スピリチュアルの誤解
こんにちは、カズです。
今日のタイトルは、スピリチュアルは幸せのためのツールではない、というタイトルでちょっと話をしたいと思います。
ちょっと思ったので、ぼやきたいなと思って、サクッと目に今日はとってみます。
スピリチュアルは幸せのためのツールではないんですよ、ということを言いたいんですね。
つまり、人生をより豊かにするため、よりこの人生というものを幸せにするために、自分の人生が幸せになるために、スピリチュアルというものがあるわけじゃないんですよ、という話です。
本当はね、そうなんですよ。
僕も以前の話の中で、すごく人生でどん底で困った時期があって、その時に色々調べたと。
心理学だったり、自己啓発だったり、哲学だったり、色々調べていったんだけど、そのジャンルの中の一個としてスピリチュアルというものもあって、そこも調べたら、答えはこれだなということで、スピリチュアルを掘っていった。
僕自身はそういう経緯があるんですけど、僕もこの時の話の中では、要は自分の人生をより幸せにするために、自分が幸せになるために、そのツールとして哲学だったり心理学だったりという並びの中でスピリチュアルというものを見て取って、スピリチュアルを掘っていった。
だから、自分が幸せになるためのツールとして、その時は僕も捉えていたんですけど、掘ってみて分かったことは、実はスピリチュアルってそういうものじゃないというのがよく分かったんですよ、今となってはね。
もちろんスピリチュアルを実践して掘ってみて、実践してみて、結果的に幸せになるという場合はすごく多くあると思うんですけど、でも本当の目的はそこじゃないということなんですよね、それを言いたいんですよ。
だから、自分のこの人生というものを幸せにするために、自分の人生がより豊かになるために、幸せにスピリチュアルをやるという捉え方だと、それはちょっとスピリチュアルを誤解しているんですよね。
本質の探求
歪症化して捉えてしまっているということなんですよ。
じゃあ本当のスピリチュアルというのはどういうものなのかというとですね、並木さんはスピリチュアルってよく本質っていう意味なんですよって言ってるんですけど、
本当のスピリチュアルっていうのは人生をより豊かに彩るためのツール、手段なのではなくてですね、むしろ逆というか目的なんですよね。
スピリチュアルが人生の目的なんですよ。
つまり人生という営みの目的がスピリチュアルにあるっていう、スピリチュアルに収束するみたいなね、そういうような話なんですね。
よりよく生きるためにスピリチュアルというものがあるのではありませんということです。
よりよく生きるということがスピリチュアルという当初の目的につながるんだよっていう、そういう関係なんですよね。
結局このスピリチュアル、スピリチュアルの本質っていうものが結局究極の意味であり価値であるんですよ。
ちょっとね、この辺説明しないんで、投げっぱなしでちょっとむずいんですけど。
じゃあその本質のスピリチュアル、さっきから言ってる本当のスピリチュアルのその本質っていうのは何なのかって言ったら、
これなんですよね、アイデンティティの訂正にあると言えると思います。
アイデンティティの訂正ですね。
つまり今まで自分だと思っていた私っていうものが本当の私じゃなかったんだっていうことにスピリチュアルを掘っていくと気づくわけなんですよ。
私は今まで思っていた私じゃなかったんだっていうことに気づくんですよ。
もっと大きな存在だったんだっていう、もっと大きくて偉大な存在だったんだっていう事実に気づくんですよ。
むしろ私ってこの肉体としての私、そういうちっぽけな私だったんじゃなくて、
むしろ本当の私は世界そのもの、宇宙そのものだったんだみたいなことに気づくっていうことなんですよ。
これがスピリチュアルの本質なんですよね。
人生の目的
スピリチュアルの本質がこのようにアイデンティティを掘っていくと、
僕もスピリチュアルを始めた当初の目的は自分が幸せになるため、
自分っていうのはこの子としての自分ですよね。肉体としての自分が幸せになるためっていう目的を持っていたんですけど、
スピリチュアルの本質がこのようにアイデンティティの訂正、アイデンティティの変更っていうところに本質があるのだとしたら、
僕もスピリチュアルの子としての自分ですよね。肉体としての自分が幸せになるためっていう目的を持ってスピリチュアルを掘り始めたわけですけど、
その当初の目的というのは実はこのアイデンティティの変更訂正によって、実は最終的に意味を持たないものになるっていうオチになるんですよ。
なぜなら本当の私は私じゃなかったんだっていうオチだからなんですよ。
そもそもスピリチュアルを多くの人が立ち入る理由っていうのは、自分の人生が物足りないからですよね。
いろいろやってみたんだけど、外の世界でいろいろ働きかけてやってみたんだけど、どうも本当の幸せっていうものが手に入らないっていうところの最終地点としてスピリチュアルっていうところに入ってくるっていう流れだと思うんですよ。
その時の目的っていうのは、みんなが私の人生を幸せなものにする、私が幸せになるっていう、そういう目的意識だと思うんですよね。
なんですけど、スピリチュアルをどんどんやっていくうちに、どうやらその枠で収まりきれるもんじゃなさそうだぞっていうことがわかると思うんですよね。
実はその人生ゲームというか、人生丸ごとの意味がスピリチュアルに内包されているみたいなオチになるからなんですね。
この価値と目的の変更みたいな話っていうのは、以前したどんなゲームをプレイしているのかっていう話ともつながる話だと思ってます。
僕なりにこれを言い換えるなら、プレイするゲームが変わったので、その目的とか意味も変わってくるみたいなことなんですよ。
プレイするゲームが変わったっていうのは、子としての自分というゲームプレイをやってた、そういうゲームをずっとプレイしてたつもりだったんだけど、実はそういうゲームじゃなかったんだっていうことに気づくんですよ。
なぜなら本当の自分はスクリーンの中で動いているキャラクターだと今まで思ってたんだけど、そうじゃなくて、そのスクリーンの外側でコントローラーを握ってモニターの前に座っているこっちだったんだっていう、こっちが本当の私だったんだ、本体だったんだっていうことに気づくからなんですよ。
この違いに気づいたらゲームそのものの意味が変わってくるじゃないですか。
っていうような話です。
スピリチュアルは幸せのためのツールではありませんってことですね。むしろ、人生という営みの目的がスピリチュアルだっていうような話ですね。
スマホっていう端末はとても便利ですけど、広告だらけでちょっと嫌になるときもあって、特にスピリチュアルの広告ってまさにこんなスピリチュアル、幸せのためのツールにしちゃってるような広告ばっかりじゃないですか。
もちろん広告出すっていうのはビジネスっていう枠組みから出てくる発想なんで、しょうがないっちゃしょうがないんですけど、でも本当はそういうもんじゃないんだよなっていうのをちょっと宣言したくて、軽く音声を取ろうかなっていう気になって今回お話ししてみました。
ということでした。今日はこのくらいで失礼したいと思います。何かお役に立ったことが一つでもあれば嬉しいなと思います。どうもお聞きくださりありがとうございました。