スピーカー 3
お願いします。
では私松澤から宮路さんのプロフィールを改めてご紹介させていただきます。
宮路遥さんは新潟県立新潟南高校を卒業された後、競馬学園大学の国際文化学科に入学されました。
情報メディアコースの一日ゼミに参加して、この番組競馬キャンパスレポでも長らくMCを務められています。
学内では2年連続で競馬祭実行委員長として、学園祭を成功させるために多くの努力をされてきています。
このほかBSNラジオでも長らく番組ADとして生放送の振興補助に大きく貢献されましたし、取材や研修で北海道や沖縄に滞在されています。
今回の中野小屋島の軌跡は沖縄での取材内容を元に制作されています。
先に競馬キャンパスレポについて伺っておきたいのですが、三宅さんが卒業された後は、私を含めて下級生で番組MCを務めていくことになりますが、
今後番組を続けていくにあたって、私たちにアドバイスなどがあれば何でしょうか。
スピーカー 1
アドバイスですか。そんなにないです。
元気にいてください。
健康に収録に来てください。
スピーカー 2
ちゃんと話をつなげて頑張ると。
スピーカー 1
はい、頑張ってください。
スピーカー 3
はい、頑張ります。
三宅さんが頑張ったこととかあるんですか。
スピーカー 1
番組MCで。
頑張ったことは、まず予定を忘れない。収録の予定を。
家が私は遠いので、できるだけ朝の収録の時は遅刻しないように頑張ってくることです。
スピーカー 2
素晴らしいですね。大事ですもんね。
スピーカー 1
大事です。
スピーカー 2
忘れないってね。
さて今回の受賞について、大学のホームページで紹介されていますが、その中では三宅さんから以下のようなコメントが寄せられています。
沖縄の地から太平洋戦争末期の悲惨さを伝え続けている沖縄県営平和記念公園の片隅に、中野小屋の塔という年季を感じさせる小さな塔が静かに佇んでいました。
この謎めいた塔にこもられた家族の深い思いや、終戦後の複雑な心情があったことを知りました。
この塔の歴史を知っている人は少ないと思いますので、私の作品を通じて多くの人にその存在を知ってもらい、中野小屋の塔が今後も継承されていくことを願います。
沖縄での集中講義という形で、2024年2月に訪問されていますよね。
この様子は2024年3月から4月にかけて放送されているんですが、全体的にはどんなところに行かれたんでしょうか。
スピーカー 1
全体的には沖縄の北部も南部も結構広い範囲で行ったんですけど、4泊5日で。
結構長いんですね。
長かったんですよ。
沖縄南部だと、この取材先でもある沖縄県平和記念公園とか、
あとひめゆりの塔。
聞いたことあります。
沖縄県平和記念公園とか、そういう沖縄線の終戦の地として、
いろいろ歴史的なものが残っているところに行きました。
スピーカー 3
あとはチュラウミ水族館とかも行きました。
スピーカー 2
いいですね。
スピーカー 1
ちゃんとそういうところも行かせてもらいましたね。
行かせてもらいましたよ。
スピーカー 3
集中講義、この沖縄県集の際に行かれたという沖縄県平和記念公園についてですが、
どんな場所なのか教えていただけますか。
スピーカー 4
沖縄県平和記念公園は、沖縄線の終戦の地として、
最後まで激戦が繰り広げられた沖縄県の南部にある場所で、
スピーカー 1
すごい広い場所で、平和の石寺とか、
スピーカー 4
あと沖縄平和記念資料館とか、
よく修学旅行生とかも訪れる場所なんですけど、
いろんな公園の中にいろんなエリアがあって、
そういう平和の石寺だったら、
太平洋戦争、沖縄戦で亡くなった方の名前が、
全国から来た人の名前が県ごとに50音順にバーってあって、
スピーカー 3
全部?
スピーカー 4
それで平和の石寺の近くに、その名前検索できる場所があって、
スピーカー 2
これですよって。
スピーカー 4
そうそう。自分の先祖の方とかを調べるようなこともできるようになっている。
スピーカー 2
それはあれですよね。動画にもなってましたよね。
スピーカー 4
そうです。黒い石のところですね。
スピーカー 2
あとなんかハングルでも刻まれてたのかなって。
スピーカー 4
はい。日本人の方だけじゃなくて、
台湾とか韓国人とか、そういう海外の方の名前もたくさんあります。
スピーカー 3
霊気ゾーンっていう場所がかなり広いんですよね。
はい。
歩き疲れた時に、新潟の塔までたどり着いて、
そこに中野小屋という塔もあったということですね。
はい。
どんな印象でしたか?
スピーカー 1
この霊気ゾーンっていうのが、さっき話した平和の石寺とすごい離れた場所にあって、
その霊気ゾーンには46都道府県の沖縄県以外の各都道府県の塔が主に建っていて、
各都道府県ごとの塔の敷地もすごいでかくて、
沖縄じゃなくて青森県だったら、例えばリンゴの形の塔だったりする。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
で、新潟県の塔はお米の形をした塔で、
スピーカー 2
米の形の塔って、あんまり想像できないですけど。
スピーカー 1
お米を横にした感じ。
スピーカー 2
米粒を。
スピーカー 3
米粒を。
アーモンド型みたいな。
スピーカー 1
そうそう。
アーモンドみたいな。
そういう形だったり、あとはとにかく豪華に芸術的に建てられてる塔があったりとか、
スピーカー 1
すごい広いところで、私が行った時はもう、国内研修としても結構最後の日。
で、いろんなところを見てきて、いろんな気持ちになって、頭もいっぱいになって、
すごい歩いて、とりあえず疲れて、
新潟の塔だ、みたいな。
すごい、みたいな感じで、その時は終わっちゃったんですよ。疲れてて。
なんで、中野小屋、よくわかんないなって思って、その周りに何も説明とかもなかったんで、
え、何だろう、みたいな普通に。
スピーカー 3
ポツンとあったんですか。
スピーカー 1
はい、ポツンとあって。
スピーカー 4
でももうその時は疲れてたんで、そこで何も調べずに、何だろうこれ。
スピーカー 2
あるんだ、みたいな。
スピーカー 1
そう、みたいな感じで帰ってきました。
スピーカー 2
で、帰ってきて調べてみたら、こういう歴史があったと。
スピーカー 1
はい、そうです。
スピーカー 3
さて、ではここで1曲お届けします。
今日の曲はこちら。
I am SHUN 田田聡々。
音楽プロデューサーとして多くのアーティストに楽曲提供するI am SHUNさんが、
ルーツの沖縄の曲をアレンジしたアルバム、
沖縄トロピカルハウスのうち2024年リリースの3作目に収録されています。
田田聡々は森山涼子作詞、ビギン作曲で多くの歌手の方が歌われていますが、
今回のバージョンはだいぶ趣が違っているかと思います。
それでは聴いてみましょう。
I am SHUN 田田聡々。
スピーカー 2
お届けした曲はI am SHUN 田田聡々でした。
今日のキアワキャンプトレポは、沖縄と新潟市西区で取材したドキュメンタリー映像作品
中野小屋の塔の奇跡を制作し、
新潟県自作映像視聴覚教材コンクールの社会教育・地域映像部門で最優秀賞を受賞した
宮地遥香さんにおいていただき、お話を伺っていきます。
本田さん、中野小屋という地名、新潟市西区のどの辺なんですかね。
スピーカー 3
はい、そうですね。私も最初はわからなかったんですけど、
自分の住んでいる町の近くとして、
Googleマップで調べたときに見たら、
西区にある新潟大学よりももっと奥行って、
国際情報大学らへんにある、
西区の隅っこにある。
スピーカー 2
西区の隅っこ?
スピーカー 3
西区の隅っこにある、西関区まで行かない場所にある町です。
スピーカー 2
僕は福島出身なので、西区がどこらへんかすら分かってないんで、
隅っことか言われてマジで分かんないですけど、
聞いているリスナーの方々は分かっているかと思います。
さて、2024年2月の沖縄研修の後、これが卒業制作のテーマとなりました。
その後、新潟県内でも新潟市西区の中野小屋を訪ねて行ったとお聞きしました。
どんな場所だったんでしょうか。
スピーカー 1
中野小屋は、さっき松澤さんが言ってた通り、西区の端っこにあるんですけど、
国道116も通っている場所で、バイパス降りてちょっと進んだあたり、
スピーカー 4
長岡方面、柏崎方面に進んだあたり。
スピーカー 2
めっちゃ遠いですね。遠いよね。
スピーカー 3
意外と奥ですね。
スピーカー 1
そこまで行かないけど、西区だからね。
スピーカー 3
そうですね。一応新潟市ですもんね。
スピーカー 1
にあるんですけど、中野小屋村があった場所自体は、
今は特に大きい建物があるわけじゃなくて、
中野小屋小学校と、中野小屋郵便局はあるんですけど、
それ以外はあんまりなくて、どっちかというと田園が広がる、田んぼが広がる、
自然豊かな場所。
そういう場所ですね。
昔から、いつからかあるのかわからないけど、
スピーカー 3
結構昔からありそうな大きい家々が並ぶ場所です。
スピーカー 1
じゃあ歴史を感じられるところなんですね。
スピーカー 3
中野小屋では関係者にインタビューされたのですよね。
どなたにお話を聞いたのでしょうか。
スピーカー 1
インタビューをしたのは小柳一郎さんっていう方で、
スピーカー 4
この方は、塔を建てた人の息子さんにあたる方なんですけど、
中野小屋の塔、沖縄にある中野小屋の塔を建てたのは、小柳文也さんっていう一郎さんのお父さんが建ってました。
スピーカー 1
文也さんは自分の義理のお兄さんで、沖縄戦で戦死した、
陣財門さんっていう方のために、中野小屋の塔を建てたそうです。
それを息子である一郎さんに、どんな様子だったのかとか、お父さんから聞いたことについてインタビューさせていただきました。
で、そのお父さん文也さんも沖縄には多分行ってないんですけど、
海軍飛行余暇練習生っていう飛行機に乗って、
特攻していくところに、文也さん自体も所属していて、
で、文也さんは生き残って帰ってこれたんですけど、
海軍飛行余暇練習生っていうのが、やっぱり特攻していくので、行ったら死ぬっていうのが当たり前。
スピーカー 4
で、文也さんもそうやって、自分もこの戦争で死ぬのがいいって思ってたから、それができなくて、