今回は、房日新聞社・本間裕二さんにお話を伺いました。
千葉県館山市の新聞社、房日新聞社の経営をはじめ、代々続く家業を継承し、営まれている本間さん。まずはどのようなお仕事をされているかについて、伺いました。
房日新聞社:https://bonichi.com/
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サマリー
房日新聞社の本間裕二氏は、家業の継承や地域活性化に取り組みながら、立山市での多様な事業展開について語っています。観光事業や地域づくりへの思いや情熱を共有し、訪れる人々を引き寄せる魅力的な街づくりの重要性を説明しています。本間氏は、地域愛を基にしたまちづくりの重要性を強調し、行政と民間の協力についても言及しています。また、地域の自然環境を保持しつつ、次世代に住み続けられる豊かな街を目指すビジョンについて述べています。60年後も住み続けたい街における課題やビジョンについても考え、高齢化や空き家問題などの解決策を模索しています。彼の地域愛と中長期的な視点が、立山の未来を考える上で重要であると感じられます。
房日新聞社の紹介
ゆいなわさんの聞く人ラジオ
皆さんこんにちは、ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。
今回は、房日新聞社・本間裕二さんにお話を伺いました。
千葉県立山市の新聞社、房日新聞社の経営をはじめ、代々続く家業を継承し営まれている本間さん。
まずは、どのようなお仕事をされているかについて伺いました。
家業があって、今は房日新聞をやられていて、先ほど見せていただいた南房タクシー代表もそうだし、山盛りをやっていて。
そうですね。今は主にこの3つ。
あとは、これは房日の説明ですけれども、房日新聞では新聞事業と観光事業をやっています。
30名ぐらいで、創業76年というところで。
あとは観光事業ですね。
こちらでツアーを作って、バスを借りて、店長員がついて、建山エリア、南房の人たちをお連れする。
京都とか、結構遠くまでバスで。
結構来ますね。
というのをもう50年以上やっています。
タクシーはこれも小さいんですけど、台数13台少ないんですけれども、昔からやっていますよというところですね。
そっかそっか。
そうですよね。もともと4代目っておっしゃっていましたけど、一応おじいさん、非おじいさんが立山市長。
ここが1、2、3、4で、まだ社長がいるんですけれども。
会社としてやり始めているのは、非おじいさんから。
というので、4代目という形でやっています。
今までは経緯がずっと書いてあって、非おじいさんが市長をやっていたんですよね。
それももともと、非おじいさんから小麦エリアのところで豊洲産のところで、博堂という磨き粉の採掘から始まっていて。
地域とのつながり
もともとこれが、これすごい長いんですけれども。
ちょっと待ってください。これがちょっと違う仕様でしたね。
そっかそっか。
ちょっと違う仕様だった。
博堂から始まって、最初、百姓が副業で博堂を採掘みたいなのをやっていたそうでして。
それをちょっと近代化していって、そこから会社化していったみたいな流れなんですよね。
そうなんですね。
そうですね。非おじいさんが。
我業としては、この阿波というエリアで11事業。
11事業なのかな。
11事業。
そうですね。いろんなものをやらせてもらっています。
会社自体は6社なんですけれども、それぞれが商権も含めて小さいんですけれども、こういった形でやらせていただいています。
これが大正からのザックリ流れというところなんですけれども。
最初は博堂の事業が1921年。戦前ですね。始まって。
もともと百姓の専業の百姓だったんですけど、副業として博堂事業をやっていて。
この方が勤勉の方で、いろいろなストーリーがあるんですけれども。
これをトロッコで効率化したりとか。
博堂を通って、それを手作業のトロッコで効率化したりとか。
採掘から販売まで一貫体制を作ってとか。
これを博堂を輸出という。日本の中だけなんですけれども。
関西道部に。
採本式の組取りの。
博堂を掘ると水が出てくるんですよね。水が結構厄介で、それも湧き水を処理するというのをして。
その水を最終的に用水路も整備した上で、防臭水道、今は見よし水道になっているんですけれども。
そこを作ったみたいなところで。
穴を掘って、そこを効率化していって、出てきたものも使ってみたいなところで。
これ採本の原理ですみたいな話なんですけれども。
その後運送業を2代目が始めてというのがあって。運送をやって、さっきの水道ですね。
それを掘って、水道事業をやってくれないか。
最終的に1975年に市に売却をして、今は見よし水道になっているんですよね。
バスも途中でやっていたようでした。
あとは市議。最初は市議に立候補したりですとか、政治的な部分に入ったりとかというのが一部。
ひいじいさんですね。
その間に立山信用金庫というのがあるんですけれども。
その前は全市の信用組合が結構経営なんで。
今まで事業をやっていたということでお金を入れて、そのタイミングで理事長をもらったということですね。
豊富士山町というのは今はもうないんですけれども、豊富士山村長にもその前にはなっていたというところで。
最初は事業だけやっていたんですけれども、戦前、戦時中、戦後のところで、
結構、公の職に携わることが出てきたのと、あとは金融機関、信用金庫に携わることがあって。
それと同時にその時に法人会ですとか、商工会議所みたいなのが全国で立ち上がっていくということで。
ひじいさんが携わっていて、祖父も亡くなった2年前に亡くなったんですけれども、
彼もずっとそういった部分に携わっていたので、いろんな相談のことができると。
全部そこに繋がっていまして、ガス会社もそうですし、新聞社もそうなんですけれども、
防臭ガスというガス会社と、市長に途中になったりとかするんですが、
未来への思い
信用金庫理事長をずっとじいさんがやっていて、商工会議所の怪盗も18年。
ダブルでそういったことをやったりとかしている中で、沖ノ島に行くところの船の。
これももともと極洋という大手企業さんが、捕鯨船とかの修理に使っていた記事なんですけど、
これを地元にという話があって、じゃあやりましょうというところと、
あと防日新聞は結構最近なんですよね、1996年。
もともと県議の方が立ち上げた新聞社なんですけど、これも一緒にいいということで。
あとは自社で昔からやっていたトラック事業、ペリン管さんと一緒にやっていたんですが、
あとはJR貨物と一緒にぐるっと防臭販通の作業をやらせていただいているわけです。
こういったところは事業が、ペリン管もどんどん事業縮小といいますか、日本通のさんが変わっていって、
それとは別に海運って、船で運んでいたんですけど、こういった部分を統合していくことが行われて、
今は防臭物流という会社に統合しています。
防臭物流記載はないんですけど、こういった事業を今11時にやっていますという感じですね。
今、本間さんご自身はさっきの書かれていた部分をやられていて、他の部分は別の方がやられているという感じですか。
ガス会社は兄がやっていて、これが防臭物流のページで、
ガス会社が兄がやっていまして、タクシーが私。
こちらも父が社長なんですけど、実質は他の方がやって、生コンもそうです。
別の方がやっていただいているという感じですね。
もともと本間さんは立山生まれて、泡子を出て、後々はそういう事業をやっていこうという感じだったんですか。
そうですね。泡子を出てもそうなんですけど、小学校ぐらいからお祭り。
お祭り。
とにかく地元が好きで、ずっと太鼓をむか足からやっていたので、寝ていたら夢で叩いてやっているみたいな。
というぐらい地元と密接にかかっていて、高校の時は野球をやっていたのでその時はできなかったですが、それ以外の時はずっとやっていて。
地域が身近にあったというところと、あまり父は家では仕事の話をしないので、他の方から会社やっているよねとか聞かれたりとかして。
高校ぐらいの時に次の進学を考えた時には地域を良くしたいみたいなところと、会社をやっているのであれば経営みたいなところで。
その二つが関心領域であるのと、あとはお祭りをやっていると、特に大学に入った時は一軒一軒寄付もあるんです。
そうなると去年寄付いただいたところが、あれ、いないとか。
そうか。
白地図を広げて一軒一軒行っていくので、空き家がどれだけ増えていくかって分かるんですよね。
そうか。
そういうのを含めて、一番は中高でとにかくいろんな役をやらせていただいて、自分自身が育てられたっていうのがありまして。
それに対して何か恩返しじゃないんですけど、何かできることがないかなっていうのは強く思っていますね。
本当に勉強もできなくて、運動も微妙でみたいなところだったんですけど。
それでも野球部とか部長をやらせてもらったりとか。
阿波甲も最後補欠だったんですけど、キャプテンをやらせてもらったりとか。
ああ、すごい。
そういうやつですね。
いろんな、その代で一人しかできないようなことをやらせていただいたので、あとは会社をやっていたというところで。
最終的に帰ってこようという思いがありましたね。
じゃあもうその思いを持って、大学は大学で出て、ある程度したら帰ってきて。
こっちも帰ってきてどのくらい経つんですか?
2017年の5月なので、7年、8年ぐらいですかね。
そこからはもう立山のことでお仕事を基本的にされていて。
そうですね。
じゃあ結構スパンとしてはちゃんと立山を見てる感じじゃないですか、きっと。
ご自身としてもう一回出られて帰ってきて。
なんか変化を感じたりします?過去と今みたいな。
そうですね。帰ってきてからは活動してる方は結構いらっしゃるなって。
活動してる方。
お祭りだけですと、昔から地元の人だけの集団ですよね。
閉鎖的な、悪い言ったら閉鎖的なコミュニティーの中なんですけども。
あまりその中に外から来たって入りにくいですよね。
ですが、やはり仕事とか松作りとかって観点で、今どうなってんのかなとか、どういう方がいらっしゃるのかなって見ていくと、
例えば牛場さんみたいな方がもともと立山をいろんな理由で移り住んできてる方が、ご自身でどんどん頑張ってやってるって方が結構いらっしゃるなと。
そういうのを一つ始めると、その横の繋がりとかでいろんな方がいらっしゃるなっていうので、
もちろん地元の人も通行世代の方とかいらっしゃるんですけども、
結構多様な方が、この半島の先に集まっているというのは知らなかったので、
それがずっと起こってて変化なのかわからないですけど、気づきとしてはありました。
本間さん自身が体感したみたいな感じですよね。
もともと地元だから、触れる機会はあったんでしょうけど、やっぱり若い時はそこまで視野が見えないというか。
そういうところから外の目を持ってして地元に帰ってくると、こういう場所なんだっていうのってあると思いますし、
やっぱり授業されていると授業されているところからの目線みたいなのに関わる方もそうでしょうから、
そういう見え方がしていくっていう感じですかね。
あと、まちづくりっていう文脈というのは、最初に某日に入ってきたんですけども、
野球部の同級生が、私も地域活性化したかったので、
ウルシバーさんが今浅井診療所っていうところが、今は常ホステルになっているんですけども、
浅井診療所を回収する前に内覧館をやると。
まちづくりの重要性
興味があるかって、白井たけるっていう人なんですけど、
彼はネイチャーガイドみたいなのをやっている。
今後多分観光の目玉になってくるんですよ。
彼に連れられていって、ウルシバーさんにお会いして、
そうするとそこの繋がりで見えてきたのと、
まちづくりする上では、やっぱり行政に頼るのではなくて、
民間でエリアを変えていこうという動きが、北九州の小倉のほうから、
リリンバーエーションまちづくりってあって、
そういうのが共通言語としてあったんです。
あ、そうかそうか。
それを民間で地域とか物件を管理するような、ヤモリっていう江戸時代にあった、
行政マンが少なくてもまちが維持できたのは、
オーナーから物件を預かって管理するヤモリっていう機能があったから、
江戸時代はまちが成り立ってきたみたいな話で、
現代版ヤモリっていうのも必要ですよねみたいな話で、
ウルシバーさんとの意気投合をして、
市はどうなんだろうって話があったら、
同じようにそういった流れを作りたいってことだったので、
講演会みたいなのじゃまず大きいのやろうって、
200人くらい集まった講演会をやったんですよ。
そこら辺からいろんな、そこには外からも来ますし、
関心がありそうな方が泡中から集まってきてみたいな、
そこで結構プレイヤーが見えてきたというのがあります。
あまり新聞社にいたからわかったというよりかは、
まちづくりっていうところで、
もう行政の方とも本当に一緒に何がしようかなみたいな感じで。
そういうところからかなって、
地域に対する回想度が上がっていったみたいなのが思いますね。
地域愛と未来へのビジョン
そっか。やっぱりそうやって行動を起こしたことによって
見えてきてるっていう部分のことですよね。
そうですね。
今もそういうことを引き続きやられてるって感じになりますかね。
そうですね。
同じサイズではできてないですけど。
地元立山への強い愛着を持ち、
地域の発展を目指している本間さん。
民間主導で地域を変える動きを重視し、
行政と民間の協力が大切とおっしゃいます。
また、地域の課題解決にはコミュニケーションが欠かせないと感じ、
多様な視点を持つ人々との交流を大切にしたいと語られています。
普段はお仕事っていったら何する?何してるんですか?
ここの毛日新聞をやる、経営するというか、
そこの部分もあるかもしれないですけど、
日常的に何するのかな?みたいなのって。
そうですね。日常的には、
会社で皆さんそれぞれの仕事場がしっかりと機能して、
毎日発行に向けて動いているので、
その中で私がやる部分は、年間でこういうような方向性とか、
全体の戦略の部分ですとか、
人口世帯数が減っていく中で、
次のどういった形で毛日新聞を事業展開をしていくのかを、
幹部の皆さんと一緒に考えて、
というのは毎日やっているわけではないですけど、
それ以外ですとどうでしょうね。
入社してからはIT化とか。
今は専門のかなり長けている方がいらっしゃるので、
社内のインフラ整備とかやっていただいているんですけど、
制度とか、そういった組織として運営する上での、
なかったものを最初作っていったというのがありますね。
例えば評価制度ですとか、
営業だったら目標と日々の売上の管理、
そういった仕組みを導入したりですとか、
そういったものはある程度最初の土台だけですけど、
やらせていただいて、
あと人材採用ですね。
そこはかなり力を入れてやらせていただきました。
今はある程度充足はしているんですけど、
引き続き採用となったら、
私が一応文章を書いて、
インディード募集しながら、
毎日も載っけながらやっています。
日々で毎日何か同じことをやるということはあまりないですね。
そうですよね。
だから新聞社の中にはいるかもしれないですけど、
あるいはどこかに行ってみたいな。
そうですね、基本いないこと。
どこかしらに行って何かやっているみたいな感じ。
あとはタクシーのところで、
タクシーも人材の採用ですとか、
それも毎日ではないんですけど、
タクシーの人数が少ない中で回すためのシステムの導入ですとか、
あとは公共交通の一翼といいますか、
なので公共交通会議というのが宮城坊主立山であって、
そこでタクシー、バスとは別のオンデマンドの仕組みが必要。
そういう公共交通としてどう考えていくのかという会議体があったりするので、
そういうお話が入ったりですとか、
今はそれこそ3日前くらいから、
立山市の総合計画、これは毎日ではないんですけど、
総合計画審議会というのがありまして、
そこで上がってきた総合計画に対して、
どういう、いいのか悪いかというか、こうした方がいいんじゃないですか、
みたいなことを議論するメンバーではあるので、
公共的な仕事はいくつかやらせていただいています。
そうすると、もちろんご自身の知見とか経験を踏まえてのご意見をされるというか、
それぞれの場において、
ここを大事にしていますみたいなことってあります?
発言というか、物を言う時の自分の価値観の軸みたいなのってあったりします?
そういうのって、多分人それぞれ全然違うと思いますし、
思いとしては、
例えば政治をされる方だったらスローガンみたいなものがあったりとか、
そういうような心情みたいなことってありますか?
心がけているところは、短期で見ないといいますか、
中長期的に考えて、あとは部分で見るんじゃなくて全体最適で考える。
会社もそうなんですけど、
私のミッションとしては、
自分の、いつ命尽きるかわかんないですけど、
とにかくこのターンでできることはきちっとやろうと思うので、
いろんなリソースがあるので、
これを私の立場でできることは最大限やりたいなと。
それは何かというと、
この今のターンのためだけじゃないですよ。
次世代に向けた取り組み
やはり街作りは多分終わらないと思うので、
ずっと今成功していても変わっていかないとすぐこうなっちゃうと思うので、
今やるべきことはやらなきゃいけない。
しっかり見つけてできるようになりたいなと思っています。
次世代のために我々ができることを考えたいなと。
総合計画はまさに10年間の構想に対して、5年間でと話したんですけど、
ここにしっかりと市の上位計画なので、
これに基づいて本来であれば予算を作っている。
ただほとんどの市が境外化していまして、
総合計画ってとりあえず作るは作るんですけど、
それとまた予算は別だよって感じで回っちゃっている市が多いんです。
でも実際会社もそうじゃないと思うんです。
やっぱり戦略があってそれに基づいてお金を使っていくと思うんですけど、
ってなったらやはり街の人口が減少していくもっと絶対変わらないので、
それに合わせたやるべきこと、今やらなきゃいけないことを明確にして、
たぶん嫌われることとか大変なことがあると思うんですけど、
それをやらなきゃいけないことを明確にして、
これ行政だけに任せるわけじゃなくて、
民間でもしっかりとリスクとってやっていかないと。
っていうのは、やってるところはやってるんでっていう一方で。
他のエリアで。
やらないとたぶん選ばれない街になる。
帰って来れなくなる。住み続けられなくなる街なので、
そこらへんはいろんな方の力を借りながら、
共通認識でできることをやっぱりやりたいなと思います。
もともと地元にいて、地元愛って言ったらなんですけど、
そういう思いがあってのやれることっていう立山に対して、
って思ってやられてるわけですから。
当然課題もいっぱいあるでしょうし、
目指す方向性も人それぞれもちょっとずつ違ったりもするでしょうから、
実際駒さん自身がこうだったらいいなみたいなのって、
どんな感じで思われてます?
この地域ですね。
一つは96歳かな。
さっきのおじいさんが亡くなったのがそのくらいで。
97か98か。
60年後も住み続けたい。
自然が保全されて豊かに住み続けられる街になっているっていうのを
なんとか作りたいな、まずは。
要はこの方は90何歳で今の景色を見て怒りだと思うんですけど、
私もそこまで生きれば、まずは自分のターンで、
とにかく地域間で競争が今後も起こっていくと思うので、
豊かな街っていうものをせっかくここにご縁があって生まれ育って
お世話になったものを作りたいなっていうのがありまして、
どうなって欲しいのかって言いますと、やはり豊かっていうのは所得的にも豊か。
精神的にもそうですし。
その形、方法に関しては何かに依存するのではなくて、
しっかりと産業として稼げる。
なって欲しい。
プラス、自然環境を壊しちゃったりとか、歴史的なものを壊してしまっても戻らないので、
そこがPCSによって得た利益で保全されていくような流れを、
立山市だけではなくて広域で、半島はもうみんな一緒だと思うので、
そこで、別にバックアップとかなんとかじゃなくて、
この三市一町、この防州、阿波で、
しっかりとそれぞれが役割を果たしながら、豊かな地域にして欲しいなと。
そのためのポテンシャルは、やっぱり国際空港が2つあって、
90分で来れる。東京から来れるこの圧倒的な距離と、
あとは世界に開かれている東京湾の入り口。
今、海から入ってきてということはないと思うんですけども、
昔は海からしか来れなかった。
そういった部分の海と、あとは空。
友人ドローンも含めてですね。
これ多分安田さんがかなりいろいろ考えていると思うんですよ。
可能性でしかないので、
とにかく自然環境を壊すのではなくて、
それを稼ぐことによって、
諸徳もそうなんですけども、
次世代にこの環境を守っていけるような形を作ったらなと。
街の課題とビジョン
実際じゃあ、今そうやって思われながらやっていく中で、
なんかちょっと難しいというか、壁というか。
いっぱいあると思うんですけど。
すごいいっぱいあると思うんですけど、
何でしょうね。
そういうのって、
例えば伊達山の方、いろんな方のお話を聞いていたりすると、
ああいう問題あるよねとか、
いっぱいあるし、
解決できないなというものもきっとある。
例えば高齢化とかというのは当然止められない問題ですし、
そこに伴う空き家の問題とかって、
それはもう不可避なものなので、
それに対しても何かはしなきゃアクション取れるものはあると思うんですけど、
例えば今本間さん自身がここ課題としてでかいし、
でもこれ変えなきゃダメだよねみたいな、
大きなボスみたいなものって何でしょうね。
一番はですね、圧倒的に自分自身が力が足りないというのが。
力が足りない。
足りないというのがあると思います。
群馬県の前橋にこの前視察に行ってきたんですけど、
そこは上場企業のメガネのジーンズの田中社長という方が出身地で、
その方が資材を投じて、
今総合計画で話しましたけど、
そこの総合計画でいう上ではビジョンが普通必要なんですよ。
もともと前橋には市長さんに田中さんが言ったら、
ビジョンはないと。
自分自身の政治的なビジョンというのがあると。
ただ町にはそれがない。
それ私が作っていいですかと。
お金出すと言ってて、
1千万か2千万か出してですね。
市のお金を出して、
本当にプロの、ヨーロッパの、
アディラスとかそういったところのビジョン作りが作っているような、
ブランディングをやっているようなところを目指してですね。
まず民間のここ座市がある人が投資をして、
誰に頼むかというのが分かっていて。
やっぱりそのプロセスもある程度認識して、
それに向かって、
中単派の方じゃなくて一流の方が揃えてですね。
そこと地場ともしっかりとくっつけるような、
力がある方で、
田中さんだけじゃないんですけど、
田中さんを慕って、
地場の経営者さんがついてきてとか、
いくつかの仕組みがあるんですけども、
そういったものを描いて、
人を引き寄せて、
ものにして、
やっていくような推進力というのは、
もしあればですね。
それはすごいなと。
というのは、
やっぱりそこは。
それが他のエリアでいっぱいできているのかって、
そうじゃないので、
やっぱり素晴らしい方だと思うんですよ。
それはなんとか、
自分のせいにせずに、
できる人にお願いしながらやるべきだと思うんですけども。
壁って先ほどおっしゃってた部分に関しては、
そこはかなり思います。
それ以外に関してはですね、
次世代のために
やはり壁というよりかは、
壁に見えるんですけれども、
おそらくコミュニケーションが足らない。
そうか。
できてないんですけども、
そういうことなのかなって思いますね。
もっとできるように。
そうですね。
これは私もそうですし、
おそらくもしかしたら行政の方とか定住の方もそうですし、
ある程度街の方向性で、
どこの地域も置かれている状況って、
似ているじゃないですか。
その中で突破している地域は、
やはり民間も行政もトップの方が、
一番現場に来てコミュニケーションをして、
最終的に会い入れないかもしれないけれども、
でも熱意が伝わって、
反対なんだけど邪魔しないよ。
そういう形ですね。
そこは本当に本気でやらないと、
100%同意は無理なんですけど、
反対の方にも知っていると分かってくる。
考え違うけど、
あんただったら信頼するよみたいなのが、
やってる地域ってそういう風にやられてるんですよ。
そこらへんって、
もっと自分自身もそういう風にやらなきゃいけないと思いますし、
ウェットなコミュニケーションではないんですけど、
それはいろんな課題、
多席にするんじゃなくて、
どちらかというと、
あっちがこっちはこう言ってるんだけど、
やっぱり全然聞いてくれないんではないかとか、
至る所ではあったりするので、
そこはもう一つ踏み込んだコミュニケーションが、
必要だなというふうに改めてですね。
60年後も住み続けたい町として、
次世代のためにできることは何か。
本間さんの地域愛や中長期的な視点は、
立山の未来を考える上で非常に重要なことに思いました。
そんな本間さんのお話は次回に続きます。
33:44
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