永井真由
その他、新潟県教育委員会委員、新潟県男女平等社会推進審議会委員などを歴任されています。
四雲寺町、新潟県で様々な役職を務めになりました。
今回お話を伺う団体、梶川を愛する会では、2011年から会長を務められています。
小竹向日葵
先ほどのプロフィールで、四雲寺町の町長長くお勤めになっていたというお話でした。
2005年の合併ということになると、私たちの幼少期ということになります。
改めて、旧四雲寺町、現在の新発田市四雲寺地区というのは、どんな町、地域なのかご紹介いただけますか。
小林泰眞
四雲寺町は、信じ方の感覚によって木村ができた町で、
昭和の30年に、皆さんもご承知だと思いますが、合併がありました。昭和の合併と言われるものです。
それによって、海岸駅にあった松塚村というのの一部、藤塚浜と一緒になって調整を施行して、
それから約半世紀、ちょうど50年、調整の形で運営をして、そして新発田市に合併をしたと。
平成の時代に合併したと、こういうことですね。
それから水田と、それから海の女村、いわゆる魚を捕って生活を支えていた村と一緒になったと。
それで50年、その形の中で運営をしてきたと。そういう町ですね。
小竹向日葵
歴史がすごいですよね。
永井真由
歴史、すごい長い半世紀もいろいろと。
一戸信哉
そうね。それまでは村同士だったものが、昭和の合併で調整を施行して50年。ちょうど50年、これも史事ですよね。
小竹向日葵
100年、桜を植えて100年、合併して50年。
合併して50年。
館宅ってさっきおっしゃってたじゃないですか、その広さも結構だいぶ広いですよね。
そうですね。2000ヘクタール、当時は2000胸部と言ってましたが、江戸の旧地、横川吉宗公の時代だったようですが、
小林泰眞
人口が江戸の町に増えてきて、食料が足りないと。
で、餓死をするという人々も出てきて、江戸幕府は神殿を開発をすると。
一戸信哉
そして増産させるという奨励策を打ったんですね。
小林泰眞
それによって商売をしていてお金のある人たちは神殿を開発するということで、幕府に願い出て許可されると開発できる。
開発した分については一部は開発者に権利として与えると。
一戸信哉
こういうこともあってね。
小林泰眞
お金を持っている商人の皆さんは、積極的に官宅に関与したということなんですが、
長野県の須坂市、今の須坂市出身の鉱山経営をしておられた竹前ゴンベコハチロウという御長代が、
じゃあ自分たちも鉱山経営で設けたお金で神殿開発しようと。
須坂の山の中にある村なもんだから、なかなか思い切って生産ができない。
高地が狭くてね。だから広いところで思いっきり米作りをしたいと。
そういう時代背景があって。
で、春日方をじゃあやろうということで、江戸に申し出たり、それから周囲の新発田藩とか村上藩とか三日市藩とか、
いろいろの権利が錯綜している中に権利調整をして官宅を始めたと。
それが完成をするのが1735年ということですから。
すごい昔ですね。
一戸信哉
ちょうど290年くらい前です。
小竹向日葵
すごい。
小林泰眞
それが官宅をされて、そこに新たに村ができて、人が移り住んで、そして営業と営みを重ねて、今290年になって、
そして今、新発田に合体をして新しい歩みを始めていると。
始めてちょうどもう20年になるのかな、そうですね。
2005年ですからね。2025年だからちょうど平成の合併も20年経過したということですね。
小竹向日葵
そうですね。早い。
早い。
小林泰眞
長い。
私もあっという間にこんな年になりました。早いです。
小竹向日葵
私もその年。
お気をつけあそばせ。
小林泰眞
大事にしないと。
永井真由
こんな歴史を語ってもらった中で、さて今日のテーマである梶川の桜についてです。
この桜は1914年、大正3年ですが、大正天皇の即位を記念する形で6000本が梶川の両岸に植えられました。
それから数えて100年になります。
大学からも見える飯出連邦や仁王寺岳をバックに川沿いに並ぶ桜並木は美しく、花見の時期には臨時駅が設置されるほどだったと伝えられています。
つまり新発田やひょっとしたら新潟市内まで含めて桜の名所といえばここと言われるような場所だったのでしょうか。
一戸信哉
いや、まさにその通りですね。
小林泰眞
きっかけはこのエリアが阿賀野川から荒川まで自然にできた川、いわゆる自然河川というのがなかった。
だから季節によっては大変な雨が降るじゃないですか、そうすると水の行き場がなくて旅ごと洪水を起こしていたわけですね。
今、テーマに挙げていただいた梶川もこの新潟砂丘でずっと出口を塞がれて、この砂丘に沿って阿賀野川につながっていたわけ。
一戸信哉
その阿賀野川も品野川につながっていたわけ。
小林泰眞
だからなかなか出にくい環境だったわけね、水がね。
だからなおさらのこと水害が起こりやすい常習地帯だったわけですよ。
だからみんな困って、せっかく耕して稲を植えても流されてしまう、あるいは人も亡くなるという、その繰り返しにみんな疲弊していたわけですが、
なんとかこの梶川の水を日本海へまっすぐ流して、そして水害が起こりにくい環境を作りたいと。
そういうことで願いを重ねていたのが、認められたのが明治41年ですから今から117年くらい前になりますが、
そこから工事が順調に進んで、大正2年の4月に春光を見るわけですけど、長年の願いがようやく叶ったということで、
そこに桜を植えようという提案が、当時の北官原軍の軍長さんという方が、今で言うと新発田地域振興局長さんでしょうかね。
そういうお立場の方が桜を植えようと、植え始めたのがちょうど治水記念公園のあるところです。
いわゆるそこからまっすぐ日本海に来たわけですからね。
一戸信哉
そこを植えて、それから治水記念公園から聖籠町に向かって流れていくそこのところまで、金流橋のところまで植えようと。
小林泰眞
だいたい2500本程度を植えようという計画だったようです。
ところが、今あなたがおっしゃってくれたように、大正天皇の即位の記念をして、日本の花でもある桜を植えようという運動が全国に広がって、
一戸信哉
こちらの方にもそういう熱が伝わってきて、もっと上流も植えようということで、
小林泰眞
そうだそうだという声に押されて、ついには6100本で植えられたというふうに言われているんです。
小竹向日葵
だいぶ植えましたよね。
永井真由
植えましたね。
一戸信哉
当初から2倍以上の。
小林泰眞
そうなんです。
思い切りました。
ですから、この規模から言っても当時の日本一だったんです。
だから日本一ということは東洋一、世界一というふうに皆さんこう称賛してくれてね。
やっぱり桜が育つにも時間の経過が必要なので、皆さんがこれは素晴らしいというので、
新潟のみならず、東京中央からも有名人が川下りをね、川船に乗って。
永井真由
川から来るんですね。
一戸信哉
上流から船に乗って、降り立って秩序記念公園の近くに降りて、茶屋もみんな出てましたから、
小林泰眞
年をとるとその根っこが枯れてね、そこが空洞化をして、摘みを弱めるという害もあるので、桜がそういう年をとってしまったことで摘みが弱くなったねという、そんな桜犯人説、当時ね、そういう言い方がされたんですが、
一戸信哉
これは土木事情に携わった人間を罪人にしないための一つの弁法だったかもしれません。なるほど。優しさからね。そういうふうにもとれますね。
小林泰眞
そしてそれをみんな切って、そして川幅を広げて、河床というか川の底が高くなっているので、それを深くまた掘って、たくさん水を抱けるような素晴らしい梶川にしようということでお願いをしていたものが願いかなって、
いや、上流にも今うちの倉田もあるし、この上に梶川治水ダムができてますが、降った雨を調節をする、そして水を迎える側はしっかり広く広げて、たくさん水が流れるようにしようと、こういうことが企画されて認められた、こういうことですね。
やっぱり自慢の梶川の桜ですから、世界一というのは新発田にないからね。世界一のものをもう一回みんなの手で再現して、後世の人々にこのふるさとに誇りを持ってほしいという思いを持って、植えさせてくれとこう言ったんですが、なかなかオッケーが出なかった。
永井真由
あ、そうだったんですか。
小林泰眞
約11年くらい一生懸命、植えさせてくれって言ってお願いをしました。
当時は私ももう町長の職に就いていましたから、新発田市長さん、瀬戸町長さん、梶川の村長さんにご相談申し上げて、ぜひやろうということになって運動を進めてたんですが、なかなかオッケーが出ない。
ようやく世の中にこの潤いとか安らぎとかね、そういう価値観を大事にする空気が出てきた。それまではもうともかく一生懸命働いて、日本も復興させていこうということでみんな頑張ってた時代ですから、なかなか大変だったんですが、そういう新たな価値観が世の中に求められてきて、
じゃあそういう梶川にも空間を作ってもいいじゃないかということで、その代わり今までみたいにこの包みの上にただ植えてもいいよというふうにはなかなかならなかった。
一戸信哉
というのはそこにね、さっき言ったいわゆる桜犯人説がまた影響したと思っているんです。したがってそこに新たに包みを補強した中で、
永井真由
包みというのは土に補強がされているという感じですか?
小林泰眞
これが普通はこういう包みだけど、そこにこう新たに包みをさらに強化して、そのところに植えてもいいと。こうなった。そうすると新たに傾斜もかかるし。
一戸信哉
そして川幅をずっと広げたと申し上げましたが、そうすると今まで遠くにあった建物とかね、いろんな構造物がもうすぐ土手のそばにあるから、補強するね、包みが。
小林泰眞
作れないところがいっぱい出てきた。
なるほど。
昔みたいにみんなで植えようって言って一手でわーっと6100本も植える時代ではどうもなくなって、それで今みんなで頑張って植え始めて2130本ちょっとなんですけどね、
ここから先がなかなか用いれないという状況かなんです。
小竹向日葵
現在だと梶川沿いを散歩したり、あるいは近隣の梶川治水記念公園を花見したりとみなさんが楽しんでいるようですね。
鬼嶋さんのおすすめの楽しみ方とかありますかね。
小林泰眞
そうですね。あの川が流れている天気というのは非常に清浄というか、おいしいですよね。
あそこをね、花の時期だけじゃなくて、緑を眺めながら、せせらぎの音を聞きながら、あるいは鳥のさえずりもね、聞きながら歩いてくださるといいと思いますよ。
小竹向日葵
じゃあこれからは暖かくなるんで。
そうそう。
永井真由
本日はたくさんいろいろとお話を伺いました。
鬼嶋さんが会長をされている梶川を愛する会は、年間を通じて梶川に関わる活動をされているそうですね。
最後に活動内容のご紹介や参加方法についてご紹介いただけますか。
一戸信哉
ありがとうございます。桜もやっぱり生き物ですから、病気にもなるし、雪のもみで枝が折れてしまうものもあるし、
それから土と合わない、そういうのもあるので、順調に育つかというとそうでもないんですよ。
小林泰眞
ですから常に私どもの仲間たちが包みの上を歩いて健康状態を見ながら、ちょっと成長が遅いところは毎年体脂をあげてやったり、
それからもう自然界は生存競争の連続ですから、そういう中で盛りをして、少しでも順調に育つように環境を整えてあげたり、
そういうふうに心がけて毎年作業をしています。
小竹向日葵
今日の敬和キャンパスレポは、最初の植樹から100年を迎えた梶川沿いの桜について、