりです。
従業員のうたです。
従業員のまりまりきです。
アルバイターののりこです。
今日はこの4人でおしゃべりしていきます。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
店長、自分を信じられますか?
最初の質問に返ってくるよ。
なんかその、自分を信じる、さっきも言ったけど、今からの自分は信じてない。
未知だから、みたいな。まだ全然自分が、自分に心情がそこまでないというか、
やっぱり自分は環境で変わってく人間だと思ってる。
周りにどんな人がいるかで、全然考え方も変わってく人間だという認識を持ってるから、
未来の自分は全然信じてない。
けれども、今まで生きてきた自分みたいなものは否定はしてないし、
っていう意味では信じてない。疑ってない。
疑ってない。疑ってないんだが、再解釈が必要な場面はあるよね、ぐらいには思っている、みたいな感じ。
でもね、なんかその、自分を信じれるかどうかって、なんかまず親を信じれるかどうかではって、だから。
親?
親。みんなは親を信じてますか?
親の何を信じてるか。無償の愛とか?
親が言ってることとかを、真実だと認識して、育ってきた、ここまできたかどうかって、
結構それはそのまま自分を信じれるかどうかにも繋がるのでは?って思ってて、
私はそういう意味では、親はそこまで信じてない。全然信用してないとまでは言わないけど、半分ぐらい。
言ってること半分ぐらい。
全部言うことを聞いてきたわけじゃねーしな。
勉強してきたところがあるしな。
もちろん反発もしてきたけど、でも、なんか、私への愛は疑っていないっていうか、
まあ、良かれと思って言ってたよねっていうのを、今はわかってるって感じ。
当時はすごく反発したし、信じられない。なんでそんなこと言うの?とか思ってたけど、
今になって振り返れば、モルギーがって言ったわけだし、私への愛を持って言ってたんだね。
あれはね、親なりにね。
絶対的な存在だとは思ってたな。
そうだね。
っていうところで、
人のことを信じるのって、まず自分のことを信じれないとダメだよねってぼんやりずっと思ってて、
でも自分のことを信じるためには、過去の自分を、今振り返っても過去の自分をちゃんと肯定できる、信じられる。
で、なってくるとどうしても親っていうのは不可欠。
そこを信じる信じないみたいなものが絶対入ってくる存在だなって思ってさ。
結構早い段階で、信じてなかったんだろうなーみたいなのを思ってさ。
今も?
あのー、なんていうのかな。
まりまるちゃんが言った愛みたいなものは信じてない。
うーん。
愛って言われるとちょっと重いから、
昔の日本人らしく、愛よりも世間体が先行するみたいな。
世間から見てうちの子がどう見られるか、うちがどう見られるか、みたいなものが先行する家だったのでは?って今でも思ってるって意味では信じてない。
けど、かといって可愛いと思ってなかったか、みたいな事実ベースでいくと、そういうわけでも憎いとは思ってなかっただろうみたいな。
一応私は先行なので、姉たちから言わせるとお前は可愛がられた方だって言われた方だったので、その言葉を信じてそうだったんだって受け入れてるけれども。
信じられる要素がなくはないが、そんな100%でいくともう50キルかな?みたいな。
の程度なのよね。
そうなってくると、でもそのぐらいの方が人間関係と一緒でさ、結局最終的には自分がどう思うかどう考えるかだよねって思う。
その50%以下は、その時の解釈?それとも今の解釈?今の解釈は再解釈してない?
再解釈…いや、再解釈って何回かするやん、人生の中で。
やっぱこの子供時代を20代ぐらいに振り返ったり、自分が子供できてからまた振り返ったりとかってまたすると思うんやけれども。
20代ぐらいに振り返ったところで止まってるものもあれば、子供ができたことによってまた再解釈し直して、その考えが改まるところもなくはないが、そこまで全振りはしてないので。
現時点での、別に全てを振り返ったわけじゃないけれども、現時点の私のその再解釈込みで50%。
だから、分かんない、これはちょっと分かんないけど、親から離れるのが早かった。
気持ち的に心理的な距離が離れるのが、経済的にはどうしてもどうしようもないところもあったし、そこにむしろ自分が甘んじてるところも多々あったので、
心理的に親と離れるのが早かったおかげで、世界が広がるのも早かったなっていう。
ただ、世界に興味がなかったがゆえに、すごいニッチな世界しか広がらんかったわけやけども。
でも、今こうやって海外で始終にして、親のこともそこまで心配せずに暮らせてるのは、自分のこの過去があって、今でも50%程度だから、そこまで考えずに暮らせてる。
自分が育った家族ではなくて、自分が気づいた家族を優先してここにいるみたいなところは、逆にこれが親50%じゃなくて100%だったらできなかったかもしれないし、
この50%も今はそれぐらいであって、また自分がもっと年取れば、その親の年になってみないと自分が見えない世界みたいなものもあるなってすごい最近思って。
私は、ノリコもそうかもしれないけど、上と離れてるってことは、自分が育ってる時に親はおじいちゃんですか?おばあちゃんですか?って言われるような年でもあったのよね。
具体的に言うと、私が生まれた時、親は40前後だったわけよ。
中学生ぐらいになったら50超えてくるからさ。
老いていく一方の親を見ながら自分は思春期を迎えるわけで。
そういうのって、若いお父さんお母さんを持ってる子供とは親との関係性ってちょっと違うんじゃないかなって思うところがあって。
それは親によるや家族による人によるのはもちろん前提としてあるんだけれども。
なんか、そういうちょっと普通。私はこれ普通とちょっと違うって子供の頃から思ってたよね。
もう小学校の参観日で親がずらって並べば、うちの親だけ一つ頭が抜けて年が上みたいなのが、もう誰が見てもわかるみたいな感じでずっと来てるから。
だから余計に親との関係性みたいなものってあんまりやだからかな。
執着がないというか。
でも結果的に良かったかなって思ってるところもあるし。
何の話これ。
親を信じるか信じないかって話でしょ。
親は親も一人の人間として生きてるんだなみたいな考えにはいたってるのよ。
親は親じゃなくて一人の人間なんだなっていうのをすごい早い段階で思ったよ。
この人は親じゃないんだみたいな。
いや、親なんやけど。
でもね、それだよね。私は親が人間だと気づいたのがたぶん20歳前後なんだよ。私はたぶん。
そうなんだ。私は自分が親になってからだわ。
わかる。それもわかる。
だから自分が親になってみて、親ってこういう目線で自分の子供のことを見てたんだみたいなものももちろんわかるところもあるんやけれども、
自分が子供として親を見た時の親に対する目線が完全にただの親っていうより、その親の半分くらい個人がめっちゃ見えてるみたいな。
のが結構早い段階でたぶんあったよね。
だから親として信じるっていうより、この人はこの個人としてのみたいな。
でもまあ親という立場もありつつの、じゃあこうしてくるだろうなみたいな。
そういう認識を結構早い段階で持ってて。
だからそういう意味での親という立場が、その人にとってどれくらい私との関係性の中で影響を与えてたのかみたいなのを考えると、親要素少なくねって思ってるみたいな感じかもしれない。
でもなんか自分が子育てしてみてさ、やっぱ昔とその考え方が子育て論が変わってきてるところもあると思うんやけど、やっぱりもう個人でしょみたいな。
親子であっても個人だよねみたいな。
個人同士がやっぱり結局はやりとり、なんやかんやしながら、それが広がって社会になるよねみたいな風潮として一般的になってるのではって思うので、
あんまり私の今のこの感覚は、そこまで今の社会では否定されないと思うけど、むしろ私が生まれたぐらいの時って、親はこうあるべき、子はこうあるべきみたいなのがもっとめっちゃ強くて、
それにだから親も半分縛られつつ、でも隠しきれないエゴを親というベールで頑張ってかぶせつつ、私となんやかんやしてたんやろうなぐらいには思っているけれども。
- 感傷は少なかったってこと?結構。
- いやいや、めっちゃあったよ。感傷はあった。感傷はあったけど、抑制的な感傷の方がメインで、促進的な愛されてるなって思うような感傷はそんなにないみたいな感じ。
だからその愛っていう言葉が重いっていうのは、そういう感覚はむしろないよっていう。ただ一緒にいて憎からず思う、可愛いと思う。一緒にいるその場で別に不快じゃないぐらいには思ってるだろうな、みたいなぐらいの
実感はあるっていう感じ。
- またこれ信じるからだいぶ外れたわ。私の親論。でもこういう親に、親の環境で育ったからこそ、育ったからなのか、もともと人間としてそうなのか、あんまり自分の子供に対しても同じようにというか、そんなに関
わろうとはそんなにしてないし、
どっちだろうね。これはその親、そう自分が接してこられたからなのか、もともとの人間性的にそうなのかわかんないけど、やっぱ同じように繰り返している部分もあるなーって大いに思いつつって感じですけど。みんなが
黙ってしまった。
- めぐらしてんじゃないの?
- めぐらしてんの?
いやー、最近あのー、なんていうのかな、中編終わったぐらいから話が大きくずれるんやけど、今回だいぶ早めにずれちゃったな。
- 大ダッシュしてますけど。
- そうだねー。
- いろいろな方向に持ってってくれるからさ。
- それも含めての喫茶店ってことで。
- いいんじゃない?
- 全然いいんやけどね。
- なんかそうね、今日この信じることについて話すことに、話す前に、信っていう漢字がさ、人面に言うっていう漢字やけれども、どういう意味ですかって思ってさ。
- 人が言うと書いて信じる?
- だからその信っていう漢字が持つ意味をちょっと調べてたよね。結構その信っていう漢字自体はいろんなところに使われると思うんやけれども、信じるっていう信仰心みたいなものももちろんあり、
他に、やっぱりその真実みたいな、真こととか、そういうその真実っていう意味、その信って漢字が違うんやけれども、そっちの信の意味も本当のこととかそういう信の意味もあったし、あとは知らせとか伝えること、伝
信とか、伝えることも信を使うらしくて、
確かに言われてみればって思いながら、結構この信じることを総括すると、その意味それぞれ意味を総括して信じるってことなのでは?って思い始めてさ、
その本当、最初の方に言ってたその正しさとか本当だと信じるみたいなことも信じるだし、でそれを何がベースにしろ、それが発展して信仰とかその信条とか、でもそれも本当のこと、自分の中では本当だと思っていること
が信じること。
で、それを何かその、それがないとやっぱりさっきもさ、ここで喋られるのって信じることができないとできないよねみたいな話をしたけれども、やっぱりそのベースがあってこそ、じゃあこれを誰かに伝えようみたい
な、これを真実を伝えることがいいことみたいになるのって、やっぱりその信じること、心がベースにあるからこそできる繋がりというかかなって思います。
で、それでやっぱりその言葉がまだその口頭でしかない時代とかは、それが発展して物語になったり歌になったりとかしてたのかなとか、っていうのも全部その信じる心ベースで信じるっていう解釈が広がって、そういう活
動を伝えるっていう活動にもなったんじゃないかなって、
今喋りながら、なるほどって一人で納得してたのって思います。
なんか、信仰宗教の嫌がられるのってやっぱり勧誘だと思うんですよ。本人たちがさ、勝手になんかしてる分にはそこまで嫌がられないと、集まったりとかね、集会とかしたりすることだけで嫌がる人もいると思うけど、
やっぱりその勧誘、こっちにこう、勧誘してくるっていうのはさ、やっぱり嫌なわけ。
うたさんも言ったけど、最終的に絶対愛入れないところ。
なんで愛入れないかって言うと、私はただ単純にプレゼンが下手なんじゃないかなって思う。
なるほど。
伝え方が下手なんだろうなって思って、たぶん私たちこんなに良い人たちだったら、あんまり嫌がられないと思う。
良いものを信じてて、あなたにも幸せになってほしいっていう気持ちがあるから勧誘したいんでしょう。だけど、それがちゃんと伝わってねえんだなみたいな感じ。
伝え方だよね。
伝え方が下手。
巻き方迷惑的だね。
こうすると幸せになりますっていうのに飛躍があるって言ったけどさ、そっちじゃないんだよみたいな。
信仰宗教にハマる人っていうのはどっちかっていうと、話を聞いてくれたとかさ、そっちの方が多いパターンとしては多いんじゃないかって思ってて。
でも、その事実があったとしても、勧誘をしに来るっていうのは伝えることで何か変わるかもって信じてるわけやん。
それを教えとして伝えていきなさいって言われてる人ももちろんいると思うんやけども。
だから、伝えるが込みで信仰なんだなって思ってさ。
伝信、知らせ。
こんなにいいことを知らせなければみたいな。
そうね。
陰謀論にも繋がるっていう話。
なんで知らないの?大丈夫?みたいな。
っていう気持ちにも繋がるよね。
この間、盲信を一つの言葉で捉えてたけど、
信っていう言葉を調べてる時に盲信も出てきて、盲目的に調べる、信じるの盲信と、妄想の盲に信じる。
両方あって、ちょっと違うよな、この感触って思ってたよね。
盲目的に信じるは、やっぱり裏にある話の筋は関係なく、盲目、見てない、あえて見てない。
だからこれがルールだから、みたいな感じで信じるのが盲目の盲信で。
で、妄想の盲ってデタラメっていう意味らしく、だから解釈は聞いてるんやけれども、
解釈はちゃんと頭に入ってるんだけれども、そのデタラメ事を信じる、みたいな。
で、どっちが立ちが悪いかっていうと、妄想の盲信の方が立ちが悪いなっていう風に思ったって話。
話の筋曲がったまま信じてるわけやん。
だから誰が聞いてもそこに筋は通ってないんだけど、その信じてる、盲信してる人にとってはそれは筋なわけやん。
ってことはもう、だからこれが最終的に相入れないやつだと思っていて、話をいくら重ねてもきっと最終的に分かり合えないっていうのが、
妄想的に信じてる人、盲信してる人は分かり合えない。
ただ見えてないだけ、見てないだけなら、話をすることで見えて、話が通じるとか話ができる状態になるかもしれないけど、
妄想を信じてる方が怖いなっていう。
どっちも話通じなさそうだけどね、結局話したところで。
どうした?
いや、どっちも話通じないなって思って。
見えてないだけなのか、見てないのか、見たくないのか、みたいな。
盲目の盲の方の、その恨んにその人のどの感情、どの本能でそれを選択しているのかによって確かに通じない人もいるとは思う。
盲目って言われる状態になってたら、もはや話をしたところで理解しようともしないんじゃないかと思って聞いていて。
何ですか?それは経験から来る話ですか?
そうですね。
何か苦い話。
そうですね。
て思ってさ、いくら解こうとしたところで、その人の信じてるそのものが、絶対的なものがあるからこそ、
無意識にでも、やっぱり受け入れない部分って出てきて、話はできない、通じない、愛いれない状態になりやすいんじゃないかなと思ったわ。
なりやすいんじゃないかと。
結果的に。
いや、そう。だからそういう、そういう人に、だから信じるって何ですかって聞いてみたいよね。
だってここはさ、話ができる人やん。
少なくとも私と話ができる人しかここに今いないと思っていて。
あ、嫌な中で自分を疑えてると自分を信じてるからね。
だからなんかそうね、そういう盲目的な人にしろ、妄想的な人にしろ、盲信してる人に、じゃあ信じるってあなたにとって何なんですかっていうのは、ちょっと怖いけど聞いてみたいよね。
怖いもの満たさに近いけど。
でもなんか、それをなんか、盲信してる人っていうか、そういう人がいるっていうより、そういう現状になるっていうか、そういう環境に陥った人みたいな。
誰しもそうなる瞬間ってもしかしたらあると思うのよ。
環境的に余裕、自分の頭で考えたりするような余裕がなかったり、考えるにしても筋曲がってるんだけど、そこに築く余裕がなかったりとかってそういう感じってことね。
誰しもあると思う。
全力で自分を守りたい状態なのかな。
それに、だからさ、盲信とか、危ない信じるはすがるみたいな意味の、信じるって結構危ないような、もうこれしかないみたいな。私にはこれしかない。
前依存っていう話もしたけど、で、自分が信じてるわけ。
っていう、その信じるは結構危ないけど、でもその人にとってはその状況がないともっと危ういわけで。
藁にもすがる思いみたいな。
そうそう、すがる。
なんか、まあそうね。
でもなんか、宗教とかでさ、こうしないとダメなんだみたいな、言ってる人?
それ以外を受け入れない人ってそれに似たところがあるよなって。
だから、自分がするしないとかじゃなくて、ことも含めて、こうじゃないとダメって思って、なんならそれを人にも押し付けてくる人。
宗教だけに関わらず、これは果たして信じるなんだろうね。
まあでも、その人にとってそれが本当であると思ってれば信じる。
なんかさ、宗教の何がいいって、やっぱり心のその寄り所?
すがるってほど、別にすがってなくても、やっぱり自分にとってこれを信じてることによっていいことがあるから、みたいな。
なんかそういう、信じること自体に何も損得ってないやん。
自分の気持ちだけやのか。
でもそれによって自分がやっぱりこう、いいことがあるから信じてるんだと思うんだけれども、そういう面の信じるがあると思うんやけれども。
その感情ってなんなん?安心感?
信仰宗教の?
いやなんか、なんでもいい。信じることによって、なんか気持ち的に安定するところがあるから信じてる。
信じてる状況が自分にとっていいから信じるっていう行動が、何を信じるかは。
希望じゃん。希望を持てるんじゃん。信じることで。
未来への。
予測不能な未来がこうなるであろうっていうパッケージみたいなさ。
自分ではやってみなきゃわかんないけど、でもこれをやったらこうなりますよっていう指針ができるわけじゃん。
未来への予測不能なものへの不安が解消されるっていうやつ。
やっぱりちょっと安心するってこと?
先が見えないとかさ、次何が起こるかわかんないって怖いことなんじゃないの?恐怖とか。
それがこうなるっていうのがわかるっていう。
仏教でいうならさ、悟りみたいなさ。
その先がわかるから怖くなくなる。
赤ちゃんが泣いたり子供の時に暗闇が怖くて泣くのは、そこに何があるかとか。
自分ができないくて泣くみたいなさ、赤ちゃんとかちっちゃい子供は。
だけどお腹が空いて泣くじゃん。
お腹が満たされてないっていう状況が怖くて泣くみたいな解釈ができるのね。
でもそれっておたんになったらさ、あとちょっとしたらお昼だしなとかさ。
そういうのがわかるから泣かなくなる。
先のことがわかってくると、怒ったり泣いたり悲しんだりする必要がなくなる。
最終的に悟りでいうならば、死すらもわかるっていう状態になると何も怖くないっていうのが、
お釈迦様が説いた悟りじゃん。
いつ死ぬかわからないから怖いけど、死すらも死が何でどういうことで、それが何ならいつかもわかり始めれば。
それがすべてわかるっていうのが悟りの状態で、
お釈迦様みたいに自分もそういう状況になるっていうのがわかるとか、
そういうのを解いていく上で、その先が見えていくっていうのが恐怖を和らげる方法なんじゃないかなって。
それを解いているのが宗教だったり。
例えばキリスト教であれば、詳しくはないけど、
先、自分が重ねていくであろう罪を全部神様が許してくれるよっていうので、
許されることが楽になるっていう考えとか、
未知の恐怖とか、罪への意識みたいなのが軽くなるっていう意味で、
信仰するっていうことになるんじゃないかな。
なるほどね。どうしたらいいかわからないを解決するための指針として、
みなさん信じるものがあるわけだよね。
信じるものを救われるっていうセリフがそうやって出てくるわけですね。
だから救われたいんじゃん。
信じるっていう行為は、結構本能的なものに近いというか、
自分が安心したいから、でも直接は本当は繋がってないにしても、
一段飛躍しているほうが自分が安心するためにやる行為みたいな。
どうしたらいいかの解決策として何かを信じているんだよね、きっと。
そうね。みんな何を信じて生きてるんでしょうね。
未来を信じている人とかに一定数いると思っていて、
それこそ希望みたいなものを信じている人いると思っていて、
それも今の話を聞いていると、今生きている自分を安心させるために
している手段かもしれないけれども、その人にとっては本当にあるわけやん。
でも私からすると不確実性しかないわけで、
端的に言うと愛入れないけれども、
でも未来を信じれるのってすごい強いと思うよね。
実績ベースでその未来まで予測を重ねている人だってもちろんいるし、
そういう未来を描いてそれを信じている人もいると思うんやけれども、
そこまでの頭が、理論、論理、展開しない私にとってはすげえなって思います。
いや、なんか理論とかそういう論理の世界じゃないんじゃないかな。
悟った人と凡人とは全然違うんじゃない?魂レベルが。
魂レベル。人生何回目ですかっていうやつ。
未来を信じている人も結局はその未来を信じている自分を信じてるんでしょうね。
そこだね。
もう今日はうたさんそれしか言ってないけど大丈夫。
言ってることは分からないけど、話聞いてて考えていくと最終的にそこにたどり着くの。
始まりはいつもそこ。
本質を見てるね。
結局自分っていうものがない限りは未来も過去もないだろうし。
でもね、そうやって言われると、じゃあ自分って何なんですか?みたいな風になってきてさ。
1。1よ。私たちは1。
1と0の1。
ここが0であったら何も生まれないけど、1だから、え?何言ってたの?
全は1ですか?
もうみんな1っていう価値があるから、それできっといろいろ生まれてるのよ。
デジタルの世界。
1か0かの1ですみたいな。
なるほどね。
あんまり全ては自分ですって言うと、じゃあ自分って何なんだっけって考えだすとドツボにはまるので。
考えちゃダメだ。ただの1だよ。自分とは。
分かりやすい。
マリマリ理論にするわ、1。
自分探しとか20代で終わらしとけよって。
自分探しっていうワードが恥ずいんだけど。
この歳になると自分探しっていうワードが恥ずかしい。面白い。
自分を探してるっていうよりはやっぱり自分が信じれるものを探すのが自分探しだと思うのよね。
っていうのを今日こんだけ喋ってきて思ったわけやけれども。
自分ってどこかなって探すより、自分が信じれるものはどこなのかなって探す方がよっぽど意外とすんなり済むんじゃないかと。
それでも結構時間かかる人、私も含めているとは思うけれども。
信じてる自分。
自分が信じるもの。
店長旅に出ちゃう。
私は時間を信じてますよ。
時間と、でもやっぱり現実みたいなもの。
今ここにあるものは確かにここにあると自分は信じてるから自分がここに存在しているみたいな。
それぐらいは信じてる。
現在、時間っていう時間軸プラス現在ぐらいは信じてるって感じかな。
仏教のどこの宗派かしらなんだけど、そもそも自分が存在しないみたいな教えもあるじゃん。
教えもそれ用かなって思ったんだよ。
全て存在しないみたいなさ。
1もゼロになる?
違う違う、1って言ったけど、1は誰かと繋がってるから1なのであって。
認識されてないとね。
認識もそうやし。
演技の話ね。
他者との繋がりがあってこその1ですよね。
自分から見た自分みたいなものって、私の中でも確かにないと思ってるからさ。
他者との関係性の中でしか生まれない私の反応、全てが私みたいな、そういう感じがあるから。
そりゃそうだよねって思うけど、仏教はやっぱり信仰というよりは哲学っぽいよね。
だってね、こうやって喋ってるこの場を本当にあることだって証明するのは無理だもんね。