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2025-04-23 31:26

人生をダブルスタンダードで生きる


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1000冊以上の読書を経てヒーラーになった元霊感ゼロ人間です。「本質のスピリチュアルをわかりやすく」をメインテーマに、幸せのために役立つ情報をゆるく発信していきます。

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【プロフィール】

元ゲームオタク。
20代前半に新社会人として社会デビューするも、世の中の厳しさに圧倒されて人生を挫折。
その後、ゲームに費やしていた時間全てを読書に充て、
「なぜ自分の人生はこんなにも辛いのか?」
「どうしたら幸せに生きられるのか?」
といった人生の根本的疑問について本を読みながらひたすら考え続ける。
10年以上の読書の中で、自己啓発、成功哲学、心理学、科学、宗教、哲学などの分野を調べわたった末に、心から納得できる人生の答えをスピリチュアルに見出す。
現在ではシータヒーリングを学び、セッションを行いながら、幸福な人生の本質についての自らの知見をわかりやすく発信している。


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#スピリチュアル #奇跡講座 #心の平安 #幸せ #言葉 #分離 #仏教 #哲学 #ドラゴンボール
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サマリー

このエピソードでは、ダブルスタンダードの概念を通じて、物質的存在や自己認識に関する新しい視点が探究されます。哲学的な例としてテセウスの船やミリン太王の問いが取り上げられ、実体に対する理解が挑戦されています。また、人生をダブルスタンダードで生きることの重要性が語られ、社会における分離や名称の影響について深く考察されています。人間社会における幻想や認識の相互関係も探求され、さまざまな視点からの理解が求められています。ダブルスタンダードで生きることにより、矛盾を受け入れ、多様な視点から幸福を追求する重要性が議論されています。

ダブルスタンダードの理解
はい、こんにちは、カズです。 今日のタイトルは、人生はダブルスタンダードで生きる、というタイトルでやっていこうと思います。
ダブルスタンダードは、二重規範みたいなね、そういう意味ですね。 あるとも言えるし、ないとも言えるみたいな、正解だとも言えるし、間違いとも言えるし、みたいなね、なんかそういうような話をしていきたいなと思っています。
これの、なんかこういうことを理解して認識して、許容量としてね、自分の中で持っておくと、いろいろ生きやすくなるんじゃないかなと思うので、今日はこの辺の話をしてみたいなと思います。
えっとですね、僕ら、一般的に、日常的にはですね、普通の生き方っていう感じなんですけど、空間があって、物理宇宙があって、空間があって、物質があって、自分の肉体があって、その中でいろいろね、生活して、社会生活意図なんで、今日も仕事に行って、みたいなね、そういう感じの日常を過ごしてるじゃないですか。
で、その、まあそういう日常生活の前提とされている、そのものの見方っていうのは、物理宇宙なわけですよね。ニュートン的なパラダイムって言ってもいいと思うんですけど、だから物質があって、体があって、みたいなね、まあ当たり前の話ですよね、っていう、そういう当たり前の中で生活しているわけですけど、しかし実はよくよくものを見てみるとですね、
実はこういう見方っていうのは、事実とは違うよね、真実ではないよね、ってことが明らかになってきたりするわけなんですよ。
えっと、哲学の話でテセウスの船っていうね、そういう哲学的なパラドックスみたいなね、そういう問題があります。テセウスの船ですね。
えっと、どういう話かというと、小舟ですよね、ちっちゃな木で作られた船があるんですよ。でも長年すごい使い回してるんで、使ってるうちにボロが出てきて、まあ船底の材質が傷んじゃって、まあ船底に穴が開いちゃったりとかね、するわけなんですよ。
だから、そうなった場合、その穴が開いちゃったところの材質を別のところの木を持ってきて、まあ補修するってことをやるわけなんですね。
なんですけど、その船をすごい長い間使い続けたせいで、あっちも補修してこっちも補修してってやってたら、いつの間にかね、その元の船の材質全部がまるまる新しいものに入れ替わっちゃってたっていう事態になっちゃってたんですよ。
で、その場合、だから物質的な話で言えば、元々のその小舟と、今の全部補修補修の繰り返しですっかり入れ替わってしまったその船と全く別物なわけじゃないですか。
で、その物質的には全く違うものの船っていうのは、同じ船だよねって言えるのかどうかっていう、そういうちょっとパラドックスみたいな問題がテセウスの船っていう話です。
まあ、でもですね、実は僕らの体っていうのも同じことで、日々僕らの体、肉体はね細胞からできてますけど、その細胞も代謝で入れ替わってるわけじゃないですか。
だから1年前2年前の自分とは細胞レベル、そういう物質的なレベルで言えば、すっかりその素材としてはね、全く別物に入れ替わっちゃってるわけなんですよ。
だけども、僕らの実感としては、その例えば3年前の自分と今の自分と全く違う別物になってる感覚ってないと思うんですよ。
まあ自分は自分じゃないですか。なんだけど、その物質的な見方をしたら、もう全然全くそのシンクロ率ゼロというか、同じ部分は見出せないわけなんですね。
だからこういう意味で、私っていう存在もあるとも言えるしないとも言える。私の肉体っていうのもあるとも言えるしないとも言えるみたいな、そういう話になってくるんですよね。
ミリン太王の問い
あとですね、仏教の話の中でミリン太王の問いっていう、そういう話があります。これもすごい面白い話なんで、本当はもっと時間かけてね、紹介したいくらいのネタではあるんですけど、ここではなるべく簡単に済まそうと思います。
西洋哲学と東洋思想の激突の話でね、すごい面白いんですよ。ミリン太王っていうギリシャ系の西洋哲学を収めた頭の良い王様がいて、その人がインドの高僧、偉いお坊さんであるナーガセーナに会いに行くっていうね、そういう話なんですよ。
で、ミリン太王が、その頭の良い王様、西洋哲学を収めた頭の良い王様ミリン太王がナーガセーナに会いに行くんですよ。で、実際会うんですよね。ナーガセーナに会って、あなたがナーガセーナかって聞いたらナーガセーナはこう答えるんですよ。
確かに私はみんなからナーガセーナと呼ばれていますと。でも実はナーガセーナというその、なんだ実態というのはそこに、そこにはありませんみたいなわけのわからないことを言うんですよねナーガセーナは。
で、ミリン太王はおいおいちょっと待てと、あなたは今その私がナーガセーナだと呼ばれているものですよって言ったよなと。だけどそこに実態を見出せないというのは一体どういうことだって。じゃあ一体誰がご飯食べて寝て歩いて走ってをやってるって言うんだっていう。
一体誰が修行してるんだっていう。
例えば今ここであなたを、お前を殺してしまったら、殺してしまってもそれは殺人罪にはならないっていうのかとかね、いろいろミリン太王は言うわけなんですよ。
あなたは確かに私がナーガセーナと呼ばれているものですって言ったんだけど、その言った長方に、なんかそういうことを言うっていうことはそのナーガセーナっていうものがあって当たり前じゃないか。
じゃあそれはどこにあるんだ、お前のその体がナーガセーナだろみたいにミリン太王は言うんですよ。
そしたらナーガセーナは、いやこの肉体がナーガセーナではございませんと答える。
で、ミリン太王はあそうかと。
じゃあ体がそうじゃないって言うなら、その精神作用だなって言うんですよね。
認識作用、意識っていうもの、それがナーガセーナだっていうことなのかっていう風にナーガセーナにミリン太王は言うんですけど、ナーガセーナはまた、いやこの認識作用とか意識っていうものもナーガセーナじゃありませんと言うんですよね。
で、そこでミリン太王は頭を抱えて、いやいやちょっと待てと。
そんなこと言うなら、そのみんながナーガセーナって呼んでる、それっていうのはどこにも発見できないっていうことになっちゃうじゃないかと。
お前は嘘をついて私をからかってるのかって言うわけなんですよ。
そしたらナーガセーナの方は、ちょっと話題を変えるんですね。
ところで今日は暑いですねみたいに言い始めて、王様はこの暑い中歩いて私に会いに来たんですかっていう風に逆にミリン太王に質問するんですよ。
そうするとミリン太王は、いやいや私は馬車で来たと。
あ、そうか、王様は馬車で来られたんですね。
ではちょっとこっちから、こっちの方から今度は質問しますけど、馬車っていうのは何ですかと。
馬が馬車なんですかって聞くんですよね。
そしたらミリン太王は、いや馬は馬車じゃないだろうと言うんですね。
で、うん、ではタツナが馬車なのかと。
車輪が馬車なのかと。
じゃあムチが馬車なのか、いろいろ聞いてくるんですよ。
そしたら、いやちょっとどれも違うなっていう風にミリン太王はなってくると。
でナガセンナはそれを聞いてですね。
うん、そうであるならばもうどこにも馬車なんて見つけられないじゃないかと言うんですよ。
どこにも馬車っていうものが見つけられないのに、王様はここまで何で来たのかっていう問いに対して、私は馬車で来たって今言いましたよね。
なんか嘘をついて私をからかってるんですかっていう風にナガセンナは言うわけなんですよ。
っていうね、そのミリン太王の問いっていうのがあって、ここでミリン太王はすごいね納得するんですよ。
なるほどと、確かに。
まあつまり、その馬によって車輪によってタツナによってっていう、なんか個別の馬車っていうものはそこには見つけられない。
なんかそういうパーツパーツが集まって馬車っていう実体のないものが作り上げられていたんだな、そういう理解なんだなっていう風にミリン太王は理解して、ナガセンナは素晴らしいその通りですと。
あなたは馬車というものを正しく理解なさいましたね、みたいになるっていうね、そういうミリン太王の問いっていうね、ちょっと面白い話がありますね。
これもだからその実体は実は幻想だっていうことをなんかちょっとセンセーショナルな感じで示してくれてる話なんですけど、最終的にこれはね西洋哲学の王様のミリン太王は仏教に消えするっていうね、オチになるらしいんですけどね。
なかなか面白いですよね。
っていうことです。だからここでもそのなんだ、ナガセンナとか問題にされてる馬車とかっていうものの実体っていうのは、みんななんだろう、あるっていう前提でその名前を使ってたけど実はないよねってことが暴露されたっていう話だったんですよね。
っていうまぁちょっとテセウスの船とミリン太王の問いっていう2つを紹介しましたけど、こういうことなんですよ。あのこれね全部同じことなんですよね。
日常生活で、なんか僕らが当たり前に前提としてるあるっていうものの実体っていうのは全部これと同じことです。
人間もそうだしね、私とかあなたとか丸々太郎とかね、なんか何でもいいんですけど、そういう人間もそうだし、
全部そうですね、例えば自転車とかでもいいですね。
自転車もよくよく見るとそのパーツの組み合わせでできてるんですよね。
自転車、自動車でも何でもいいですけど、自動車だったらいろんなパーツを部門部門で部署ごとに作ってそれを組み合わせて自動車が完成するわけですけど、
じゃあそのハンドルが自動車なのかタイヤが自動車なのかとかね、自動車なるものをそこに見出そうとしても見つけられないんですよね。
名前の本質、言葉の本質って全部そういうことなんですよ。
以前言葉についてもちょっと掘り下げて配信をしたことがあるんですけど、その時にも紹介した言語学の父と呼ばれてるソシュールっていう哲学者、言語学者がいるんですけど、
この人が言葉っていうのは才のシステムであるっていうことを言ってて、本当に言葉というものの本質ってこれだなって思うんですよね。
言葉っていうのは分離のツールなんですよ。言葉は分離のツール、その意味っていうのは本来は途切れなくつながって一つであるこの世界、
この世界ワンネスですから途切れてないんですよ、本当はね。本当は途切れてないんだけど、それを本当は途切れてないこの世界をこの人間の側の勝手な都合で恣意的に区別する、切り分けて思考するための手段、ツール、それが言葉だみたいな意味なんですよね。
言葉と分離の幻想
実際に私とあなたっていう区別がなかったらなかなか社会生活もうまくいかないじゃないですか。私とあなたでも日本とアメリカでもなんでもいいんですけど、そういう区別がなかったら色々社会生活が成り立たないわけですよね。
日本とかアメリカとかっていうのも別に分かれてるわけじゃないじゃないですか、その実態は。日本ってみんな言われてイメージするのは日本列島って地図でイメージされるあれだと思いますけど、あれ別に真上から見たら島国みたいに切り離されて見えるけど、横から見たらただの山なわけじゃないですか。
地球っていうでっかい惑星に隆起してちょっとこう水面から浮いてるただの山なわけで、その山を元を辿っていったら別のアメリカ大陸っていうのと別に繋がってるわけですよ。だから別に日本とかアメリカとかも分かれてるわけじゃないんですよね、その事実を見たら。
なのに日本がアメリカがみたいな国産問題がどうのこうのみたいなので、ずっと喧嘩してるのが人間だと思うんですけど、そんな感じですね。
で、そうそう、ちょっともう一回ね、その言葉は文のツールっていうことをもう一回言いますけど、本来は途切れなく繋がって一つであるこの世界っていうものを人間側の勝手な都合で恣意的にこう切り分けて区切って区切るためのツール、それが言葉とか名称、名前っていうものなんですよっていうことです。
これまさにワンレスを区切ってるわけだから分離じゃないですか、だから言葉は分離のツールなんですよっていうことなんですね。
だから言っちゃえば言葉とか分離は幻想ってね、スピリチュアルで言うと思いますけど、だから幻想なんですよね、幻想っていうかなんだろうな、本当は切れてないんだけど仮に仮決めみたいなね、そうしましょうみたいな意味ですね。
その方が生活上都合がいいんでそうしましょうみたいなものが名前とか言葉のそもそもの本質なんだけど、いつの間にかその主従関係っていうか目的と手段が入れ替わっちゃってて、
名前の方に右往左往していろいろな不都合が出てるみたいなね、そういうことだと思うんですけど、ちょっと余計なこと言いましたけど、社会生活を営んでいく上ではこれ大事なわけなんですよ、名前で区別するっていうのは。
考えてもらったらイメージできると思うんですけど、実際ですね、非人間系のラメ氏とかマハル氏とかマハラ氏とかね、あの辺の非人間系の妥協ない聖者っていうのは、この区別分離をいやそんなのないみたいなスタンスで絶対に認めないみたいな人たちなんですよね。
そういう人たちと話をするとね、言っちゃったらもう話にならないわけなんですよ。私はないみたいなことになっちゃうんで、だから分離がある前提で話をしてないので、全然話が通じないというか感じになっちゃうんですね。
さっき言ったナーガセーナーもそうですよね。お前がナーガセーナーだなって言ったら、いやいや私は確かにナーガセーナーとか周りから言われてますけど、でもナーガセーナーっていう実態はないんですよとかわけのわからないことを言うわけなんですよ。
そうすると、確かに真実なんだけど、社会生活を営んでいく上では、すごいめんどくさいじゃないですかこれ。めんどくさいっていうか、なんだろうな。
仮に決めたみんなの合意の上で社会生活をっていう舞台と言ってもいいかな、人間ゲームを営んでるのが人間だと思うんですけど、そのルールを認めない人がいたらすごいちょっとめんどくさいじゃないですか、実際生活でね。
例えば、友達と2人でドラゴンボールの漫画を読んでますと。で、1人が、いやここのシーンの悟空本当にもうめっちゃかっこいいよねみたいな感じでテンション上がっていったときに、それを聞いたもう1人が、いやいや悟空とかそんないないよみたいな。
何にもいないよ、よく見ないよみたいな。白い紙の上に黒いインクが乗ってるだけだよみたいな。何にもないじゃないですか。ドラゴンボールっていうのもないよ、世界もないよみたいな。ちゃんとよく見ろよみたいに。
言い出したらすごい悩むじゃないですか。もうこいつと友達になるのやめようかなみたいな感じになるじゃないですか。そういう感じなんですよね、非人間系の妥協ない聖者との会話みたいなのはね。
なんだけど、実際どっちがこれ真実に近いかって言ったら悟空がいて、そういう世界があって、ドラゴンボールをめぐる物語があってみたいなのが真実なのか、それとも実際あるのは白い紙とその白い紙の上に乗った黒いインクだけ、それだけだっていう立場とどっちが正しいのかって言ったら、
うーんってなるじゃないですか。面白い。実体に近いのは確かに白い紙の上にインクが乗ってるだけのペラペラな物質ですねみたいな話になるじゃないですか。そういう感じなんですよね。
で、今回のタイトルは人生はダブルスタンダードで生きるということなので、僕がここまでで言いたいことは結局ですね、どっちも正解なんですよっていうか、どっちも認めて理解することが大事だと思いますよっていうことですね。
宇宙的思考と地球的思考
さっきのね、ドラゴンボールの漫画の話でその物語があって悟空がいて、セルとブをやっつけてみたいなのが実在とする立場と、うーん、いやいや、ただの紙でインクでっていうそっちの立場、どっちも理解した上で両方わかってるっていう立場、これがまあスピリチュアルで言うところの統合だし、
まあ次元が高いわけですよね。どっちかしかわかんない立場よりもね。で、今の現代っていう世の中はすごい思考変調の世の中、あの作能的な思考がもう蔓延して支配してしまっているんで、だからさっきのドラゴンボールの話で言えば物語の方に夢中になってるわけですよね。
あの分離が極まっている感じなんで、ワンネスっていうのが忘れ去られている時代なので、いやキャラクターがいて舞台があってこれがこうでこうでこうでみたいな、で、こんな問題があってこんな問題があってみたいな、そういうので忙しい、あの分離が進んでいる世の中なので、求められているものとしてはむしろワンネス的な世界観。
いやいや分離とかないよとか、よく見なよみたいな、そっちの勢力がちょっと求められているんじゃないかなということなんですよ。
だからそのバランスを描いているわけですね。
あの、まぁちょっとね冗談っぽく言った通り、そのワンネス的な見方、いや分離はないよっていう立場が強すぎても、だからめんどくさいじゃないですか。
社会生活が成り立たないし。
なんかねこれもなんか余計かもしれないですけど、あの非人間系の本を書いた著者のこじらせ話みたいなのが載ってて笑っちゃった話があるんですけど、あのなんか兄弟で話をしてて、なんかその弟が本の著者なんですけどね。
でまぁその昔の話をね回想的に思い返してたんですけど、そのお兄さんからお前お皿を洗ってくれないかみたいに、あのその本の著者さんは言われたわけなんですよ。
でそしたらその人はなんて言ったかっていうと、いやいやここに皿を洗うものなどいないみたいな。
ここに皿を洗う実態など存在しない。
もしそういう実態が存在するとしたらそれはまだその幻想のマーヤーに惑わかされている証拠だみたいなね。
そんなことを言って皿を洗うのを拒否したみたいな話があったんですけど、いやいや皿洗いよみたいな話じゃないですか、これで言ったら。
だからすごいそのワンネス的な方が強すぎてもすげーめんどくさい事態になるんですよね。
でその面倒くささをあえて妥協なくやっているのが非人間系の、いやいやあの私とかない。
他人は存在しないみたいな、世界は存在しないみたいな人たちだと思うんですけど。
まあそういう人たちはそういう人たちのお役目、そういう人たちのお仕事、そういう人たちのお仕事、そういう人たちのお仕事、
そういう人たちはそういう人たちのお役目でそういうことをやっていると思うんですけど、
まあとにかくですね僕が言いたいのは僕らの立場としてではですね、
僕らとしては今の時代ね、肉体を持ったままアセンションして行こうぜみたいな、目覚めて行こうぜみたいな、
愛と調和の地球を目指して行こうぜみたいな、そういうことをやっているわけじゃないですか。
そういうことを目指す僕らにとっては、これねどっちもバランスよくバランスをとって生きるっていうことがすごい大事になってくるんじゃないかなと思うんですよ。
えっと僕の密かな座右の銘ですけど、これは片足地球で片足宇宙っていうね、これちょっと密かに意識していることなんですけど、
こういう感じだと思うんですよ。片足地球、片足宇宙ね。
つまりそのドラゴンボールの物語的な分離のそういう仮想現実の話ですよね。
っていうものを理解しながらも、いや全部はフィクションで実態ではないよっていうのを分かっている。
ちゃんと分かっている。これ分かんないと物語に入り込みすぎて戦争とかね喧嘩の単位になっちゃうよっていう話なんで。
なので、どっちも分かっている。バランスよく理解している。片足地球、片足宇宙みたいな。
真にこうやって生きられた時に、その時に本当の意味で幸せ、人生という営みを本当の意味で楽しんで生きるっていうのが可能になるのじゃないかなと思うんですよ。
この地球的思考、宇宙的思考、両方どっちも知ってますっていう感じですね。
この地球的思考と宇宙的思考。地球的思考はねみんなよく馴染みの、社会に蔓延してるんで説明の必要ないと思いますけど、
宇宙的思考は結構ね、これがね、その地球的思考の論理とは逆転するというか、
全然違くなるんですよね。要は自分が宇宙の創造者で、一人一宇宙で、
時間の流れは過去から未来へ進んでいるのではなくて、すべての可能性がすでにあって、
そのどのパラレルを自分が望んで掴み取って現実化していくのかっていう。
だから未来から現実へ引っ張ってくるみたいなのが宇宙的思考なので、全然違うわけなんですよ。
この地球的思考と宇宙的思考、水と油のようにですね、相入れないものなんですね。
どっちもその論理の中では守備一貫してるんですよ。つまり話の筋が通ってるんですよ。
だけど水と油なんで、互いには全然交わらない。すごい相性が悪いんですね。
だから何だろう、科学的に心理を解明するっていうのは要は、
その地球的思考、そういう枠組みを使って宇宙的思考を説明するっていうやり方なんですよね。
そういう枠組みを使って宇宙的思考を説明するっていうやり方だと思うんで、
なかなかこれむずいんじゃないかなと僕は思ってるんですよ。
特に今の科学のレベルだと、たぶんちょっとまだ無理じゃないかなっていう感じがしますね。
ダブルスタンダードの重要性
ということで、この地球的思考、宇宙的思考、どっちも大事なので、どっちもバランスよく理解しましょうよっていう。
その時初めて本当にこの仮想現実の地球で楽しい人生、本当の意味で幸せな自分が望む人生っていうものを
謳歌できるのじゃないかなっていう感じがするんですよね。
この感覚ってまさにゲーム感覚、ゲームだと思うんですよ。
ゲームをゲームとして楽しんでる感覚ってこういうことだと思うんですよね。
つまりそれが作り物であり、遊びであって、みたいなことを理解しながらそれを楽しむ。
前の配信でホラー映画とかの話も例えに出しましたけど、
ホラー映画だと分かってホラー映画を楽しむっていうのが健全じゃないですか。
っていうことです。
これをするために今回のダブルスタンダードっていう感覚はすごい必要なんじゃないかなと思うんですよね。
っていうことでした。
今回言いたかったのは思考の上で矛盾のようにしか思えないこと。
身体があるとかないとか話しましたけど、
そういう思考の上で矛盾のようにしか思えないこともある程度のゆるさを持って
どっちもありなんだみたいな、どっちもそうだと言えるんだみたいな、それを良しとするっていうこの感覚がすごい大事だよね。
っていうことを言いたかったわけです。
特にこれスピリチュアルでは多いですよね。
っていうかほとんどそうかなと思うんですけど、
さっき問題にしたミリンダ王の問いのところで問題にした私っていう存在もそうだし、
テセウスの船で紹介した物質っていうものもそうだし、
あるとも言えるしないとも言えるじゃないですか、船がね。
とか、あと自由意志。
あるとも言えるしないとも言える。
僕の感覚だと本当に突き詰めたらないんだけど、
でもあるかのように僕らの次元としては行動するしか選択肢がないからそれでいいみたいな感じに僕的には落ち着いてるんですけど、
あと魂とかね。
究極を言ったら個々別々の魂っていう概念も幻想ですから、
究極本当にワンネスですから、個々別々のっていう概念が無理なんで、
みたいなね。
あと責任とか罪とか、これもあるとも言えるしないとも言える。
個人的にはこれはないの方に持ってっていいんじゃないかなと思ってますけどね。
あと時間、空間、これも幻想ですよね。
ゲームの中の設定の話なんで、
僕ら時間空間熟の中で生活してるんで、
それ前提であるでしょっていう感じだと思うんですけど、
これも本当にはないとも言えるよみたいなね。
そういう理解も大事なんじゃないかなっていうことで、
こんな感じで突き詰めて考えると何でもそうなんですよねっていう話なんですよ。
何でもそうな理由は、それは結局この世界、この宇宙が丸ごとバーチャルで、
幻想だから、夢だからっていうオチだと思うんですよね。
っていうことでした。
いろいろいい意味で、頭が柔らかくというか、
許容量を増やす感じにそういうお役に立てればいいなと思ってお話しさせていただきました。
どうだったでしょうか。
今日はちょっと長くなってしまいましたが、これで配信を終わりたいと思います。
長らくここまでお聞きくださり、どうもありがとうございました。
ご視聴ありがとうございました。
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