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2023-12-04 33:08

【トーク】#26 世界は贈与でできている「世界は贈与でできている」

今月の一冊紹介コーナーは、表題のこちらの本!ゆうこりんとなっしーの熱いトークバトル、という展開になったかならなかったかは、聴いて確認してみてね★/今日紹介した本「世界は贈与でできている」(近内悠太)

00:01
スピーカー 1
カランコローン、いらっしゃいませ。喫茶クロスロードへようこそ。
この音声配信は、音好きな人たちがフラッと集まる喫茶店をコンセプトに、店員3人組がゆるーく話してまいります。
ふと一息つきたい時に聞いてくださいね。
12月4日、第26回の配信です。
本日は、私、なっしーとゆうこりんでお送りいたします。
12月になりましたね。
今年も残り1ヶ月、なんとなく気ぜわしい気持ちになりやしなく、
今日この頃をお過ごしの皆さんには、ぜひ喫茶クロスロードでゆっくりしていってみよう、会いたいものですね。
ちなみに12月のテーマは、プレゼント。
そして今日紹介する本は、私がゆうこりんと語りたくてたまらなかった本。
この本の話をしたくて、製作者特権で今月の定番をプレゼントにしたという話もあったりなかったりします。
というわけで、前の目に語りたい感を出した、今日の紹介本をまずはご紹介しましょう。
世界は雑魚でできている、近内ゆうたさんの本です。
著者の近内ゆうたさんは哲学者であり、この本は雑魚という概念について思考していくプロセスが書かれた本です。
今日のトークでは、この本をベースに、二人でこの資本主義社会を雑魚でできた社会として捉え直してみようというテーマで語りたいと思っています。
とはいえ、雑魚でできた社会ってなんだ?という感じだと思うので、
そのためにまず、本の中で紹介されている雑魚とは一体何なのかを説明して、
その後、二人のトークに移っていきたいと思います。
まずこの本は全9章の構成になっていますが、
私の読んだ感覚では、ざっくり3段階にまとめられます。
雑魚とは何かを考える最初の4章。
他者とのやりとりを言語ゲームと捉えて理解する5、6章。
そして、この言語ゲーム論を通じて、私たちがこの世界の雑魚というやりとりを改めて理解する7から9章です。
この本には、資本主義の隙間を埋める倫理学という副題もついています。
03:01
スピーカー 1
商品の交換としての資本主義社会の形は、
合理的で早く、借りたものは返さなければならないのが絶対のルール。
でも雑魚は過去の誰かからの思いで駆動されて、かつ受け取り人の存在があるから送れるもの。
すべて自分自身の思いがスタート地点になっている社会であるという結論で結ばれています。
そうやって、今ある社会を捉え直せることに驚きもしたし、温かい気持ちになれました。
この本を私とゆうこりんで語ることで、皆さんが哲学って面白いって思ったり、雑魚っていう言葉について考えるきっかけになることを願っています。
スピーカー 2
いや、すげえ、めっちゃしゃべっちゃったけど、ゆうこりん、ちょっとこの私の暑さについてこれてる?大丈夫?
スピーカー 1
ついてこれてる。ナッシーが暑くて、わくわくしてきたよ。
やった。ちょっと棒読み感ある気がするけど、大丈夫?
ちなみに、ゆうこりんはこの本読んでどう思ったんだったっけ?
私が感じたこの本の魅力は、自分の中のもやもやとしたものを言葉にしてくれているところです。
スピーカー 2
例えば、私が哲学になんで惹かれるんだろうなーってもやもやって考えてたんだけど、その一つの答えをもらったような気がしていて、
スピーカー 1
その答えっていうのは、哲学っていうのは幸せになるためのテクノロジーなのです。
スピーカー 2
なんでかっていうと、概念を獲得することで使う言葉も変わるし、言葉が変われば行動や生活も変化するから。
スピーカー 1
筆者は、雑用を正しく語る言葉が必要だと本の中で言っています。
この本読んで、確かに雑用を正しく語ることができたら、
スピーカー 2
殺伐とした資本主義の競争社会が、ほんわか暖かいものにくるまれるような気持ちになるなぁと思いまして、
なので、ナッシーと雑用について、存分に語っていきたいと思ってます。
スピーカー 1
やったー!よかったー!ということで、まずその雑用についてのことを、これから語っていきたいと思いまーす。
スピーカー 2
はい、お願いします。
スピーカー 1
まず冒頭で、この本の中の雑用は、
僕らが必要としているにもかかわらず、お金で買うことのできないもの及びその移動と定義されています。
06:07
スピーカー 1
そして、お金で買えないものの例として、贈り物が挙げられます。
もし、大切な誰かにもらった時計をなくしてしまったとして、
それと全く同じものを手に入れたとしても、それはもらった時計と同じものだと思えるでしょうか?
私はやっぱり、これはどこか違うものだと、心のどこかで思ってしまう気がします。
でもこれは、今の資本社会の仕組みから考えるとおかしなことで、
物がお金と交換で得られるだけのものであれば、そのもの自体に区別はないはずなんですよね。
この例からわかるように、物は誰かから贈られた瞬間に、
この世界にたった一つしかない特別なものへと変貌する、
物を変換させる創造行為が雑用である、と筆者は言っています。
また、本の中では、すべての雑用に、その雑用のもとになった雑用がある、とも言われています。
無性の愛でさえ、無から生まれる愛ではなく、
自分の親から不当に愛されてしまったという自覚が、子供にある種の追い目を感じさせる。
その追い目を打ち消すために、親ではなく、自分の子供に渡されていく雑用こそが、
私たちの表現する無性の愛だ、という話です。
私たち自身も、そしてきっと私たちの親も、
育ててもらえるだけの根拠や理由があったから、愛されて育ったわけではないと思います。
それでも十分に愛されて育った場合に、その愛を私たちは不当に受け取ってしまった、と感じます。
そしてその愛を親に返せるわけではないので、自分の子供に渡しているのです。
この不当に受け取ってしまった、というのがポイントで、
ある種の罪悪感に駆動されて始まるのが雑用ではあるのですが、
同価値のものの交換が原則の資本主義と対比させると、
とてもバランスの悪いものの移動のさせ方、と捉えることもできます。
ここで私からの問いは、資本主義社会と雑用でできた社会を対比させる、という狙いで、
私たちの今している行動は、交換なのか?それとも雑用なのか?
09:04
スピーカー 1
を考えてみたいと思います。
ゆうこりん、どう思う?私たちの普段している行動は、
資本主義社会でやる交換なのか?それとも雑用なのか?という問いです。
スピーカー 2
なんかね、くっきり区切れるもんでもないなぁと、この問いに対しては思って、
例えば、働くっていうことを資本主義的に語ると、
スピーカー 1
労働力と賃金の交換っていうことになると思うんだけど、
スピーカー 2
一方、この仕事をすることによって、
自分を育んでくれたこの社会に恩返しをする、という理由で働くと、
スピーカー 1
雑用に対するお返しってことになると思ってて、
おんなじ働くでも、お金を交換する、という理由に駆動させるのか、
スピーカー 2
恩返しをする、という理由に駆動されるのかで、
交換なのか、雑用なのかが変わってくるって思ったんだけど、
スピーカー 1
思ったんだけど、
一方だけじゃないなと思って、
スピーカー 2
私自身、働く理由は、資本主義的にお金も欲しいし、
ただやるなら、社会のためになることをやりたいなって思うのは、
やっぱり、この社会で生きてきて、
いっぱい雑用をもらっているなっていう気持ちもあるから、
スピーカー 1
お返ししたいなっていう気持ちもあるんだと思っていて、
スピーカー 2
ただその仕事のやりがいっていう、今、昨今求められているものっていうのは、
なんか、不当に受け取ってしまったって言うと、
スピーカー 1
なんだろう、後ろめたい感じがするけど、
なんだろうね、雑用の受け取り人としての気持ちがあることで、生まれることだと思うので、
スピーカー 2
自分が受け取っている雑用にちゃんと気づくことによって、
スピーカー 1
自分も仕事のやりがいを得られるという循環が生まれるんじゃないのかなと思った。
働く、働くっていうことは、交換だけではないんだね。
そこ、そうか、私すごいさ、今、分別脳になってたから、
12:00
スピーカー 1
すごい、資本主義社会を成り立たせている労働は、やっぱりもう交換でしょ、みたいなスタンスでちょっと今日望んでたんですけど、
なるほどね、確かにでも、そうか、やりがいとかを求められている、求められているって言うとちょっと、
またちょっと他の人の圧力がかかっている感じがするけど、自分の中で自発的に湧き上がってくるやりがいとか、
こういう貢献をしたい、みたいな思いは確かに、雑用的なものというか。
そうだね、すごい、なるほど、やっぱ2人で話すっていう良さがちょっとあるよね、と思っているんだけど、
でも私、いろんな例を考えてみて、フリーマーケットとかって、結構出品者側からすると無償で物を提供するっていうところから、
これって雑用に近いのかなーとか思ってたんだよね、思ってたんだけど、
でも出品者もさ、出品することで家の中でスペースが空くとか、不要品の始末というプロセスを他の人に受け取ってもらえるとか、
そういうメリットをさ、フリーマーケットに出品することでさ、得ているっていう風に考えるとさ、
これも雑用というよりは交換の部分が大きいのかなって思ってきちゃったりとかしてて、
なんかそうすると、やっぱ今の社会で成り立っているものって結構交換に近いのかなー、
やっぱ資本主義社会でうまく回っているものってそうなっちゃうのかなーってすごく思ったんだけど、
一方でさ、この本の中でもさ、出てくるサンタクロースっていう存在、
ここはまあ、資本主義社会の中で雑用がうまく機能できる例として、本の中でも出てくるんですけれど、
スピーカー 2
サンタクロースによって雑用の差出人が名前を消すことができるっていう話が、私はすごく面白いなと思ってて、
スピーカー 1
やっぱりさ、親の愛をさ、子供がさ、もしすぐ小さい頃から自覚できてしまった場合に、
その重さに子供は生きていけない、みたいなことも書いてあったじゃん。
あまりにもその愛が大きすぎて、みたいな。
まあだから、やっぱさ、小さい頃ってこう、もう本当に手間がかかるから、
でもそれを本当にすぐ自覚できてしまったとしたら、親はその愛で窒息、
スピーカー 2
なんか違った、子供はその愛で窒息してしまう、みたいなさ、書き方がされててさ、
スピーカー 1
確かにそうだよな、でも本当にだから分かんないって大事なんだよな、みたいな。
その差出人が分からないけど、そのプレゼントを素直に喜ぶことができるサンタクロースって、
受け取り人のお夢を軽くして、確かに雑用だけど、
15:05
スピーカー 1
なんかこの話の中で、上手く成り立たせるには、私たちは雑用してるっていう方の存在を消すのも大事なんだよな、とかっていうのがすごく気づかされて、
面白かったなって思っている。
おお、面白いよね。
雑用する側は消えた方がいいというか。
そうそうそうそう。結構そこも大事なポイントというかね。
やっぱあれなんだろうね、きっと交換みたいな、顔と顔が見える関係で交換しちゃうんだろうね。
ある程度気持ちの面というか手間の面とかもあってさ、
お互いに顔が見えるからバランスが釣り合うようになってなきゃいけないよねっていう意識が、私たちどこかで働くのかなって思ってて、
顔が見えないからこそそういうふうには思わないというか、気づかないっていう、気づかないことも、
私たちは気づけるようになりたいっていう話も最後の方ですると思うんだけど、気づかないってこともまず第一段階のプロセスとして必要なのかなっていうのはやっぱりあるよね。
スピーカー 2
本にも出てきたけど、差出人の祈りみたいなことが書かれていて、この贈り物届けばいいなみたいな形で。
スピーカー 1
あ、あったね。
スピーカー 2
さっきの私の例でも、社会から贈られているって私はちょっと思ってはいるんだけど、
スピーカー 1
その社会って、匿名的なものであって、
スピーカー 2
具体的に言うと、税金で整備されたきれいな道路があったりだとか、インフラがそろっていたりだとか、
スピーカー 1
そういうことって、特定の誰かがいるわけではなくて、
スピーカー 2
そうね、本当に公の、公のというか、大きいものというか。
そうそうそうそう、資本主義の仕組みによって出来上がった部分も多大にあると思うから、
それとの交換という意味で考えると、交換ではなく、
スピーカー 1
従与の受け渡し、ナッシーが説明してくれたみたいな、ちょっといびつなものになるんだよね。
そうね、なんかそれをだから、あまりにも具体的に、誰々さんにこれをお金を払ったからみたいなことを考えてくると、
やっぱり交換の要素が強くなってきて、
18:00
スピーカー 1
でもなんかそれがもうちょっと、ちょっと大きい部分になってくると、交換の意識は薄れて、ちょっと従与の方に行ってくるみたいな感覚もあるのかね。
スピーカー 2
ね、捉えどころがないけど、
たださっきのさ、プレゼントっていう形で、何かを渡されると、そのものは唯一特別なものに変貌させる。
と思うと、プレゼントした人っていうのは明確だもんね。
スピーカー 1
そうね。
スピーカー 2
そういう象徴もあるよね。
スピーカー 1
そうね、今すごく大きい話と、すごく顔の見える関係の2つの軸で話してて、
顔が見えてしまうと、若干交換の要素というか、
スピーカー 2
反対給付義務が生じるって、本には書いてたよね。
スピーカー 1
あったあった。
スピーカー 2
もらったら返さなきゃ、みたいな。
スピーカー 1
そうそうそうそう。
プレゼントをもらったら、じゃあお返ししなきゃ、じゃあまたお返ししなきゃ、みたいな。
もちろんそれも象徴の良い関係ではあるけれど、それが行き過ぎるとやっぱり、
あげたから、あげた分だけ返してよ、みたいなのが強くなるってことだよね。
この話をもうちょっと広げたい気もするけど、先にも進みたいので、ちょっと先に進めます。
はい。
で、話を進めていくと、本の中盤には言語ゲームという言葉が出てきます。
この言葉は、ウィトゲンシュタインという哲学者が提唱した理論をわかりやすく説明しています。
例えば、野球のファールを、野球をプレイしてみて、これがファールなんだと理解できるように、
私たちはその語句を用いて、他の人とちゃんとコミュニケーションをとれるから、その言葉を理解できます。
実践を通してゲームが成立するため、
事後にルールが存在するように見える活動すべてを言語ゲームと呼ぶのが、このウィトゲンシュタインの言語ゲーム論です。
そして私たちは他者と生きる限り、この言語ゲームの中にいます。
そしてそのゲームの中で、もし異常が現れたら、どうしてそれが発生するのかを考えることができるようになります。
要するに、今ある資本主義社会も一つの言語ゲームだと考えたときに、
21:01
スピーカー 1
そのルールに適合しないものの移動はある種の造評であり、私たちはそこに気づくことで造評を受け取ることができます。
そして異常に気づくには、SF小説のような想像力が必要です。
世界が終わってしまう想像をして、まだ終わっていない現実に安堵するように。
破局が訪れる前に破局を見る、世界が終わる前に世界が終わる想像をするという想像をエンターテイメントとして見せてくれるのがSF小説です。
もしこれがなかったらどうだっただろうかと考えてみることで、私たちはその存在のありがたみに気づくように。
そうやってどこかで誰かが世界を支えたり、残してくれたからこの社会は成り立っている。
そんな想像力を駆使したときに、私たちはどんな造評に気づくでしょうか。
ということで、ここすごいすごい長いところをギュッとまとめちゃったんで、結構皆さん理解が追いついてないかもしれないから。
一応問いももう一度言うと、今のルールというか、今の社会のルールで考えたときに、あれこれって普通だったらありえない好感だよなって思ったときに、
おかしいなって思ったそのものの移動が造評なんじゃないかっていうふうに気づけるよっていう話なんだけど。
自分が今まで受け取っていたって、後から気づいた造評って何かあるかなっていうのと、
その造評には何で気づけたのかなっていうのを、ゆうこりんに聞きたいと思います。
どうぞ。
はい。私はね、本を読んでいるときに、はっ、これはすごいものを造評されているのでは?と思ったことがあって、
スピーカー 2
ポジショントークっぽいんだけど、まあ別に。
スピーカー 1
そう、まさに本を持ってくるんだって思ってくるよ。
スピーカー 2
いや、でも本当に本を読んでて、はっとしたことがあって、本の著者って、すっごい膨大な思考の末に、
スピーカー 1
主欲の言葉を本に込めて、私たちに届けようとしてくれてるような気がしてきて、
スピーカー 2
この本を読んだ人が幸せになれますように、という思いが込められているような気がしたことがあったんよね。
なんで気づけたのかっていうと、歳とったからというか、
24:05
スピーカー 2
経験重ねて、ちょっとやそっとのパワーでは、この本は生み出せないよなっていうことが、経験的に感じられたからなのかなと思ったり。
あとはね、なんか身近なところで、さっき身近というより、経験的に感じたこととして、
コロナ禍がSF的な想像力を、県外に移動できるってありがたいとか、
スピーカー 1
そうね、そうね。
スピーカー 2
そういうことが気づけたなと思ってた。
スピーカー 1
そのユーコリンの本の話に戻るとさ、膨大な思考の末に、この本を書き上げててっていうところに気づけるのってさ、
やっぱり自分もさ、文章まとめてみようって思った時にさ、あれ、全然まとまんないぞとかさ、
これについて考えて、読んで分かった気になったけど、
てかまさにこの象洋の台本もなんですけど、読んでてこう、なんか読んで分かった気になったと思ってたけど、
まとめてようともしたら、全然まとまらなかったみたいなのとかも経験するとさ、
これを書くために本当にどれだけの遂行を重ねたんだろうとかさ。
そうだよね。
作ろうと、作ろうとというか、人にまた話してみようとして分かる、その、この本の偉大さみたいな、偉大さ。
この象洋の本に限ったわけでもないけど、やっぱそういうことを、いろんな本を読んでて思ったってことだよね、ユーコリンは。
そうそうそう。本って、その本を書いた人が人生かけて、気づいたこととかを、1000円ぐらい出せば、教えてくれるみたいな。
その価値以上のものが、込められているような気がすると、象洋を感じたのかな。
なるほどね。でも確かにそう考えるとね、もうなんか1000円以上の価値を感じた時点で、あれだもんね、もう交換が成り立ってないもんね。
1000円でこの本買えないよって思っちゃったわけだもんね、ユーコリンは。
スピーカー 2
そうそうそうそう。
スピーカー 1
そしてそれを不当に受け取ってしまったと思うかもしれないよね。
だからこのラジオやってるのかな。
そういうことね。それすごいかっこいいね。受け取ってしまったので、このラジオで象洋を他の人に渡します、みたいな感じだよね。
そうそうそう。
27:02
スピーカー 1
いやでも私はね、そう、なんか自分でこの問いを立てといて、今まで受け取っていたって気づいた象洋って何があるかなって考えた時に、
私の地元とかは、すごいお祭りとかがすごい盛んというか、結構大事にしている地域で、
祭事というか地域行事みたいなのを、ちゃんと伝統的に受け継いでくれる人がいて、
お林さんとか、それを担いで歩く男の人とかも、ちゃんとある程度組織だって続いているところがあって、
でもあれって、別に賃金が発生してるわけではないだろうし。
スピーカー 2
そうだよね、その人たちの労働力は、誰が報酬を払ってるんだっていう、あれ?
スピーカー 1
そう、ってなった時に、そうそうそう、なんかとかを考えた時に、
いややっぱりそういうお祭りをずっと、ずっと繋いでたから繋ぎたいっていう思いも、もしかしたらあるのかもしれないけど、
でもそれにはさ、たぶん自分自身の思いとかもないとさ、続けられないところもあると思ってて、
あれも一種の贈与なんだよな、贈与なんだよなって言っちゃうとあれだけど、
本当にすごい続けてくれるの、ありがとうって思うし、
お祭りとかを見て、今年も自分と同じ年代の人たちが引っ張っていく立場とかにもなってるからさ、
やっぱりすごいな、この人たちはちゃんとそういうのを繋いでいってるんだなって思うと、
やっぱあれも贈与の一種なんじゃないかなって思ったりして、
なんで気づいたかっていうとやっぱり、すごい大変だなっていうのにも気づいたんだよね。
なんかちっちゃい頃はさ、お祭りかっこいいとかさ、お囃子かっこいいとかしか思ってなかったけどさ、
それを練習とかする時間を作るとかもさ、今だったらどれだけ大変なのかとかもわかるじゃん。
だからそういう自分の好みになって、ああいう地域行事にも時間を年出できる人ってすごいなって思ったっていうことに気づいたんだろうね。
やっぱ、なっしーも年取ったからだね。
ゆうこりん、その一言でまとめないでよ。今いい話してるのに。
スピーカー 2
本で書いてあったのは、贈与に気づくには教養がいるって書いてたから、私たちに教養がついたってことだね。
スピーカー 1
なるほどね。いいね。いいまとめや。なんか持ってかれた感がするわ。
スピーカー 2
はい、じゃあ、え、ゆうこりんもう、もういいの?もうこれぐらい?これぐらいかな?
30:03
スピーカー 2
語りだしたら朝まで語れるけど、朝までは長すぎるので。
スピーカー 1
ちょっとね、そらやんが編集がね、大変になっちゃうので、まあでも、その教養の話とかもありましたけれど、
私がこの本の結び方で秀逸だと思っているのは、
これだけ贈与について語ってきたけれど、
じゃあ自分はちゃんと贈与をつないでいけるのか?
贈与を渡せない人も、もしかしたらいるんじゃないのか?
という懸念も考えてくると出てくる頃かと思います。
私はまさにそう思ったんだよね。
なんか、私お祭りにも、お祭りとかにも参加してないし、
みたいな、本とか書いてないし、みたいなさ。
私ができる贈与ってなんだ?とか思っちゃったんだよね。
でも、その、そういう懸念も出てきたところで、最後まとめてくれるのが、
そもそも受け取り人がいるから、贈与を渡す人がいるから、
差出人は生きる力を不動させることができる、という最後のまとめです。
冒頭でも述べましたが、
過去の誰かからの思い出駆動されて、
かつ受け取り人の存在があるから、贈れるもの。
あくまで自分自身の思い出、渡すことを選べる。
そっと言うだけで、なんだかとても温かく感じられるなと思いました。
贈与でできている世界を考えた時に、
少し優しい気持ちになれたことを、皆さんにお伝えできれば幸いです。
ここまででトークテーマは終了ですが、
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またお待ちしております。
スピーカー 2
ありがとう。
スピーカー 1
バイバイ。
33:08

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