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敬和キャンパスレポ
この番組は、柴田市富塚にある競馬学園大学の大学生が、大学に関わるイベントや人、柴田のことなどをテーマにお届けします。
敬和キャンパスレポは、競馬学園大学の提供でお送りします。
みなさん、こんばんは。
この番組は、競馬学園大学から大学のことや柴田、新潟のことを伝える30分番組です。
今日の振興は、国際文化学科2年の山田夏実と、
国際文化学科2年の田村千尋です。どうぞよろしくお願いします。
お願いします。
今回は、2月の集中講義、海外メディア事情をベースに台湾を語る、をお届けします。
今回の海外メディア事情という科目は、もともと台湾をカメラを持って取材するという集中講義だったんですが、
新型コロナウイルスの感染拡大で往来が不可能となり、大学で台湾を学ぶという形になりました。
授業の中では、台湾在住の作家、片倉芳文さんのお話を伺ったほか、
自分たちでも様々な調査をして、最終的にこの番組にまとめるということになりました。
海外旅行に行けない状況が続いていますが、台湾に行ったことがない人、何度も行ったことがある人、
どちらにとっても台湾に行きたいと思ってもらえるような番組にしていこうと思います。
さて、台湾を語る3回シリーズの2回目ということで、
台湾の原住民と日本語世代
今日は台湾の原住民と日本語世代についてお話しします。
一緒にお話ししてくれるのは福井さんです。
よろしくお願いします。
と、もう一人。
はい、国際文化学科文一能平です。
国際文化学科文一能平です。
今回はテーマが難しそうなので、
よろしくお願いします。
前回の台湾を語る3回シリーズの1回目では、台湾の地域の特徴や交通手段、台湾と新潟の代わりについてお話ししました。
福井さん、どうでしたか?
台湾って地域によって様々な特徴があるってことがわかりましたね。
そうですよね。
タピオカとかも出てきましたね。
タピオカも出てきました。
台湾はオランダや中国・新潮の統治の時代を経て、50年間の日本による統治の時代が、つまり半世紀を統治していたわけですね。
先ほど出てきた原住民、今回私も知ったのですが、台湾では中国系の漢人でもなく、もちろん日本人でもなく、
もともと住んでいた人という意味で原住民というわけですね。
日本人と原住民の人たちとの関わりについて話してみたいと思います。
福井さん、少しご紹介いただけますか?
はい、わかりました。
1895年、日本は日清戦争の結果、台湾を新国から割除され、統治を開始しました。
そして日本は、現地の日本人を内地人、藩民族系を本島人、原住民を藩人と呼び、原住民は平和族と高山族に分類しました。
藩人というのは未開の民というような意味ですね。
そうなんです。
実際、新の時代にも、特に山の中で独自の生活を維持していた原住民の人たちを統治するのは難しかったようで、
こういう呼び名になっていました。
差別的な意味合いもあると思います。
そうなんですね。
日本人もまた原住民の統治に苦労し、しばしば厳しい討伐も行われたようです。
ただ、こうした日本の高圧的政策に対する原住民とはずっと摩擦が続いていて、
一旦摩擦が収まったかに見えた1930年、統治開始から30年も経った後に、ロシャ事件が発生します。
原住民の一つセデック族が、集落の日本人を大量に殺して、
日本人との間に戦争とも言われるほどの大きな反乱を起こしたという事件です。
最近、セデックバレーという映画で紹介された事件ですよね。
はい。
今回、セデックバレーは映画で見る時間がなかったんですけど、かなり長い映画で、
日本人、これ今、和久井君が説明してくれたように、
一回30年経ってますから、原住民の人たちを日本人はちゃんと統治できた状態になっていくんですよ。
なっていくんだけど、やっぱり彼らの元からの先祖代々の生活を奪っていくので、いろんな意味で。
そこで不満が実は溜まっていたということなんですよね。
それが1930年の武者事件というふうに発展して、つまり原住民と言われる人たちの誇りをかけた戦い。
そういう映画になっている。
この時は、日本は毒ガスを使ったと言われていて、そこははっきりしないんですけど、
セデック事件と高佐御族
それぐらい日本にとっては、日本の統治の力を示すために総力を挙げて、
セドリック族の一部の人たちをものすごい勢いで攻撃している。
そういう感じですね。
ほぼ全滅したんでしたっけ?
その後、生き残った人たちもそこの山から下ろされて、別の集落に住まわされて、
その後も監視されたりとか、大変な時代が続いていくんですけど。
この事件以降、日本は高圧的な同化政策から、原住民を教育して日本人とする一視同人へと統制のやり方を徐々に変えていきます。
その中で、先住民の呼び方も高佐御族に改めています。
バン族を高佐御族と改めたのは、差別的なニュアンスを消すような意味があったんでしょうね。
そしてこれが1930年代ですから、この後の人たちも戦争に巻き込まれていくんですよね。
これ高佐御って何か良い意味なんですか?
高佐御って言われると何か良くも悪くもないけど、日本語ですかね。あまり中国語ではないかな?
高佐御っていうのは。
高い砂の。
民族間のくくりをなくしたというか、日本人も原住民も一つにしたってことですか?
違います。高佐御族というのは原住民の納得家族っていろんな人たちがいるじゃないですか。それを全部一つにして高佐御族。
じゃあ原住民だけを高佐御族ってしたんですかね。
わかんない名前の民族もいますから、それで求めたみたいな。
戦前の映像とかもちょっと授業で見ましたけど、あの話の中でも高佐御族は今までは野蛮な人たちだったけど、
日本人の教育を受けて、今となってはもう日本人と同じような生活をしているので、
蛮族みたいなそういう特殊な見方はやめてほしいというほどですみたいな。
そういう説明も、以前日本が作った宣伝映画では出てくると思います。
もう一回日本人としては教育し直して、その目的としては戦争なのかな。
やっぱり戦争に引っ張っていこうという意図もあったのかなかったのか。
その高佐御族という名前をつけた時のタイミングでどう思っていたのかちょっとわかんない。
結果的に高佐御族は後に戦争に引っ張りこまれていくということですよね。
インタビューを授業で見たんですけど、今90歳とか80歳くらいですけど、
その人たちのインタビューだと普通に日本のために戦うみたいなのを言ってましたけど、
それは高佐御族の人たちでしたっけ?
そうです。台湾の人たちをみんな聞き込んでいましたが、
そういう高佐御族とか原住民の人たちについてはとりわけそういう意味で手懐けて
自分たちの戦力にしていこうという意図はあったんじゃないかな。
ではここで一曲お届けします。
リン・オウガと読むんでしょうかね。
春のサホ姫。
こちらの春のサホ姫は日本語と中国語と歌詞があるのですが、
作曲したのは高一世という人で、今回少数民族、原住民のたどった歴史を学ぶ中で
何度か名前が出てきた方です。
南部のアリサンという山岳地帯に暮らすソウ族で、
日本時代に台南師範学校に学んで、先生として村に戻ったエリートでした。
戦後も村長のような役割を果たしていたのですが、
戦後国民党政権になってからの弾圧事件である1947年の228事件で
スパイ反乱罪の疑いで逮捕され、後に処刑されています。
日本統治下に学んだ知的エリートの中で、犠牲になった原住民の一人として今も知られています。
師範学校時代に音楽を学んだ高一世さんが作曲した歌がいくつも残されていますが、
最も知られているのがこの春のサホ姫です。
国中で妻に贈られたものとされています。
今回の曲は2014年にリン・オウガさんによって歌われたものです。
それでは聴いてみましょう。
リン・オウガ 春のサホ姫
今回は2月の集中講義、海外メディア事情をベースに対話を語るというテーマでお届けしています。
前半では、1930年、統治から35年も経って武者事件という大きな氾濫事件が起きてしまい、その後統治政策が変わっていった、と、そのような説明でした。
その後、少数民族を含めて台湾の人々への教育はさらに徹底していった、いわゆる公民化教育のようなものです。
その後、少数民族を含めて台湾の人々への教育はさらに徹底していった、いわゆる公民化教育のようなものです。
いわゆる公民化教育が行われたり、結果的に日本語を話す人が増えたりといったことが起きたようです。
アクイさん、少し説明お願いできますか。
はい、わかりました。
第二次世界大戦時、台湾では公民化政策が行われました。
ジャングルでの密林戦が不慣れな日本軍は山岳地帯に暮らし、密林に詳しいタカサゴ族が戦力になるのではないかと考え、タカサゴ族に志願兵を募りました。
すると募集が殺到し、彼らはタカサゴ義勇隊としてフィリピン、ニューギニアなどの密林地帯の戦場に投入されたみたいです。
ドキュメンタリーの中でも、タカサゴ義勇隊に入るのは栄誉なことだ、名誉なことだ、みたいな話もありましたよね。
そうですね。たぶんそれは差別ということと関連していて。
入ってないと。
そうやって兵隊になって、実際には軍族なので兵隊とはちょっと違うんだけど、日本の軍隊と一緒になって戦う兵士となっていくんだということによって、
差別されていた台湾のどれだけ厳重な人たちも、
ちょっと平等な感じ。
平等な天皇の子供となるんだ、とかいうことだし、
武者事件のあったようなところとかは、もっとそういう意味では監視されていたような地域に住んでいた人たちも、
そこで兵隊に行って活躍して帰ってくれば、村の英雄だし、村の英雄というか、自分で戦ったんだよね。
洗脳されてるみたいな。
戦争と原住民
すごい大活躍したみたいなことを日本中で報道したわけです。
宣伝を兼ねて。
確かに嬉しいですよね、そんなことされると。
そうなんだと思いますよ。
山の中で生活していた人たちなんか、身体能力が高いですよね。
身体もそうだし、目もいいし。
なんか、すごい遠くから音が聞こえてみたいなのも言ってましたね。
そこは平地で暮らしている人たちと全然能力が違ったんじゃないですか。
経話キャンパスレポ
みんな同じ日本人として戦うのだという宣伝で、多くの原住民の若者が熱狂的に志願をしたみたいですね。
高倉護族は先ほど言ったように身体能力が高くて、勇猛さや死を恐れない勇敢さがあり、
密林戦では大いに日本軍を助けたという話をドキュメンタリーでも言ってましたね。
しかしその勇敢さゆえに戦死者が多く出たということだそうですね。
今回たくさんの原住民の人たちのインタビューを見たんですけども、
戦争から帰ってきた人たちは戦争中の辛い記憶や、
日本の軍人として戦ったプライドを語って軍歌を歌うという場面もよくありました。
日本でもほとんどいなくなってしまった戦争から帰ってきたおじいちゃんのような話ぶりでした。
日本人って感じでしたね。
1945年、日本はボズダム宣言を受諾し、台湾を放棄しました。
そして日本人は去り、大陸から国民党がやってきます。
その国民党は反日政策を取り、日本統治下に築き上げてきたものを排除しました。
原住民の人たちは共通語として学んだ日本語を捨て、
今度は次の犠牲者である国民党が話す中国語を学ばなければならなかった。
大変だ。
そうなんですよね。原住民の人たちは先ほど言ったように共通言語である日本語を失ってしまったので、
きっと苦労したんじゃないかと思いますよね。
そうですよね。
この頃、中国系の人たちが台湾にもともと住んでいた人たちが、
国民党が共通言語にした北京語を、標準中国語といわれる北京語を話せたのかどうかはよくわからないですけど、
少なくとも原住民と言われている人たちは文字がなかったんですから、
台湾の歴史と原住民の苦労
そこに日本人がどんどん注入していって、
だからこの人たちが民族を越えて共通に喋れる言語は日本語しかなかった。
それが取り上げられて、もう一回中国語しか出てこないことになったってことでしょ。
大変ですね。
大変ですよね。
その他にも原住民は日本国籍を失ったため、
日本人として受けられるはずだった軍人恩求や補填などの手当を受けることができませんでした。
さらに1972年、日本が中華人民共和国と国境を自立したために、
中華民国の台湾と日本は断交となり、日台間は添えになりました。
国民党政権下でも様々な苦労を強いられています。
これはあれですね、日本国籍を失ったのは原住民だけじゃなくて台湾ですよみんな。
それでこの補償から補償を受けられなかった人たちがたくさんいるっていうことですね。
日本統治時代と日本語世代
このように日本による教育を受けた人たちのことを原住民を含めて日本語世代と呼ぶみたいですが、
当時台湾では日本の同化政策によって日本語教育が行われました。
その教育を受け、日本語を話すことができる人々のことを日本語世代と言います。
現在日本語世代の方々はお年寄りになっていますが、今でも日本語を話せるようです。
授業で見た台湾アイデンティティという映画にそのような日本語世代の人たちが出てきましたね。
出てきましたね。
でも多分この人たちが話す日本語は古い日本語なんですよね。
そうですね。
片倉さんの話の中で言いましたっけ、この人たちが日本語の勉強会をやって、
今の現代の日本語を勉強するみたいなことをやっているという話でした。
定期的に集まってやっているって言ってましたよね。
反対に、日本統治時代の台湾で生まれ、第二次世界大戦後、日本に帰還した日本人のことは、
ワンセイというそうですね。
ワンセイという言葉は知っていましたか?
このビデオを見て初めて知りました。
日本が敗戦し台湾の統治を放棄すると、中国大陸からやってきた国民党が台湾を統制しました。
したがって言語が中国語になり、日本語世代の人たちは、
うちから中国語を覚えなければならない状況になったんですね。
日本語世代は、その子供、孫世代と言語の壁や価値観の違いなど、ちょっとした距離感はあるようです。
今、日本語世代の子供さんは、最初は日本語をちょっと学んでみたいな感じで、
最初は日本語でしたけど、今となっては孫の世代は中国語なんで、家族はみんなで中国語みたいな。
だから、おじいちゃんとおばあちゃんだけが日本語喋れるみたいな。
息子さんがお父さんの中に、日本人の影を感じるじゃないけど、日本人っぽさがあるみたいな話。
DVDの中に。
日本語世代の人は、考え方とか。
それが全然日本人のような考え方をしていて、それは現代の台湾の人とはちょっと違う。
日本人のようだと。今の日本人ともきっと違うと思いますけど。
そうですよね。
きっと違うと思うけど。
Kはキャンパスレポ。
今ちょっと出てたけど、要するに日本語世代の人たちは、日本語を覚えているとか、
みんなが日本語を使わなくなってしまったとかって言う以前に、
多分、国民党の時代になって日本の影響を受けたとか、日本の文化的なものとか、
そういうのをあんまり思っていなくても語れない時代が長かったと思うんです。
その間ずっと心の中にしまって生きていくしかなかったというのも、
多分そういう複雑な心の中に眠っているものがあるんじゃないかなと。
日本人として生きてきたわけですからね。
急にそれをしみつけられてもらうと。
さっき歌の作者で出てきた高一生さんというのが、いろんなドキュメンタリーに出てくるんですけど、
あの人も日本の教育を受けたエリートで、日本の時代に自分が経験したことに基づいて、
国民党時代の社会で、いろいろムラのために頑張ろうとしたんだけど、
その結果目をつけられて、こうされてしまうわけです。
だから非常にそういう人たちの抱えたものとか、
そういう人たちが途中で殺されてしまったりとかいうことを見てしまうと、
簡単にみんな日本の影響を受けてって、
親日的な台湾の人みたいな、そういう大雑把なまとめはまずいなみたいな気持ちになりますよね。
そこはやっぱ重要ですよね。
現在の台湾は、特に原住民、さらにはLGBTなど、
多様性や人権の意識が高い社会であるとアピールしています。
同性婚を認めた、認めるとか、なんか出ますよね、そういう話題がね。
非常にそういう意識が高い。
原住民の文化を大切にしようっていうのも非常に強くアピールされていて、
県民族もあるのか、ネタの民族もいる、そういうところを非常に意識している。
さてエンディングです。
今日は原住民と日本語世代というテーマで台湾についていろいろとお話をしましたが、いかがだったでしょうか。
今回の話を通して、昔の日本と台湾の関係、
そして日本が統治していた時代の台湾の状況などが分かりましたね。
先ほど、曲紹介の時ですかね、出てましたけど、228事件はどうですかね。
それって日本人が去った後の話だから、あんまり日本人を意識していないけど、大変なことが起きたわけですよね。
日本人にお祈りにされた台湾の人たちが、要するに中国からやってきた国民党の人たちに弾圧されていくっていう感じで、
それは日本のせいだって言っちゃうとそれにとって言い過ぎかもしれないけど、
少なからずやはり日本人が起こしていたものが、そういう現象を引き起こしてしまった部分もあるでしょうね。
中国国からすれば中国と台湾も一緒ですから、同じ中国人の間で起きたのはお祈りだって見えるかもしれないけど、
実はそんなに台湾の人から見ると単純ではないですよね。
振り回されていますよね、台湾っていうのは。
そういう意味では今も振り回されているような感じですよね。
言葉ありましたよね。
犬去って。
そうですね。かつて228事件が起きた頃は、犬のようなうるさい日本人がいなくなって、
せいせいしとって思ったらくざまやかで、もっとひどいみたいな。
両方ひどいんでしょうね。
両方ひどいんですね。
今日の競馬キャンパスレポ、これで終了です。
皆さん、おやすみなさい。
競馬キャンパスレポは、競馬学園大学の提供でお送りしました。