00:20
和歌山市のアウトダショップ、キセンランドトレイルの白石です。
有田市のコーヒーショップ、ARCの上田です。
この番組は、毎回和歌山で活躍するゲストの方にインタビューしていく番組です。
キセンラジオ第42回、本日は和歌山県岩手市にある学愉庵まなびやで収録しています。
本日のゲストは、加民コーヒーロースターズ西田さんの気になる人。
学びの大切さを伝えて成績を上げる塾、まなびや代表の須山忠彦さんです。
須山さんの生まれから現在に至るまでのルーツ、学愉庵まなびやのことや、これから計画していることについてお聞きしていきます。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
それでは、まず須山さんから自己紹介していただいてもいいですか。
はい、よろしくお願いします。
ただいまご紹介に預かりました、まなびやの代表の須山と申します。
実は大阪生まれの大阪育ちで、大阪の豊中というところで生まれました。
その後、点々とするんですけれども、1967年の3月8日生まれ。
魚座なんですよ。これがいつも言うんですけど、ミスター・チルドレンの桜井さんと同じ、ドンピシャの誕生日を誇りに思ってます。全然違うんですけど。
早くから母子家庭で、とりあえずとても貧乏な家で、頑張って母親が働いてくれてたんですけどね。
姉っ子と私と3人暮らしでずっと生きてきました。
小学校の時の低学年までは結構楽しい活発な、よくある少年で。
あの地区っていうのは、いわゆる千里ニュータウンができたとして、もうマンションマンション、団地団地だ。子供だらけだったんですよ。
なので学年問わずみんなで遊んでたっていうのが、僕らの時代でした。
3種の神器がね、ビー玉綿香、コマ。
そんな昔の?
昭和です。すみません。やったことあります?
えー、ビー、米ゴマありますね。
米ゴマですね、よかったー。コマが義理あるからぐらい。
そうですか。逆に僕らの時はファミコンなかったんですよ。
そうですよね。
もう外で遊ぶ、それで毎日のように遊んでた。
楽しい楽しい小学校時代でした。
03:00
で、いろんなものが好きでしたね。ミニカーとかプラモとかレゴとか作ったり。
あとスポーツもそうやって手打ち野球とかね。
手打ち野球?
柔らかいボールを手で打つんですよ。パットがないので。
あとはルール一緒なんですけど、手打ち野球、あとドッジボール、サッカー。
いろんなスポーツもやってましたね。
そんなして楽しい生活を過ごしていたのがその頃ですね。
えー、そうなんですね。なるほど。
で、結構まあまあルーツの部分も進んで説明してもらったんですけども、
前回ゲストのカミンコーヒーロースターズ西田さんから紹介していただいたんですけども、
西田さんと須山さんのご関係というか、どんな感じで出会われたんですかね。
もう彼これ10年以上のお付き合いになるんですけども、
それこそ彼が初めてフェイバレットカフェがそこの岩手店ができた時からのお付き合いというか。
そこのオーナーさんともちょっと仲良くさせてもらってましてね。
実は設計図なんかも僕見せてもらってたんですよ。
えー。
須山さん今度こういうのを作ろうと思うんやみたいな。見取り図みたいな。
かっこいいカフェやろみたいな。
フェイバレットカフェ。
はい。
で実際できて、その時にマスターとして来られる、店長さんとして来られるっていう風に紹介してもらって。
それが初めて。
なるほど。
ですね。
なのでちょうどその時も私もここを始めた頃だったんで、なんか競具も似ていて新たにチャレンジ、新しいフィールドにチャレンジしようっていう時もあり。
で何よりあの癒し系でしょ。
マスター。
あの雰囲気で。
あのね、この間話聞きましたけど、仕事では大変だった。
だけど表では絶対こう、癒しの雰囲気をお客さんにしか出さないので。
仕事その当時の大変な思いとかいろんなあったんですけど、ちょっと1日の終わりに夜カフェで一杯のコーヒーもらってちょっと話して聞いてくれたりとか。
そんな関係からが始まりでしたね。
もう十何年前ですよね。
西田さんのお子さんたちもこの学び屋に通っていて。
今頑張って聞いてくれてます。
めちゃめちゃええ子らでね。
頑張ってます。
西田さんのお話ではなんかの勉強だけじゃなくて、その勉強する意味を教えてくれる塾やみたいなことを言われてたんで。
学び屋がそういう形での塾になるに至るまでの話とか、
須山さんのルーツのところを先ちょっと語ってもらったんですけども、
それをさらにこれから聞かせていただいていただきたいんですけども。
06:00
小中そんな感じで過ごされて。
で、高校ですか?
まあ小学校後半からですね。
黒歴史に入っていく訳なんですよ。
だからあんまり話したくない内容ではあるんですけど。
ただここが大きく今にも影響してると思うんですね。
で、
母親と父親が離婚しまして、
母親と父親が離婚しまして、 母親と父親が離婚しまして、
母親と父親が離婚しまして、 そこからテンテンとしていくんですね。
豊中から茨城へ行きまして
美濃、池田、また豊中に帰ってきて
住まいの関係とかもあったので
いわゆるハイツなんていうのはきれいなもので
いわゆる文化アパートって言うんですかね
ガラガラっとして
お風呂もないときも一緒ありましたし
銭湯行ってたりとか
お風呂もこういう水色の四角い湯船で
ここに風呂窯があって
そういう設定のアパートに
1LDKとかね
そんなサイズで
それもしょうがないんで
その中で暮らしておったり
てんてんとしたんですけども
何がつらかったかっていうのは
やっぱり天候ですね
もう1年ぐらいでてんてんとしたので
友達がなかなかできなくて
それまで楽しくみんな遊んでたじゃないですか
ずっと一緒に持ち上がって
それが急にてんてんとしだしたんで
僕もなかなかすぐ友達ができない
自分が悪いんですけどね
そういうタイプだったので
それ天候するのはお母さんのお仕事の関係とか
やっぱり住まいの関係とかでね
いろいろあったと思います
僕も子供だったんで詳しくはわからないですけど
ついていくしかないんですけど
スポーツもそれなりに
器用貧乏でそれなりにできたんですけど
大したことないという
サッカーやってちょっと上手いけどそれ以上はないとか
野球やってもちょっとはできるけど
大したことないという
そういうタイプだったんですけど
なのでスポーツも結局何一つ続けられずに
あの辺ってね
北節ってソフトボールが結構盛んだんですよ
男の子でもソフトボールチーム
それまで野球やってたんだけど
引っ越してなくてソフトボール
次行ったところは少年サッカーチームしかなくて
その辺に合わせて
それはそれで楽しくやってたんですけど
で中学校に行きましてね
結構荒れた地区だったんですよ
でまた転校生で入ってくるわけなんです
そうするとね命付けられるんですよ
でもうひどい時代でしたから
ちょっと怖いみたいな感じで
生意気やって転校してきた
09:03
生意気やって大きいでしょ
こんな格好してるから生意気らしいです
空手とかもやってたんで
いじめられることはないんですけど
嫌がらせですよね
下駄箱の靴に画鋲が入ってたりとか
毎休み時間に来るんですよ
ちょっと怖いみたいな感じで
でまたバーっと行って生意気やとか
おいなんで体操服の色違うねみたいな
転校してるんでそれまで園児でそこは青やってね
なんでって先生もオッケーって言ってくれてるし
金ないから貧乏やからやとか言って返してたんですけど
もうそんなんのいざこざがあって
そうすると周りの子も避けるようになるんですよ
こいつに関わったらややこしいみたいな
そんなのがいたでしょ
いろいろあったんですけど先生らもなかなか
結局孤独やったんですよ
友達とかできずに
誰も信じられないみたいな
そんな時代がずっと続いて
中学校どれくらいまで
いやもう1,2,3ほとんどじゃないですか
でまた途中で転校するんですけど
またそういう時代だったら
校内暴力とか
学校のガラスを窓で割るとかね
そういうのが流行ってた時代
尾崎豊的な
まさにもうその時代だったんです
でもね
学校に行かないという選択肢はなかったんですよ
休むとか
不登校とか
登校拒否って言葉あんまりなかったのかな
なぜか休むとか行きたくないという選択肢はなかったんで
教室で一人こう座ってましたね
でその時に声をかけてくれたのが
一人の友達だったんですよ
でその子もやっぱりちょっと変わった個性の子で
僕いつも言ってるんですけど
土下弁のトノマってわかります?
わかんないから
ちょっとひょうひょうとした個性的な
だからその子も孤高な感じで
なんか声かけてくれたんですよね
こいつかわいそうやなって思って
すごい笑顔が浮きますね
で音楽好きとか
聞く音は聞いてたんで好きやって
今度遊ぼうぜって言って
で家に遊びに行ってんですね
そこで衝撃の出会いがあるんですけど
当時ですからこんなステレオなんですよ
で股間の開きで
でレコードなんですよ
レコードわかります?
LP版で出してきて
12:01
シューって吹いてほっこり取るんですね
こうやって置いて丁寧に針をギューという
あの処作が今考えたらよかったなと思うんですけど
でこう鎮座してですね聞くんですよ
それが長渕強志だったんです
しかもライブという名盤と言われてるやつで
ギター一本で生演奏のライブ版を聞いた時に
衝撃を受けまして
もう一発目から純伝歌という代表曲から
で何曲目かに夏祭りというまた名曲があるんですね
3フィンガーでこれどうやって弾いてんねみたいな
を聞いて僕がもう大ファンになって
これだーと思って
でからですねもうその子と音楽の話とか
長渕強志一本になって
でもう一つ長渕強志を好きになったエピソードがあったのが
彼これ有名なんですけど
吉田卓郎の前座をずっとやってたんですよ
売れるデビューしたての頃まだ売れてない頃ね
で吉田卓郎が出ろよって感じで
吉田卓郎も当時結構メッセージ足のある歌を歌ってたので
割とファンもこう血気盛んな男の子たちとかね
おーみたいな卓郎みたいなイメージがあって
であるライブで出た時に長渕強志が前座で出たんですね
みんなファンは卓郎のファンばっかりじゃないですか
じゃあもうみんな一斉に帰れコールだった
帰れ帰れって言って
卓郎だぜみたいな
でそこで長渕強志何て言ったと思います?
うるせー俺は帰らないぞ
この時間は卓郎に俺がもらってるんだよ
俺は最後まで歌うとか言って
嫌ならお前ら帰れみたいな
歌い切ったというそのエピソードを聞いて
なんか当時の僕がすごくインスパイアされて
あせやな
でも惚れたというか
それからもう必死でギターを弾こうと思ったんですけど
お金なかったのでギター買えなかったんですよ
で必死でお金
当時やりませんでした
母親に言って
今日も弁当屋からパンと牛乳買うからお金頂戴とか言って
500円当時ね僕らの時500円札だったんですけど
もらってでコーラだけ飲むんですよ
当時100円90円ぐらいだったかな
400円余るでしょそれを貯めて
コーラ作成
腹膨らまさないといけないので
それはですねやっとあの2万円のモーリスの
あとお年玉とかですね貯めて手にして
あれをなんですけどね
今もねたまに子供らに弾いてるんですけど
そんなんして
もう音楽と少ない友達が
僕らを救ってくれたというか
15:01
それが中学校
中学校ですね
ついでに目立った別の友達が
今度はエレキギターをやってることで
音楽やるんかとかなんかありますよねスポーツでも
で話してて
今度彼は来いよって言って
エレキギターを
かっこいい
でちょっとベースやるかとか言って
やったことないんですけど
教えてみよう見真似でやってみて
でブラスバンドでドラムをしてる子がいたんですね
でいっぺん
それこそ幼稚園か公民館みたいなところで
なぜかピアノとかドラムがあったんです
そこでやって
初めてやったのが
ディープパープルのスモーコンザウォーターという
曲なんですけどねあれ結構有名で
簡単なやつ
簡単なリフで
弾けるんですね
で教えてもらって
せーのってやって初めて
合わせた時の
感動
一人でギター弾いてるのとはまた違う
ドラムとベースとギターが
一緒になった時の
今でも覚えてますよね
そうやってもう音楽で
のめり込んでいった時代
だったんですね
そうなんですね
中学校は音楽一緒
音楽一緒みたいな感じ
音楽しか友達がいなかった
土曽の友達ですね音楽友達
楽しかったですけどね
そして高校に
高校はいるんですけど
高校でもそうですね
音楽友達はいてたんですよ
でも高校はとにかく
バンドとバイクとバイト
3Bって言うんですか
もうお金なかったし
お金の話ばっかりですけど
お金大事ですよね
でバンドするにもお金いるじゃないですか
でバイク買うにもガソリンにもお金
もうバイトで一生懸命
働いて
あそこ大阪空港が近かったので
機内食ってあったんですよ
当時まだ艦空なかったんで
国際線が入ってたんで
機内食を清掃の方ですね
洗いって言うんですけど
僕はそれを結構時給が高かったので
友達に紹介してもらって
行ってたんです
でそこのまたバイトの
おっちゃんおばちゃんとか
大学生の人が多かったんですけど
結構可愛がってもらったり
バイク乗ってギターやって
そんな高校生活でしたね
ちなみに勉強の方は中高とか
あんまりしなかったですよね
でもしてたと思うんですけど
がむしゃらにはしてなかったと思います
やっぱり塾も行けなかったし
もちろんね
行く選択肢もなかったですし
18:00
姉貴も僕も家か図書館で
勉強するしかなかったんですけど
で姉貴は賢かったんですよ
で豊高っていう
北野の次に偉いところがあるんですけどね
豊中高校
で神戸大学行って
全日空のCAだって
っていうコーナーが
すごいコース行ってたんですね
でもその時によく
母親とか周りから
学校でもじゃないですけど
比べられるんですよ
あんたもやったら
お姉ちゃんみたいにできるのにな
みたいな
で学校の先生も知ってるでしょ
須山の弟か
できるって当たり前よな
みたいな目で見られてたので
ものすごい嫌やったんですよ
だからへそ曲がりなんで
余計せんようにやっちゃって
そんなに力入れないとはいえ
ある程度
ある程度はやりましたよね
でもどん底も嫌やったんで
そこそこはやるけど
目一杯もやってなかったかな
今の僕が
少年須山を見たら
叱ってると思います
もっとちゃんとやれ
でもそういう出会いもなく
そんなのが過ぎていきました
バンドとバイクとバイトで
大学進学ですか
大学に行くんですけど
姉貴がそうやって
行っちゃったじゃないですか
なので自分どうしようかな
という時に考えてたんですけど
やっぱり母親のことがあるので
朝昼晩働いてくれてたんでね
やっぱり母子家庭でも
娘息子を大学までは
生かすんだっていう
母親なりのプライドで
頑張ってくれてたと思うし
当時はあんまり気づかんかったり
分からなかったんですけどね
でも自分なりに
なんとかしないかなと思って
上を目指すんじゃなくて
特待狙いに行ったんですよ
ちょっと下げて上位で入るみたいな
で和歌山大学を選んで
なんとか母子家庭っていうのも
あったと思うんですけどね
特待で合格いただいて
入学金と4年間の授業料は無償という形で
特待って何ですか
上位何パー
評定何本以上と
あと所得の関係もあるんですけど
家がこんだけでみたいな
いろんな条件があって
全部おかげさんでクリアできて
たまにそれも子供たちに言うんですけど
家庭環境とか条件の理由に
勉強できないはないよって言うんです
やろうと思えば
いろんな方法っていうのはあるし
僕もあんまりしてないですけど
唯一の親孝行の一つかなという感じで
大学に関しては
母親にあんまり負担かけずに
バイトでこっちで生活費も賄ってたんです
21:01
そこだけは
ちょっと自慢できるところかな
ただ当時の先輩がいらっしゃって
その方っていうのは
そうしながらさらにバイトして
ご実家に仕送りをしてた先輩がいらっしゃったんですよ
やっぱりね
やる人はやるんやなって
すごい人はすごいなっていうのを
気づかせてもらいました
そこで和歌山を選んだ理由っていうのは
その特大取れそうやっていうの以外には
理由とかあったんですか?
いやもうそのあたりですね成績的な
あとはね
当時の神戸松下大学
今の兵庫県立大学とか
あと滋賀大とかその辺の
僕らの時は共通一次テストって言ったんですけど
そのスコアでこの辺かなっていうところを見ながらだったんで
なぜ和歌山大学じゃないといけないかというのではなかったんですけど
もうそこだけの点と近畿圏というのと
そうですね
そのあたりで将来何になりたいとか
そういう目標とかってあったんですかね?
なかったですね
やっぱり
子供の時はやっぱりとりあえずプロ野球選手
大長嶋の時代です
毎度
ちょっと古いんですけど
例えが大長嶋の時代
なぜかね小学校6年生の卒業アルバムに書いたのが
F1ドライバーだったんですよ
車が好きで
あの時ちょっと流行ってたんですねF1が
JPSとかタイレルフォード
あの六輪のやつとかね
伝説のドライバーのニキラウダっていうのがいたんですけど
速い人ね
それに憧れて
彼の僕何が好きやって言うと
だいたいわかるでしょ?
もうちょっと変顔なんか
すごいレーサーだって事故起こすんですよ
大炎上で命も危ないんじゃないかと言われたところで生還して
体もう大火傷で
ラ王みたいな感じで
なってる風貌で
でもまた復帰して早かったんですよ
それが僕なんか
子供心に
カッコイイな
この蘇ってもう一回立ち上がって頑張るっていうのが
何か好きだったんですよ
カッコよさを覚えて
でもF1ってすごいお金かかるんやなって
絶対無理やな
書いただけだったんですけど
その後小学校の先生になりたいっていうのはちょっとあったんですよ
僕らの時は熱中時代っていう
水谷豊が先生をやって
1970年代から平和な時代ですわ
みんな行くぞみたいな
でもそれで小学校の先生に
こんな先生いいなと思って
憧れはあったんですけど
でも特に強烈な目標とか目的ってのはあんまりなかったですよね
24:01
当時は
大学生活はどんな感じでした?
よく言われるんですけど
そんな暮らし来たでしょ
なので一言で言うと
先輩言ったんですけどね
瀬山は世の中を斜め45度から睨んでるなって
こんな感じですよ
知っているか分からないですけど
常にこんな感じで斜め向いて
怒ってる
イラついてる
何かにタイプやったんですね
その一人の先輩との出会いがまた僕を変えてくれたんですけど
そんなんでしょ
でも慶恩が好きでやっぱ入ったんですね
クラブに慶恩楽部
ところが和歌山大学の慶恩楽部っていうのは
文化部なんですけど中身は体育会だったんですよ
ものすごい盾社会
2年生が鬼で
3年生は幹部で
4年生は神様で
絶対服従みたいな
もうそんなんで
それが嫌で辞めていく子もいっぱいいたんですね
もうそんなんやってられんみたいな
でもまた僕もそこで辞めるのは嫌で
なぜか残ってたんですけども
ただ媚びないので
残ってるんだけど
やりにくい後輩だったと思います
だからみんな煙たがるんですね
可愛い後輩は読んだらおい来いよ
はい先輩
いただきますとか言ってるんですけど
僕そういうのしないので
いつも宴会でも一人でこうやって
言ってたんですよ
それも別にいいわという感じで
そしたらその一人の先輩が
ちょっとこっち来いよって読んでくださって
そんなんですけどやっぱ嬉しいですよね
呼んでくれると
はいとか言って
でもやっぱりなんすか?みたいな感じで
行くんですけど
ちょっと座れよとか言って
当時1年生は食べれないんですよ
先輩らが手をつけて食べた後のキャベツとか
この緑のやつしか食べれないですね
もちろんお金もだから出さないんですけど
もうなんか食えよみたいな
その先輩が言えばOKなんですよ
じゃあ唐揚げいただきますとか
いいですかとかいって
バーンとはっきり言う方だったんで
当時僕バンドやってたんですけど
長渕剛とか尾崎豊とか
Aちゃんとかボーイとか
割と個性のある歌い方って
I understand themみたいな
でもプロがやるからかっこいいんですけど
下手くそがやってもただの下手なんですけどね
なんか勘違いして
そんな歌い方ずっとやってたんですよ
みんなも多分ダメだよなって
多分思われてたと思うんですけど
誰も言わないんだけど
その先輩来て
27:00
下馬お前なんであんな歌い方するん
いきなり直球
やめとけよ
カエルの歌歌えるか
カエルの歌が聞こえてくるよ
歌わされて
絶対北中ですから
歌ったんですね
普通に歌えるよ
それで生きよう
って言ってくださったんですね
そしたらもう分かりました
そっから普通に歌うようになって
いろんなそういう
人が言いにくいことで
お前ダメだよってことを
面と向かって言ってくれる先輩だと
お前間違ってるよ
それやめとけよってことを
はっきり目の前で言ってくれる方だったんで
素直に聞けるように言ったんですね
その先輩が言うには
お前野良犬みたいだったやろ
ガーって噛みつくね
みんな噛まれると逃げるんやと
余計噛みつくんやと
俺はお前噛んできたやろって
ニコッと笑ってずっと我慢して
グッとやったら
ウッて離すね
そういう解説してくれてました
意味は口に突っ込まれたらね
ガマン
逃げようとすると余計噛みつくのを
グッと我慢してくれるという
野良犬?って
そのまま見破って
そういう風にしてくれたっていう
ですね
本当に感謝です
大学でもその音楽をずっと続けて
続けていましたね
でちょっとずつ45度が
10度ぐらいに変わって
その指導のせいかね
とか
いいですかね和歌山で
和歌山でね僕
和歌山で育てられたと思ってるんですよ
和歌山の人たちに
すごく優しくて
バイトもその先輩に
世話していただいて
市内の焼き鳥屋で
バイトさせてもらうんですけど
最初は焼酎と日本紙も
わからない高校生ですよ
で間違ったら怒られたりとかね
しながら
でいたんですけど
すごい可愛がっていただいて
でもう最後は焼き鳥も
自分が焼いてさばいて
マスターカウンターで
喋ってるだけみたいなことを
4年も経てばねやって
常連さんもあの辺
小松原とか高松のあたりだった
堀留のあたりだったんで
もう賑わってたんですね
銀行もいっぱいあって
仕事帰りのサラリーマンの人とか
でお客さんにも
可愛がっていただいて
で終わってから
お兄ちゃん飲みに行くぞ
みたいな感じで
アロチに連れて行っていただいて
でおい寿司食えよとかね
なんか高いラウンジみたいなとこ
連れて行ってもらって
すごいそういう
あの社会勉強
じゃないですけど
食べさせてもらい
可愛がってもらいして
たんですね
30:00
で2つ
いっぱいそういう方いたんですけど
僕の中に残ってる方がいらっしゃって
1人の方は
陶芸家の方だったんですけど
九州の
ちょっと竹ちゃんの話と絡むんですけど
近鉄で
展示会をしてたんですよ
竹ちゃん行ってたかどうかわからないですけど
で
自分の作品を
出すのされてて
でたまたまホテルがあって
夜たまたま入って来られた
方なんですね
でお兄ちゃん大学生か
いろいろあって
最後に話し終わって
お兄ちゃん仕事に出て
社会人になって
もし何か行き詰まって
辛いな人生
やっていけないわ
と思ったら私を訪ねて来なさい
って言ってくれた方がいて
でも
飯はいただいてまだ行ってないんですけどね
行き詰まってないんで
でも最後の最後は
私のとこへ来なさいって言ってくれたのが
すごく
残ってて
僕も今も子供たちに
たまにそういう話するんですよ
君らが社会人になった時に
いろんなことがあって
何もすることがないって思ったら
ここへ帰ってきなさい
俺のとこ来いって
言うようにしてるんですけど
まだ帰ってきた子いませんけどね
やっぱり
そういうところがあるんで
ちょっと心のどこかに
安心できる場所みたいな
ですよね
それがあってだからまた頑張れる
みたいなのを教えていただいて
最後の
辞める日に
銀行の方だったと思うんですけどね
たぶん偉いさんで常連さんで
来てて
お兄ちゃんも社会人になるんかと
社会人になったら新聞呼ぶなんかは
当たり前やと
しかも産経読み売り
毎日全部見るのは
それは当たり前やと
プラス知識だけじゃなくて
教養も身につけなあかん
のでって言って
途中で帰りに行ったんですよ
今はない
どっか本屋さんですね
来てまた戻ってきて
本屋さんの紙袋をボンと持ってきて
これも選別やと
中見たら
徳川家康の小説本
全巻30何巻
これ読め
でもありがたいやら
かっこいいなあ
こんな風に
僕はやっぱりして
いかないかんなとか
いろんなこと教えていただいたり
そういう風にして
学校の先生とか
いろんな関わりではないんですけど
世の中の方に
そうやって可愛がっていただいて
いかさせていただいて教えていただいたのが
僕らの
20歳前後の時代だったので
なので
和歌山に育てていただいたなあ
という感覚が
私にはありましたね
学生さんが非常勤講師で
33:00
来てくれたりするんですね
他保健から和大や近大に来て
そこで下宿している子たちがいるんだけど
そこを僕はやっぱり返していこう
返すというか
送ってるんですけどね
僕がされたことを今の子たちに
全然できてないですけどね
された以上の
でも何とかそれをしていきたいなと思って
いう学生時代でしたね
それで卒業して就職ですか?
就職なんですね
なんですけど
くしくもね
同業的なところで
就職させて
一般企業へ
当時はバブルの時代だったんですよ
何年くらいのことですか?
80年代ですよね
バブル崩壊のちょっと前
とにかく
売り手市場だったものですから
もう来いや来いや
という話で
やっぱり
一般に普通に就職した方がいいなと
教育現場よりもね
そういう雰囲気で
ダメな社会人の典型で
私は遊ぶために働いていた
20代
ゴルフ、テニス
引き側のほう行ったら
火薬、スキー、スノボ
ビリヤードも
いっぱいありましたよね
麻雀、パチンコ、競馬
お酒飲む
そのために働いていた
バブルの時代というのもあったんでしょうけど
全然今なら
もっと勉強して働け
って言ってると思います
はい
そんな若者です
社会人生活が結構長いこと続くんですか?
そんなに続かないんですけど
何年かな
3年、4年、5年
ぐらいは仕事も頑張ってみたんですけど
やっぱり会わないな
っていうのもあり
いろいろ考えた時に
渡りに船じゃないんですけども
友達が大手の進学塾に
勤めていて
人を募集しているから
先生、教育興味あったやろうと
教えないかと言われて
なんとなく
ちょっと行ってみようかということで
それがきっかけで
学習塾業界に
入り出したのがきっかけですね
それは和歌山ですか?
和歌山ですね
やったんですよ
そしたら
なんと子どもたちの
可愛い子と
天使に見えましたね
でも僕ら新人ですから
ベテランさんがトップの
クラスを持つじゃないですか
僕ら見たされるのでちょっとやんちゃな
手のかかるクラスなんですね
先生、大変やであのクラス
社会人やってますから
みんな
楽しくさせてもらって
それまでの
180度違う
環境で
36:01
子どもらに関わる教育
が好きやったんやな
っていうのも再確認して
それから正社員として
したんですね
結構人気の先生で
スタートできたんですけど
大変なことが
起こるんですよ
世の中そんなに甘くない
一つだけどうしても
上手くいかないクラスがあったんですよ
週いろんな教室大きいんで
回るんですけどね
火曜日はどこどこ
上手くいけてた
ちなみにその時は何を教えられてたんですか
実はいろいろです
国語
数学理科
予習も必死でやってたんですけど
一つのクラスで
入試クラスがあったんですよ
毎回入試レベルの
問題を解いて
解説するということだったんですけど
そこは僕ちょっと怠ったんですね
入念な準備を
そうすると
授業をやって固まってしまったんですよ
これ
どうやって解くんやったか
経験もないし勉強もしてない
そりゃそうですよね
チーンって
空気ですよね
ちょっと待って
こうやって
答えただ書いてる
何その先生
世界で
そこから生徒が辞めていくんですよ
毎週
選択教科なんで
20人いたんですよここいっぱいに
それが毎週
教室行くでしょ
教室の先生が
出席を持って
今週からだれだれ君来ないんで
消しといたから
すいません
また翌週も
すいません今週だれだれさん来ないから
すいません
そこ行きたくなくなりました
ちなみにそこの
塾のシステムっていうか
どんな感じやったんですか
そんなわけではないんですけど
とにかく
その当時ってやっぱり
塾を開ければ他もそうですけど
生徒が集まるみたいな
生徒で
にぎやかだったですね
人手不足で先生どんどん入れて
十分に研修も
いかないまま正直な話
僕ら努力不足も
あるんですけど現場にすぐ出て
指導みたいなのが
せざるを得ないような
状況もあり
今思えば本当にただの
勉強不足やなっていうのがあったんですけど
みんな辞めていって
途中で
先生たちの研修も受け
アドバイスも受け
授業固いからね
面白い話しちゃうんだ
でも
そこからできないですよね
もう空気になってるのに
いいかみたいな急に
できないし
でもまた周りは隣は
39:01
ドッカンドッカン沸きながら
授業やってるんですよベテランの先生が
もうね
いたたまれなかったんですよ
でも子供たちがかわいそうやったので
申し訳なかったのがいっぱいなんですけど
もう僕の力不足で
でも最後に
2人だけ残ってくれたんですよ
辞めずに
20人中18人辞めて
対抗率90%
今ならクビですよ
でもその2人のおかげで
僕はこの仕事は
続けようと思えたんです
なんでですか?
その子の男の子1人は
すっごいできる子で
党員という上トップ校へ
行けたんですね
でもだからこんな感じで
教えることないんですよ
毎回CGで
今日これやろうか
分かりました
もう1人の子はちょっと
勉強苦手な女の子で
一から頑張ろうかって感じで
やってたんです
で高校なんとか入れて
受かって来てくれたんです
挨拶に
その時に言ってくれたのが
僕たち先生のおかげで
受かりました
ありがとうございました
心の中で
何もしてないで俺って
何なら
何もしてないけど
でも先生はそこにいてくれた
いろいろ
これ思い出すと
毎回思い出してしまう
ぐるっと来てしまう
それを言ってくれたので
僕も辞めようとも思ってたんですよ
やっぱ向いてないんかなこの仕事も
みたいなこんだけ対抗出して
申し訳ないし
調子乗ってたし
でもその2人の言葉で
もっとちゃんと勉強して
もっと腕磨いてやろう
っていう風に
もっとこれから担当持つ子に責任持って
いい授業しようって思えて
そっから勉強しました
落語の話も聞いたり
話し方とか
伝え方とか
ボディーランゲージとか
教科内容だけじゃなくて
それをさせてくれたのが
その2人
そこからは
ずっとその塾で
講師として
結構頑張りましたね
そっから急に
振り切ってワーカホリックになるんですよ
360
360
日ぐらい働いてました
会社のあれじゃないですよ
間は勉強に行ったり
日曜日は自分で研修受けに行ったり
とかいうのも含めて
とにかく働いて
勉強して
遅かったんですスタートが
本当はそれを10代20代でやるべきだろうな
と思うんですけど
でもそっから
必死でやって
頑張りましたね
ただもう一つ
僕が
42:00
先生にしてくれたのが
ある男の子との出会いで
その子は
未熟児で生まれたんですよ
900グラムの
こんなちっちゃい
形で
いろいろ体にハンデを背負いながら
生まれてきて
いてたんですね
たまたまうちの
教室に来てくださって
お母さんと
塾に勉強したり
でもちょっと視力が悪いので
テキストを
拡大したり
全然見えないわけじゃないんですけど
見づらいと
始まったんですね
でも僕まだ若かったんで
さあこれからやっていう時で
正直ね厄介を
引き受けてもたなっていう
ネガティブな感情も正直あったんですよ
まだ
でもそうやって一緒にやってきて授業をします
はい読んでって言ったら
スラスラ読むんですよ
見えてるやんみたいな感じでね
みんなよかったねって
お母さんにそれを伝えたんですね
そしたら先生ちゃんと
見えてないと思いますと
塾で勉強
受け入れてもらってできるのが
嬉しくてみんなに迷惑かけた
ずっと次のやる
ところを予習してるんやと
読み過ぎて
覚えてしまってる
覚えてるんですよ
僕その話聞いて
ここまでの思いで
塾通ってくれてる子いるんだ
また改めて知らされて
みんないろんな思いで
来てくれてるんですよね
で
また一緒に頑張ることをやってたら
ある時その学校で事故して
怪我して
もう一つの名も
もう幕剥離で見えなくなるかもしれない
っていう風になったんですよ
ショック受けて
手術すれば見えるんだけど
下手したらもう全く光を失ってしまう
まだ11歳
12歳の子には
つらいですよね
生まれたところの病院で
手術をすることになって
そこも母子家庭だったんですよ
で
お見舞いに
お母さんとその子が座ってて
びっくりしてたんですけど
先生来てくれた
ちょっと特別に許可もらって
ご飯食べよう
病院の食堂で
ご飯食べて
何食べる?
僕オムライス食べたい
黄色に赤のケチャップ
オムライス大好き
スーさんもオムライス食べるわ
みんな
有名ですから
元気やな
今日食べてるの?
先生来てくれて
よかったな
見ながら
涙止まらなくて
美味しいな
オムライスは忘れられなくて
手術して無事成功したんですけど
45:00
その帰りしなに
主治医の先生が僕に言ったのが
学校の先生だと思ったら
塾の先生ですか?
塾まで行ってるんですね
あの子すごいですね
いやいや
この歳で同じ生齢で
今生きてる子はこの子だけなんだと
生きてるだけですごいことだけど
塾まで行って勉強してるなんて
すごいことですよ
って主治医の先生に言われて
僕も
そうだなと
生きてるってことはすごいことだな
っていうことを
その子に教えてもらって
ますますもっと
磨かなきゃ
人間的にもね
教師的にもそうだけど
っていうのを感じさせてもらった
生徒でしたね
当時の
働いてた頃の塾業界って
どんな感じの塾が
主流だったんですかね
当時はまだまだ
本当に
うごの竹の子のように
塾をやれば子供らが来る
みたいな
集団授業でも子供たちいっぱい
いってもうせーので
呼び子でももう100人ぐらいで
鉢巻き巻いて
僕らもそんな授業やってたんですけど
行くぞーみたいな
そんな時代
でしたね80年代は
そっから
徐々に子供も
減りつつあり今度は個別指導
っていうのが流行りだすんです
だんだんこの時代になっていく
なので居酒屋さんでも
個別個室って増えたじゃないですか
みんながこうこうになって
みんなでせーのっていうのが
だんだんなくなってきて
いろいろ選ばれる
時代になって
いったですねそういう時代
だったでしょうね
清山さん働かれてた職場の
やり方とかもちょっとずつ
変わっていってみたいな
時代に合わせて変わりながら
でも大きい塾なので
いろんな業態も持ちながら
時代に対応していくような
形では
あったんですよね
独立を意識し始めたのって
いつぐらいからなんですかね
あの
ずっとね
そんな気はさらさらなかったんですよ
結構好きやったし
社長も個人的に大好きで
いろんなこと
チャンスをもらえて
そういう経験もさせてもらってたし
キャンプなんかもやったんですよ
塾がですよ
夏休みにみんな連れて
竜神とか山奥へ
そんなこともさせてもらったりね
合宿やったりとか
してたんですけど
やっぱり
いいとか悪いじゃなくて
やり方って違うじゃないですか
デパートと
個人商店の八百屋さん
それぞれの良さがあって
でやっぱり
大手なんで
いわゆるそういう
48:02
大きい
お店で言うとデパート
百貨店ですよね
何でも揃って高品質で
だけど
ある程度
出世していって
いろんなことできるようになると
そういう本部機能になっていって
子どもたちが
数字になっていったんですよ
何人何店
どこどこ合格率
何パー
数字だけの世界になっていって
それがもちろん大事なんです
経営なんでね
それを求める人もいるし
それがいいという考えもあるけど
自分の中でちょっとこう
違和感が生じてきたんですね
学校の先生でも生涯現場の人と
共闘
校長へ上がっていく方とあるように
どうやら僕は
校舎のほうで
現場でずっと
子どもたちお母さんと近い距離で
わっせわっせとやるのが
やりたかったのかな
というのは思って
原点回帰の意味も
あったでしょうね
自分でやりたいなという
思いは
ちょっとこの辺に芽生えたり
でも会社を良くしよう
もっと良くしようという風にも動いてたんですけど
でも同時にまた
僕らの前後の人間が結構
辞めてまた各地で
自分のやりたい形で塾を
やってるのも事実だったんですよ
今も仲良くしてるんですけど
そういうのを見るとちょっと半分
羨ましいなという気持ちも
正直ありました
けどね
相談結構
外に勉強に行ってたんで
研修とか勉強会とか同業者の
集まりとかね
結構北海道から九州まで
こういう感じの
塾長の方々と勉強させてもらって
仲良くさせていただいて
今も学ばせてもらってるんですけど
その時に
僕の師匠的な方がいらっしゃるんですけど
なかなか
会社が思うように動かせないと
やっぱ反対勢力があったり
週休2日にせなあかんとかね
シフトを変えなあかんとか
あるんだけどどうしたらいいのかな
って悩んでた時に
その方がおっしゃってくれた
革命は一人で起こすんだよ
って言って
誰かが手伝ってくれるとかね
同業者を
求めるんじゃなくて革命は一人で
起こすんだよって言われて
はいって
やっぱりそういう
不死身不死身で
しさを与えてくださる方に
僕は恵まれてたのかもしれないです
であと
辞めて独立する
としたらどんな
準備がいりますかね
って
辞めるんだったら今辞めろ
いつじゃなくて
今だろとか
予備校の先生みたいなやつ
もたもたしてんなよって話だと思うんですけど
言い訳つけて
辞めない理由を探してんじゃねえよ
51:01
とか多分いろんなことだったと思うんですけど
やりたいと思うんだったら
それは今だろみたいなことを
教えていただいたり
したんですけど
ただすぐ
ここを始めることは
なくてですね実は
母親が私大阪で
一人でおるんですけど
ずっと働いてて
その後夜に自分で
母親も
独立意識があったのか
会員制のラウンジを始めるんですよ
飲み屋さんなんですけど
という中で
ずっとやってたんですけど
最終25年やって
都市でも閉じたんですけど
その途中でちょっと体悪して
引き継いでくれへんかっていう
そういうちょっと僕も先を悩んでたんだよね
話した時に
じゃああんたここについてくれよと
っていう話
もし余が余なら僕は会員制ラウンジの
マスターで
オーナーだったんですけど
それもありかなと思った時も
あったんですけど
やっぱりいろいろあって
教育の世界かな
というのが強くて
ここを
始めることになりました
それが2010年ですか
そうですね
やっとスタートにきましたね
すいません
直接的な
お待ち合わせ
飽きて
飛び出す
もない
だけど