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2024-02-28 08:03

Bさんの「ぶたさん文庫」"慈悲"岡本かの子 #171

171回目のキコアベは…Bさんの登場!

■慈悲
人にものを与えるのに適当な事情を持つ人がいるとき、
ふさわしい程度のものを与えるのが慈悲と説く作者は、
トルストイの作品などから例えをひいて語る。
自分の「志」を立てることばかり考えるのは、
自己満足、利己主義の慈悲であると述べているのだ。


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慈悲、岡本かの子。一口に慈悲深い人といえば、
誰にでも物をやる人、誰の言うことをもすぐ聞き入れてやる人、何事も他人のためにじせない人、こう決めてしまうのが普通でしょう。
それはそうに違いないでしょう。それが慈悲深い人の他人に対する原則ですから。
しかし、原則というのは結局原則であります。
物事がすべて原則通り単純に行って済むのなら、世の中は案外優しいものです。
お医者でも原則通りですべて病人が都合よく処理できるなら、
どのお医者でもみな病理学研究室に閉じこもっていれば世話はありません。
何も面倒な臨床学など習って実地研究の何年かなど費やす必要はないわけです。
ところが、その必要がある。
ありますとも、そこが臨機応変。
仏教のいわゆる時・所・意に適する方法において、原則を実地に応用しなければなりません。
本当の慈悲とは、ここに本当に物を与えるに適当な事情を持つ人がある。
その時、その人に適当なほどの物を与える。
それが本当の慈悲であります。
ここに一人の怠け者があって、それが口を上手にしてすがってきたとする。
口上手に上手られ、物をやったとする。
それは慈悲に似て非なるものであります。
おだてに乗った、うかつ者の愚かな処行です。
そんな時、物をやるかわりに、その怠け者のお上手者の方に平手の一つも見舞ってやる。
いましめになり八分剤になるかもしれません。
その方が本当の慈悲です。
人の言うことを聞けばよいといって、人を甘やかすばかりが慈悲ではありません。
お砂糖ばかりで煮たお料理はかえってまずい。
一つまみの塩を入れて、たちまち味の調和がとれるではありませんか。
時には、慈しみの中に味一つまみの小言も入れなくては、完全な慈悲とはならないでしょう。
愛情ばかりで知恵の判断の伴わない慈悲は、黄黄にしてまた利己主義の慈悲になります。
せっかく自分は善良な慈悲心でしているつもりのことが、利己主義の慈悲心になっては残念です。
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トルストイの作品のうちにあった例だと思います。
何の職業をしている人だったか忘れましたが、
とにかく慈悲を心がけて暮らしているある男がありました。
ある冬の夜、非常に天候が荒れました。
あるいは雪の夜だったかもしれません。
慈悲深い男は、家外の寒さを思いやり、
もっぱら室内のストーブの火に暖をとり、
椅子にふかふかと身をうめて静かに読書しておりました。
と、家外の吹雪の中に一人のバイオリン弾きの牢屋の小敷が立ち、
やがてそれは寒さのために縮んで、
主人の室のガラス扉に張り付くように体を寄せました。
主人はもとより、慈悲の心で生きておる人です。
しばらくバイオリン弾きの小敷姿を哀れと思って見ておりましたが、
やがて胃を消してガラス扉を開けました。
主人はそして、ひたすら恐縮するバイオリン弾きを室内へ生じ、
暖かい食べ物を与え、ストーブの火をどんどん焚き出して、
長時間吹雪の中にさすらって凍えてきた小敷の牢屋の体を暖めてやりました。
翌日、その翌日となり、雪は晴れ、道もよくなりました。
バイオリン弾きの牢屋はしきりに主人の体内から辞して、
またさすらいの旅に出ようとしました。
しかし、主人は聞き入れませんでした。
どこまでも自分の体内に留めてかわいそうな小敷音楽師を、
安楽に暮らさせようと心がけました。
それにもかかわらず、牢屋のバイオリン弾きはしきりに辞去したがる。
するとなおさら主人は引き止める、ほとんど強制的に引き止める。
あるよ、主人はバイオリン弾きの牢屋が突然無断で体内から抜け出し、
どことも知らず逃げうせたのを知りました。
ああ、彼はやっぱり空飛ぶ鳥であったか。
こう気がついたのは主人であったか読者たる私であったか忘れましたが、
とにかく利己主義な慈悲の礼償にこの話は役立つものです。
すなわち、主人はバイオリン弾きの本質をたっかん知えなかった。
彼の放浪的な運命を作った性格を見通さなかった。
彼の生き方は、どんな浮き難儀をしても、野に山に町に部落にさすらって歩くのが、
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その性質にあう生き方なのでした。
そういうものには、そうさせておくのがよいのです。
彼の幸福は、決して団衣奉食して、
不可にかわれ養われている生活の中には感じられなかったのです。
彼は主人に引き止められているうち、どんなに窮屈であり、旅が、さすらいが恋しかったか知れないのです。
彼は主人の行為がむしろ迷惑だったでしょう。
主人の慈悲は彼にとってむしろ、なくもかなの邪魔だったでしょう。
それにもかかわらず、主人は自分が慈悲を行っておることに満足を感じていたでしょう。
自分の志を立てることばかり考えていた主人は、
それがために相手が、どんな不自由や迷惑を感じているかに気がつかなかったのです。
つまり、自己満足、利己主義の慈悲とは、こういうことなのです。
ありがた迷惑の行為についてもう一つ言えば、
某外国に百六十歳近い長寿者がありました。
校室ではそれを読みせられ、召し上げられて多い微食でもてなしました。
長寿者はたちまち死にました。
疎食ゆえに長寿していた生命が、微食にあってたちまち破損してしまったのだそうです。
要するに本当の慈悲とは、相手の立場や本質を考え、
自分の自然的感情本位でない施しにおいて、本然の達成が遂げられるのです。
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