岸田瑠々
この1週間の集中講義、まず初日はドキュメンタリー。
それも沖縄の歴史に関わる、割と重めの作品を見ました。
タイトルとしては、沖縄線全記録や沖縄と核、といった作品でしたね。
では、一筋ずつ記事だから、軽く振り返っていきます。
1つ目に見た作品は、NHKスペシャルのドキュメンタリー、沖縄線全記録ですね。
この作品では、沖縄線を実際に経験した元日本兵や米兵、
一般市民などへのインタビューや過去の証言から、多角的に沖縄線が捉えられており、
始まりから終わりまでの歴史と、それに付随する関係者各位の思いを学ぶことができました。
2つ目に見た作品は、これもまたNHKスペシャルのドキュメンタリーで、沖縄と書く。
戦後沖縄には、米ソ冷戦における軍事拠点としての姿があり、
基地だけでなく核爆弾が配備された沖縄は、戦後も犠牲を強いられていた、というようなお話でした。
6つ目に見た作品が現在になってきて、クローズアップ現代プラスの
沖縄復帰45年、深まる本土との溝でしたね。
岸田瑠々
米軍基地の存在に揺れる世論と世代間のギャップ、本土と沖縄のすれ違いが数々の時により示されていました。
あと加えてドキュメンタリーではありませんでしたが、お笑い米軍基地も見ましたね。
基地問題を笑いとして消化することで、また漫才として身近なものを通して、
多くの人に基地問題への関心を持ってもらおうという、
ブラックコメディーの一言では語りきれない、意欲的な作品だったと私は思いました。
一戸信哉
今年、返還から50年ですよね。
沖縄戦全記録は、とにかく重いですよね。
地上戦になって、市民が巻き込まれていく戦争というのは、どういう現象が起きるのか、
最後の一人まで戦うぞと言っていた日本のこの姿勢の中で、
どれだけ沖縄の人が巻き込まれて死んでいったかというのは、
非常によくわかるけど、つらいという作品ですよね。
核はどうでした?
そうですね。
一戸信哉
あまり、その時の沖縄がどんな状態にあったかということ、
つまり、アメリカの占領下で沖縄がどんな状態にあったかということも、
実はそんなにみんな知らないですしね。
岸田瑠々
基地はあるのは知っているけれど、水を感じますよね。
一戸信哉
そうですよね。今回はNHKが深く掘っていってみたら、
実は核は配備されていて、いつでも撃てる状態になっていて、
ひょっとしたらもう撃っちゃってたかもしれない。
なんとなく今にも通じる話ですよね。
うっかり横断をしちゃったら大変なことになる。
とにかく、いろんな重たいものから、さっきのお笑いで消化するところまで、
沖縄をめぐる様々なものを映像作品で見たというところでしょうかね。
そうなりますかね。
一戸信哉
どうですか。そこまではね、田村さんどうでしたか。
そんな感じまでは行きましたかね。
田村千尋
傾いた報道の話で、正確な発言を忘れてしまったんですが、
竹本さんの発言がとても印象に残っています。
一戸信哉
そういう沖縄の置かれた立場をもっとみんなに理解しろよっていう意味ですよね。
今回は基地の話を2日目に聞いた後で、この後でもいろいろ出てきますけど、
いろいろ調べていく中でも、タイミング的には戦後ですよね。
返還されるまでって言ったらいいのかな。返還された後もそうでしょうか。
その間の、日本と切り離されていた時代の沖縄というようなところもいろいろ調べまして、
例えば今言っていた新聞社が立ち上がっていく事情もやりましたね。
琉球新報と沖縄タイムズというのがあって、それは新型で言ったら新型日報みたいな新聞社なんだけど、
なんでここ二つ立ち上がっていったのかっていうような経緯も全然違うわけですよね。
本土の新聞社ができていく経緯とか全然違ったりとか。
あとは、本土復帰した後の海洋泊があって、その時に皇太子夫妻が行って、
ひめゆりの塔に行った時に火炎火が飛んできた話とかね。
要するに皇室と沖縄の関係みたいなのをちょっと勉強しましたし、
あと岸田さんがちょっと沖縄、米軍司政下における政治家の人たちの葛藤みたいなのを調べてましたけど、
何か喋れますか?
岸田瑠々
そうですね。では少々。私が調べたのが行政主席っていう、なんて言えばいいんでしょうね。
一戸信哉
まあまあでもトップですね。琉球政府のトップなんですよね。
岸田瑠々
そうです。米軍の下ではあるけれど、沖縄の中だとトップのところの人たちと、
あとは沖縄市の市長について調べさせていただいたんですけど、やっぱりどっちも立場があるので、
思った通りに報道しづらいところがあって、
米軍の強権と沖縄住民の望みとの板挟みになっているところがあるというか、
これが難しいところで、民意の方に偏ってしまうと米軍が堅くなり、結局自分のやりたい政策が通らない。
場合によっては弾圧されてやりたかったことができなくなるし、
だからといって米軍に偏ってしまうと沖縄県民の方からの支持を失って、結局立ち行かなくなるという状態で。
その中でも先ほど話した行政主席の方はどちらかというと米軍寄りの政治を行っていて、
市長で有名な、もしかしたら知っている方もいらっしゃるかもしれないんですけど、
瀬長亀次郎さんという方はどちらかというと沖縄県民の方を中心の政治を行っていて、
それによってでもやっぱり弾圧されてしまって米軍の方から、
一時期はもう選挙に参加できないというような政治家人生に立たれてしまったような時期もあって、難しいですよね。
一戸信哉
逮捕されるんですよね、確かね。
岸田瑠々
その辺りまで行って、でも結局復帰した後には沖縄初の国会議員の方になったりというのもあって、帰りたいという事もあった。
一戸信哉
その抵抗を続けて民衆の側に立った人というのが、映画にもなった人ですよね。
岸田瑠々
そうです、そうです。
一戸信哉
なるほど。
政治家の人たちの葛藤みたいなのも結構調べた。
多分今も同じようなことあるんでしょうね、きっとね。
沖縄の政治家の人たちがどういうふうに行動するのかみたいなところの悩みは、
多分本土の人たちともちょっとまた違うところがあって、
一戸信哉
それはやっぱり沖縄という場所が置かれた状況が反映されているってことだろうなと。
岸田瑠々
さて、今日の敬和キャンパスレポは、2月14日から行われた集中講義、情報メディア特論、国内研修で
本来現地に行くはずだった沖縄をどのように学んだのか、
受講したMCの田村さんと私岸田、指導を担当した国際文化学科一戸信哉先生の3人でお話ししています。
この後は主にアウトプットについて話していきたいのですが、
今回はそれぞれ調べていった内容をnoteの記事にまとめていくということになったので、
一戸先生その狙いを教えていただいてもよろしいでしょうか。
一戸信哉
最初に説明した通り、もともとは現地に行っているはずだったわけですよね。
現地に行って、その時予定していたのは南部戦績といって、
沖縄戦というのは首里で戦った後、最後まで抵抗し続けた日本軍が南の方に下っていって、
南の方でひめゆりの塔のところも含めて、南の方でより悲惨な戦いが行われていたという話ですよね。
なので南部に戦争の跡が固まっているので、そこをガイドツアーみたいな感じで行こうかなとか、
あとその他いくつかいろいろ企画を考えて撮影していこうと思っていたんですよね。
たぶんそれはもちろん現地に行って、現場に行ったら体験の深さは全然違うというか、
そこで強く感じられるものはあったんだろうと思うんですが、
それができなくなったということで、だからそういう意味では体験としては薄まってしまったんだけど、
一戸信哉
その分いろんなものを勉強できるというところまで持っていこうというので、
授業自体は実は大学にも集まることができなくなって、最終的には2日目以降オンラインでやりましたけど、
その中で映像制作というのも新潟でやるのも難しくなっちゃったわけですよね。
だからnoteっていうのはブログの変化形みたいな、この番組のページも作ってありますけど、
そこに記事のような形のものを作って、そこで自分たちが今回知らなかった沖縄っていうマガジンのタイトル、
まとめのタイトルにしましたけども、沖縄のこととか沖縄と戦争とか、
それから沖縄の移民のこととか、いろんなことをやりましたけど、
それを全部盛りだくさん埋め込んで、新潟の大学で学ぶ私たちが知らなかった沖縄っていうのをまとめてみようという風にしました。
正確に言うと新潟の大学生の知らなかった沖縄というタイトルで、
だから私たちは新潟の側から見てたらあんまりイメージなかったっていうか、
青い海と暖かいところみたいな、それぐらいしかほぼなかった沖縄っていうのを深く学んで、
知らないことをいろいろ知ったっていう風な形でまとめていこうという風にしてみました。
だから実際濃かったですよね、内容としてはね。濃かったと思うんですが。
実際には5人ですか、今回ね。5人でやりましたけど、
今日は田村さんと岸田さんに話してもらっているので、
一戸信哉
お二人が調べたことを中心にお話ししていくっていう感じでどうでしょう。
岸田瑠々
はい、進めていくと思います。
一戸信哉
はいはい、いきましょうか。
岸田瑠々
ではまずは戦争関係のお話からしていこうと思います。
沖縄戦について学びましたからね。
ドキュメンタリーの方で沖縄戦についてかなり詳しく見て、それなりに知識が深まったとは思うので、
さらにディテールというか、各地で起きた様々な現象として、
対馬丸事件、戦争マラリア、石垣島事件といったトピックを学び、我々まとめていきました。
今回田村さんは戦争マラリアを担当していたと思うのですが、
確かこれは本島ではなくて八重山でのお話だったと思います。
では少し紹介してもらえますか。
田村千尋
戦争マラリアとは、日本軍のマラリア有病地帯への強制避難命令によって、
多くの人が患ったマラリアのことを指すんですね。
沖縄戦の最中に、日本軍は八重山がマラリアの有病地帯であることを把握していたのですが、
戦争が激化するにつれて、八重山諸島に住んでいる住民を
西表島や石垣島中部や北部などのマラリアの有病地帯へ強制避難命令を下したんですね。
その強制避難をした先の知育では、食料や薬などもなく、
川の水を飲み水とか生活用水に使ったことから、多くの住民がマラリアになってしまって、
命を落とすことになってそうなんです。
一戸信哉
戦争マラリアは、沖縄戦の本島での壮絶な戦いに比べると目立たないんですよね。
みんなマラリアになって、どんどん倒れていったというのが、すごくマイナーな感じで見られているんですけど、
でも島によっては、ほぼ島の人全員かかっちゃったみたいなことも起きていたぐらいで、
実は相当な被害が出ているんですよね。
しかもなんで軍隊の人たちは島の人たちを移住させたのかとか、あまりよくわからないところがあって、
でもいずれにせよ条件がいいところとか、人が住んでいるような住みやすいところというか、
そういう場所からお前らは出て行けみたいな。
軍の施設として使うとしていたのか何なのか、ちょっとよくわからないところもあるんですけど、
急にみんな移住するように脅されて移住したというようなことがあったということで、
これは沖縄本島でも言われているところですけど、
結局日本軍は自分たちの味方じゃなくて、敵のように自分たちを脅すとかね。
言うこと聞かないと脅すみたいなことをやるような存在に最終的にはなっていって、
脅されて移住していった先で、たくさんの人がマラリアで倒れていった。
目立たないところで起きている悲劇という感じですね。
田村さん、どうでした?
田村千尋
私がこの記事を書くにあたって、もう一つの沖縄戦、戦争マラリアという映像を見たんですね。
その中で、父と母と兄をマラリアで亡くした方がインタビューに答えていて、
その方が毎日次々に家族が死ぬと亡くなっていくので、
その家族の死体を毎日担いでいたとおっしゃっていて、
すごい生々しいなと感じました。
一戸信哉
しかもそれ別に戦争で殺されているとかそういうことでもないわけですよね。
それをどう評価していいのかわからないけれども、
これもまた戦争の犠牲ということになりますよね。
田村千尋
岸田さんは、確か対馬丸事件をまとめましたよね。
岸田瑠々
はい。
田村千尋
学童疎開戦が歪められた悲劇であったかと思います。
岸田さん、ちょっと紹介してもらえますか。
岸田瑠々
はい、わかりました。対馬丸はかつて存在した学童疎開戦です。
もともとは日本郵船が作った貨物船だったのですが、
第二次世界大戦の際に戦争のために使われることになって、
末期になると疎開戦となりました。
なので沖縄から九州まで子供を運んでいる役目を負っていたわけですね。
そんな対馬丸なんですが、対馬丸事件では米兵の魚雷に撃沈されてしまいます。
疎開の最中でした、これも。
子供も含めて他に乗っていた方は、1788人のうち1484人が死亡するという悲劇になってしまいました。
当時米軍はこの海域を丸の死体安置所と名付けて、次々と待ち伏せで攻撃をしていたみたいなんですね。
丸の死体安置所というのは、船ってだいたい丸丸丸という名前がついているじゃないですか。
田村千尋
そうですね。
一戸信哉
なんとか丸。
岸田瑠々
海外でもそのことが結構知られていたみたいで、要はこれは日本船がいっぱい通って撃沈する場所として認識されていたということになるわけですね。
この対馬丸事件なのですが、人がたくさん亡くなってしまったというのもつらいところなのですけれど、
その後箝口令というものが敷かれまして、対馬丸事件について話してはいけなかったんですね。
そのことを知った人たちが、なぜかというと、この後まださらに沖縄は九州への疎開を実施することになるんですが、
それをするにあたってやっぱり撃沈されてしまった事実があると、みんな疎開に行きたくないなーってなってしまって、
そうなると国としては困るので言うなと口止めがされていたことになりますね。
県民には正確な情報が伝えられずに口をつぐむことを強要され、
生存者と遺族はその後、それぞれ生き残ったことと送り出したことに対する自責の念に駆られたそうですね。
詳しくは沖縄に対馬丸記念館という場所がありますので、皆さんよろしければ足を運んでみてください。
一戸信哉
要するにアメリカはきっと民間戦だということが分かっていたんじゃないかと思うんだけど、
そこは曖昧に今されているところですよね。
岸田瑠々
でしょうね。
一戸信哉
今もやっている話じゃないですか、民間人がいるところに爆撃してはいけないというのと同じように、
岸田瑠々
民間戦なのに攻撃してはいけないはずなんだけど、今やってたわけですよね。
そうとは思わなかったといえば。
一戸信哉
そういうことなのか、これで学童疎開がどれくらい進んだのか進まなかったのかはよく分からないですけど、
やっぱり難しかったわけですよね。
結局、もっとちゃんと疎開できていれば沖縄戦における子どもたちの犠牲ももっと防げたのかもしれないし、
どうだったんだろうね。ちょっとそこまでは今回は終えなかったんですけどね。
岸田瑠々
そうですね。
一戸信哉
まあでもまあそれはそれで今度疎開したら、疎開してた子どもが戻ってきたらもう家族みんな誰もいなくなったみたいなことももちろんあったんでしょうし、
いろんな悲劇がどちらにしてもあったわけですよね。この土間丸事件もそうだし、学童疎開についてもね、いろんなことがあった。
一戸信哉
あとあれですよね、戦争関係は今の津島丸、戦争マラリアの他にも、他のメンバー石垣島事件も調べていて、
岸田瑠々
戦争や基地変換、核といった話題がどうしても多いですし、沖縄がテーマになるとそれらが避けがたいところはあるのですが、
それ以外の話題でいくと、移民の話やメディアの話、新潟とのつながりについても少しやりましたね。
まず、移民については一戸先生、概要をお話しお願いいたします。
一戸信哉
移民もいろいろ、要するに日本人がいろんなところに移民していったという話が出てくるわけですよね。
昔、南米に移民した人とか、ハワイに移民した話とか、新発田の人がハワイに移民した話とかも聞きますけど、
そのボリュームでいうと、移民していた人たちの多くは、実は沖縄から行っているということがちょっと調べるとわかるんですよね。
そうすると、沖縄からどういう人が、なぜ行ったのかみたいなのがいろいろ出てくるんですけど、
そうすると、行った先がハワイとか、戦前に日本が支配していた南洋軍島という島とか、ここも後に戦争で攻撃されて悲惨なことになっていくんですけど、
一戸信哉
南洋軍島とかはそうですし、戦後は南米に渡った人たちもたくさんいるし、いろんなところに行ってますよね。
あと調べたら、東山急増という人がいて、その人が最初ハワイに移民するところだったかな。
それをみんなをハワイに行きましょうキャンペーンみたいなのをやって、やった人として、偉人として沖縄では知られている人ですよね。
そういう人のことも出てきましたよね。
田村千尋
敬和キャンパスレポ。
岸田さんは横浜や大阪、満州の都市部に移住した人たちのことを書いていましたよね。
岸田瑠々
そうですね。じゃあまず横浜の方は、
神奈川県の横浜市の鶴見区、ここには現在も沖縄移民の2世3世の方が根付いているそうなんですが、
こちらへの移民は1897年頃に始まって、1900年代から1960年代にかけて多くの沖縄の方が鶴見区に移住したそうです。
というのも当時鶴見区の河川付近に工場がいっぱい立ち並んでいて、そこでの労働を求めてのことだったそうです。
沖縄県、大阪の方もそうなんですけど、お仕事があまりなかったのかなというようなイメージを受けました。
ソテツの危惧があったみたいなので、それの影響も大きかったんですかね。
一戸信哉
もちろん仕事を求めていったんでしょうね、みんなね。
岸田瑠々
ですね。
やっぱり文化の違いとかがあって内地の方々とあんまり交流がなかったり、やはり差別的なことも受けたりというのはあったみたいです。
この時は沖縄タウンと呼ばれていて、今でも現地の方々に親しまれているそうです。
もう一個、大阪市の大正区もだいたい同じような流れを沿っていて、
こちらの方は第一次世界大戦後の飢餓状態、ソテツ地獄、さっきもちょっと話出ましたね。
お腹減りすぎてもソテツしか食べることないみたいな、そういうことが沖縄であったんですけど。
その頃大阪が宝石産業で栄えていて、でかすぎる労働者として沖縄の方、そのまま大阪に渡って、
その後そこで暮らしちゃおうかなというふうに移住していったというのが、歴史になるみたいですね。
今はサンクス平尾と呼ばれる商店街があるらしくて、そこがリトル沖縄と呼ばれているそうです。
だいぶ寂れては来ているみたいですけど。
一戸信哉
まあ高齢化は進んでいる。
でもやっぱり昔、沖縄から出てきた人に対する差別みたいなのがあって、
それでみんなそこでまとまって暮らしていったというような背景もあった。
岸田瑠々
そうなりますね。やっぱり居づらさはあるので、そうすると団結していってリトル沖縄が生まれていくという流れはあるみたいです。
一戸信哉
たぶん横浜とか大阪以外にもいろんなところに、
沖縄の人たちが労働者として移住していったところってきっとあるんだと思うんですけどね。
今回は横浜と大阪が出てきたということです。