---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/649de15cb352effb9dd96fb1
サマリー
長嶋茂雄さんが逝去し、日本の野球界は大きな悲しみに包まれています。彼の輝かしい成績や影響力を振り返る中で、多くの人々がその偉大さを改めて感じています。
長嶋茂雄の訃報
6月3日の朝、日本の野球界にとっては、もう本当に衝撃というかですね、悲しいニュースになるんですけれども、あのミスタープロ野球長嶋茂雄さんがお亡くなりになりました。
今日はね、6月4日でその翌日なので、もうこぞってテレビ局さんの方ではですね、その日の夜からですけれども、いろんな関係者だったプロ野球OBの方ですとか、プロ野球選手じゃないような方も含めて、いろいろと当時、思い出話といいですかね、そういったものを
皆さんこう思い思いをね、ご体験、ミスタープロ野球長嶋茂雄さんと触れ合った方はですね、そういった思い出話ですね、明け暮れというかですね、別れ惜しむという形でですね、されていましたし、
6月4日、今日ですけどね、翌日のテレビはもうずっと四六時中、長嶋さんのツイート番組というんですかね、そういったものを放送されておりました。やっぱりこのテレビ局のスピード感というんですかね、やはり素晴らしいというか、過去にね、もちろん取材されていた映像とか、そういったものをある程度ね、引っ張り出してきて繋げているものが多いんですけれども、
でも引っ張り出せるっていうのはね、膨大な数あるはずなので、それをおそらく人海戦術で探して、短時間でね、みんなで探して見つけてっていう形でね、映像を見つけてっていう形で出していて、
割とそのパッと見も貴重な、これ見たことない映像というのはほとんどなかったかなと思いますけれども、でもかなりこれずいぶん昔にあったやつだなとかですね、そういった貴重な映像を久しぶりに見たなとかね、最近見てないなと思ってたような映像とかも結構出たりとかしていてですね、
長島茂雄さんの偉大さみたいなものって言うんですかね、そういったものを今もなお、影響力のある方としてね、上がっておりました。
それゆえにですね、僕自身が、僕はもちろんライターなんかしてますけれども、ライターや雑誌の編集なんかしてますけれども、もちろん長島茂雄さんという存在は手の届かない方でしたので、もちろん話したこともございません、取材したこともございません。
そういう縁、もともと僕はそういう大物の人とまともに取材したことはないので、長島茂雄さんみたいな人とか、もうすごい伝説の人だとか、たくさんインタビューとかされたりとかしていて、そういう徳のある方なんだろうなって、僕はもう本当に、いわゆる雑貨屋じゃないですけどね、
そういう雑貨屋みたいなもんですね。でもそういった雑貨屋にむしろ失礼ですね。もう本当にもう、露頭の叩き売りみたいなことしか自分でも言ってないので、自分自身の価値もなかなか上がってこないんですけれども、ステータスとかもね、まあまあしょうがない。
まあ愚痴ってもしょうがないんですけども、いつもの愚痴ですけども、あの長島さんの現役時代よね、やっぱり監督としての方がね、やっぱりもう90年代とか80年代90年代がもうすでに監督としての長島さんがほとんどでしたから、僕自身もね、自分が生まれたのが昭和46年1971年の3月なので、
まあ物心ついた時にはもう長島さんも第一次政権の監督さんでいらっしゃいました。3番4番はもう張本王みたいなね、そういう並びにもなっていたことしかもう記憶には残ってませんので、当然長島さんの現役時代というのはね、僕よりももっとワンランク上の世代ですね、の方が多分最後の世代というか衝撃を受けて大人気だったね世代だったと思います。
ので、余計に現役時代の成績っていうのはね、すごく昔から結構気にしてたというかね、そのスタッツの方をすごい気にしてましたね。その数字によく現れない、記録には現れない、記憶に残るのが長島修行という風に言われ続けてきていたので、そうなのかということの興味からスタートして長島さんの一般的なね記録をね、
見ていくとですね、それは王さんが14年連続ホームラン王とかとっちゃってるから、三冠王とかねとっちゃってるから、そりゃすげーって話になるんですけど、長島さんの成績もすごいんですよこれ実は。
だってまずその大卒1年目の新人の時に、これ本当はね、ギリギリのところで阻まれてたんですけど三冠王取りそうだったんですからね。ホームランと打点は29本、92打点ですけど、これ取ったんですよね。1年目で。大卒新人の1年目ですよ。
大卒だって3割5人ですからね。その翌年もね、これね三冠王にかなり近かったんですよね。大卒3割3割4人で取り出したオンリーだったんですが、かなりホームラン27本、打点82ということで、ちょっとその翌年からホームランが少し落ちてきたなというところだったんですが、その次にまたこれ1961年。
これは昭和で言うと36年ですか。それは36年ですけども3割5割3人という高打率で3年連続周囲打者取ってますからねこの時ね。
でホームラン28本ですけどもこの当時このぐらい打てば十分ホームラン王の水準だったのでホームラン王と。これ二冠王とか取ってるんですよね。
周囲打者全部で6回取ってますからね。やっぱり記録にもものすごい残ってる選手なんですよ。
でその中でも特に僕がものすごくお気に入りっていうかちょっとこれ長島さんチックだなというふうによくねあのプレイ研究中のプレイを生で見ていた方がおっしゃるようなものを体現しているような数字だなと思う都市が2つぐらいあるんですけども。
これがですねこれ本当にね一般的な数字なんでヘンテコリなひねくり回したデータじゃないので誰でも見ていただければへーと思うかもしれないと思っていただけると思うんですけども。
この打点を取ってる時の打率なんですけれども1970年昭和45年僕が生まれる1年前ですね。
同学年の人は僕3月生まれなんで同学年の人はもうすでに生まれてる年になるかもしれませんがとにかくもう50数年前ですよ。
それの時に打点を取ってるんですよ。105打点ですよ。130試合制で127試合出場で105打点。
これもすごいんですけどこの事態自体でもこの時の打率は2割6分9リンなんですよ。
ちょっとね衰えがやや見栄始めたかなとか言う風に多分言われていた頃だと思うんですけども。
とはいえ前の年3割1分1リンその翌年3割2分で周囲打者取ってるんですよね。
なのでまだまだ全然その間のポケットに入ったようなちょっと打率に縁がなかった年なんですけど。
2割6分9リンで105打点っていうのがですねちょっとびっくりですよね。
ちょっとこれはねしかも打点を取るというのは驚きですし。
さらにですねその翌年のね1971年昭和46年この年はねすごい奮起して打率3割2分ということで周囲打者を取りましたし。
ホームランもね34本これね王さんが取っちゃってるんでどうしても抜けなかったんですけどでも34本打ってるんですよね。
今年の打点はね86とちょっとそこまで震わなかったんですけど多分王さんがねこそぎに持ってっちゃったんでしょうね。
3番王4番長島っていう並びの時はねそういう可能性が高いと思うので。
でもそれにしてもまあ46年のねこれねあの阪急がね山田久志さんが日本シリーズで王さんにねさよなら逆転ホームランを打たれた時の年の成績なんで素晴らしい。
長島さんもねこのその時にお膳立てするセンターマイヒットとか打ってますけどもそういうことなんですがその翌年もですねまた打率が落ちるんです。
2割6部6輪これ昭和47年1972年なんですが2割6部6輪に落ちてしまったんですけど打点は92というね。
2割6部台で90打点とか100打点とかって当時のあの状況を考えたらやっぱすごいことだなというふうに思うんですよね。
これがよく言われるねチャンスに強いと言われていたしかも王さんがいますからね。
長嶋への追悼
王さんがいるのに王さんが前を打っていることの方が多分多かったはずなんですけど。
逆にねお前の方はね3番長島4番王って時もあったかもしれませんがまぁでもやっぱり3番王4番長島の方がやっぱりケースとしてすごく多かったと思いますので。
それでこの打率でこの打点っていうのがやっぱり長島さんの真骨頂とかねそういうところなんじゃないかなというふうに思うわけです。
まあそれでいてねあの昔ね玉城さんなんかが言っていたね兵術打が多いっていうねこれもねあの打球の早いサードゴロショードゴロをたくさん打った証拠だみたいなね。
そういうこともねあると思いますけどもまあこの辺まあ追悼というわけじゃないんですけど僕からの長島さんということでちょっと言わせていただきました。
はいということでまた次回をお楽しみしてくださいバイバイ。
11:02
コメント
スクロール