00:00
魔女の宅急便っていうアニメ、みなさん知ってますよね。ちぶり作品でも特に人気の作品の一つだと思います。
主人公のキキが13歳になって、魔女の修行のために独立して別の町に移り住むっていう話なんですよね。
で、そこで猫の爺っていうのと一緒に空を飛んで、おばあさんの孫娘のにしんのパイを届けたりとか、トンボっていう少年に出会ったりとか、画家のお姉さんのとこでお世話になったりとか、
いろんな少女が大人になっていく過程の余曲説を描いた作品ですよね。
物語の終盤にこのキキっていうのが、この女の子が突然飛べなくなっちゃうんですよね。覚えてますか?みなさん。
朝いつものようにほうきにまたがるんだけど、あれ?浮かばない。飛べないぞと。
なんかこれだけ自由に、今まで自由に空を駆け回っていたのに浮かばない。
ある日、急に自分自身の体っていうものが言うことを聞かなくなるわけです。
で、宮崎駿監督はある対談でこういうふうに語ってます。
詰まるところこの彼女、キキっていうのは血で飛んでいたんですよと。
血って一体何なのかっていうと、親からもらったものでしょうと。
自分が習得したものじゃなくて、才能っていうのはみんなそうなんですよというふうに言っているんです。
これを僕なりに解釈すると、血で飛ぶ、血で空を飛ぶっていうのは、これは習慣ではないんですよね。
何度も練習して体が覚えた機能ではない。
生まれながらに、キキの体に組み込まれていた何か。
遺伝的な素養だったりとか、才能とか、野生としてのある種の身体値なわけです。
そういう水準で飛んでいるんですよね。そういうことになる。
そして宮崎監督はもう一つ印象的な言葉も残しています。
無意識に成長するということは不可能なんだ。
血で飛ぶこと、つまり無意識のうちに動けてしまう状態というのは、
それだけでは人はある段階で必ず行き詰まるんだと。
そして行き詰まりを抜けていくためには、無意識ではない別の何かが必要なんだというふうに言っているんです。
じゃあその別の何かってなんだよと。
キキの物語をたどりながら、魔女の宅急便を共有しながら、どんな状態だったのかを体の観点から今日読み取っていきたいと思います。
03:05
物語の序盤は、キキというのは無造作に空を飛んでいます。
家を出て、両親に手を振って、宝器にまたがって、行ってきます。
雲の上を駆けていくと。
風に体が持ってかれそうになりながらも、自分と体と空の間にぴったりと合った感覚があるわけです。
自転車を当たり前にこなせるような感覚とすごく似ているのかなと思うんですね。
こうした世界が体にこうできるよというふうに指してくれている可能性のことをアホダンスというふうに言ったりします。
コップがつかめるよとか、椅子が座れるよとか、階段が登れるよとか、それぞれのものが私たちの体に語りかけてくるというふうに考えるんですね。
これはアメリカの知覚心理学者のジェームズ・J・ギブソンという方が、環境からの呼びかけ、可能性を差し出してくれている状態というのをアホダンスというふうな名前で呼んでいます。
キキの場合、空も風も町の屋根も宝器も全てが彼女の体に対して飛べるよと差し出してくれているわけです。
そしてそれを受け取る彼女の側、キキの体の側にも飛ぶための条件が全部揃っているんですよね。だから飛べる。
僕らは魔女じゃないので、その環境があったとしても、その環境が飛べるよという可能性を出してくれていたとしても、それを受け取ることはできないわけです。
哲学者のメルロポンティというのは、こうした体の在り方のことを英語でI canというふうに言いました。
これね、言語で言うと、彼はフランスの哲学者なので、ジュブというふうに言うらしいですよ。
正しい発音は僕も分からないですけど、ジュブとかなのかな。
これ日本語に変え直すと、私はできるというふうに言うんです。
私はできる、I canというと、ちょっと誤解されやすいところがあって、
私はできると思い込めばいいという話になってしまうことがあるんですよね。
自分を信じて、できるはずだと信念を持つと。
自分はできるという感覚を高めるんだ。
そういうふうに頭の中の操作として受け取られてしまう可能性があるので、ちょっと違うんですよ。
メロロポンチのこのジュブというのは、信念や思い込みのことではなくて、
体が状況の中で既に何かに向けて動き出しているっていう、その動きそのもののことなんですよね。
06:00
こういうふうに言うとちょっと抽象的すぎて分かりにくいと思うんで、
例えばですよ、コップが目の前にあるとします。
で、コップに向けて手がフワッと伸びるときっていうのは、
僕たちはコップを取るぞって決意してから筋肉、関節を一個一個動かして取りに行ってるわけではないんですよね。
コップが目に入った瞬間に、もう手は伸び始めているわけです、なんとなく。
その手が伸び始めているっていう状態の中に、私はコップを取れる。
私はそれをすることが可能であるっていう構造が組み込まれているわけです。
これがジュブなんですよね。
喉が渇いているっていう自分の状況があって、なおかつ手があって手で掴めるっていう今までの経験がある。
そして目の前に水の入ったコップがある。
これが瞬時に溶けあっていて、僕らはコップを手に取っているわけなんです。
私はできるっていうふうに信じるんではなくて、体がすでに状況に応答する幅とか厚みっていうものを持っているわけです。
機器が飛んでいるとき、彼女の体っていうのは空に対して飛べる幅とか厚みを持っているっていうことなんですよね。
機器が飛んでいるときに、ところでこうしたできるっていう状態は一体何によって支えられているのかっていうところです。
僕自身が臨床とか現場で見ているものは、いくつもの条件が絡み合って初めてできるっていうものが成立するっていうことなんですよね。
一つは身体合理性っていう基本的な条件です。
身体合理性っていうのは、体の筋肉とか神経とか内臓とか細胞一個一個のことを言ってもいい、こういったものが持っている機能を最大限に発揮できている状態。
このシステム全体、体っていうシステム全体が状況に対して満足に応答できている状態のことを言います。
ただ、この身体合理性が高ければ何でもできるかっていうとそうじゃないんですよね。
もちろん身長2mあって、体重100kgある筋肉もりもりの力が強い人と、
例えばうちの子供とかであれば、まだちっちゃいんでね、できることは変わってくるわけだ。
僕にとっては足をかける、登る、ちょっと高いものを取るためのちょっとした台座なんだけれども、
うちの子にとってはそれがテーブルになったりとかするわけです。
もっとちっちゃい時であればつかみ台だったりもする。
体の持っているその状態によって受け取れる可能性っていうのは変わってくるんです。
09:04
逆に僕はその椅子、台座のことをテーブルのように扱えないんですよね。
つかみ台のように扱おうとも思わないというか、そういうふうにこうすることができないわけです。
もう一つはその動きを支える体の組織化です。
歩き方とか座り方とか立ち方、人との距離の取り方とか、それから視線の動かし方とか、
意識しなくても勝手に作動する体の組み立てのこと。
これを哲学では身体図式というふうに言ったりします。
筋力とか骨格とか体の大きさとか関節の柔らかさ、身長、体重、筋力。
こういった体の物理的な条件がありますよね。
さらにその体が向き合う環境、重力、空気、地面、道具とか、それから他者の存在。
いろんなものが組み合わさって整合していって、
その時ある行為というものができるというアホダンスとして立ち上がる。
どれか一つに欠けてもそのアホダンスにはならないですよね。
例えば生まれたばかりの赤ん坊というのは走れません。
これは身体合理性が低いわけではないんですよね。
赤ちゃんというのは身体合理性が非常に高い存在です。
緊張もないし、システム全体がのびやかに共同しています。
だからあれだけ急激に成長することができるんですよね。
スポンジのようにいろんなことを覚えるし、覚えるだけでなくて、
内臓とかも発達していくし、兼御屋も発達していくし、
何より身長とかも大きくなってきますよね、体重とかも。
ものすごい体の変化というものを許容できるくらいの柔軟性、
つまり身体合理性というものを持っている。
でも走れない。
何でかというと、走るという身体図式というものがまだ組織されていないからなんです。
足の長さとか筋力とか、走るという動作にまだそれが追いついていない。
つまり地面とかこの重力とかという環境を大人のように受け取ることはまだできないということなんですよね。
つまりその走るというアフォーザンスがまだ立ち上がっていないわけです。
機器の血で飛ぶというものはその逆の側で成立しています。
身体合理性が高くて、飛ぶという身体図式が生まれながらに組み込まれていると。
これは物語なので、僕らの人間とは違うんですよね。
彼女は魔女なので、当たり前に乗ることができる。
12:03
もしかしたら小さい頃に僕らが自転車を覚えるみたいにちょっと練習はしたのかもしれないけれども、
彼女の中では当たり前にできているものだったわけです。