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2025-08-15 24:54

Vol.306 新潟・新発田・柏崎の戦争の歴史を紐解く:学生が見つめる「戦後80年」:敬和キャンパスレポ 20250815

8/15の敬和キャンパスレポは、一戸ゼミの映像制作で進行しているプロジェクトの中から、戦争と平和に関する映像制作に取り組んでいる髙橋由翔さん、押見天さん、永井真由さん、そして指導を担当されている国際文化学科一戸信哉教授と共にお話しました。

2025年8月15日は終戦記念日。2025年は太平洋戦争が終わって80年ということで、8月15日の終戦記念日もまた、特別な重みを持っています。

そこで今回の収録では、「私が取り組む『戦後80年』」をテーマに、『新発田西公園』『満州柏崎村』『鉄工丸事件』について、それぞれの歴史や取り組んでいるテーマ、またどのような作品に仕上げていきたいか教えていただきました。

MCは押見、永井。

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サマリー

敬和キャンパスレポでは、新発田市にある敬和学園大学の学生たちが太平洋戦争終結80年に関するテーマで特集を行っています。新発田西公園や満州柏崎村に関するプロジェクトを紹介し、戦後の記憶や鉄格丸事件についても深く掘り下げて、現代の人々にとっての戦争の位置づけを考えています。新潟・新発田・柏崎の戦争の歴史について、学生たちは「戦後80年」を見つめつつ、様々な視点からその背景や影響を探ります。特に、本間雄三さんのファミリーヒストリーを通じて、戦争と平和についての映像制作に取り組む仲間たちの姿が描かれています。

戦後80年の特集
永井真由
敬和キャンパスレポ、この番組は、新発田市富塚にある敬和学園大学の大学生が、大学に関わるイベントや人、新発田のことなどをテーマにお届けします。
敬和キャンパスレポは、実践するリベラルアーツ、敬和学園大学の提供でお送りします。
みなさん、こんばんは。この番組は、敬和学園大学から大学のことや新発田、新潟のことを伝える30分番組です。
今日の進行は、国際文化学科2年の永井真由と、国際文化学科3年の押見天さんが来る予定だったのですが、後から来ていただくので、最初の方、永井がやっていきます。よろしくお願いします。
今日は、2025年8月15日の終戦記念日に合わせた収録ということなのですが、新潟ではお盆休みの期間でもあります。
さて、今日の企画なのですが、2025年は太平洋戦争が終わって80年ということで、8月15日の終戦記念日もまた特別な重みを持っています。
戦争の記憶が遠のく中、各地の新聞社、放送局も、わずかな痕跡を探して特集番組を放送しています。
敬和学園大学の中でも、特に私たち一戸ゼミのメンバーは、太平洋戦争やその時期の歴史に関するテーマを扱っています。
今年も、戦後80年に関して、いくつかのプロジェクトが進行中です。
今日はその中から、新発田市の新発田西公園を取材している国際文化学科、高橋由翔さん、満州柏崎村について取材している押見さん、鉄格丸事件について取材している私永井、この3人で集まって、私が取り組む戦後80年というテーマでお話しすることにしました。
指導を担当している番組ご意見番、国際文化学科、一戸信哉先生にもおいでいただきました。どうぞよろしくお願いします。
高橋由翔
よろしくお願いします。
永井真由
さて、戦後80年の話、報道でも多く取り扱われているとのことでしたが、戦後80年ということが持つ意味について、一戸先生はどのように感じていますか。
一戸信哉
持つ意味を私が解説するのはちょっと荷が重いんですけど、今年度に入ってから結構新聞社、それから放送局、いろんなところから問い合わせが来るようになって、今年、戦後80年でいろんな取材が動いているんだなということは分かりました。
調べてみると、やっぱり戦後70年というのが2015年。この時もいろいろ調べてみるとたくさん記事が出ているんですが、それから10年経ってもう1回というか、またさらに同じような形で取材が動いているという感じを受けています。
私たちのゼミではこれまでもいろんなところを取材して作品を作ってきて、それが残っているので、戦後80年記憶がだんだん薄れてくる、あるいは当時のことを知る方でご存命の方がまた10年経って減っているという中で、若者たちはどのように関心を持っているのかみたいな。
そういうところが、やっぱり放送局、新聞社、それぞれ関心を持ってくださるようで、ご連絡をいただいているというところですね。
私が大学生だった時のことを考えると、80年前は日露戦争の時期なんですよね。そう考えると、私が大学生の時の日露戦争は確かに教科書であった出来事であって、私の先祖の人が日露戦争に行ってどうでという話は聞いた記憶があるけど、あまりリアリティがなかった。
そう考えると、今一緒にやっている皆さんにとっても、多分1945年の出来事っていうのは、私にとっての日露戦争ぐらいの距離感なのか。
考えると、やっぱりなかなかリアリティを持って感じるのは難しいのかなっていうふうなことを感じています。そして、生きているご存命の方もですね、10年経ってかなり減っていますので、皆さんも過去のいろんな報道とかを見ながら、
どなたにお話聞けるかなって話していくと、計算して指折り数えてみると、どうだろう、ご連絡取ってお話聞けるかなみたいなことが増えていますよね。という中で、今の今年の2025年を私たちは迎えている。
永井真由
さて、では皆さんが取り組んでいるテーマについて話していきましょう。まず新発田のテーマである新発田西公園。こちらは高橋さんが取り組んでいらっしゃいますね。
こちらは公園がテーマということなのですが、どんなテーマなのでしょうか。
高橋由翔
公園がテーマなんですけれども、公園の中に慰霊塔というのがいくつか建っているので、それを取り上げてみようというのが私のテーマになっています。
一戸信哉
この公園は新発田の自衛隊の駐屯地の近くにあります。
自衛隊があるということはもともと陸軍があったところですよね。そこの近くに公園があって、そこに慰霊塔が建っているということなんですが。
高橋由翔
慰霊塔はいくつかあるんですけれども、順番に紹介していきますと、まず最初がえ。越佐招魂碑
永井真由
越佐招魂碑。
高橋由翔
越後の越に佐渡の佐で越佐と呼びますが、これが日清戦争に行った人を祀っているとなっています。
新発田16連隊という陸軍が新発田にあって日清戦争に出ていくわけですけれども、越後、新潟の人も入っていますし、佐渡からも人が集められて戦争に出ていくわけなので、
16連隊の新潟と佐渡と全員含めて越佐というふうに名前がついているということですね。
一戸信哉
高田にもありますけれども、その関係は私もまだ調べていませんが、高田代わり新発田代わりなので、少なくとも新潟県の北側の人たちは佐渡を含めて新発田から行ったということです。
永井真由
なるほど。
高橋由翔
他にもいろいろありまして、日露戦没中令島。これ日露戦争ですね。
シベリア出兵戦没者残骨灰埋葬地。骨と灰ですね。シベリア出兵の時の埋葬地。
合同中令島というのもありまして、これは満州事変から野門藩事件、品事変と。
一戸信哉
日中戦争ですね。
高橋由翔
次、太平洋戦争に行きまして、ガダルカナル島戦記念碑とビルマ戦異例平和島という2つが立っている。
一戸信哉
ビルマの異例島というのはすごく特徴的で、永井さんビルマ行ったことありますか?ビルマって今の山なんですけど。
永井真由
いや、初めて聞きました。
一戸信哉
仏教の国で何て言うんだろうな、ストゥーパー、なんかその大きい仏塔みたいなのが立っているんだけど、それのちょっとミニチュア版みたいな塔が立っていて、すごい特徴的。
なんでここにそんなビルマ風のものが立っているんだろうっていうような感じなんですが、それはビルマの戦前で亡くなった人たちのことを弔っているということなんですね。
いずれにせよ新発田は明治以降の陸軍の歴史の中で多分重要な位置を占めたんじゃないかなっていうぐらいですね。
大変そうなところ、ビルマもそうですし、ガダルカナルとか、歴史上いろいろ年表に出てくるいろんな戦いの一番大変そうなところに全部新発田の人たち行ってたんだなっていう。
このテーマは卒業生の神田さんって前MCで、彼女が一回やったことがあったんですが、もう一回戦後80年でやってみようということで高橋君が頑張っています。
これは今のビルマのやり取りですけど、やっぱり記憶が薄れていくだけではなくてですね、実は遺族の組織とか、そういうのもだんだん高齢化が進んできて、そこに立っている公園とかそこに立っている塔をどうやって維持管理するのかっていう問題が日に日にリアルな問題になってきているんですけど、
ここはどこかって話はもちろん扱うんだけど、
永井真由
今後の維持とかも含めて。
高橋由翔
そうですね、そこまで踏み込めるといいなというふうには思っています。
鉄格丸事件と満州柏崎村
一戸信哉
多分なかなか関係者にもあまり答えがない状態ではないかなと思いますね。
永井真由
お届けした曲は広田美恵子、人形の家でした。
押見天
今日の敬和キャンパスレポは、私が取り組む戦後80年というテーマで、一戸ゼミの映像制作で進行しているプロジェクトの中から、戦争と平和に関する映像制作に取り組んでいるメンバーでお話ししています。
はい、遅れて入ってきて申し訳ございません。
敬和キャンパスレポ
はい、ということでご飯も進めていきましょう。
続いては鉄格丸事件。
こちらは新潟市内での事件だということですが、永井さんが取り組まれていますね。
どんな事件なのでしょうか。
はい、鉄格丸事件とは、新潟市内で起きた食らい事件の一つです。
永井真由
はい、鉄格丸事件とは、新潟市内で起きた食らい事件の一つです。
機雷は多数沈められていて、昭和40年代にも事故が起きていたりします。
押見天
なるほど。
一戸信哉
機雷っていうのは何なんですかね。
永井真由
機雷っていうのは、飛行機から落とされているけど、空襲とはちょっと違って、水の中にあって、
船がぶつかると爆発するみたいなものですね。
一戸信哉
地雷のような、水中にある地雷のような。
そうですね。
永井真由
なるほど。
一戸信哉
今昭和40年代っておっしゃったんですけども、つまりは戦争が終わった後もずっと機雷がそこに沈んでいた。
そうですね。
永井真由
今もあると言われて、
一戸信哉
今もある。
永井真由
未処理のまま海底の方に沈んでいるって言われていますね。
一戸信哉
なるほどね。
さっきおっしゃってたのは山の下だと思いますけど、多分東区の方に行って、また新潟島の方に戻ってきてっていうのを、今でいう高校生が勤労動員で行ってたんですね。
永井真由
そうですね。
一戸信哉
行って帰ってくる途中でその船が、
永井真由
ちょうどぶつかってしまって。
一戸信哉
沢山犠牲が出るということですよね。
永井真由
そうですね。
一戸信哉
新潟工業高校って毎年ワークショップがあって、一緒に高校生向けに全然違うスマホの問題とかもやりに行くんですけど、
永井真由
今年も行きますもんね。
一戸信哉
そこに行くと確かに立っているんですよね。
慰霊碑がぽつっと小さく立っていて、それがあることは分かっているのってことですね。
永井真由
そうですね。
一戸信哉
でも新潟工業高校でもそんなに、
高橋由翔
工業高校の生徒が出るかどうか。
一戸信哉
多分知られていない。
どうなんでしょうね、どれが知られていないか。
永井真由
その辺もちょっと聞いてみたいですね。
続いて、押見さんの作品ですが、
こちらは満州柏崎村と中国残留小児とのことです。
こちらも以前に先輩たちが満州柏崎村というのを制作していて、続編ということですね。
どのような取材をされているのでしょうか。
押見天
以前、先輩が取り組まれていた映像制作のうちの一つなんですけど、
今回は違う方にインタビューさせていただいて、私なりの映像制作ができたらなとは思っております。
今回は残留小児ですね。
一戸信哉
元残留小児というか、残留小児の方ですね。
押見天
そうですね。
今もなお問題が続いていると言われると、ちょっと解釈が違ってくるかもしれないんですけれども、
第二次世界大戦後の混乱期の中で、中国で日本が国を挙げてといいますか、
満州に開拓村を作っていたことは、たぶん皆さん歴史の教科書とかで習ったと思うんですけど、
その中で中国に取り残された日本人小児のことを指しています。
終戦直後の旧満州、今でいう黒竜江省あたりですよね。
ちょっと簡単に言うと、ロシア側っていうんですかね。
そこままで言ったら、ロシアに近いところ。
中国のロシアに近いところのあたりで、満州があったんですよ。
そこから暮らしていた人たちが、両親と離れ離れになってしまったり、両親をなくしたりして、
中国人に育てられた子どもたちのことを指しています。
高橋由翔
満州で生まれて、満州で育ってたけど、中戦で日本が満州を手放して、
子どもたちは中国に残っていて、現地の中国人に育てられているのが残留小児だと。
一戸信哉
これね、満蒙開拓が何で始まったかとかまでいくと、もうずっと遡っちゃうんですけど、
とりあえず戦争が終わった段階で、急に放り出されるんですよ。
満州にいた日本人の人たちは。
その人たちが何とかいろんな苦労しながら日本に帰ってくることを引き上げって言うんですけど、
引き上げって、帰ってくるだけみたいな感じがしますけど、そうではない。
ものすごい壮絶な逃避行があるんですね。
どこから?
北側からソ連が攻め込んできて、
それから、なんで日本人がそこに住んでいったかっていろんな経緯があるんですけど、
戦争の歴史の探求
一戸信哉
要は勝手に乗り込んでいったみたいなことなので、中国の人たちからも恨みをかっているし、
そういう周りにみんな敵視される状態で逃げて帰ってくるわけですよね。
永井真由
男性たちはもう兵隊にとられていないのです。
一戸信哉
女性と子供と同じだけで逃げてくるというので、
とてもじゃないけど、この広大な中国の地域を歩いて渡って逃げてくるってのはできない。
最後限界状態になって子供と一緒に死ぬか、みんな何とか生きていく道を探るかっていうところで今言っていた、
中国のこの人だったらっていう人にうちの子供をお願いしますと、
押見天
っていう風になっていったというのが残留孤児です。
一戸信哉
でもその後日本と中国は交互がないから、ずっと離れ離れになっていて、
後々ずっと大きくなって完全に中国の人のようになってしまっている日本人の人が、
実はっていうことがわかる。
それはもう歴史の1ページなんですけど、
その後帰ってきた残留孤児の方が帰ってくるまでどういうことがあって、帰ってきてからどういうことがあって、
押見天
もう長い、長いですよね。
長いですね。
押見天
長いファミリーヒストリーですね。
私が今回取材させていただいたのが本間雄三さんという方なんですけれども、
本間さんはもうその今一戸先生がご説明していただいた通り、
中国人の方に預けられて、もう本当に中国で育った方なんですけど、
引いているうちは日本人ということで、その戦後残留小児の調査、本日調査っていうので、
日本にいる本当のお母さんが本間雄三さんのことを探していて、
永井真由
いろんな人を伝って伝って伝って、ようやく居場所がわかったんですけど、
ようやく居場所がわかって、雄三さんも本当に自分は日本人の子なんだっていうのをそこでやっと認識するんです。
押見天
で、じゃあ日本に帰国しようってなってからの、そこからのお話なんですよ。
だから本当に本巻ヒストリーで。
作品制作を進めていく上で、皆さんそれぞれに苦労している点また、
どのような作品に仕上げていきたいかをちょっとお話ししていきましょう。
永井真由
まず、鉄格丸事件っていうのを、これを映像制作するぞとかいう話が出るまで、
私はちょっと耳にしたことがなくて。
住んでる、私が住んでる場所が新潟市の西区の方なので、
新潟工業からそんな遠くもないんですけど、その慰霊碑の存在自体も知らなくたので、
まずそれ、この事件がどういうものなのかっていうのを調べていくのが、
調べていって、しかもその、
機雷とか植雷とか、初めて聞く単語がすごい多くて、
今まで歴史を勉強してたところとは全然違うし、地元の話でなるとやっぱ、
すごいさらに今も知ってる高校の名前とかも出てきたりとかして、
自分が知らないことを知って、もっと地元に興味を持たなきゃなってところも思いましたね。
押見さん何かありますか。
押見天
私も永井さんとちょっと似てるところはあるんですけど、
私も地元が柏崎なので、今回柏崎の話なんですけど、
知らないことがいっぱいっていうのは本当にそうで、
あとやっぱり、第二次世界大戦と大きくとっても、残留孤児っていう問題で、
もっと前から歴史的背景がつながっていて起こったことなので、
永井真由
本当にまず、中国と日本の歴史を知らなきゃいけない。
押見天
っていうところから私もお勉強し直しだなというふうに思っていて、
あと取材していく中で、どうこれを映像制作としてまとめていこうかってなった時に、
私の視点で見ていくストーリーが作れたらなって思っているので、
ある意味、ちょっとした戦争のお話ではあるけれども、
映像制作の試み
押見天
本間雄三さんっていう人の人生を私の視点から見たものにできたらなっていう、
何て言うんですか、そういうの、なんとかヒストリー。
ファミリーヒストリーっていうものに、ちょっと戦争の要素を加え、
こういう事実があったよっていうのを映像として残せたらいいなというふうには思っています。
永井真由
なるほど。高橋さんなんかありますか。
高橋由翔
苦労している点でいくと、慰霊塔がいくつか立っているわけですけど、
日清戦争から始まり太平洋戦争の、それぞれ戦争に行った人たちを祀っている塔がいくつかあって、
かなり範囲広いんですよ。範囲広いので、それぞれの戦争で、
まずそもそもの戦争はどういうものだったのかっていうのを、
映像の中で一回整理してまとめていく必要があるので、
一戸信哉
そこはちょっと大変かなというふうに思っています。
今日3つ話したんですが、大分いろいろ私も話しましたけど、
多分みんなそれぞれに、他のメンバーがやっていることを必ずしも100%理解できなかったと思うし、
自分でやり始めるまでやっぱり知らなかったこともいっぱいあると思うし、
これが私から見て、今の皆さんの世代にとっての戦争、
太平洋戦争のリアルなところなんだろうなというふうには思っているわけなんですが、
そういうふうに感じている、あんまり知らない話がいっぱいあるなと思ったところを出発点に、
分からないところを勉強しながら、作品制作の中で自分目線で、
今戦後80年のこの年に大学生として生きる自分がどう感じたかっていうのを作品にするというのが、
皆さんそれぞれ頑張ったらいいんじゃないかなと思います。
あまり客観的にやろうとしても多分追いつかない。
そこまで勉強したほうがいいと思うけど、そこは100%ではないけど、
自分が感じたところはこうだっていうところがうまく作品として、
ある種の客観性は持ちつつも、そこは頑張るんだけど、
足りないところは自分目線で語るところを大事にして作品にしていくのが、
押見天
多分人の心を打つものになるんではないかと思います。
今日の敬和キャンパスレポは、私が取り組む戦後80年というテーマで、
一戸ゼミの映像制作で進行しているプロジェクトの中から、
戦争と平和に関する映像制作に取り組んでいるメンバーでお話ししました。
一戸信哉
ありがとうございました。
永井真由
では今日の放送はこの辺で、
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今日の敬和キャンパスレポ終了の時間です。
みなさんおやすみなさい。
敬和キャンパスレポは、実践するリベラルアーツ、
敬和学園大学の提供でお送りしました。
24:54

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