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カランコロン!いらっしゃいませ。喫茶クロスロードへようこそ。
本好きが集まり、みんなが友達になれる音声配信、喫茶クロ。
7月28日、第106回の配信です。
本日は、ソライアン・ナッシーの2名で配信いたします。
フィンランドの生活と教育
今回紹介するのは、朴沙羅さんの
【ヘルシンキ 生活の練習はつづく】という本です。
第46回の配信で、【ヘルシンキ 生活の練習】っていう本を紹介したんですが、
こちらの続編になります。
喫茶は娘のユキ、息子のクマと、3人でフィンランドに移住しており、
そこでの暮らしをすずっているのが、その前巻です。
この話を、前巻の時もソライアンと一緒にしたんですけど、
ソライアンで特に印象に残っているのって、どんなとこかな?
てかまず、この後60回も配信してんだってことに、ちょっと驚いちゃった。
そうですよ。あの、46回から今106回だからそうだね。
ちょうどさ、1年前にさ、ナッシーがさ、あの育休から復帰して、この本みたいな話だったもんね。
そうだよ。
いや、なんかその時の流れというか、を感じたっていうのと、その46回でも話したんだけど、
やっぱ私が一番印象に残ってるのは、
フィンランドの保育園、フィンランドで言う保育園の教育方針で、
日本で個性とか性格ってカテゴライズされているものがすべて、
練習できるスキルみたいに考えられているっていう話が結構、すごい印象に残っていて、
例えばその、人に意見を言うのが苦手っていう子は、
日本だと、あ、何々ちゃんは引っ込み次第な性格ですよねっていうふうに捉えられるところを、
フィンランドでは、人に自分の意見をはっきり伝えるスキルがまだ足りないっていうふうに捉えられて、
じゃあそのスキルを、その日々の生活で練習していきましょうっていうアプローチになるっていうのが、
練習って思って、
この話するとちょっと長くなるから、
前回のね、その46回聞いてもらえたらなって、
ほんと改めて思ったっていう感じです、はい。
いや、まあそう、でもね、練習っていう言葉は、その前回の配信でもすごくキーワードになったし、
今回の配信でもそこはなるなと思っているので、
ちょっと皆さん覚えておいて欲しいなって思います。
で、そんな前回のところから約3年ぐらいの間を空けて、
今回の紹介するヘルシンキ生活の練習は続くっていう続編になるんですけど、
この本に書かれているのは、
フィッシャーが前回からのその後のフィンランド生活っていうのが綴られている一冊となっております。
このね、フィッシャーはね、京都にパパを残して、
そう、子供2人連れて、親1人で2020年からフィンランドに移住するっていうことをしているわけで、
あのコロナ禍にね。
そう、あのコロナ禍にそれをしていて、
で、まあいろんなことがありつつ、でもそのフィンランドの行政とかにも助けられつつっていうのを、
やっている生活のその続きが、今回読めるっていう仕立てになっております。
ユキの教育体験
でね、そう、まあ今回はその中でも特に、お子さんのユキとクマに関わる教育の話を中心に話していこうと思っているんだけど、
まあね、上の女の子のユキはもう小学校3年生ぐらいになってて、
下の男の子のクマは、保育園卒業する年になっているそうです。
いや、もう子供の成長って早いよね。
ね、成長してるね。ちょっとびっくりしちゃった。
そう、もう人の子の成長が早いみたいな状態になっているわけですけど。
はい、じゃあまずユキの話からしていこうと思います。
で、ユキはフィンランドの小学校に進んでいるんだけど、
まあユキはフィッシャーの仕事がお休みになる期間っていうのがあって、
その期間はパパがいる京都に戻って、京都の小学校にも通っているっていう、
まあ2つの小学校に通っている状況になっています。
なのでフィッシャーはフィンランドと京都のどちらの小学校の様子も垣間見ることができて、
まあその違いに驚いたりとか、こういう違いがあるんだなって考えさせられてるっていうのが結構綴られているっていう話です。
ユキの通う小学校には入学願書に倫理科目っていうのの選択肢があって、
信仰、誠教、あとこれはあの正しい教えと書く誠教の方で、
あとETこちらが直訳すると人生観の知識っていう3つのパターンが選べるそうです。
フィッシャーは特に旦那さんも自分も宗教的ではないっていう理由から、
まあ非宗教的な倫理教育であるこのETっていうのを選択させたそうなんだけど、
このETって一体何の授業なのっていうところがわからないと思うし、
ちなみにそらやんETってどんな授業だと思う?
全然わかんない、全然わかんないし、ETって略称だよね、何かしらの。
そう略称、略称で、一応フィンランド語で書いてあったの、ETってこれですみたいな、
エラマンカソムスティエイトみたいな名前の授業らしいんだけど、
そう、これETはこれですって言ってもちょっとわかんないだろうなって思って、
そう、だからETって結局何なんだろうなーって気持ちでこう、まあ聞いてくれれば嬉しいんだけど。
パパママもさ、ユキちゃんもさ、ETって何やって思ってさ、調べてフィンランド語でできてさ、
エラマンカソムスティエイト?エラマンカソムスティエイトか、ふーんってならないよね、何やってなったよね。
絶対ないよね。でも、フィッシャーはあえてETを選んだし、
その授業って一体何なのってこう、どういう授業なのってのをすごい聞きたくてうずうずして、ついにユキに聞いたっていう話なんだよね。
で、ユキの答えは、ETは本間のこと、まあちょっと京都弁入ってるんですけど、本間のことというか、
そういうのを知ることであって、道徳はやったらいいことの話だよというふうに語ってくれるんだけど、
まあユキが受けたETの授業っていうのは、性的マイノリティが作るレインボーファミリーや、
フィッシャーたちのような移民世帯、あと片親世帯、あと離婚再婚経験のある保護者が作るパッチワークファミリーなどの説明があったそうです。
また同級生たちと自分たちの家族が、その中でどれに当てはまるか、みたいなことを話し合うっていう授業もあったそうです。
なんとなくETの、まあでももちろんETの中の一部なんだろうけど、こういう授業だよってイメージは湧いた?
そりゃ、ちょっと湧いてきた。
で、まあフィッシャーはその後の文章で、まあこの授業の前半部分だけで、まあいろんな家族がありますねっていう話だけだったら、
日本でもできるだろうけど、後半部分は日本ではやることが難しいんじゃないかなっていうふうに続ってるんだよね。
それってどういうことかっていうと、まあこのクラスの同級生たちが、こういういろんな家族で育っていますねっていうのは、
違いを明らかにしてしまうというか、普通の家庭とそうでない家庭を明確にしてしまうっていうことで、
そういうことを日本では、まあ教員も生徒も避ける傾向にあるんじゃないのかなっていうふうに思ったという話です。
確かに。私の今ちょっと聞いた中で、こういう授業を受けてるのかなっていうふうに思ったのは、
ETは倫理の科目だから、考えなきゃいけない事実がこの世界にはあるよねみたいなことを伝えてる、
その事実ありますよみたいなところまでを伝えてる授業なのかなって想像して、
私が受けた道徳教育って、例えばこういう考え方をしましょうねとか、こういう行動をしましょうねとかさ、
友達と喧嘩したら謝りましょうとかさ、人の話はちゃんと最後まで聞きましょうとかさ、
授業を受けてる人への考え方とか行動への提案とか介入、介入って言い方するとあれかもしれないけど、
そういうところがあるけど、ETはそこは生徒たちに委ねるっていう感じなのかなって勝手に思った。
そうだと思う。あくまで事実を知った上で、人生観の形成の部分は受け手側が行うっていう前提で、
氾濫軸の情報を得るための授業っていう位置づけで、これは行われているんだろうなと思いました。
ゆきはこの授業を受けて、同級生とお互いを観察して、エリライシア、これは多様性のことなんだけど、
エリライシアのある状態が普通なんだよっていうことを学んだっていうふうに感じているそうです。
ここってさ、やっぱりこういろんな人がいるっていう前提での教育スタンスだなって私は思ってて、
こう視点が違うだけで授業もこう変わってくるんだなとかっていうのが面白かったんだよね。
多様性と教育スタンス
これソラヤンどうかな?
そうだと思う。私さ、この前の本でもさ、フィンランドの人たちは何か問題が起きたときって、
まず先にこう、仕組みに問題があるんじゃないか?みたいに考える傾向があるっていう話があったなって思ってて、
あった。うん、あったあった。
でもさ、こと我々、我々って生きてると、そういう問題があったときに、個々人がこういう行動、考えをしたからだ、みたいな。
個々人がこういう考え方を変えていかなければね、みたいな方にさ、考えがちというか。
でもそれってさ、大前提でみんなが同じことを考えられるっていうさ、無意識の大前提のもとにさ、変えられるみたいな。
それってさ、やっぱ、でも全然バックグラウンドの違う人からしたらさ、そんなみんなが同じ考え方できるわけないから、
じゃあ取りまとめてるシステムとか仕組みに目が行くっていうのは、
あ、それはそうなんだなっていうふうに。
てかそうじゃないと多分、このかの国は成り立たないんだなっていう。
まあ日本も成り立ってるかどうかは分からないけど、そう、なんかそういう。
そうね。
なんかそこにまた立ち返った感じがあったよ。
やっぱり日本だとよくも悪くも普通っていうか、まあ基準になる人がいて、そこからどう違うかみたいなスタンスで判断されてるんじゃないかなっていうのを私も改めて思って、
だから違うっていうことを前提にする教育と、まあ同じであるとか、まあ同じに見えるから、まあだいたいここらへんは一緒みたいなことを前提にする教育での違いみたいなのが、
ここで見えたんだろうなと思って、面白かったんだなと思うよ。
はい、じゃあ続いてクマの話に移ります。
フィンランドは小学校の入学前に修学前教育というのがあり、
クマはその際に特別支援教育を受ける対象になっていることを告げられます。
で、筆者はこれについて、クマがその対象に当てはまるっていうのに納得できない気持ちもちょっと相まって、
この特別支援教育を受けるのはうちだけですか?と尋ねたそうです。
これに対しての先生の答えは、原則としてすべての子供にサポートが必要です。
で、その意味ではみんなに特別な支援が必要ですという回答だったそうです。
まあ筆者にとっては、ちょっと意識の問題にはなるけど、普通の子とそうでない子がいて、
まあ後者は普通から切り離されるっていう感覚があったんじゃないかなっていうふうに綴られてて、
私もこういう感覚が自分の中にあるなっていうふうに読んでて思ったんだよね。
で、まあ普通の尺度があって、そこから外れてしまったから特別みたいな感覚を多分無意識に持っていたと思ったなと思って、
それとなんか全然違うことを先生に言われてびっくりしたっていうのは、すごく私は共感できたなって思ったんだよね。
なるほどね。なんかこう、自分の子供だけが違う施しを受けるっていうことは、
何かこう別のこうラベルみたいなのをペターって貼られちゃって、それはもう取れないものみたいな、この支援を受けた時点で別枠、
みたいにこう勝手に連続して筆者は考えちゃったんだけど、フィンランドではそういう意図ではなくて、
そもそも全ての子供にサポートが必要っていうか、いろんな人がいるから基準の人に合わせた教育みたいなの作れなくて、
何かしら多分全員がどこかで努力しなきゃいけない教育のラインみたいなのが聞かれていて、
それに合わせるために、みんな個々人努力というか、サポートを受ける必要があるっていう考え方に初めて触れて驚いたってことだよね。
クマの成長とスキル
いや、そりゃ驚くわ。
そういうことですね。
いや、なんかそう、今そらやんの話を聞いてて思ったのは、その取れないものみたいな連続、勝手に連続して考えちゃったっていうところもポイントかなって思って、
なんか一度そのラベルを張られてしまうと、ずっとそのカテゴライズが続いてしまうみたいなふうに、
そういう意識もあったのかもしれないなって思ったし、私もそう思ってたのかもしれないなって、今聞いてて思った感じかな。
でもそう、フィンランドでは全ての人に、その人に合わせた特別な支援が必要だから、
だから特殊なことは全然してなくて、これは普通のサポートですよ、みたいなスタンスだったっていうことが、やっぱり驚きだったんだと思うんだよね。
前半で欠点があるっていう考え方じゃなくて、まだ練習中であるっていう考え方をしていたのと同じように、
今のあなたが学校教育を行けるには、こういうサポートが必要なんだよって考えるスタンスは、
やっぱりそう、練習すればそこに行けるっていうふうにも考えられるし、ポジティブでいいスタンスだなって、改めて思いました。
でもその、練習しないといけないからさ、ある種こう、
あ、そうか。
なんだろう、残酷かなって、
あー、なるほど。
基準になる人が、基準になる人に合わせた感じで仕組みが成り立ってるんじゃなくて、
仕組みがあって、そこにみんな合わせていくんだよっていうスタイルってことじゃん、つまりは。
で、サポートはするけど、その仕組みに乗るのは自己責任でよろしくみたいな、考え方もできるんじゃないかなっていうふうに思っていて、
そうだね。
それって残酷だなと思いつつ、てかそもそもフィンランドって環境的にだいぶ過酷じゃん。
冬めっちゃ長い日みたいな。
寒いしね。
やっぱみんなさ、そのフィンランドの厳しい環境があるから、
なんか、だから私はここでこう、フィンランドの民の強さみたいなものを感じたなって。
あー、なるほどね。そこはある意味厳しい。
ポジティブでもあるけど、でも練習はさ、しなきゃいけないからさ。
そうだね。
タイダでは生きていけない。
でも練習すれば、そこに行けることができるし、そのための支援は惜しまないっていう、
確かにポジティブな面と厳しい面と確かにあるね。
あるなっていうふうに。
なるほど。
そう、クマはその特別支援を受ける対象ではあったんだけど、それを受けてやっていったというのがこの後綴られています。
クマはこの2年の修学前教育の途中で、残り1年で練習したいスキルみたいなのもヒアリングをされます。
クマの答えは、友達と仲良くすることと集中を続けるということの2つです。
先生はそれを受け入れてくれて、あと1つだけ、言語スキルの強化っていうのも付け加えられたんだけど、
この言語スキルの強化は、外国語をしゃべれるようになりましょうとかじゃなくて、
感情に適切な単語を当てることっていうのを指していたそうです。
これもさ、やっぱその付け加えられたやつ面白いなって思ってて、
なんか自分の感情を言語化するっていうのってさ、大人でも難しいのにさ、これをやっていこうねって、
こう修学前にさ、小学校入学前にそれを練習するのが、ここも日本と違って面白いなって、ナッシーが思ったポイントだよ。
修学前ってことは、6歳とか5歳とか?
そうそう、そのくらい。
で、練習したいスキルとして、友達と仲良くする、集中を続けるって、5歳とか6歳の私は絶対言えなかっただろうなっていう。
まず、くまちゃん素晴らしいっていうのがあるのと、
言語スキルの強化、その自分の感情を言語化する練習をしましょうっていうのって、
いや、これもすごいなっていうふうに思って、
で、私わかんないけど、フィンランドで暮らしたことないから、
ただ、察するに、本当にいろんな言語文化圏の人が集まってくる。
それが前提の世界って、
本当に幼い頃から自分の感情とか自分の思いを言葉にできないと、誰も察してあげられないから、
人間関係的にすごい苦戦するんだろうなって、
自分の幼稚園とか保育園の時代を思い出してみると、
やっぱりなんとなく似たような子たちと過ごせていて、
似たような感覚でいると、
言葉にしなくてもなんとなくこうでしょみたいなところで、
お友達関係ができていったような安心感がないんだなって思うと、
すごいこう大事なことなんだなって思って、
やっぱそのちっちゃい頃にさ、いいお友達ができてるとか、
暖かい人間関係に恵まれるっていうのは、その後の人格形成にすごい影響するから、
これはなんかすごい、なんていうんだろう、先生たちは並々ならぬ思いで重視してるのかなって勝手に思っちゃった。
でも本当にそういう、やっぱりその手のかけられ具合とか、
そういうふうに相手をちゃんと人として見て尊重して、
その子にアドバイスをするっていう姿勢は、
すごいやっぱり手をかけてもらってるなっていうふうに、筆者も感じてるし、
クマ自身も感じてるっていう描写もあって、
そこは本当にフィンランドが力を入れているし、
そういう教育をしているっていうところは間違いないんだなって思ったかな。
で、やっぱそのスキルの練習も、その後クマはもう1年やって、
教育におけるポジティブなアプローチ
その後先生にフィードバックをもらったときに、集中力はちゃんと向上しています。
こういう条件だったら、クマはちゃんと集中できますよっていうことだったりとか、
自分の感情の言語化のところも、自分の負の感情をうまく処理する能力が、
ちゃんと練習できてますよっていうことを先生に伝えられるんだよね。
で、もちろんその負の感情とかが溜まってしまったときも、
それが他の子に手を挙げるとか、そういう気概のところにつながらないっていうことも筆者には伝えてくれてて、
だからすごいそういう意味でも、結局クマは特別支援教育を受けたんだけど、
小学校に入学するときには普通の子と同じ教育のところで、
一緒に教育を受けるのがいいでしょっていうふうに最終的に判断されて、
そういうふうに申し送りされる。あとは小学校の結果待ちみたいな状態になってたっていう感じです。
で、まあそう、私ここすごく感動して、
なんかやっぱその練習をどういうところが、ちゃんと具体的にしなきゃいけなくて、
じゃあどう対処していけばいいですか?みたいなアドバイスもしてくれるのってすごいなって思ったし、
ポジティブな目線に立って、練習していく方法をちゃんとアドバイスしてくれたのがすごいんだなって思ったな。
子育てとスキルの重要性
うん、そう、すごい感動するんですよ、ここ。
クマちゃんもめっちゃ頑張ってるよね。
うん、頑張ってる。
ほんとにさ、負の感情をうまく処理する能力、6歳だよ。
そう、6歳なんだよね。小学校入学前に、もちろんこれからね、感情が、もっと違う感情が出てきて、それがうまく扱えないこともあるかもしれないけど、
今こういうふうにできてますよって言ってもらえるってすごい、親としてもきっと安心するよね。
すごい。やっぱね、その適切な、練習練習でずっと練習の話してるけど、適切な練習の提供って大事だよね。
適切な練習をするっていうことがさ、ガム皿にやったとてさ、全然こう、意味がないしさ、
時間を有効に使って、毎回さ、なんか有意義になってやってかないとさ、まず練習してる側がさ、辛くなるっていうかさ、
成功体験を得て、この練習をしていけば、クマちゃんが決めた目標にたどり着けるんだっていうさ、
成功体験がないとさ、ただただつらいだけでさ、それはやっぱしんどいから、
やっぱこう、適切な練習ができるようにしたいし、我々は子供育ててるから、適切な練習をね、提供できるようにね、なっていきたいよね。
なんか、今この子には何のスキルが足りてないかなって、いう頭で考えて、その練習方法がね、ちゃんと用意できると言うね。
そうなんです。この本書かれてる期間って、ちょっと最後に補足の情報も入れておくんですけれど、
この本の内容が書かれている期間は、ウクライナ侵攻が行われている期間とも合致するので、
近しい国で起きている戦争とか、そこで生活している人々の様子っていうのが書かれている章もあります。
で、戦争という非常事態が身近にある中で、人々の生活とか、そこで人々が考えていることとか、
筆者自身が思ったことや考えたことも書かれていて、この部分も読みごたえがあります。
非常事態の中での生活
この話もすごく読みごたえがあったので、気になる方はぜひ読んでみてください。
なんか、約1年ぶりに、約60回ぶりに、ヘルシンキのこの練習の雰囲気を吸って、
いや、ちょっと忘れかけていたなっていう反省があって、
あ、そうだの?
私は結構、実はマメな人間なので、練習はするんですけど、
練習をしてるんだけど、改めてそういう考え方で、
周りの人とあんま向き合ってなかったような気もしていて、
確かにその、特に子育てに関しては、もうちょっとスキルセット的に向き合えるなって、
確かにね、1年前はね、私の娘も1チャイだったから、
今は結構できることも増えてきてるから、2チャイになり、
改めてそう、スキルセット的なスキルというか、その練習ができる、
練習する必要があることが結構出てきてるから、
トイレトレーニングとかさ、具体的な話だったら、
超具体的!
具体的な話だったら、そうじゃない、それ以外にもさ、
精神的な意味でも練習できる土台はありつつあるから、やっぱこの考え方をね、思い出したなっていうのがあって、
この2作品に染みわたる考え方に、やはり定期的に触れていきたいという気持ちに強くなりまして、
よかったです。
練習していこう。
そう、練習は続いています。
練習はね、続くから。
はい、ここまででトークテーマは終了ですが、
きさくろでは、いつでもお便りを大募集しています。
トークのご感想や、本にまつわるお悩みなど、ぜひご投稿ください。
ポッドキャストやノートにお便り投稿フォームのリンクをご用意しておりますので、
そちらからご投函いただけると嬉しいです。
今後もきさくろスロードは、毎週月曜日夜21時よりゆるゆる営業していきます。
本日はお越しいただきありがとうございました。
またお待ちしております。
バイバーイ。