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2026-03-05 53:16

Vol.130 集中講義で学んだ「知らなかった沖縄」敬和キャンパスレポ 20220401 【Music Skip】

2022/4/1の敬和キャンパスレポは、2月14日から行われた集中講義「情報メディア特論(国内研修)」で、本来現地に行くはずだった沖縄をどのように学んだのか、受講したMCの田村と岸田、指導を担当した国際文化学科一戸信哉先生の3人でお話ししました。現地に行かずに、オンライン上で、沖縄、戦争・基地問題や沖縄からの移民の歴史について学びました。

こちらのアーカイブはノーカット版で、放送に入らなかった対馬丸事件、瀬長亀次郎さん、川平朝清さんのお話なども収録しています。

MCは、岸田、田村。(担当:岡田)

サマリー

この回では、敬和学園大学の集中講義「情報メディア特論(国内研修)」で、本来沖縄現地での取材を予定していたものが、新型コロナウイルスの影響でオンラインでの学習に変更された経緯と内容について、受講した田村さんと岸田さん、そして担当教官の一戸信哉先生が語ります。当初の現地研修が叶わなかったものの、学生たちは映像作品の視聴やリモート講義を通じて、沖縄戦の悲劇、基地問題、沖縄のメディア、そして移民の歴史といった多岐にわたるテーマを深く学びました。 特に、沖縄戦の凄惨さを伝えるドキュメンタリー作品や、琉球新報のデジタル推進局長による基地問題に関する報道論の講義は、学生たちに沖縄の置かれた状況への理解を深めさせました。また、学童疎開船「対馬丸」の沈没事故や戦争マラリアといった、あまり知られていない悲劇についても掘り下げて学び、その過酷さを共有しました。さらに、横浜や大阪への沖縄県民の移民の歴史や、放送の基礎を築いた川平朝清氏、新潟と沖縄の意外な交易の繋がりなど、多様な側面から沖縄への理解を深めました。現地での体験はできなかったものの、オンラインだからこそストイックに学べた側面もあったと振り返りつつ、沖縄の持つ多様な魅力を知る貴重な機会となったことが語られました。

番組紹介と集中講義の概要
田村千尋
「敬和キャンパスレポ」
この番組は、新発田市富塚にある敬和学園大学の大学生が、大学に関わるイベントや人、新発田のことなどをテーマにお届けします。
「敬和キャンパスレポ」は、敬和学園大学の提供でお送りします。
みなさん、こんばんは。
この番組は、敬和学園大学から大学のことや新発田、新潟のことを伝える30分番組です。
今日の進行は、国際文化学科3年、もう放送時には4年になっている田村千尋と、
岸田瑠々
同じく国際文化学科、放送時には4年になっている岸田るるです。
早いものです。どうぞよろしくお願いします。
田村千尋
お願いします。
岸田瑠々
さて、大学は現在春休みなのですが、田村さん、最近はいかがお過ごしでしょうか。
田村千尋
もうすぐ4年生になるということで、最近はスーツを着て、会社説明会に行く日々なんですが、
岸田さんも同じような感じでしょうか。
岸田瑠々
そうですね。今日も就職説明会、校内でありましたしね。そんな感じですね。
田村千尋
春休み自体は2月からですよね。
その中で、2月の半ばぐらいに集中講義というものがありまして、その話を今日はしようということなんですよね。
岸田瑠々
そうですね。沖縄の集中講義についてお話ししていきたいと思っていますよね。
はい。
というわけで、今日は2月14日から1週間にわたって、沖縄の地で現地の様々なことを学び取材する授業、
実にはそうなるはずだった悲しき授業、沖縄集中講義についてお話ししていきたいと思います。
田村千尋
はい。
岸田瑠々
今日は授業を受講していた田村さんと岸田さん、さらにこの集中講義を担当された国際文化学科一戸信哉先生にも参加していただきます。
どうぞよろしくお願いします。
一戸信哉
はい。よろしくお願いします。
田村千尋
お願いします。
ではまず、私田村から、どんな授業がどのような経緯で行われたかをざっとご紹介したいと思います。
今回の授業は、情報メディア特論・国内研修という授業でして、
当初は2月に約1週間にわたって沖縄に滞在して、現地を取材するという内容となる予定でした。
しかし、2022年の初めから新型コロナウイルスの感染が全国に拡大し、
とりわけ沖縄で先行して感染が広まっていたことから、結局今回は新潟にいたまま沖縄について学ぶということになりました。
一戸先生、何か補足をお願いできますか。
集中講義の目的とコロナ禍の影響
一戸信哉
はい。そういう経緯でしたよね。
残念な展開になっていったんですけど、元々のこの科目は今年初めて開講したんですが、
昨年度も実は同じような現象があって、もともと台湾に行くだった授業がなくなっちゃうんですけど、
交互に海外と国内というのをやるという、そういう科目の一つですね。
狙いとしてはやっぱり新潟出身の学生というのは、新潟出身で新潟で勉強しているという人たちは、
なかなか外に勉強に出る機会、留学行ったりとかいう機会はなかなかなかったりするし、お金もかかるわけですよね。
一戸信哉
留学行くとか言っても結構お金もかかるし、そういう中でどうだろうかと。
お金がもう少し圧縮できて、短時間だけれども濃厚な感じのスタディーツアーみたいなのができて、
そこで映像制作を一応意図しているんですが、映像制作のようなもので作品を作って、
ミニ留学的なものをしたいなと、実現させたいなということで作った科目なわけですよね。
それがいきなり2年連続でこけまして、結構辛いところがあるんですが。
内容的には、今回だったら沖縄ですけどね。
沖縄のことを勉強すると同時に、一応情報メディアコースの科目でもあるので、
メディアについての勉強も入れていこうという感じに作ってあります。
そこは今回やりましたね。
皆さん自身はどうだったんですか。沖縄に行くみたいな立て付けになったこの授業が、
できるかどうか怪しいという風に見ていたかもしれませんが、どうでしたか。
岸田瑠々
正直なところ、私は勉強もそうなんですけど、
コロナ禍で溜まったフラストレーションを沖縄に行くことで吹き飛ばしたかったというのが、
一番の受講の動機でして。
一戸信哉
そうですよね。
そうだと思う。
その一番の目的のところがコケたわけですよね。
田村さん。
田村千尋
昨年は台湾に行く予定だったじゃないですか。
私、それも授業を取っていたんですが、
一戸信哉
2年連続でしたね。
田村千尋
一応、平泉に入った動機が、台湾に行って映像制作ができるっていうのも大きくて正直。
それで入って、去年はできなくて、
今年、沖縄だったらいけるかなと思っていたんですが、
田村千尋
今年もダメで、結構ショックでしたね。
一戸信哉
今回、沖縄から最初に広まっていきましたね。
やばいな、やばいな、やばいなと言っているうちに、
どんどん感染が広まって、最終的には、
2月になったら、新潟もまん防になっちゃったんだっけ。
ですよね。
どこか行くところの話じゃないっていうことになってしまったんですけど、
ずっと日々、感染状況を見ながらどうしよう、どうしようって言っていたんですけど、
結局ダメだった。
沖縄戦と基地問題に関する映像学習
岸田瑠々
この1週間の集中講義、まず初日はドキュメンタリー。
それも沖縄の歴史に関わる、割と重めの作品を見ました。
タイトルとしては、沖縄線全記録や沖縄と核、といった作品でしたね。
では、一筋ずつ記事だから、軽く振り返っていきます。
1つ目に見た作品は、NHKスペシャルのドキュメンタリー、沖縄線全記録ですね。
この作品では、沖縄線を実際に経験した元日本兵や米兵、
一般市民などへのインタビューや過去の証言から、多角的に沖縄線が捉えられており、
始まりから終わりまでの歴史と、それに付随する関係者各位の思いを学ぶことができました。
2つ目に見た作品は、これもまたNHKスペシャルのドキュメンタリーで、沖縄と書く。
戦後沖縄には、米ソ冷戦における軍事拠点としての姿があり、
基地だけでなく核爆弾が配備された沖縄は、戦後も犠牲を強いられていた、というようなお話でした。
6つ目に見た作品が現在になってきて、クローズアップ現代プラスの
沖縄復帰45年、深まる本土との溝でしたね。
岸田瑠々
米軍基地の存在に揺れる世論と世代間のギャップ、本土と沖縄のすれ違いが数々の時により示されていました。
あと加えてドキュメンタリーではありませんでしたが、お笑い米軍基地も見ましたね。
基地問題を笑いとして消化することで、また漫才として身近なものを通して、
多くの人に基地問題への関心を持ってもらおうという、
ブラックコメディーの一言では語りきれない、意欲的な作品だったと私は思いました。
一戸信哉
今年、返還から50年ですよね。
沖縄戦全記録は、とにかく重いですよね。
地上戦になって、市民が巻き込まれていく戦争というのは、どういう現象が起きるのか、
最後の一人まで戦うぞと言っていた日本のこの姿勢の中で、
どれだけ沖縄の人が巻き込まれて死んでいったかというのは、
非常によくわかるけど、つらいという作品ですよね。
核はどうでした?
そうですね。
一戸信哉
あまり、その時の沖縄がどんな状態にあったかということ、
つまり、アメリカの占領下で沖縄がどんな状態にあったかということも、
実はそんなにみんな知らないですしね。
岸田瑠々
基地はあるのは知っているけれど、水を感じますよね。
一戸信哉
そうですよね。今回はNHKが深く掘っていってみたら、
実は核は配備されていて、いつでも撃てる状態になっていて、
ひょっとしたらもう撃っちゃってたかもしれない。
なんとなく今にも通じる話ですよね。
うっかり横断をしちゃったら大変なことになる。
とにかく、いろんな重たいものから、さっきのお笑いで消化するところまで、
沖縄をめぐる様々なものを映像作品で見たというところでしょうかね。
そうなりますかね。
琉球新報からの講義と沖縄のメディア
岸田瑠々
何か印象に残ったものってありましたか?
田村千尋
沖縄戦前記録のほうで、なかなか生々しい映像が多くて、
当時の映像をそのまま使っているものが多く、そこはちょっと印象的でした。
一戸信哉
あれを何回見てもつらいですよね。
見終わった後になしとしてしまう。
非常にリアリティはありますよね。
田村千尋
そして2日目は、沖縄の新聞社、琉球新報から、
デジタル推進局長の滝本匠さんにリモートで講義をしていただきました。
この講義では、基地問題を中心に、沖縄問題をめぐる報道の状況についてもお話をいただきました。
一戸先生、狙いを説明していただけますか。
一戸信哉
さっきもお話ししましたけど、この科目の性格としては、
沖縄というところそのものを学ぶということもあるけれども、
沖縄のメディアというところも勉強してみようということで言うと、
沖縄のメディア、とりわけ沖縄の新聞って2支あるんですけど、
新聞というのは偏っているというような中でよく言われるわけですよ。
独特の政治風土の中で、沖縄の新聞社というのもまた、
本土とは違う独自の論調があってということが時々言われたりするんだけど、
どういうことなんだろうということですよね。
そこそのものが皆さん分かったかどうかは分からないけど、
やっぱり琉球新報というのは沖縄の置かれた状況の下で、
どういう立場で報道しているのかというのは竹本さんが非常に詳しく語ってくださって、
なかなか皆さんもそれでどうということに質問したりするのが難しかったかもしれないけど、
基地問題とか沖縄を巡って本土の人たちの意識と沖縄の人たちが感じていることの図でとかね、
そういうことが非常によく分かったんじゃないかなと思います。
一戸信哉
その先、それぞれのメディアに対する評価とか考え方に対する違いみたいのは、
どういうふうに皆さんに思ったのか、それはそれぞれの心の中にあるかもしれないけど、
やっぱり沖縄という場所が置かれた文脈とメディアの立ち位置みたいなところはよく分かったんじゃないかなと思う。
沖縄の歴史と政治家の葛藤
一戸信哉
どうですか。そこまではね、田村さんどうでしたか。
そんな感じまでは行きましたかね。
田村千尋
傾いた報道の話で、正確な発言を忘れてしまったんですが、
竹本さんの発言がとても印象に残っています。
一戸信哉
そういう沖縄の置かれた立場をもっとみんなに理解しろよっていう意味ですよね。
今回は基地の話を2日目に聞いた後で、この後でもいろいろ出てきますけど、
いろいろ調べていく中でも、タイミング的には戦後ですよね。
返還されるまでって言ったらいいのかな。返還された後もそうでしょうか。
その間の、日本と切り離されていた時代の沖縄というようなところもいろいろ調べまして、
例えば今言っていた新聞社が立ち上がっていく事情もやりましたね。
琉球新報と沖縄タイムズというのがあって、それは新型で言ったら新型日報みたいな新聞社なんだけど、
なんでここ二つ立ち上がっていったのかっていうような経緯も全然違うわけですよね。
本土の新聞社ができていく経緯とか全然違ったりとか。
あとは、本土復帰した後の海洋泊があって、その時に皇太子夫妻が行って、
ひめゆりの塔に行った時に火炎火が飛んできた話とかね。
要するに皇室と沖縄の関係みたいなのをちょっと勉強しましたし、
あと岸田さんがちょっと沖縄、米軍司政下における政治家の人たちの葛藤みたいなのを調べてましたけど、
何か喋れますか?
岸田瑠々
そうですね。では少々。私が調べたのが行政主席っていう、なんて言えばいいんでしょうね。
一戸信哉
まあまあでもトップですね。琉球政府のトップなんですよね。
岸田瑠々
そうです。米軍の下ではあるけれど、沖縄の中だとトップのところの人たちと、
あとは沖縄市の市長について調べさせていただいたんですけど、やっぱりどっちも立場があるので、
思った通りに報道しづらいところがあって、
米軍の強権と沖縄住民の望みとの板挟みになっているところがあるというか、
これが難しいところで、民意の方に偏ってしまうと米軍が堅くなり、結局自分のやりたい政策が通らない。
場合によっては弾圧されてやりたかったことができなくなるし、
だからといって米軍に偏ってしまうと沖縄県民の方からの支持を失って、結局立ち行かなくなるという状態で。
その中でも先ほど話した行政主席の方はどちらかというと米軍寄りの政治を行っていて、
市長で有名な、もしかしたら知っている方もいらっしゃるかもしれないんですけど、
瀬長亀次郎さんという方はどちらかというと沖縄県民の方を中心の政治を行っていて、
それによってでもやっぱり弾圧されてしまって米軍の方から、
一時期はもう選挙に参加できないというような政治家人生に立たれてしまったような時期もあって、難しいですよね。
一戸信哉
逮捕されるんですよね、確かね。
岸田瑠々
その辺りまで行って、でも結局復帰した後には沖縄初の国会議員の方になったりというのもあって、帰りたいという事もあった。
一戸信哉
その抵抗を続けて民衆の側に立った人というのが、映画にもなった人ですよね。
岸田瑠々
そうです、そうです。
一戸信哉
なるほど。
政治家の人たちの葛藤みたいなのも結構調べた。
多分今も同じようなことあるんでしょうね、きっとね。
沖縄の政治家の人たちがどういうふうに行動するのかみたいなところの悩みは、
多分本土の人たちともちょっとまた違うところがあって、
一戸信哉
それはやっぱり沖縄という場所が置かれた状況が反映されているってことだろうなと。
沖縄民謡「安里屋ゆんた」
岸田瑠々
ではここで1曲お届けしたいと思います。
今日の曲はこちら。
上間彩乃さんで、浅戸屋ユンタ。浅戸屋ユンタ、沖縄民謡の定番です。
浅戸屋というのは、安い、里、家屋の奥と書き、ユンタはカタカナです。
曲としては非常によく知られた沖縄民謡だそうです。私は初めて聞きました。
もともとは八重山の竹富島の歌なんですが、現在広く歌われているものは標準語を用いたバージョンとして1934年に作られたものだそうです。
一戸信哉
そうですね。
本当に結構有名な民謡の一つなんですけど、
これは今おっしゃったように標準語に翻訳されていて、歌だからあまりよく意味わからないんだけど、
そのままになっているところが一部あって、「またはりぬちんだらかぬしゃまよ」というのが繰り返し出てくるんですけど、
調べていくとこの言葉はどういう意味なのかって。
それは八重山の昔の言葉で、「また会いましょう美しき人よ。」
そういうラブソングみたいな歌詞なんだと言われていますが、
この言葉は実はインドネシア語に起源があるんじゃないかみたいな。
確かにそうだ。またはりとかちんだとかね。
そういう言葉があるんですよ。
またはりぬちんだらかぬしゃまよのところのいくつかがインドネシア語でも解釈できるんじゃないかということで、
ちゃんとは解明されていないみたいですけど、
やっぱりその向こうの東南アジアのインドネシアあたりと沖縄の間の海でつながった関係みたいなところが推測されます。
そういう説明がよく書かれていますね。
岸田瑠々
ありがとうございます。沖縄だけではなくインドネシアも入った異国情緒にあふれる歌って感じなんですか?
一戸信哉
歌は沖縄の歌ですけどね。
岸田瑠々
この曲は現在までにさまざまな方が歌われていますが、
今日は沖縄出身の民謡歌手上間彩乃さんのバージョンで聞いてみたいと思います。
上間彩乃さんで安里屋ユンタ。
アウトプットとしてのnote記事作成
岸田瑠々
さて、今日の敬和キャンパスレポは、2月14日から行われた集中講義、情報メディア特論、国内研修で
本来現地に行くはずだった沖縄をどのように学んだのか、
受講したMCの田村さんと私岸田、指導を担当した国際文化学科一戸信哉先生の3人でお話ししています。
この後は主にアウトプットについて話していきたいのですが、
今回はそれぞれ調べていった内容をnoteの記事にまとめていくということになったので、
一戸先生その狙いを教えていただいてもよろしいでしょうか。
一戸信哉
最初に説明した通り、もともとは現地に行っているはずだったわけですよね。
現地に行って、その時予定していたのは南部戦績といって、
沖縄戦というのは首里で戦った後、最後まで抵抗し続けた日本軍が南の方に下っていって、
南の方でひめゆりの塔のところも含めて、南の方でより悲惨な戦いが行われていたという話ですよね。
なので南部に戦争の跡が固まっているので、そこをガイドツアーみたいな感じで行こうかなとか、
あとその他いくつかいろいろ企画を考えて撮影していこうと思っていたんですよね。
たぶんそれはもちろん現地に行って、現場に行ったら体験の深さは全然違うというか、
そこで強く感じられるものはあったんだろうと思うんですが、
それができなくなったということで、だからそういう意味では体験としては薄まってしまったんだけど、
一戸信哉
その分いろんなものを勉強できるというところまで持っていこうというので、
授業自体は実は大学にも集まることができなくなって、最終的には2日目以降オンラインでやりましたけど、
その中で映像制作というのも新潟でやるのも難しくなっちゃったわけですよね。
だからnoteっていうのはブログの変化形みたいな、この番組のページも作ってありますけど、
そこに記事のような形のものを作って、そこで自分たちが今回知らなかった沖縄っていうマガジンのタイトル、
まとめのタイトルにしましたけども、沖縄のこととか沖縄と戦争とか、
それから沖縄の移民のこととか、いろんなことをやりましたけど、
それを全部盛りだくさん埋め込んで、新潟の大学で学ぶ私たちが知らなかった沖縄っていうのをまとめてみようという風にしました。
正確に言うと新潟の大学生の知らなかった沖縄というタイトルで、
だから私たちは新潟の側から見てたらあんまりイメージなかったっていうか、
青い海と暖かいところみたいな、それぐらいしかほぼなかった沖縄っていうのを深く学んで、
知らないことをいろいろ知ったっていう風な形でまとめていこうという風にしてみました。
だから実際濃かったですよね、内容としてはね。濃かったと思うんですが。
実際には5人ですか、今回ね。5人でやりましたけど、
今日は田村さんと岸田さんに話してもらっているので、
一戸信哉
お二人が調べたことを中心にお話ししていくっていう感じでどうでしょう。
岸田瑠々
はい、進めていくと思います。
一戸信哉
はいはい、いきましょうか。
沖縄戦の悲劇:戦争マラリアと対馬丸事件
岸田瑠々
ではまずは戦争関係のお話からしていこうと思います。
沖縄戦について学びましたからね。
ドキュメンタリーの方で沖縄戦についてかなり詳しく見て、それなりに知識が深まったとは思うので、
さらにディテールというか、各地で起きた様々な現象として、
対馬丸事件、戦争マラリア、石垣島事件といったトピックを学び、我々まとめていきました。
今回田村さんは戦争マラリアを担当していたと思うのですが、
確かこれは本島ではなくて八重山でのお話だったと思います。
では少し紹介してもらえますか。
田村千尋
戦争マラリアとは、日本軍のマラリア有病地帯への強制避難命令によって、
多くの人が患ったマラリアのことを指すんですね。
沖縄戦の最中に、日本軍は八重山がマラリアの有病地帯であることを把握していたのですが、
戦争が激化するにつれて、八重山諸島に住んでいる住民を
西表島や石垣島中部や北部などのマラリアの有病地帯へ強制避難命令を下したんですね。
その強制避難をした先の知育では、食料や薬などもなく、
川の水を飲み水とか生活用水に使ったことから、多くの住民がマラリアになってしまって、
命を落とすことになってそうなんです。
一戸信哉
戦争マラリアは、沖縄戦の本島での壮絶な戦いに比べると目立たないんですよね。
みんなマラリアになって、どんどん倒れていったというのが、すごくマイナーな感じで見られているんですけど、
でも島によっては、ほぼ島の人全員かかっちゃったみたいなことも起きていたぐらいで、
実は相当な被害が出ているんですよね。
しかもなんで軍隊の人たちは島の人たちを移住させたのかとか、あまりよくわからないところがあって、
でもいずれにせよ条件がいいところとか、人が住んでいるような住みやすいところというか、
そういう場所からお前らは出て行けみたいな。
軍の施設として使うとしていたのか何なのか、ちょっとよくわからないところもあるんですけど、
急にみんな移住するように脅されて移住したというようなことがあったということで、
これは沖縄本島でも言われているところですけど、
結局日本軍は自分たちの味方じゃなくて、敵のように自分たちを脅すとかね。
言うこと聞かないと脅すみたいなことをやるような存在に最終的にはなっていって、
脅されて移住していった先で、たくさんの人がマラリアで倒れていった。
目立たないところで起きている悲劇という感じですね。
田村さん、どうでした?
田村千尋
私がこの記事を書くにあたって、もう一つの沖縄戦、戦争マラリアという映像を見たんですね。
その中で、父と母と兄をマラリアで亡くした方がインタビューに答えていて、
その方が毎日次々に家族が死ぬと亡くなっていくので、
その家族の死体を毎日担いでいたとおっしゃっていて、
すごい生々しいなと感じました。
一戸信哉
しかもそれ別に戦争で殺されているとかそういうことでもないわけですよね。
それをどう評価していいのかわからないけれども、
これもまた戦争の犠牲ということになりますよね。
田村千尋
岸田さんは、確か対馬丸事件をまとめましたよね。
岸田瑠々
はい。
田村千尋
学童疎開戦が歪められた悲劇であったかと思います。
岸田さん、ちょっと紹介してもらえますか。
岸田瑠々
はい、わかりました。対馬丸はかつて存在した学童疎開戦です。
もともとは日本郵船が作った貨物船だったのですが、
第二次世界大戦の際に戦争のために使われることになって、
末期になると疎開戦となりました。
なので沖縄から九州まで子供を運んでいる役目を負っていたわけですね。
そんな対馬丸なんですが、対馬丸事件では米兵の魚雷に撃沈されてしまいます。
疎開の最中でした、これも。
子供も含めて他に乗っていた方は、1788人のうち1484人が死亡するという悲劇になってしまいました。
当時米軍はこの海域を丸の死体安置所と名付けて、次々と待ち伏せで攻撃をしていたみたいなんですね。
丸の死体安置所というのは、船ってだいたい丸丸丸という名前がついているじゃないですか。
田村千尋
そうですね。
一戸信哉
なんとか丸。
岸田瑠々
海外でもそのことが結構知られていたみたいで、要はこれは日本船がいっぱい通って撃沈する場所として認識されていたということになるわけですね。
この対馬丸事件なのですが、人がたくさん亡くなってしまったというのもつらいところなのですけれど、
その後箝口令というものが敷かれまして、対馬丸事件について話してはいけなかったんですね。
そのことを知った人たちが、なぜかというと、この後まださらに沖縄は九州への疎開を実施することになるんですが、
それをするにあたってやっぱり撃沈されてしまった事実があると、みんな疎開に行きたくないなーってなってしまって、
そうなると国としては困るので言うなと口止めがされていたことになりますね。
県民には正確な情報が伝えられずに口をつぐむことを強要され、
生存者と遺族はその後、それぞれ生き残ったことと送り出したことに対する自責の念に駆られたそうですね。
詳しくは沖縄に対馬丸記念館という場所がありますので、皆さんよろしければ足を運んでみてください。
一戸信哉
要するにアメリカはきっと民間戦だということが分かっていたんじゃないかと思うんだけど、
そこは曖昧に今されているところですよね。
岸田瑠々
でしょうね。
一戸信哉
今もやっている話じゃないですか、民間人がいるところに爆撃してはいけないというのと同じように、
岸田瑠々
民間戦なのに攻撃してはいけないはずなんだけど、今やってたわけですよね。
そうとは思わなかったといえば。
一戸信哉
そういうことなのか、これで学童疎開がどれくらい進んだのか進まなかったのかはよく分からないですけど、
やっぱり難しかったわけですよね。
結局、もっとちゃんと疎開できていれば沖縄戦における子どもたちの犠牲ももっと防げたのかもしれないし、
どうだったんだろうね。ちょっとそこまでは今回は終えなかったんですけどね。
岸田瑠々
そうですね。
一戸信哉
まあでもまあそれはそれで今度疎開したら、疎開してた子どもが戻ってきたらもう家族みんな誰もいなくなったみたいなことももちろんあったんでしょうし、
いろんな悲劇がどちらにしてもあったわけですよね。この土間丸事件もそうだし、学童疎開についてもね、いろんなことがあった。
一戸信哉
あとあれですよね、戦争関係は今の津島丸、戦争マラリアの他にも、他のメンバー石垣島事件も調べていて、
石垣島事件と捕虜の扱い
一戸信哉
石垣島事件も結構、その事件は米兵を殺しちゃうんですよね。
石垣島にこう不時着してパラシュートが降りてきたみたいだと思うんですけど、
それを殺してしまって、虐待した末に死んでしまったのか、殺してしまったのか、ちょっと曖昧ですけど、
そのことで後に虐待した人たちが、戦争犯罪でPC級戦犯で裁かれるっていうことになるんですよね、後々ね。
これいろんなところで起きてて、新潟だと直江津っていうところの捕虜収容所で、やっぱり同じようなことが起きてるんですけど、
捕虜収容所は実は直江津以外に、新潟市内にもあったというわけで、いろんなところでこういう、
要するにみんな敵だから、戦局も押し詰まって大変なことになってるっていう中によっては、
敵の兵隊がパラシュートで降りてきたりしたら、殺してしまえみたいなことになっちゃってたんでしょうね。
そういう捕虜の扱いみたいなことも一般の人は知らなかったわけですよね。
というようなことも起きた。それは何十人も渡って悲劇っていうことになるんですよね。
石垣島には慰霊碑が残っていると、その時見てたら出てましたね。
岸田瑠々
そうですか、ありがとうございます。直江津にも確か、慰霊碑と記念館のようなもの建ってますよね。
一戸信哉
あります。直江津の港のところのフェリタミの近くにありますね。
沖縄からの移民の歴史
岸田瑠々
戦争や基地変換、核といった話題がどうしても多いですし、沖縄がテーマになるとそれらが避けがたいところはあるのですが、
それ以外の話題でいくと、移民の話やメディアの話、新潟とのつながりについても少しやりましたね。
まず、移民については一戸先生、概要をお話しお願いいたします。
一戸信哉
移民もいろいろ、要するに日本人がいろんなところに移民していったという話が出てくるわけですよね。
昔、南米に移民した人とか、ハワイに移民した話とか、新発田の人がハワイに移民した話とかも聞きますけど、
そのボリュームでいうと、移民していた人たちの多くは、実は沖縄から行っているということがちょっと調べるとわかるんですよね。
そうすると、沖縄からどういう人が、なぜ行ったのかみたいなのがいろいろ出てくるんですけど、
そうすると、行った先がハワイとか、戦前に日本が支配していた南洋軍島という島とか、ここも後に戦争で攻撃されて悲惨なことになっていくんですけど、
一戸信哉
南洋軍島とかはそうですし、戦後は南米に渡った人たちもたくさんいるし、いろんなところに行ってますよね。
あと調べたら、東山急増という人がいて、その人が最初ハワイに移民するところだったかな。
それをみんなをハワイに行きましょうキャンペーンみたいなのをやって、やった人として、偉人として沖縄では知られている人ですよね。
そういう人のことも出てきましたよね。
田村千尋
敬和キャンパスレポ。
岸田さんは横浜や大阪、満州の都市部に移住した人たちのことを書いていましたよね。
岸田瑠々
そうですね。じゃあまず横浜の方は、
神奈川県の横浜市の鶴見区、ここには現在も沖縄移民の2世3世の方が根付いているそうなんですが、
こちらへの移民は1897年頃に始まって、1900年代から1960年代にかけて多くの沖縄の方が鶴見区に移住したそうです。
というのも当時鶴見区の河川付近に工場がいっぱい立ち並んでいて、そこでの労働を求めてのことだったそうです。
沖縄県、大阪の方もそうなんですけど、お仕事があまりなかったのかなというようなイメージを受けました。
ソテツの危惧があったみたいなので、それの影響も大きかったんですかね。
一戸信哉
もちろん仕事を求めていったんでしょうね、みんなね。
岸田瑠々
ですね。
やっぱり文化の違いとかがあって内地の方々とあんまり交流がなかったり、やはり差別的なことも受けたりというのはあったみたいです。
この時は沖縄タウンと呼ばれていて、今でも現地の方々に親しまれているそうです。
もう一個、大阪市の大正区もだいたい同じような流れを沿っていて、
こちらの方は第一次世界大戦後の飢餓状態、ソテツ地獄、さっきもちょっと話出ましたね。
お腹減りすぎてもソテツしか食べることないみたいな、そういうことが沖縄であったんですけど。
その頃大阪が宝石産業で栄えていて、でかすぎる労働者として沖縄の方、そのまま大阪に渡って、
その後そこで暮らしちゃおうかなというふうに移住していったというのが、歴史になるみたいですね。
今はサンクス平尾と呼ばれる商店街があるらしくて、そこがリトル沖縄と呼ばれているそうです。
だいぶ寂れては来ているみたいですけど。
一戸信哉
まあ高齢化は進んでいる。
でもやっぱり昔、沖縄から出てきた人に対する差別みたいなのがあって、
それでみんなそこでまとまって暮らしていったというような背景もあった。
岸田瑠々
そうなりますね。やっぱり居づらさはあるので、そうすると団結していってリトル沖縄が生まれていくという流れはあるみたいです。
一戸信哉
たぶん横浜とか大阪以外にもいろんなところに、
沖縄の人たちが労働者として移住していったところってきっとあるんだと思うんですけどね。
今回は横浜と大阪が出てきたということです。
横浜・大阪への移民と差別
岸田瑠々
田村さんは日賀東正太郎さんという方について調べられたそうで、その話を聞かせていただけますか。
田村千尋
先ほど一戸先生がハワイにも移民がいたという話をしていたんですが、
ハワイ移民の日系2世の方でして、日賀東正太郎さんはアメリカで兵役に就いていたんですね。
新日本攻撃により日米海戦が起きてからは最も危険なヨーロッパの最前線で戦いを行った人で、
イタリアに派兵された時に戦争に負けたイタリア人の悲惨な姿を見たことで、沖縄の人々を助けたいという気持ちが生まれて、
戦後は沖縄の方々を助けたり、沖縄の方って戦争が終わっても終わったと認識していなかったということがあったじゃないですか。
一戸信哉
沖縄戦の最後のところの話ですね。組織的戦闘の終了というやつですよね。
6月23日に組織的戦闘は終了しているんだけど、別に何かの宣言が出たわけではないので、その後もみんなガマの穴の中に入ったまま戦いを続けていった兵士もいるし、
そこの中に一緒に巻き込まれていた人たちもいっぱいいるわけですよね。もう終わったんだよということを説得するのにものすごく大変だったって話ですよね。
田村千尋
伊賀さんは沖縄方言が喋れたって話ですかね。
そうですね。それがすごく役に立ったというインタビュー記事を読みました。
一戸信哉
沖縄方言って言い方が楽しいのかな。沖縄の人の言葉で話しかけて、もう大丈夫だよと出てきても大丈夫だよということを説得したみたいな話ですよね。
この人もいわゆる日系アメリカ人ですよね。日系アメリカ人はやっぱり、戦争が始まった時に収容所にみんな入れられたりとかあったわけですよね。
そういう時にこういう人たちはアメリカ人として自分たちは国に忠誠を誓うということを示すために率先して戦争に行ったという話も出てきますけど、そういううち人の一人ということで。
そういう人のことも沖縄のことを調べているんだけど、結局日系人の歴史みたいなところにも重なってくるんですよね。この話はね。
沖縄放送の基礎と川平朝清
一戸信哉
あとは、さっき新聞の話をしましたけど、放送の話とか、それから新潟のこともちょっとやったんですけど、岸田さん放送の話をちょっとやりましたっけ?
岸田瑠々
岸田そうですね。放送カビラさんについてまとめました。
一戸信哉
川平朝清さん。
岸田瑠々
そうです。
一戸信哉
どんな話でしたっけ?
岸田瑠々
そうですね。川平朝清さんという方が沖縄にいらっしゃいまして、そちらの方が今の放送の基礎を築いたというか、欠かせない方であるというお話ですね。ざっくりまとめると。
一戸信哉
あれですよね。ジョン・カビラさんとかのお父さんですね。
岸田瑠々
そうです。
一戸信哉
カビラ兄弟のお父さんですね。
この人が沖縄の放送の基礎を作ったみたいな話でしたっけ?
岸田瑠々
そうですね。ただ調べた感じだとどちらかというと、本当に基礎を作ったのはお兄様なのかなという感じで。
一戸信哉
カビラ兄弟がいたんですね。
岸田瑠々
そうなんですよ。沖縄のラジオのアーカラを作ったのはお兄さんの方みたいなんで、そこでアナウンサーをやってたのがカビラさんみたいなんですよね。朝清さん。
一戸信哉
何だっけ。沖縄の放送局というよりは、米軍の放送局みたいな感じで最初スタートするんですか?
岸田瑠々
そうです。
一戸信哉
誰もラジオを受信するものを持ってないのに、とりあえずやるみたいな感じで放送始まったみたいな。そんな話だったんだけど。
岸田瑠々
そうですね。朝清さんがその後、NHKの養成所の方に入って、本土の方で放送のことについて学んできて、それを沖縄に持ち帰るかと思いきや、その後さらにアメリカに留学と。
カビラさんは台湾の方で台北高校という場所に通ってたんですけど、そこが結構英語教育に力を入れてたらしくて、日本ペラペラみたいなんですよね。
その感じでアメリカに留学し、帰国であったアメリカの方からまた色々メディア系について学んで日本に帰ってきて、
岸田瑠々
その後、RBC琉球放送の米兵向けの英語放送部局長補佐というのに抜擢され、そこから本格的に沖縄の放送史を支える感じになっていく感じですね。
一戸信哉
だから結局は朝清さんもそういう意味ではアメリカと沖縄の間に立って放送を作っていくところで、色々努力をしたということですかね。
朝清さんの話は結構いろんなところに記事が出てますし、
2019年ぐらいにJウェーブという、すごいジョン・カビラさんがお父さんにインタビューしたシリーズがあって、それがまだポッドキャスで流れているんですけど、
なかなか面白い。沖縄の歴史を放送の側面から見ていくという内容でしたよね。
私がMCっぽくなってますけど、新潟と沖縄の関係というのを色々調べていったときに、
新潟と沖縄の交易:昆布と抜け荷事件
一戸信哉
貿易の話があってっていうのも少し出てきて、ここ田村さんが調べてくれましたけど、どんな話でしたっけ。
田村千尋
抜け荷事件というものでして、現在の新潟県台内市あたりの場所で、抜け荷事件というものが揮発されて、
そこでは非常にその時代、新潟で高価であったはずの珊瑚や朱塗りの原料が安い値段で流通していたという記憶があったんですが、
これは薩摩から貿易で持って来られた品物で、この薩摩は琉球を経由して中国から珊瑚や朱塗りの原料を買い付けて、
新潟をはじめとする北陸地方で売りさばいていたという話なんですが、
ここで琉球、沖縄が関わってくるのは、新潟で北海道の昆布などの海産物を貿易で薩摩藩が沖縄に持って行って、
そこで今、沖縄でも昆布の消費量が盛んで、昆布料理なども郷土料理となっているんですが、そこの由来は新潟を経由して貿易で持って来られた北海道の海産物だったという話なんですが、
うまくまとめられなくて、先生補足ありましたらお願いします。
一戸信哉
要するに砂穀時代にこっそり薩摩藩が新潟で貿易をやって稼いでいたという話ですよね。
これ実は摘発があったことにより、新潟の港は長岡藩には任せていられないみたいなことになって、それで幕府直轄になるんですよね。
そういう経緯をたどっていくんですけど、こっそり何をやっていたかという話でしょ。
こっそり何をやっていたかというと、北海道の海産物を新潟で買い付けて、それを薩摩藩に持って行くんじゃなくて、沖縄まで持って行って、
琉球まで持って行ったものを今度は中国から入ってきたものと取引することをやったってことですか。
中国から入ってくるものをまた多分、要するに砂穀時代にも関わらず、琉球ではたくさん取引できるから、
それをまた琉球から持ち込んでこっそり日本とか新潟で売り捌くと、儲かったと。そういうことじゃないですかね。
田村千尋
ありがとうございます。
一戸信哉
これだから昆布の料理ね。沖縄の、何かここに書いてますけど、この時に書きましたけどね。
くぶいりちっていうね、昆布の料理があるんだけど、これ何で沖縄で郷土料理みたいになっていったかというと、多分これなんですよね。
だから昆布は、本部を北海道から沖縄まで持って行った時に、それは多分中国に売ってたんでしょうけど、
それはやっぱりその途中で沖縄にも残るので、それを食べてたってことなのかなと思いますけどね。
そんなような話ですよね。
可能じて沖縄と新潟の繋がりみたいにも見つかったというようなところでしょうね。
田村千尋
ありがとうございます。
学習の総括と感想
岸田瑠々
ありがとうございます。
一戸信哉
そんな感じですけど、皆さんどうでしたか。
こういうマイナーな話も含めて、全部沖縄について勉強してみました。
どうでしたか、石田さん。
岸田瑠々
そうですね。知った気にはなりましたね。
一戸信哉
知った気にはなりましたね。
岸田瑠々
ただ本当に知ったかというと、やっぱり爪が甘い、さっきのいろんな話もそうですし、
実地に行かないとわからないこともあったのかなと、悲しい気持ちで。
一戸信哉
現地に行くと、なんか浮ついちゃうじゃないですか。
岸田瑠々
旅行気分になっちゃう。
一戸信哉
なんか早くお土産買いに行かなきゃとか、ご飯何食べようとか、そういうことで浮ついてしまうので、多分それはそれで薄まるんですよね。
なので、行かなかったことである種ストイックにいろいろ詰め込めた部分もあるわけですよ。
でも、やっぱり見てないからね。
見てないから、やっぱり頭から抜けていっちゃうってところもあるかもしれないですね。
田村さんどうでしょう。
田村千尋
そうですね。
初日は映像を見て、残りの3日間はひたすらパソコンに向かって作業をするという。
多分オンラインですからね。
そうですね、でも現地に行けばやはり戦争をメインになってしまうと思うんですけど、
様々なことを知れたっていう面では、現地に行かなくてもできることではあったのかなと思いました。
一戸信哉
そうですね。
私は両方やるといいんだなと思いましたけどね。
そうか、両方やらないとダメだなと思って。
だから現地に行っちゃうと盛り上がっちゃって。
よく言うじゃないですか、やっぱり戦争のところに行ってても早く浮ついたところに行きたいみたいになる。
そういうあれかこれかみたいな沖縄に行った場合はなっちゃいがちだけれども、
実はそこを置き合っているところを深く知っていくと、
もうちょっと中間的なところにもいろいろ面白いものがあるし、
戦争のものもあるし、浮ついたものもあるし、いろんな多様な側面を見ることができたらいいなと。
別に沖縄だけに限らないでしょうけどね。
そういうことは私は感じましたね。
エンディングと今後の展望
岸田瑠々
今回貴重な機会提供していただいてありがとうございました。
田村千尋
ありがとうございました。
岸田瑠々
さて、そんなこんなで、今日の敬和キャンパスレポは、
2月14日から行われた集中講義、情報メディア特論国内研修で、
本来現地に行くはずだった沖縄をどのように学んだのか。
受講したMCの田村さんと私岸田、指導を担当して国際文化学科一戸信哉先生の3人でお話ししました。
田村千尋
敬和キャンパスレポ
岸田瑠々
さて、エンディングです。
いつになったら行けるかわかりませんが、田村さん、もし沖縄行けるとしたら何月頃に行きたいですか。
田村千尋
そうですね、秋か冬がいいかなと思いますね。
岸田瑠々
寒い時期になって。
田村千尋
高校の修学旅行で12月に沖縄に行ったんですけど、
岸田瑠々
真冬、はい。
田村千尋
新潟は寒いのに沖縄は全然あったかくて、いいなと思ったので、
暑い夏に行くと沖縄は暑すぎるかなと思うので、
冬に行ってあったかいなぐらいがちょうどいいんじゃないかなと思いますね。
岸田瑠々
そうですね、雪国のみからするとあれは天国ですよね、素晴らしい。
そんな沖縄に夢を馳せたところで、今日の敬和キャンパスレポこれにて終了です。
皆さんおやすみなさい。
敬和キャンパスレポは、敬和学園大学の提供でお送りしました。
53:16

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