キキの身体の変化と「血で飛ぶ」ことの限界
ところが、物語が進むにつれて、キキの身体に変化が訪れていきます。
新しい町での生活とか、お掃除屋さんとか、配達の仕事とか、トンボとの出会いとか、小さなすれ違いとかね、喧嘩とかもしてましたよね。
それから、思春期の身体の変化というものも、もしかしたら描かれているのかもしれない。
そして、ある朝にキキは、ホウキに乗っても浮かばないということに気づいたわけです。
ちょうどそのタイミングで、猫のジジとも話せなくなっちゃうんですよね。
ここで何が起きていたのか。
血で飛ぶ、生まれながらの身体の応答能力というものには、ある決定的な限界があるわけです。
新しい状況に出会ったときに、身体の側の組み替えというものが要求されることがあるということなんですね。
メルロポンティは、習慣についてこういうふうに言っています。
習慣の獲得とは、身体図式の組み替えであり、更新である。
人が何かを身につけるというのは、この身体図式というものが組み替わって更新されていくということだと言うんですよ。
逆に言うと、身体図式というのは、常に組み替えとか更新を要求される構造を持っているわけなんです。
この身体図式というのは何もない場所で組まれているのではなくて、
特定の空気とか、人との距離とか、音とか、床とか、光の中というもので組まれている。
だからその状況のどこかが入れ替わると、組まれていた身体図式というものは、そのままでは応答できなくなるんですよね。
状況が入れ替わるということが、身体図式に対して組み直してくれって要求することになるわけです。
機器の地で飛ぶというのは、ふるさとの慣れ親しんだ空とか、両親の温かい家庭があるという中で組み立てられていたものだった可能性があるんですよね。
それが独立して別の町に行って、新しい人間関係で、新しい仕事、新しい責任、思春期の身体の変化、そして初めて恋も多分してますよね、このタイミングで。
身体図式が組み替えを要求されるわけです。
ここで大事なポイントがあります。
身体図式の組み換えと「自分を持て余す」状態
多くの人っていうのは、生きていく中で組み替えを何度か経験しているんですよ。
歩けるようになる時とか、自転車に乗れるようになる時とか、初めての職場にだんだんなじんでいくとかね。
それから楽器とかもそうだと思います。
最初はペロペロペロって一個一個見ながら弾いてたのが、今なんとなく弾ける。
こんな雰囲気で弾きたいな、みたいなものがなんとなく弾けるようになってくるとか。
パソコンのキーボードとかもそうだと思います。
鉛筆とかもそうだよね、きっと。料理とか。
その度にアタック。
その度に身体っていうのは古い動き方っていうものを一度解いて、別の動き方を組み直しているんですよ。
組み替えるというその動き方そのものを身体が知っていくわけです。
それを体読するとか、身体が覚えるとか。
っていう風に言ったりしますよね。
でも機器の場合は多くのものを血で飛んでいたっていう風に宮崎駿監督は言うわけです。
組み替えのプロセスっていうものを経ていなかった。
最初から動けてしまう状態だった。
だから組み替えっていう作業そのものに身体が慣れていないわけです。
まあこれ思春期だったら誰でもそうですよね。
大人になるっていうのはこういうことを知っていくことっていう風にも言えるのかもしれません。
組み替え要求が来ても応答する手立てっていうものを経験してない。身体が知らない。
新しい街の音に身体がぶつかって、新しい仕事の間の取り方。
そこに呼吸が追いついてないとか。
思春期に骨格自体も変わります。
今までの腕の長さとか、今までの走る感じっていうものでできてたものが進みすぎちゃうとか、
ちょっと力がありすぎるとか、手が届きすぎちゃうとかいう風になってしまう。
なんか違うなっていう違和感がたくさん芽生えてくるわけです。
つまり今までの自分の当たり前、つまり身体図式っていうものでは応答しきれないわけなんですよね。
だけど体は別の応答の仕方をまだ持っていない。
つまり古い応答というものが空回りして、新しい応答は立ち上がってこない。
これがおそらくキキの中で起きた飛べなくなるっていうことだったのかもしれません。
で、宮崎監督はこれは才能に限った話じゃないよと、気分もそうだという風に語っています。
つまるところキキは自分を持て余しているんだと。
思春期っていうのは自分を持て余すんですよと。
誰も喧嘩しようとなんて思ってないのに、
言葉を交わしてみたら思いもよらない乱暴な言葉が出てきたり、
バカなことを言ってしまうものなんですっていう風に言っています。
自分を持て余す。
これは体の側から見るとはっきりした構造を持っています。
身体図式っていう自分の中の無意識の当たり前というものと、
現実の状況の間にそこが生まれている、ずれが生まれているんです。
今までのように応答できない。
だけどそのずれ、そごっていうものを
体の感覚で感じることができない、読み取ることができない。
その状態っていうのはいくつか特徴的な兆候として現れることがあります。
飛べない時に現れる3つの兆候
一つ目は体が変わる感じが訪れないということです。
物語は展開している。きっとあの時はああすればよかったんだな、
これからどうすればいいんだろうとか、
頭の中だけで考えが回り続けてしまって、
体の中には何の変化も起きないということですね。
考えが堂々巡りしちゃうと。
二つ目は問題解決の言葉ばかりが先行するようになるということ。
なぜできなくなったのか。原因は何なのか。
どうすれば戻るのか。
分析的な言葉っていうものをたくさん使ってしまう。
頭の中がそればっかり占めちゃうと、
余計に自分の体で何が起きているのかっていうものを
分かんなくなっちゃうんですよ。
そっちよりも頭の方に意識が行ってしまう。
原因を特定しようとしちゃうんでね。
そうすることで三つ目として、感覚が具体性を失っていきます。
なんとなくこうだな。ぼんやりこうだな。よく分かんない。
嘘としか言えなくなってしまう。
すいません。
それってどんな感覚なのかっていうふうに、
自分の中の一次元を
よくある記号とかラベル、誰かが言っていた言葉っていうものを
借りるしかなくなってきちゃうんですよ。
で、キキが家に帰っても元気が出なくなって、
街を歩いてもどこか上の空でね、
ジジとの会話もうまくいかなくなってしまう。
あの状態っていうのはまさにこの三つの兆候っていうものが
同時に起きている時間だったんじゃないかなっていうふうに思うわけです。
体が曖昧になっている、体の声っていうものを十分に聞けない状態で
なおかつ体を感じることができない。
感覚すらも湧いてこないっていう状態。
そうなると余計に頭は物語を作り続けてしまいます。
これが自分を持て余すっていう状態の中身なんですよね。
人生の節目と身体図式の組み換え
これ聞いていてあれって思った方もいると思います。
これって思春期に限った話ではないんですよね。
人生のある段階で身体図式の組み替えっていうものが
要求される局面っていうのは繰り返し訪れます。
引っ越しとか、独立するとか、
出産する、小離れする、
育児する、転職する、引退する、高年期、
怪我する、それが治る、
病気死に入院する、それが退院するとか。
今までの当たり前っていうものがどんどん書き換わっていくのが連続なんですよね。
書き換わっていく連続なんですよ、人生っていうのは。
血で飛んでいた人ほどこの行き詰まりっていうものは非常に厄介、大変なんですよね。
組み替えっていう作業の経験値が身体に積まれていないから。
画家ウルスラとの対話:ジタバタするしかない時
危機っては、じゃあどうやって飛べるようになったのか。
物語の中盤に飛べなくなったキキっていうものは森に住む画家の女性のところを訪れます。
なんかね、調べたらこの女性の名前、作中では出てこないんですけど、ウルスラっていう名前の女性らしいんですよ。
ウルスラっていうのはキキよりもちょっと年上の方。
この女性自身も絵が描けなくなるっていうスランプを経験した人物です。
森の小屋で二人は絵について話します。
自分の中の何かを語り直していくような時間ですね。
そこでキキがウルスラにこういうふうに言うんですよ。
私、前は何も考えなくても飛べたの。
でも今はどうやって飛べたかわからなくなっちゃったって言うんですよ。
そうするとウルスラはこういうふうに返します。
そういう時はジタバタするしかないよ。
描いて描いて描きまくる。
でもそこでキキはまた食い下がります。
でもやっぱり飛べなかったら。
そうするとウルスラはこういうふうに返します。
描くのをやめる。
散歩したり景色を見たり、昼寝をしたり、もう何もしない。
そのうちに急に描きたくなるんだよね。
ジタバタするしかないっていうふうに言いながら
描けなかったらやめるっていうふうにも言うと。
散歩して景色を見て昼寝する。
何もしないでいるうちに急に描きたくなるから。
これは僕なりに解釈すると
悩んで考えてもしゃあないと。
そういうメッセージなんだと思います。
思考の檻の中で
どうやって飛べていたのかっていうものを
分析し続けたとしても体には戻っていかない。
なので一度その檻から出て
世界と体のその手触りっていうものを
もう一度取り戻していくと。
だから動く必要があるんだっていうことを
言っているんだと思うんですよ。
そうやって描きたくなるのを待つんだと。
身体が状況にフィットする瞬間を待つ姿勢
何なら待つっていうよりかこの人は行動してますよね。
体で世界にその手触りを
取り戻しに行っている。
散歩だったりとか
キャンパスに向かってカムシャラに書いたりとか
ジタバタする。
もしくはそこから離れて風景を見たりとか。
身体論の観点から見れば全部
一貫した手触りを取り戻すために
能動的に動いています。
で、書こうと決意するわけではないんですよね。
絶対に書けるようになるまでやるんだとか。
決意したことが
ここに行ってるとかでもないわけだ。
書きたくなるのを待つ。
この姿勢っていうのは非常に
僕が普段言っているソマティックスとか
身体論の中の考え方だったりとか
仏教とかの考え方にすごく精通する部分だと思います。
コントロールしようとしていないんですよ。
身体がもう一度その状況にぴったり合っていく瞬間
というものを待っているんですよね。
ぴったり合うのを
その瞬間が少しでも早く来るように
動くようなイメージ。
ウルスラっていうこの女性がキキに伝えていたのは
そういう種類の構えだったんじゃないかな
というふうに僕は思うわけです。
このウルスラの場面でキキの中で
一体何が起きていたのか
もう少し丁寧に見ていきたいと思います。