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競和キャンパスレポ
この番組は、柴田市富塚にある競和学園大学の大学生が、
大学に関わるイベントや人、柴田のことなどをテーマにお届けします。
競和キャンパスレポは、競和学園大学の提供でお送りします。
みなさん、こんばんは。
この番組は、競和学園大学から大学のことや柴田、新潟のことを伝える
30分番組です。
今日の進行は、英語文化コミュニケーション学科4年の佐藤香波です。
どうぞよろしくお願いいたします。
私、佐藤は、しばらく番組から離れて、実家のある小出に戻って活動しながら、
遠隔授業に参加していました。リモート収録もできなくはなかったのですが、
環境が整わず、今日は久しぶりに大学での収録に参加しています。
さて、今日は学生の作った映像作品のお話です。
昨年度、一ノ辺住が制作した映像の中から、
占教師パームと新潟という作品についてご紹介したいと思います。
実は、私もナレーションで参加させていただきました。
というわけで、今日は作成指導もされたということで、
国際文化学科一ノ辺先生にも加わっていただきたいと思います。
よろしくお願いします。
それから、作品制作に関わったメンバーから、
国際文化学科4年の伊藤尊和さんにも来ていただきました。
よろしくお願いします。
では、私の方でこの作品についての概要を説明します。
慶應学園大学の体育館の名前となっているパーム。
その由来を調べていた学生たちは、明治初期の新潟で活躍した占教師の名前であることを知る。
スコットランド人パームの占教活動はどんな結末を迎えたのか。
新潟県、さらには東北地方へのキリスト教の広がり。
キリスト教学校の広がりの源流を、新潟開校150年に合わせてたどった作品。
2019年度の新潟県自作映像視聴画教材コンクール奨励賞。
一ノ辺先生、何か補足はありますか。
はい、素晴らしい説明でしたね。
噛まないように頑張りました。
これは開校150年というのですね。2019年が開校150年かな。
とにかく今そのタイミングで新潟が開校して、それからの明治、大正、昭和、平成と歩んできた
これまでの新潟の歴史を振り返るというタイミングで、何か作品を作ってみようということの中で
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パームにたどり着いたという側面もあるんですけどね。
でもパームはどうでした?知ってました?
正直知らなかったです。
パームは学校の校舎の名前というか体育館の名前がね、体育館と呼ばずにパーム館という名前になっているわけですけど
なんでっていうところが
学校まで知らないと思います。パームといえば体育館。
そうですよね。折々に説明はあるんですけどね。多分学生の多くがあまりに意識してないんだけど
そこにどういう歴史があったのかっていうのをたどっていって、それは新潟の歴史を学ぶことでもあるし
大学の歴史というか大学の源流みたいなものもたぐることができるし
これは面白いテーマじゃないかということでみんなで取り組んでみたというものです。
相馬さんはパームやパーム館についての予備知識ってあったんですか?
いやもう全くなくてですね。そもそも体育館の名前がパーム館っていうのも知らなかったです。
みんなパーム館行こうみたいな話とか言わないし、体育館行こうって。
体育館という言葉で上書きされてるんですか?
こっち教室の方はNとかSとかって言ってて、そのNが何なのかもどうかな?そんなにでもないかもしれないけど
でもNとかニューエルとかね。でもそれもまた人物なんですけどね。NとかSとかっていうのもそこも色々意味があるんですが
特にパーム館はね、部屋が分かれてるわけじゃなくて体育館そのものですから
体育館というふうに言い換えられてしまったりして、あまり皆さん気づいてない。
作品の中では、学長室を訪ねて山田学長にお話を聞いています。
かなり長いインタビューになりましたが、どうでしたか?
いやー、もうなんかパームへの思いがすごい強かった。なんか情熱が溢れるような。
なんか私も圧倒されてしまって。
知らない。私たちの学習とか予備知識とかもない状態で行ってしまったので、本当に話が詰め込まれて。
結構細かい話。
細かい話を寄せていただいて。
専教師が明治の時期に日本に入ってきて、布教してっていう話は知ってるのかな?
そこは分かります。
大体のことは分かる。
細かくが難しい。
新潟に何で入ってきたのかとか、いつ入ってきたのかとか、そこら辺はあまり知らないですよね。
港を開くところもあまり知らなかったかな。
母親戦争があって、なかなか同じように横浜とか神戸と同じようには開港するのは難しい状況になっちゃって、少し遅れるんですよね。
という話とか。
それで、その後で専教師も遅れてやってくる。
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少しずつタイミングが遅れて、横浜とか神戸の後を追うように開港するんだけどもっていう話ですよね。
色々知らないことがあるって、自分が知らないんだなっていうことを、
そうですね、痛感しました。
勉強するというのも意味があって、それは作品にするのは大事ですね。
そういう形になるということが大事だけど、その前に自分自身が勉強するっていうのも大事なことで、とは思いますね。
こんな機会がなければファームのことを知らなかったわけだし、新潟の歴史についても知らなかったわけですよね。
そうですね。
皆さん二人とも4年生ですからね。
もうこの機会がなければそのまま、何も知らないまま卒業していったからね。
そういう意味では良かったでしょうね。
貴重な機会だった。
貴重な機会でした。
貴重な機会でしたね、本当に。
なるほど。
ではここで1曲お届けします。
1985年の曲、杉山清高&オメガトライブ、ガラスのパーム・トリー。
こちらは杉山清高&オメガトライブの7枚目のシングルだそうです。
学生世代には解説不可能ですが、いつの日先生、何か解説可能ですか。
1985年という時期は、
こういう音楽がずっとテレビでかなりベスト10みたいな番組で、
ヒット曲がすごい流れていた時期で、
多分杉山清高&オメガトライブっていうのもこの時期、
そういう番組にいつも出ているような。
結構メジャー。
メジャーなグループで、
で、実はこの曲はあまり記憶にないんですけど、
でも流行ったんでしょう、多分7枚目のシングルとかっていうので、
多分人気がある曲だと思います。
これあれですよね、CMの歌だったっていうんですよね。
CM?何のCM?
大道ドリンクをジョニアンコーヒーっていう。
ない?今あるかどうかわかんないんですけど、
もうコーヒーのCMで、これちょっと来る前に見てみましたけど、
杉山清高さんが出てきて、
なんかちょっとアメリカなんかこう旅してて、
車が何かあれですね、故障して、
どっか何か車が止まっちゃって、
それでレッカーで運ばれていくみたいな。
運ばれていく時でも、
コーヒーを飲んでリラックスしているみたいな、
そういう何でしょうね、
アメリカを旅する日本人の若者、
そういうイメージで、
そういうCMでした。
コーヒーのCMなの?
コーヒーのCM。
アメリカに売ってないと思うんですけどね、
ジョニアンコーヒーが。
売ってないと思うんですけど、
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ジョニアンコーヒーを飲みながら済ましているみたいなね。
そういうイメージだったりする杉山清高さんって、
サングラスかけてちょっとこう、
なんていうか、
格好つけてるんだけど、
ちょっと3倍目的な要素もあるみたいな、
そういう人だったんですけど、
でもいずれにせよ人気の、
人気あった方です。
人気あった方です。
今も歌っていると思いますけど。
はい。
ちょっと調べてみたいですね。
それでは聞いてみましょう。
杉山清高&オメガトライブ
ガラスのパーム・トリー
K-1キャンパスレポ
今日は、昨年度、
私佐藤も一緒に制作に参加した映像作品、
選挙誌パームと新潟についてお話しています。
ネタバレにならない程度に、
少し中身についてお話ししたいのですが、
このパームという人は、
医師で選挙誌、
という二足のわらじということでしたが、
エディンバラ医療選挙会から派遣されたという話でしたよね。
そうですね。
スコットランドでしたっけ、
からの、
なんていうかね、
こういう、
団体が、
団体から派遣されました。
大学でしたっけね、
エディンバラ大学、
ちょっと大学の名前忘れちゃったけど、
スコットランドの大学で、
医学を勉強している、
優秀な人が、
信仰心を持って、
選挙活動をする。
医療行為ができる人が、
選挙活動をするという仕組みに、
もともとなっている。
そのセットで、
活動するというのは、
パームさん自身が考えたことではなくて、
たぶん、
もともとそういう考え方ですね。
その考え方、選ばれた人が、
そういう二足のわらじで活動していく、
という形の。
そうでしょうね。
最初から新潟に来ることになっていたのではなかったはずですよね。
確か日本に来て、
横浜まで来てからじゃなかった?
横浜に来てから、
横浜にたどり着いたパームさんが、
じゃあどこに行くかみたいな話で、
新たに開校した新潟というところに行ってはどうか、
というふうな話で、
仏教も、
強いし、
非常に、
たぶん、
あまり歓迎されないんじゃないかと言われたいけども、
そこに、
飛び込んだ。
スコットランド魂ですね。
山田学長の説明では、
それはスコットランド魂です。
厳しいところに飛び込んでいくんです。
そんな話でしたよね。
本当に実際のところも、
新潟って仏教ってすごい強いね。
それはあまり認識なかったけど、
私もわかったんですよ。
新潟の街の真ん中にはお寺がガーッと並んでるわけで、
そうなのかな。
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今思えば、
宣教が大変だったって話です。
そうですよね。
この人、日本語はどうだった?
日本語喋れた?
どっかで学んでた。
学んではいたでしょうね。
たぶん日本に来てから、
横浜で日本語を勉強したりしてたと思うんだけど、
たぶん一人では、
日本語の勉強とかね、
そういうのが難しいので、
たぶん当時、
横浜の新学校で学んでいた人たちが、
助手みたいな感じで、
一緒に来るという話で、
いろんな人の名前が出てきましたよね。
そうですよね。
何だっけ。
天の森。
天の森信茂とか、
押川正吉とか。
これはたぶんキリスト教の明治時代の中で、
その歴史とかを見ていくと、
よく出てくるような人なんだと思うんだけど、
この人たちが、
パームさんと一緒に新潟に来て、
医療活動をやっていく。
医療活動をやるのは、
パームさんか。
はい。
宣教活動を夜にして、
二足のわらじで、
パームさんやってて、
通訳みたいな、翻訳。
翻訳みたいな。
翻訳みたいな。
翻訳みたいな。
人の助けとか支援のために、
その二方がいらっしゃって、
でも結局、
パームさんは医療活動に専念できたし、
その方たちが、
その宣教活動を一生懸命やってくださってたから。
なるほど。
だからあれですね、
たぶん最初はパームさんがやってたけど、
昼も夜も大変だから、
だんだん要領がわかったら、
日本人の我らが代わりになって、
教活動をしたんだよね。
そうですよね。
仏教が強かったってことですね。
大変だったんですよね。
でもその中で、
最先端医療に関心を持つ人が多くて、
やっぱり病気が治るって、
感動して、
そこからっていう。
神様の奇跡だみたいな感じで、
キリスト教に興味を持ってきたが、
その後、
その後、
その後、
その後、
その後、
そういう感じで、
キリスト教に興味を持ってきたが、
いっぱい増えていきたいみたいな。
それは山田学長の説明で、
実際にそうだったかは分からないけど、
分からない。
でもたぶんそこがセットなんですよね。
医療行為を行って、
先端医療で病気が治ったと。
それで感動して、
この人たちは、
実はキリスト教の人たちでと。
というので、
その人たちの話も聞いてみようかと。
どっちも最先端なんじゃないか、
ということでしょうかね。
そのへんの感覚はね、
今の時代の人には、
ちょっとなかなか分からないけど、
どちらも未知のものだけど、
その西洋のものが私を救ってくれたのかもしれない、
というふうになっていって、
たぶん、
そういう人たちはクリスチャンになって、
洗礼を受けたりしたんじゃないですか。
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やっぱりそこで、
仏教界の警戒感がすごい強くなった。
ああ、そうか、そうか、そうか、
はい、そうですね。
それで、
雨宣信さんが襲撃受けて、
横浜に戻ってしまって、
という話も。
ああ、そうか、そうか、
だから、
やっぱり仏教界は、
そういう、
なんていうか、
自分の段階が回収させられるみたいな、
ところに警戒感を持ったのかもしれないですね。
それで、
仏教界の人がやったかどうか分からないけど、
雨宣信さんは、
暴漢に襲われた。
誘拐されたんです。
とにかく危ない目にあったんですね。
でも、もうここにはいられないと。
言って帰っちゃった。
そういう話でしたね。
なるほどね。
厳しい世界ですね。
厳しい世界。
まあまあ、そうでしょうね。
そうだね。
宗教界の戦いっていう感じだったね。
先ほど、医療の話もあったんですが、
医療は新潟にほとんど行って、
ほとんど伝わっていない。
西洋の最先端ということで、
蘭閣で医療を学んでいた石間でもが、
県内各地から学びに来たという話が、
学長からあったという記憶があるんですけど、
選挙の方の転換については、
どうだったんですかね。
たぶん、あれですよね。
つまり、鎖国していた時代は、
医学と言っても、
蘭閣って言って、
オランダ語を学んで、
オランダの最先端の、
技術や知識を学ぶ、
という感じになっていて、
そことセットで、
みんな、
お医者さんというのは、
西洋医学を勉強していたんだと思うんだけど、
たぶん、チャンネルがオランダしかないから、
いろいろ限られていたんじゃないですか。
そこに、
神原医療選挙会の人が入ってきて、
いきなり新潟に、
ものすごい最先端のものを持ってきたから、
みんなそれで、
お医者さんもそこで勉強しました。
県内各地からすごいですよね。
いろんなところから。
教会はたぶん、
いろんなところに作ったって話じゃないですか。
ですよね。
体育館の写真は、
中城の教会から提供されたっていうふうな、
話だったので、
たぶん、中城とか、
柴田のかな、
いろんな各地に、
ファームさんとその弟子たちが、
いろんなところに教会を作っていって、
それが新潟県内の教会の、
基礎を作ったみたいな。
なんかそんな話ですよね。
そうですか。
確かファームの右腕となった人たちは、
新潟を去るんですけれど、
その後、東北などで、
キリスト教学校を作っていく話もある。
さっき出てきた、
押川正義さんだっけ。
横浜から来た人か。
そうですね。
その人が、
もう一人、
吉田亀太郎っていう人と、
2人でセットで、
ファームさんを助けてたんだけど、
火事があったんですね。
火事があって、ファーム病院が、
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亡くなってしまって、
またそれは再建されるけど、
火事になったタイミングで、
ちょっと細かいことはよく分からないよね。
細かいことはよく分からないけど、
彼らは東北に、
新たな宣教の地を求めていって、
後にこの人たちが、
今の仙台の学校、
東北学院と、
宮城学院とかっていう学校を、
作っていくという。
確かあれですよね、
東北学院とか宮城学院のホームページを見ると、
結構大きく出てるんだよね。
松吉が東北に行って、
学校ができていったみたいなね、
見学の話がいろいろ出てきて、
東北学院の人たちは、
ファームとか言ったら分かるんですかね。
分かるんですかね。
ファームはあんまり関係ないのかな。
押川さんは分かるのかもしれない。
体幹の名前になっているかどうかは分からない。
火事で失われた新潟の病院を再建するんですが、
確か最後はスコットランドで亡くなって。
そうですよね。
何でしたっけ、
戻ってくるつもりだったんですかね。
戻ってくるつもりで行ったけど。
福山が病気になったから無事、
故郷の方に帰って、
もう一回戻ってくるつもりだったけども、
結局新潟には帰らずに、
故郷に亡くなった。
新潟の場合は、
学校ができたりとかっていうのも、
上手くいかなくて。
なかなか上手くいった。
その話です。
新潟はキリスト教の学校は挫折してできない。
東北はできたけど、
挫折してたんだけど、
挫折していたものが復活して、
戦後にできるのが、
慶和学園であるみたいな。
そういう話なんだけど、
みんな覚えてない。
パームと繋がるって話だよね。
この作品は新潟県自作映像、
視聴画教材コンクールで
奨励賞を受賞しました。
相馬さんどうでしたか。
いやー、
奨励賞とかそういう受賞するとは思わなかったですね。
結構、
学長の話していることを
もうちょっと分かりやすくできなかったというか、
そういうところも
うまくできなかったんで、
まさか奨励賞取れるとは思ってなかったですね。
その辺が奨励賞だったんじゃないですか。
優秀賞とか。
もうちょっと分かりやすく、
まとめられれば。
話はね、難しいですけどね。
そうですね。
神宮さんどうですか。
自分が知らないことを
こういう機会を通して知れることって
すごい自分の中で新鮮だし、
自分の学びの広がりにもなるし、
ナレーションで参加させていただくってことは
読むってことじゃないですか。
読む中で知識も増えてくる。
なるほど。
さっき言ってた、相馬さんもおっしゃってた
学長先生の言っていることが分からなかった。
けど、こうやって読んでいくうちに
多分分かっていくことが大事。
こうやって分かっていって
また次の作品につなげたり
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次の知識につなげていけるようなものを
ここで作れたんじゃないかなって。
なるほど。
私これ最初から
いろんなものに応募しようと思って
4人でずっと作ってたんだけど、
意識してたのは
多分あんまり
キリスト教の人しか
興味がない話にならないように
っていうのは一応意識していて
これからの歴史とか
新潟が明治を迎えて
それからいろいろ挫折もあり
今に至るまでの過程で
どういうふうに西洋文明と向き合ったのか
みたいな。
そういうところを主に
描きたいなと思っていて
山田学長は非常に詳しいので
どんどん教会の話に
なっていくんだけど
そこを受け止めつつ
もう少し一般の人にも
興味を持ってもらえるような
より一般的な関心に合うような
話にしていこうとしていて
多分それが
編集した相撲君には難しかった
さてエンディングですが
体育館の入り口に
ファームさんの写真が貼ってありましたが
どんな印象でしたか
仲良く写ってるんじゃないか
でも印象なかったわけですね
今までね
今回は山田学長に説明を受けながら
見たわけだけど
それまで全然印象がなかったわけで
静かにあそこにある
離れてるだけで
特に何も思ってなかったですけど
やっぱり知ってから見るのと
知らないで見るのって
全然違うなって印象があって
そうですね
また見たらね
いろんな印象を持つかもしれませんね
ぜひお聞きいただいている方にも
あの下に何かあるね
この作品を上映しておけば
上映しておけば
モニターでね
そういうことかみたいに
みんな見てくれるのか
スルーされるかどっちでしょう
見てくれる方もいらっしゃるんじゃないですか
そうですよね
今日のKはキャンパスレポ
これにて終了です
みなさんおやすみなさい