1. kisenradio
  2. episode.45 前編 らくだ舎 千..
episode.45 前編 らくだ舎 千葉智史さん&千葉貴子さん
2024-03-13 1:00:20

episode.45 前編 らくだ舎 千葉智史さん&千葉貴子さん

spotify apple_podcasts
episode.45 前編

ゲスト▷ らくだ舎 千葉智史さん&千葉貴子さん
@rakudasha

今回のゲストはらくだ舎の千葉智史さんと千葉貴子さんご夫妻です。

前編ではらくだ舎のこと、色川地区のこと、そして智史さんのルーツについてお話していただきました。

talk topics

らくだ舎とは/色川地区/千歳市育ち/不良の残り香/八方美人/考古学/パチスロ勝って北海道一周/編集制作会社へ

photo by @sei871

番組のオープニングのエンディングの楽曲はお寿司のともみさん @osushinotomomi のアワーヤングです。

楽曲が気になった方はお寿司のともみさんの通販サイト、Spotifyをチェックしてみてください。

kisen radioはApple Podcast/Spotify/Anchorなど各種音声配信サービスから聴くことができます。

「kisen radio」で検索よろしくお願いします📲
プロフィールのリンクからも聴けます💁‍♂️

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:19
有田氏のコーヒーショップARCの上田です。この番組は、毎回和歌山で活躍するゲストの方にインタビューしていく番組です。
kisenradio第45回です。2024年1月23日、和歌山県那知川鶴町、色川地区にあるらくだ舎で収録しています。
本日のゲストは、パティスリーラール島本さんの気になる人、らくだ舎の千葉聡さん、高子さんご夫妻です。
千葉さんご夫妻の生まれから現在に至るまでのルーツ、らくだ舎のことや、これから計画していることについてお聞きしていきます。よろしくお願いします。
らくだ舎の千葉聡さん よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
らくだ舎の千葉聡さん 言い忘れていたんですけど、これは編集とか後で全然できるので、もう気のクラ感じで喋っていただけたら。
らくだ舎の千葉聡さん できないって言われるだろうな。
らくだ舎の千葉聡さん 松取ですかと思った。よろしくお願いします。
らくだ舎の千葉聡さん ではまず千葉さんから、それぞれ自己紹介していただいてもいいですか。
千葉聡と言います。
今年40歳になる年で、出身は北海道で、大学から東京に出てきて、後でまた詳しくお話すると思うんですけど、東京で何年か働いた後、この色川地区に移り住みました。
今ここに来て、今年で多分10年目になります。よろしくお願いします。
らくだ舎の千葉聡さん よろしくお願いします。
千葉聡です。
私は今年で39歳になる年、今38歳です。
1985年生まれです。
私は茨城県、関東の茨城県の出身で、大学から東京に出て、そのまま東京で就職して、弟と同じ会社だったんですけど、そこに入って、同じく何年か働いて、8年くらいかな、8年くらい働いてから、こちらの色川に移住してきました。
ありがとうございます。
僕が今が39歳なんで、ちょうどお二人の間になるんですかね。
そうですね。
1年差だよね。
同い年ってことかな。
何年生まれですか。
1984年生まれです。
じゃあ同い年ですね、僕と。
今年30歳。
今年40歳。
今年40歳ですね。
同い年ですね。
よろしくお願いします。
こちらこそ。
すごい良いですね。
嬉しい。
ではまずは、楽田社のざっくりとした概要を教えてもらいたいんですけども、楽田社ってどういう場所になるんですかね。
03:07
私なんですか。
楽田社は5周年を去年の11月に迎えたんですけども、
喫茶店本や物品の販売をしているお店であり、場でありという感じですね。
ここを始めた時につけたキャッチコピーは、
本とコーヒーとお茶、みんなのたまり場楽田社っていう感じでつけてまして、
いろかわ地区、これからどんな場所かとか話すかもしれないんですけど、
山里の集落が集まってできてる地区なんですけど、
喫茶店というものがなくてですね。
喫茶店というものはなくて、
この楽田社自体、もともとあったいろかわよろず屋っていう、
日用品と食品のお店の奥に併設するような形で作ってるんですけど、
そのいろかわよろず屋もほぼほぼ唯一のお店。
いろかわ地区にあるほぼほぼ唯一の食品とかのお店っていう場所なんですね。
そこをアップデートするというか、
そちらもなかなか住んでる人の人数が少ないんで、
なかなかそちらもこれから続けていくのが厳しいよっていうふうなお話が、
5年ぐらい前に相談を受けてというか、
お話を聞いて、
それを今ある場所を活かしながら、
より意味のある場所にできないかなというようなことを、
私たちも参加して考えた結果、
やっぱり人が集える場所というか、
もともといろかわよろず屋さん自体も、
買い物をしに来た人たちが交差する場所というか、
やっぱりちょっと出会う場所になるじゃないですか。
スーパーとかもそうだと思うんですけど。
そういう機能、人がここで出会ったりとか、
会話をしたりする場所になっているなというふうに思ったので、
そこをより拡張させて、
人が出会ってたまって、
何かが生まれるような場所というのは、
やっぱりいろかわには必要なんじゃないかなって思ったんですね。
だから、もともとの喫茶店をやりたくて移住してきたとかでは、
全然私たちないんですけど、
やっぱりそういう場にはちょっとコーヒーとかお茶とか、
もともといろかわはお茶の産地でもあるので、
そういうのが飲める場所があって、
いろかわの中の人が出会える場所でもあるし、
ちょっといろかわに興味を持ってきた人が、
偶然誰かに出会える場所というのはあったほうがいいなって、
あってほしいなというふうに思ってたので、
06:01
それでやっぱり喫茶機能というのはあるといいんじゃないかって思ったっていうのが、
大きい理由かなって作って、
さらに本屋っていうのも、
本屋は割と夫の里志のほうがメインで進めて、
今も店主という形でやってるんだと思うんですけど、
それはなぜつけたか。
そうですね。
単純に本が手に取れる場所があんまり多くないなと思ってて、
特によく言われるけど、
記念って図書館の利用率とかもあんまり高くなかったりとか、
そんなデータがあるみたいな話とかも聞いてたので、
僕自身は結構本好きだし、
読みたい本は買いたい派だったので、
って時に買える場所が単純にそう多くないなと思ったんですよね。
深宮はあるんですけど、
なちかつらとかはあんまりない感じなんですかね。
深宮だとあらお西文堂さんって結構有名というか、
中上賢治のゆかりのある書店さんがあって、
そこはすごい今結構規模を縮小しちゃってますけど、
やっぱり置いてある本の質が良くて、
いい本があるなっていう感じのお店なので、
近くに行ったらぜひ行ってほしいんですけど。
かつらも今2店舗多分本屋さんもあるんですけど、
もちろん町の本屋さんとしてすごい重要な役割を果たしてると思うし、
行政とか図書館とかにたぶん下ろしてらっしゃるんだろうなっていうところなんですけど、
やっぱり行ったときに偶然の出会いがそう多くないっていうか、
雑誌と漫画とあとはゆかりのある本、
くまのおとかっていう括りで本があるのと、
ベストセラーみたいのが置いてあるのが大物ラインナップだと思うので、
そうすると全然自分の興味がなかった本を偶然手に取るとか、
本当は雑誌買いに行ったんだけど、
違うジャンルのものを手に取って買っちゃったみたいなことが起こりづらいかなっていうのはあったんですよね。
なので、フラッと来れる場所でもないけど、
ちょっと本なんか読みたいなって時に来てもらって、
この本買うじゃなくて、ちょっと面白そうだから手に取ってみようみたいなものが出会いが増えるといいなっていうのはあって、
せっかくこういう場所を作るなら本屋一緒につけたらいいんじゃないかなと思って、
やり始めたっていうのが本屋の経緯ですね。
本当に昔から集落になる商店の奥にこういう文化的なスペースがあって、
めっちゃいい場所ですよね。
でもやっぱなんか商店も文化だなと思うし、
09:01
さっき高子が言ったみたいに人が交差する場所で何かが会話が生まれたりとか何かが生まれていくっていうのは、
5年やってる中でも僕らも実感としてあるし、
やっぱりこういう場所があること自体はすごい大事だなと思って日々やってはいますかね。
商店だけを利用するお客さんももちろんいらっしゃるんですけど、
そういう人とコーヒー飲んでる人が、5年ぶりだなとか言うて、
結構色変わって、地区としては一つの地区なんですけど、
ひと山に1集落あるのが8、9集まってできてるんですよ。
そういう地区なんですね。
だから地区が違うと、色変わらないにある区が違うと結構会わなかったりするんですよね。
っていうのがあったりして、
ねえ地元の方とかでも本当に5年ぶりにここで会って、
おほーとか言って、買い物をしてたおじいちゃんに一緒にコーヒー飲もうやとか言って、
一緒にコーヒーを飲むシーンが生まれたりすることが何回かこれまであって、
そういうのを見てるとやっぱりここを作ってよかったなっていうのを感じますね。
そんな落田村のあるいろ川地区についてちょっと教えてもらいたいんですけど、
名前だけはちょこちょこ聞いてるエリアではあるんですけども、
なかなかこれ初めて来させてもらったんですけど、
もう超山やなっていう。
超遠いというか。
そうですね。
いろ川、旧いろ川村という言い方もしたりしますけど、
もともとは村なんですよね。
今なち勝浦町に合併してますけど、
さっき言ったその九つっていうのは、
そもそもは九つの集落それぞれが一つの村を形成してて、
この落田社がある場所は口いろ川区っていう区なんですけど、
口いろ川村だったんですよね。
僕らが住んでる場所は隣の小坂区っていう区なんですけど、
そこも小坂で一つの村っていうような単位が集まって、
旧いろ川村っていう一つの集合体を形成していると。
それが昭和の大合併で勝浦町に合併して、
名前自体はなくなっちゃったので、
いろ川地区っていう言い方をしたり、
旧いろ川村っていう言い方をしたりしてるんですけど、
多分その名前を聞くっていうのは、
その移住者が多いとかっていう割合が多いみたいな話で、
聞かれることが多いのかなと思うんですけど、
正確に言うと、
いろ川地区の人口に対して、
移住者の比率が高いっていうのが多分言い方として正しくて、
12:01
今320人ぐらいいろ川の中に人口いるんですけど、
おそらく7割ぐらいが移住者なのかな。
最近見たら6割とか。
6割。
6から7割ぐらいだと思う。
それでも普通のエリアに比べて、
移住者の割合がめちゃくちゃ多いんですけど、
それはなんでなんですか?
それが45年前になるのかな。
多分今年だと45年になるのかな。
前から移住者の受け入れを地域として始めて、
それがずっと続いているっていうのがあって、
45年前って当時入られた方の話を聞くと、
移住したいって時に選択肢がほとんどなかったっていう。
今だと各市町村、移住者おいでおいでって言ってると思うんですけど、
昔は新しく農業を始めたいんだとかって別の地区に行くと、
そんなん絶対無理だと。
地元か何代目か、
自分が3代目の農家の息子とかだったらやれるけど、
そんなよそ者が入ってきて、
貸せる農地なんかないみたいなのは普通だったらしいんですよね。
45年前の当時、
自分たちで自分たちの食べるものを作りたいとか、
自給的な暮らしをしたいっていう時に、
選択肢が全然なくて、
ある方の話だと、
このイロカワの他に、
あと2カ所ぐらいしか全国にいなかったみたいな話をされる人もいるんですけど、
といううちの一つがイロカワで、
そのイロカワも地元の人と移住したいっていう人たちが、
2年ぐらいかけて、
お互いの場所を行き来して、
東京の方だったらしいんですけど、
東京のあるグループと、
この地元の人が何度も行き来をしながら、
協議を重ねて、
イロカワとしては人口が減っていく中で、
やっぱり新しい人が入ってきてほしいっていう人も中にはいて、
その人たちを受け入れようというのを地域で決めて、
その人から、その人たちから少しずつ、
ここなら自給的な暮らしができるらしいぞみたいな噂を聞いたりとか、
その一部の雑誌で取り上げられて、
その口コミで少しずつ増えていったっていうのが、
経緯としてはあるので、
多分今イロカワのことを、
イロカワの特徴を言うのであれば、
移住者を受け入れてきた歴史が長いってことと、
最初期から地域住民たちが主体的に移住者を受け入れてきたっていうことは、
特徴として言えるのかなと。
でも実際もう和歌山県内でも、
移住者すごい増えてるところもあるので、
移住者が多いみたいな言われ方は、
15:02
もう多分違うのかなっていうのが特徴というか、
こんな地域ですっていう説明の仕方になるかなと思います。
今みんなどんな人たちが住まれてるんですか?
皆さん農業とかされたり?
結構そうですね、多いのはその流れの中で、
自給的暮らし、自分たちの食べる分、プラス売る分を、
結構多いのはお茶と卵、養鶏と野菜、農業を組み合わせて、
暮らしてらっしゃる方が、
いわゆる色川スタイルとして一つの形があって、
プラスアルファでそれぞれ皆さん、
少し野菜を絞って単一的にやってらっしゃる方もいるし、
という農業の皆さんがいるのと、
プラスこの辺りも林業は割と色川に限らずですけど、
いくらでも切る場所はあるので林業の方が少しいる、
というのが一番大部分を占めるなりわいですね。
最近は僕らみたいなちょっと違う形とか別の形で、
お金を稼いだりとか暮らしを立てていくっていう人が増えつつある、
という感じかな。
千葉 数が少なすぎて何回も増えつつとも言い切れないような気がするけど、
そういう人もいますっていう感じですかね。
なるほど。ありがとうございます。
そんな千葉さんご夫婦が色川に来るまでのことであったりとか、
落田舎をオープンするまでの話をちょっといろいろと教えてもらいたいんですけども、
まず事前に連絡いただいて、
追い立ち部分は佐藤さんのお話を中心に聞かせてもらえたらという。
佐藤 別に隠してるわけじゃないですけど長くなるから。
どちらか一人の方が時間的にいいのかなと思ったので。
佐藤 ありがとうございます。
佐藤さんまず北海道をご出身ということなんですけども、
北海道のどんなところで生まれ育ったんですか。
佐藤 生まれたのは正確には埼玉県の和光市なんですけど、
そこで5歳ぐらいまでたぶん過ごして、
その後で父親が北海道出身だったので、
父親の出身地に帰るとなって北海道に移って、
そこから高校卒業までずっと北海道だったんですけど、
千歳市っていう、千歳空港のある町で、
町の特徴としては空港と自衛隊の町ってたぶんよく言われるんですけど、
そこのわりと郊外っていうんですかね、
新しい住宅地がどんどん建っていくような場所でずっと過ごしました。
18:05
そこに父親が家を買って、新しくここに家を建てるぞってなって、
そこに移って家族、僕と妹がいたんですけど、4人家族でそこで暮らしつつ、
父方のおじいちゃんおばあちゃんがいたので、
おじいちゃんおばあちゃんにもよく遊んでもらいながら育ったっていうのが、
家庭環境はそんな感じですかね。
千歳市って希望的にはどれぐらいな感じなんですかね。
最近全然帰ってもなくて分かんないんですけど、
人口はすごい増えてて、
僕がいた当時から比べてもすごい家が建って、
聞いた話だと新しく小学校が建つとかそんなレベルの市らしいので、
多分かなり規模が大きいと思います。
五万人とか。
いやもっといると思うな、ちょっと後で調べときゃよかった。
バイトの中ではちょっと都会な街だったんですね。
札幌まで電車で当時50分くらいだったので、
多分もうちょっと今早いと思うんですけど、
いわゆるベッドタウン、札幌に通うのに自動制に家を構えるみたいな人が結構多くて、
電車ももちろん走ってるので、
割合進行住宅地みたいな印象の強い場所でしたね、子供ながらに。
プラス自衛隊の人は結構転勤が多いので、
僕の小学校の時も多分クラスの半分は言い過ぎかもしれないですけど、
お父さん自衛隊って人がそれぐらいはいて、
なので結構転入してくる人も多かったし、
途中で転勤していくのについていくっていうので、
転校する子も多かった気がするので、
なんか入れ替わりの激しい場所だったなっていう。
まあまあ特殊な環境でしたね。
そうですね、今考えるともうあれしかないから、
そういうもんだと思って育ちましたし、
当時小学校とか雪がまあまあ降るので、
わりと遊ぶ、冬の遊びってスキーとかスケートとかなんですけど、
スケートは毎年冬になると校庭に水まいて、
でスケートリンクを作って、あれ多分先生がやってたんだと思うんだけど。
めっちゃ大変だねそれ。
寒い中それ作ってくれて。
あれ誰かそういう人いるのかな、ちょっと分かんないけど。
21:00
変すぎるよきっと。
スケートを休みの日はスケートに行ったりとか、
すごい近くに自衛隊の中途の地があったので、
みんな子供ながらに自衛隊の山って呼んでたんですけど、
その中途の地の裏にわりと大きい小高い丘みたいのがあって、
そこが冬は勝手にスキー場になるみたいな場所があったんですけど、
そこにみんなでスキーしに行くみたいなのが、
子供の遊びとしては結構王道で、
なんですごい身近に自衛隊があるっていう感じの場所でしたね。
なんか話しながら。
入っちゃっていいの?
あれ何だったんだろう、ちょっとよく分かんないな。
演習地みたいな。
でもそうそう、自衛隊の人もそこでスキーの練習とかしてたから、
多分一般にも開放されてたんだろうね。
優しいね。
優しいね、考えるとね。
そうそう、そんな環境で育ちました。
佐藤さんのお父さんとかお母さんは仕事とかどんな感じだったんですか?
お母さんは専業主婦だったんですけど、
お父さんがバスの運転手だったんですよ。
で、多分埼玉でも同じバスの運転手してて、
で、北海道の方に多分いい働き口ができたんでしょうね。
それでずっとバスの運転手やってますね。
やってましたね。
なるほど。
ちなみに佐藤さんはどんな子供だったんですか?
僕ね、この話をいただいた時から自分の過去をずっと考えてて、
ずっと自分の過去があんま思い出せない人間なんですよ。
なんで引き受けたんだろう、そのパートって思ってるけど。
なのでちょっと時間をかけて自分を掘り返したんですけど、
割と無難な子ではあったと思うんですよ。
あんまり面白みのない子ではあったと思うんですけど、
今から振り返ってどんな子供だったかなっていうのを考えてみると、
比較的人の入れ替わりも激しかったのかわからないんですけど、
中学校ぐらいから学校自体が荒れてたんですよね。
たぶん不良の最後の世代というか、
残りが残ってるみたいな感じのとこで、
さすがにバイクはなかったけど、
授業中に廊下を自転車で走ってきて、窓ガラスを割ってく人がいたりとか、
いいですよね。
喋ってる先生に物とか投げてみたいなのとか、
割とすさんでたんですよ。
結構荒れてますね。
結構荒れてて。
手が挙げられたら先生どうするんですか?
先生ね、どうしたんだろうね、ちょっと記憶がそれこそ断片的だけど、
24:05
帰っちゃった先生とか、泣いちゃう先生とか、
辞めちゃう先生とかもいて、
子供ながらにそれが普通というかそれしかわかんないからさ、
こういうもんだと思うじゃないですか、学校って。
たぶん自分なりにそこで生存していかなきゃいけないみたいなのがあって、
結構僕、八方美人というか、
比較的いろんな人とうまくやってた子供だったような気がしてて、
例えば、ゆくゆく中学校以降もっと不良になっちゃって、
最終的に兵の中に入っちゃった人とかもいるんですけど、
すごい不良ですね。
結構ヤンチャーがこうそうしてというか。
行き過ぎちゃう。
行き過ぎちゃって。
そういう子たちもちろん中学校のとき荒れてたんですけど、
仲良くやれてたんですよ、その人たちと。
その人たちとは普通にその人たち遊びに行ったりとか、
一緒にギター弾いて遊ぶみたいなことやってたりとかをしながら、
一方で当時スマッシュブラザーズとか流行ったぐらいだったと思うんですけど、
最初のやつが出たぐらいだと思うんですけど、
スマブラを買った、言ってしまうとオタクの子みたいな子ももちろんいて、
そういう子の家に一緒に遊びに行って、一緒にスマブラやるみたいなのとかも同時にやってて、
いろんな属性の人たちとそんなに分け隔てなくって言うとちょっとあれですけど、
やりとりができてたなって思って、
これはもしかしたら自分の特性というか、
当時から状況を観察するみたいなのが得意だったというか、
その癖がついていたというか、
その人たちが何でそうなってんだろうなとか、
どういう話し方をしたらいいんだろうなみたいなのを、
子供ながらに考えてたような気がして、
それがもしかしたらうまくやれてた要因なのかもなと、
振り返って思うのと、
もう一個子供時代のエピソードで思い出したのが、
僕サッカーをやってたんですよ。
小学校時代3年生ぐらいから6年生ぐらいまでやってたんですけど、
当時の監督がすごい厳しい人で、
27:00
結構土豪が飛び交うようなサッカーチームで、
あんまり気持ちとしては楽しかった印象ないんですけど、
僕その当時結構丸い人間で太ってたんですよ。
太ってて100メートル18秒台ぐらいの、
小学生ながらにそれってかなり遅い方だと思うんですよね。
なんだけど、なぜか当時サッカーのポジションで
ウィングっていうポジションがあって、
今多分もうないと思うんですけど、
あんまり戦術として使用されなくなった。
Jリーグ出たてのぐらいでウィングが流行ってた時期で、
僕左利きなので、
左ウィングになぜかバッテキというかされたんですよ。
左ウィングってもちろん攻めに参加しなきゃいけないし、
最終そのこぼれてくる球を押し込むみたいな役割があるので、
足早くないといけないんですよ。
一つは左利きだから、
左ウィングだろうっていうのはあるのと、
とはいえもちろん左ウィングで右利きの人っていっぱいいるんですよ。
だから全然僕じゃなくてもよかったはずなのに、
なぜか左ウィングで、
しかもなんならちょっと期待されてたみたいな。
なんでそう思ったの?
それがよくわからんのだけど、
子供ながらになんか期待されてるっていうのがあって、
頑張ればできるみたいな。
お前やれるよみたいな。
それがどういう監督の心情を想起したのかわからないけど、
それがすごい覚えてて、
なんか気に入られるみたいなのは当時があったのかなと思って、
なんか頑張ってやってはいるみたいなのとか、
こいつは目をかけようみたいなのがもしかしたらあったかもしれなくて、
それがさっきの話にもつながるんですけど、
なんかかわいがられるとか、
先輩からかわいがられるとかもあったから、
そういうのがいろいろ作用して、
いろんな人とうまくやれてるように見えてたのかもしれないなっていうのは、
ちょっと振り返ってみるとあったなと。
それは今も性質としては残ってるような気がするっていうか、
30:03
例えば横浜に来たときの地域の長老というか、
地元の人たちにいろいろ気にかけてもらったりとか、
というのはあるかもしれないなと。
それって意図的にみんなと仲良くなりたいって意思が強いからなのか、
好奇心旺盛だからいろんなとこに行くのかっていうとどっちなの?
どちらかというと、たぶん前者で。
みんなと仲良くなりたいっていう。
そう、ある種の子どもながらの正義感ってあるじゃないですか。
例えばはぐれてる人がいたら、学級委員長的なというか、
あぶれてる人。
あぶれてる、その中に入れてあげたいみたいなのを思ったりもしただろうし、
子どもながらになんでその階層が分かれていくのかがわからないというか、
みんな別に言ってしまったらそれぞれいいとこあるじゃんみたいな。
博愛主義者的な。
みたいなのはたぶん当時からあって。
なんでそんな子になったんですかね。
なんでなんですかね。ちょっとわかんないな。
わかんないのかい。掘り返してきたはずじゃないの。
もしかしたら家庭環境の話になっちゃいますけど、
父親と母親そんなに仲良くなかったので、
それを別に自分から取り持つみたいなこととかはしなかったし、
できなかったんですけど、
分かれていってしまう。
意見が対立してしまったりとか、
それぞれのやりたいようにやるってことによって、
どんどんグループができてしまうみたいなことに、
子どもながらに違和感を感じてたのかもしれないですね。
それを何とかしたいと思っていたのかもしれない。
当時そういう気持ちで働きかけたりはしてなかったですけど、
振り返ってみると、そんな作用があったのかもしれないなっていうのは思いますね。
人間関係は良好なまま中高と進んでいくわけですか。
そうですね。中高、高校も、
比較的新学校に行ったんですけど、
高校もやっぱり新学校の中でもちょっとグレていってしまう人がいて、
同じような状況でしたね。
そういう人たちとも仲良くしたいというかやり取りをしたいと思っていたし、
一方で全然違う人たちとも仲良くしたいと思って生活をしていた気がするので、
33:01
集団の中で、
調整弁というとちょっと言い過ぎですけど、
その間に入るみたいなことは、
なんか当初からやってしまってたような気がします。
ただそれによって苦しんでた部分もあると思うし、
その性質が災いしてみたいなこともあったような気がするので、
高校ぐらいでその性質にちょっと悩み始めるみたいなことはあったような気がしますね。
無邪気にやれなくなったというか。
みんなと付き合っていくの全部はしんどいなみたいな。
そうですね。言ってもそこを変えるのは難しいなとか、
というのも感じつつ、
若干学校の中で引きこもるじゃないですけど、
学校の中で引きこもるっていう。
どういうこと?想像できなかった。
休憩時間ずっと寝ちゃうみたいな。
よかった。ロッカーとかに入っているかと思った。
なんかちょっと関わりを避けるみたいな時期ももちろんあったし、
それはそうですね。もう一つの自分の特性としては多分臆病なんだと思うんですよ。
関係性を作るみたいなこととかを一方で多層的な関わり合い、
集団の関わり合いを求めつつも、
自分の中で人の領域に踏み込んでいけないみたいなものもあって、
それももしかしたら逆にいうと上手くやれてた要因かもしれないですよね。
あんまり踏み込みすぎないみたいなのがあったから、
その踏み込みすぎないっていうのが高校ぐらいから強くなったというか、
逆にそれを当時は自分の性質はこういうものなんだみたいなことを思いながら、
そっちに向かった時期もあったのかなっていうのを振り返ると思いますね。
中高ぐらいっていろんな興味を持ったりとか好きなものが出てきたりとかする頃だと思うんですけども、
その時何が好きだったとかって覚えてますか?
大学進学にも関わるんですけど、
僕小学校ぐらいからずっと考古学が好きだったんですよ。
多分最初は夏休みの課題図書とかで、ファラオの謎みたいなのだったと思うんですけど、
当時学校から家庭に配られて夏休みの課題本頼みませんかみたいな、
ファラオの謎みたいなのを面白そうと思って買ってもらって、
それを書いた人が吉村作次先生っていう、エジプトの考古学研究の一人者なんですけど、
36:03
その人の本で、吉村さんのようになりたいみたいなのがあって、
たぶん小学校の卒業文集で、なりたい職業あって定番の質問があって、
それに考古学者って書いた記憶があるんですよね。
たぶんそうだと思うんですけど。
なのでそのぐらいから吉村作次とインディー・ジョーンズに憧れて、
考古学者というのがどうやらあるらしい。
やっぱりどっちも謎を追求して解き明かすとか、
同時にUFOとかもすごい好きだったんですけど、
何か分からないものとか、謎めいているものとか、
人の感覚を超えているもの、
当時Xファイルっていう、
同世代だから分かる。
あれもすごい好きで。
そういうの流行ってましたよね。
MMRとか。
MMRもすごい好きでしたね。
謎を解明するっていうのがポイントなんですね。
やっぱりノストラダムスの時期でもあったし、
テレビ番組でも結構あったんですよね。
大パーツの謎とか。
バミューダ・トライアングルみたいな。
最近全然ないですけどね。
ムーが頑張っているくらいだもんね。
いまだに好きなんですけど、
それと高校学っていうのが結びついて、
そういうものを解き明かす人になりたいみたいな。
なんかずっとあったんですよ。
なので高校生ぐらいの時も、
部活はやってたのでバレーボール部だったんですけど、
部活もやってたし、
ちょっと当時、
大体みんな通る道かもしれないですけど、
バンドをやりたいみたいなのがあって、
ギターサポロに買いに行って練習するみたいな。
練習してすぐ挫折しちゃうんですけど、
みたいなのもあったり、
自分なりにやりたいことはいくつかあって、
そこをやっていくっていうのがありながら、
新学、次大学どうするみたいなこと考えた時に、
高校学勉強したいなと思って。
高校学の勉強できる大学ってどこなんだろう?
っていうのを調べた記憶があって、
ただ当時あんまりネットもなかったし、
携帯とかもピッチレベルの時代なので、
わかんないんですよ。
高校学の勉強ができる大学って、
しかも高校学部とかがあるわけでもないので、
39:02
もうそうですよね。
当時すごい苦労した記憶があって、
吉村さんは早稲田大学に当時いたので、
早稲田大学行きたかったんですけど、
学力がちょっと足りなかったっていうのもあって、
他に選べるとこなんだろう?みたいなのを、
結構探した記憶がありますね。
私学部とか、結局僕は東京学芸大学っていう大学に行くんですけど、
そこは教育学部環境科学専攻を、
文化財科学みたいな、
すごい枝分かれした先に文化財科学っていうのが出てきて、
文化財科学にもいろいろあって、文化財を保存するとか、
例えば日本画を修復するみたいなのがあったりとかの中の一つに、
高校学っていうのがあるっていうのをやっと見つけて、
すごいね。見つけられたのすごいよね。
すごいね。あれどうして見つけられたんだろうね。
で、大学そこに入って、高校学を学ぶっていう、
になっていくという感じですね。
東京のどの辺にあるんですか?
国分寺です。
なるほど。
分かります?
東京の辺は全然分かんないんですけど、なるほどって言ってました。
結構端っこというか、いわゆる山手線が走ってる沿岸が中心ですよね。
池袋があって、新宿があってみたいな。
そこから中央線でひょーっと西の方にずっと出ていくと国分寺があるんですけど、
結構距離が都心から離れているので、
どっちかというと八王子とか、もっと西寄り。
高尾山的な。
そうですね。そちらの方に近いというか場所だったので、
なんか返協感はありましたよね。東京なんだけど東京じゃないみたいな。
その返協感って結構今も持ってるというか、すごい残ってる感じとしてはあって。
返協好きになったってことですか。
返協好きにその当時はなったわけでもないんですけど、
なんかその中心じゃないっていうことに居心地の良さを感じてたかな。
そこで4年間、正確に言うと5年間か。
結構その夏は発掘ツアーみたいなのがあるので、
大学の先生の研究している、当時長野に発掘現場があって、
長野の週末季古墳の発掘にいそいそと出かけて、
42:04
結構体育会系というか、行く前にいろいろ先輩から教えられることがあって、
例えば測量がちゃんとできなきゃいけないみたいなのを叩き込まれるんですけど、
測量もその、あれ何て言うんだったっけな、ちょっと名前忘れちゃったな。
三助じゃない。
三助は道具の名前で、要はその水平な板をどこにでも立てられるようにならなきゃいけないんですよ。
というのは、ちょっと前から説明すると、古墳の測量をするために、
正確な測量したポイントを地図に落としていくという作業が必要なんですけど、
その地図に落としていく作業を、もちろん野外でやらなきゃいけなくて、
水平にしたテーブルの上でポイントを落としていくんですよ。
そのポイントを落としていくやり方が、単純にその縮尺を変えていくだけなので、
現場で、例えば立てた台から30メートル先に立ってもらって、
その人を目視して、その人の立っているところが何メートルって分かると、
そこに何メートルってポイントを落としていくというのをずっとぐるり演習を回して、
そのポイントを全部落としていって繋いでいくと、
理論上はその外の風景の高低差が水平な板の図面上に落とされていくっていうやり方をするので、
ちょまどさん 真ん中に水平なの立てるってこと?
まずその基準となる板が水平でないと、そのやり方は成り立たないので、
それが結構3本足がついてて、それぞれの足が長くなったり短くなったりできるようになっていて、
いわゆる今やっと僕の人がやっている側両は電子でピンってできるやつだと思うんですけど、
その原始的なやり方だったので、その足を長くしたり短くしたり、水平にするっていうことがそもそも結構難しいっていう。
ちょまど 今だったらね、iPhoneもあるけど。
そうそうそう、水平系とかあるからね、あれペペペって多分今できるんだと思う。
ちょまど 水平系も使わずにやってたってこと?
水平系はもちろんあります、あの気泡が入っている。
あれで置いて、そういうのを夏休みになると、大学の小高い丘とかでみんなで練習するっていう。
ちょまど 大学生が。面白いね。
普段はどんな勉強をするんですか?
45:01
普段は結構いろんな勉強があって、教育学部だったので、僕教面も取ったんですよ。
なので教養系、もちろん授業計画みたいな話とかもあったし、
単純に日本史とか世界史みたいなものも授業として必修であったし、
っていうその基礎系のものに加えて、
高校学の授業も、例えば土器の破片を、もう本当に段ボールいっぱい土器の破片が入っていて、
その破片同士を接合していくみたいな。
ちょまど めっちゃパズルってこと?
めっちゃパズル。しかもピースがあるかどうかもわからないパズルっていう。
ちょまど 先生はそれ分からずに持ってきてる?
ちょっとちゃんと分からんけど、一応出土したものでもう調査が終わってるものなのかな、ちょっと分かんないけど。
それをみんなで接合しましょうとか、例えば出てきた時が年代はどれぐらいなのかみたいなものとかを、
いくつか見るポイントがあって、土の質とか中に混ざってるものとか文様とか、
っていうのをみんなで議論するというか、みたいなものをしたりとか、
あとさっき言ってた文化財の保存方法とか測定方法みたいなのも、
当時結構盛り上がってきた時期で、炭素年代測定法とか年齢から推定するみたいなのとかが、
これはいいぞみたいなのが多分盛り上がってきた時期だったと思うんですよね。
今はもっと進んでると思うんですけど、なんかそういう方法を勉強したりとか、
あとその日本画、あとなんか謎に長寿記があったじゃないですか。
長寿記画を書くみたいな。
模写するの?
あれ何だったのかちょっとあんま覚えてないけど。
何を目的に模写させられたんだろうね。
表現技法を学ぶとかだったかな。
修復するのに必要な筆使いが凝縮されてるのかね、長寿記画。
あれ長寿記画って結構長いんですけど、その中の書きたい場面を選んで、その場面を書いて、
そのなんか上手さで測定なんだ、授業の評価された記号すら、あの授業何だったんだ。
みたいな、それで書いたやつ。
そうね、そんな授業をしつつ。
で、一応教育実習とかも行って、社会の先生の免許を取ったり。
あと学芸員ってあると思うんですけど、あれも資格があるので、それも取りました。
48:06
なんで博物館に実習行ったりとか、掛け軸の掛け方とか。
掛け方?
掛け方あるんですか?
そうそう、掛け方とか。
そもそもどう保存するかとか、どうやって開けてみたいなのとか。
適当に開けちゃダメなんだね。
あとその風帯とか、垂れ下がってる紐みたいのがあるんですけど、そういうのも角度をどうつけるかとか。
ちょっともううろ覚えですけど、ずいぶん前の話なので、みたいなことを学んだりしてましたね。
大学での学びはどうでした?興味深い感じだったんですか?
そうですね。
思ってた考古学者と。
そうですね、そういう意味では。
謎はあんまり解明してない。
当たり前ですけど、そんな謎を解くみたいなものは、最後の最後の何だったら最後みたいなものであって、やっぱり地道な作業の積み重ねなわけですよ。
何だってそうですけど。なので、ただそれは合ってるなというか面白いなと思いましたね。
単純に土器をくっつけるとかも面白いし、そういうものを扱えるみたいなものも選んだ道だったっていうのも多分あると思うんですけど、楽しかったなっていう記憶はありつつ、
ただあんまり良い学生ではなくて、大学生って割とそういう人も多いと思うんですけど、
酒は飲むし、麻雀はやるし、パチンコもいくしみたいな、あんまり良い学生ではなかったので。
でもなんだかんだ授業はちゃんと取ってないと取れないよね。学芸員とか教職とか。
だから相当ちゃんとやってたなって私は聞いて思ったけど。
そうだね。授業はちゃんと出てた。
出た上で遊んでたっていう偉いなって思ったり。
そういう意味では羽目を外しきれなかった大学時代かもしれないですけどね。
じゃあそのまま将来は高校学の道へとはならなかったんですか。
そうですね。大学4年までなりたいと思ってて、院生になろうと思ってたんですよ。
で、勉強もしてし始めてたというか、ぼんやり院生になりたいなぐらいに思ってたんですけど、
もちろん院生も一緒に4年生ぐらいになるとゼミに参加したりとか、いろんな話を聞く機会があったりとか仲良くなったりするので、
51:02
やり取りをしていく中であんまりみんな、あんまり言い方あれですけど面白そうじゃないな、その人たちが。
というのと最終就職先どうするみたいな話を漏れ聞こえてくると、
どんな世界でもそうだと思うんですけど、骨とどういう位置取りをしてるか、誰の先生の下で何年やってるかとか、
そういうので、じゃあこの学芸員の枠が空いたから次はあの人だろうねみたいな、
それがその大学だけじゃなくて、その学会というか業界全体で何か予定調和で進んでいくみたいな感じが聞いていく中でどんどん分かってきて、
何かそんな世界でずっと生きていくのってあんま自分は向いてないような気がするなと思うようになって、
大学4年生で1年留年するんですよ。
で、ちょっと話が飛ぶけど、当時のモラトリアム的な思想で、
北海道の実家帰った時に、全部なんか矢になっちゃって、全部投げちゃって。
4年生の終わり頃。
4年生の冬だったかな。それこそ院に行くのか就職するのかとか、何か決めなきゃいけない最終みたいな時に、
もうめんどくさくなっちゃって、当時パチンコでスロットをやってたんですけど、やったことあります?
1回だけあるんですけど。
満枚っていうすごい出る、すごい勝つの満枚っていうんですけど、1万枚出るっていう。
もう1回だけ、経験したその1回だけなんですけど、すごい勝った時があったんですよ。
で、なんかお金手に入ったし、北海道一周旅行行こうと思って、何にも持ってなかったのに、
右に車を、パチンコ屋の帰り道右に行くと、
そのまま行ったんですね。
家に帰る。
北海道のパチンコ屋で買ったのね。
で、右に行くとお家に帰る。
左に行くと高速に行くみたいな分かり道で、左に行っちゃったんだよね。
で、そっから多分1ヶ月ぐらい何にも本当に持たずに車中泊しながら、
途中寒すぎてパーカー買うっていうのだけすごい覚えてるんですけど。
パーカーだけで済んだの?すごいね。
でも車あれば死にはしないからね。
54:01
で、ぐるっと北海道一周して、っていうのが差し挟まれ、
それで結局卒業できなくなって、1年留年してっていうのが差し挟まれて、
で、大学5年生の時にやっぱ就職しようって思って、
で、ただ思ったけど全然就職活動もせず、
すごいギリギリのギリギリになって、
拾ってくれる会社に巡り会って、
で、そこがたまたまいろんな編集制作をしている会社なんですよね。
カタログとか、当時その企業のCSRレポートとかを手掛けてる会社が、
本当に僕就職活動のギリギリでエントリーシート書いたりして、
本当に数少なくなっちゃってるんですよね。
で、残ってる中でここは良さそうだなって思った、そこ一社しか受けなかったんですけど、
そこで運良く拾ってもらって、そこに入社する。
で、そこで高子と出会うっていうのが、大学生から就職前ぐらいの感じですかね。
それはなんでその仕事を選んだんですか?
ねえ、なんでだったんだろうな。
行ってみようって説明会に行ってみて、
すごい採用担当の人と、ゆくゆくその会社の社長になる人なんですけど、
人事部長の方が、なんかすごい良い人だったんですよね。
で、話をして、ここだったら良いかもなって思って、
でももちろん相手あったようなことだから、
で、なってたらその2時、3時って先行がどんどん進めることができて、
で、やっぱ話していく中でも、なんかどんどん良い会社だなというか、
ここでだったらやっていけるかもなって思ったのは大きかったのと、
で、編集制作会社なので、結構その編集志望の人が多かったらしいんですよね。
で、ただその他の仕事も増やしていこうっていうので、
営業とかその経理とかみたいな、いわゆる総合職っていうようなくくりもあって、
あなたの希望はどこですかみたいなのを最初に多分聞かれて、
で、そこで僕どこに全部に丸付けたのかな?
どこでもいいですみたいな書き方をして、
なんかそれも結果的に良かったというか、
編集希望の人が多い中で、どこでもいいみたいな人ってあんまりいなかったみたいで、
57:01
なんかそこにある種のお互いのニーズの一致というかが多分起こったみたいです。
佐藤さんは一年留年してるんで、高子さんと同期入所みたいな感じに。
そうです。
なるほど。
左に行ったことによって同期入所になった訳だね。
そうだね。
運命の分かり道ですね。
そうですね、確かに普通に卒業してたら、また全然別の道を歩んでたかもしれないですね。
ちなみにいくらぐらい買ったの?万枚って。
えっとね、20万ぐらいかな。
微妙な額やな。
でも確かに北海道一周なら行けるかなって感じ。
手にする金額としてはすごく大きいし、そんなに勝てることってまずなくて、
本当に機械が壊れてるんじゃないかってぐらい出るんですよ。
当たるしかないみたいな風になってくるんですよね、だんだん。
あんなに当たらなかったのに、一回当たるともうそれが狂ったように続くっていうのに、
多分見てて自分もおかしくなっちゃった。
いくらでもお金出てくるみたいな感じ。
終わんないなーみたいな、むしろ。営業時間内にこれ終わんのかなーみたいな。
そこで出会うまでの高子さんの話も、なんかショートめにちょっと教えてもらいたいんですけど。
ご視聴ありがとうございました。
01:00:20

コメント

スクロール