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【前編】ブッダとキリストが遺した「身体のサプリ」──"私じゃなくてもいい"の正体|前編
2026-02-13 41:01

【前編】ブッダとキリストが遺した「身体のサプリ」──"私じゃなくてもいい"の正体|前編

釈迦とイエスが遺した「身体のサプリ」──"私じゃなくてもいい"の正体|前編

「やりたい仕事に就けたのに、"私じゃなくてもいい"と思ってしまう」

サポーターの方からいただいたこの質問を入口に、社会学者・宮台真司さんの対談動画(海沼みつしろチャンネル)を取り上げました。

宮台さんが語る「入れ替え可能性」──現代社会は、仕事も人間関係も「あなたじゃなくても回る」ように設計されている。その構造の中で、人はどうやって「かけがえのなさ」を取り戻すのか。

前編では、宮台さん自身のナンパ体験から見えてくる「成功するほど孤独になる逆説」、子どもから大人への「劣化」、そしてイエス・キリストの「良きサマリア人」のたとえ、二つの祈り、一人を深く愛する経験が他者への愛を開くという話──これらを、身体の専門家の視点から読み直しています。

宮台さんが「内発性」と呼ぶもの。僕が「身体合理性」と呼んでいるもの。言葉は違うけど、見ている景色はたぶん同じです。

後編では釈迦(ブッダ)の処方箋へ。


このポッドキャストは、サポーターの皆さんからいただいた質問にお答えする形でお届けしています。

身体の感覚を通じて自分を理解し、他者や社会との関わりを育む「身体の教養」。臨床17年の鍼灸師・柔道整復師 大沼竜也が、東洋の身体哲学と現代の知見を統合した視点で、あなたの身体との対話をサポートします。

▼ サポーターになる・大沼竜也についてhttps://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma

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00:02
この番組は、ソマティクス・古今東西の身体論・身体心理学の観点から、ソマティクススタジオのサポーターの皆さんの質問に、神経質の大沼竜也がお答えしていく番組になっております。
長らぎきをしながら、肩の力を抜いて、毎日健やかに過ごせるようになるための何かしらのヒントになれば嬉しいなと思います。
じゃあ今日もですね、サポーターの方からいただいた質問に答えていこうと思います。
そういえば、全然関係ない話なんですけど、
ポッドキャストなんですけど、音声だけでももちろん聞けるんですけど、長らぎきでね。
カメラがせっかくあるんで、せっかくだから顔も覚えてもらえたらいいなと思って動画を回してるんですよ。
だけどさ、カメラを向ける習慣ができるようになってくると、今まで気づかなかった自分の顔の変化とかね、いろいろあるんですよね。
メイクとかする人だったらそれが毎日なのかもしれないけど、あんまりそういう習慣なかったんで、
髭伸びてきたなーとか、ちょっと剃った方がいいよね、もうこれそろそろ娘にも剃れって言われるんでね。
髪伸びてきたなーとか、太ってきたなーとかね、
なんか画面の自分見て、大丈夫?疲れてんじゃないのお前?みたいなことを思ったりすることもあるんですね。
で、今ごめんなさい、カメラを向けて思ったことでした。どうでもいいね、すいません。
はい、じゃあサポーターの方からの質問を読んでいきたいと思います。
やりたい仕事があって、念願叶ってその仕事に就くことができました。
おめでとうございます。
でも実際に働き始めてみると、これ私じゃなくてもいいんじゃないかって思ってしまう瞬間がある。
贅沢な悩みだとは思うし、そんなことを言っている自分が無責任にも思えて、自分が嫌になります。
でもなんかモヤモヤが取れないんです、というお話ですね。
ありがとうございます。
これね、個人的にはすごくわかります。
最初に言っておくと、贅沢な悩みではないと思うんですよ。
むしろ、すごく重要な大事なことに気づいているという証拠なのかなって思うんです。
この質問を読んだ時に思い出したのが、宮台真嗣先生という僕の大好きな社会学者の先生がいらっしゃるんですけど、
この質問の答えみたいなことをよくお話されている先生なんですね。
宮台真嗣さんの言葉では、入れ替え可能性っていうことまで定義されています。
03:06
この現代社会っていうのは、すべてが入れ替え可能に設計されているっていうふうに言うんですね。
仕事も、もしくは近代だと人間関係も、誰かが抜けたらすぐ別の誰かが入ってくると。
自分がいなくなっても何にも変わらない。
それが現代、近代社会のデフォルトなんだっていうふうにおっしゃっています。
だから質問してくれた方が感じている、私じゃなくてもいいんじゃないかっていうその感覚ってのは、
気のせいでも贅沢でも自分を責める理由にもならなくて、
責めなくていいんですよ、本当に。
社会の構造をそのまま感じ取っているっていうふうにも言えるのかなと思うんです。
むしろね、感度とか感受性が高い証拠なんじゃないかなっていうふうに僕は思います。
絶対に自分を否定するようなことはしなくていいんですからね。
宮台真嗣さんの話が面白いなーっていうのは、
この入れ替え可能性の問題に対して、イエス・キリストとかブッダ、お釈迦様ですね、
この2人が残したその処方箋のようなものを持ってくるところなんですよ。
これを僕なりのソマティックスの観点で、
ちゃんと体の話として着地してくれるんですよね。
接続されるんです。
今日はその話を僕なりの言葉でゆっくり解いていこうかなと思います。
じゃあまず宮台真嗣先生がこの対談、
僕が見たその対談の動画の中で出発点にしているのが、
冷たい社会っていう言葉なんですね。冷たい社会。
何が冷たいのか。
さっき言った通り、僕たちが生きているこの社会っていうのは、
あなたじゃなくてもいい、私じゃなくてもいいっていう構造でそもそもできているんですよ。
仕事もそうだし、人間関係もそうだし、
本来は人間関係はそうじゃないべきなんだけどね。
ちょっとこの後話していきますね。
これは質問してくれたサポーターの方が感じていることと全く同じなんです。
宮台さんが言うには、その中にいると人は自己保身に走るんだと言っています。
少しでも有利なポジションを取ろうとする。ポジション取りですね。
少しでも損しないように立ち回ろうとする。
これを椅子取りゲーム、席取りゲームっていう風に言っていました。
社会の中での椅子取りゲームなんですよね。ポジション争い。
でもこの椅子取り合戦っていうのはどこまでやっても入れ替え可能の構造からは出られない。
そもそもそうですよね。このポジションに誰がつくっていうところがこの社会にとっては重要になる。
06:04
椅子の位置が変わったりとかするだけで、椅子の数が変わるだけで、
自分が変えのきかない存在になるわけじゃないんですね。
変えのきかない存在。ここなんですね。
質問してくれた方っていうのは、たぶんやりたいことにつけたっていう風におっしゃってる。
つまり、椅子を取れたっていう言い方に変えることもできると思うんですよ。
でも椅子に座ってみたら、あれ、この椅子別に私じゃなくてもいいんだ。
私じゃなくても座ってもいいんだなっていう風に感じた。感じてしまった。
それは椅子の問題じゃないんですよね。仕事の問題じゃない。
椅子取りゲームそのものの構造の問題っていう風にも言い換えられると思います。
どれだけいい椅子を取っても入れ替え可能性の感覚は消えないわけです。
じゃあどうしたらいいのかっていうことですね。
宮台真嗣先生、社会役者の方は、
若い頃にナンパ師をしてたっていう話をしてるんですよ。
ナンパ師って聞いたことないんですよね。
僕、91年生まれなんですけど、ナンパっていう言葉は知ってるけど、
ナンパ師みたいなのはあんまり知らなかったです。
この宮台真嗣先生も若い頃に本格的にナンパ師として活動した時期があるそうなんですね。
すごい面白い経歴ですよね。
で、そのきっかけっていうのが初恋の失敗だったと。
大事に思ってた人とうまくいかなかった。
その喪失感を埋めるように、もっと条件のいい相手を絶対に手に入れたいって思うようになって、
声のかけ方とか、会話の組み立て方とか、
英語の勉強みたいにパターン学習していったそうです。
やっぱりこう、知的水準の高い方っていうのはすごいですよね。
僕は絶対にこういう方向にはいかないと思うんですけど、自分だったらね。
経験を重ねるほどにやっぱ成功率が上がっていくんだそうです。
ある種のゲームみたいなものですよね。
ところが、そうやって上手にそのゲームを攻略、ナンパっていうゲームを攻略できるようになって、
いろんな人とナンパが成功するようになって、いろんな人と付き合えるようになった。
でも成功するほどに孤独が深まったっていうふうにおっしゃっているんですよ。
これがなぜかと。
自分の側からはたくさんの人と関係を持てる。
でも相手の側から見ると、他の人にも同じことをしている人に移ると。
つまり、消費の対象としては悪くないけど、決定的に信頼を預ける相手にはならないっていうふうに感じたそうなんですね。
09:08
つまり、出会いを量産できるようになるほど、一緒に生きる実感っていうものからは遠ざかると。
これ、さっきの仕事の話と構造が実は似ているんですね。
ナンパの成功っていうのはイストリと同じなんです。
出会いの数が増える。
そうすると成功率は上がる。
でも、この人でなければっていう感覚は育っていかない。
仕事でやりたいことにつけたけど、私じゃなくてもいいんだっていうふうに感じるのと同じで、
恋愛でたくさんの人と出会えたけど、誰でもよかったんじゃないかっていうふうに感じてしまう。
量が変わっても、量が増えても質は変わらない。
むしろ量が増えるほど入れ替え可能性が加速するっていうふうにおっしゃってます。
宮大臣先生はこういうことに対して、質問者の方みたいに違和感を感じずに、
どんどん上手くいってるぞ。量が増えていってるぞ。
それを自分を守るための材料に使ってしまう。
自分のアイデンティティの形成に使ってしまう。
自分の自信を保つために使ってしまう。
こういった人たちのことを宮大臣先生はクズっていう言葉を使ってます。
クズ野郎とかって言ったりしますけどね。
口がすごく悪いなと思うんですけど、
あえてそうじゃないだろ人間はっていうことを
たくさんの人に気づいてもらうために、
あえて挑発的な言い方でおっしゃっているのかなというふうに僕は受け取っています。
でもこのクズっていうのは特定の誰かを攻撃してるんじゃないんですよ。
構造的にそうなってしまうっていうことを訴えたい。
そういうふうに使ってるんだと思うんですね。
他にもこういった社会のシステムに飲まれてしまった、
人間性を失ってしまっている人たちのことを
いろんな言葉で揶揄したりとかしてます。
例えば損得マシーンっていう言葉ですね。
損得が行動の基準になっていると。
これをしたら俺にとって得だから。
これをやったら損だから、それはやらないよと。
よくギブアンドテイクっていう言葉が多めから輸入されて使ったりとかしますけど、
このギブアンドテイクっていうのも損得マシーンのように
人間性なしで使ってる人もいたりしますよね。
多分多くの人はそうじゃないと思うんですけどね。
何かしてもらったから何かをするとか、そういうものじゃないですよね。
12:00
あとは言葉の自動機械っていう言葉を使ったりとかします。
言葉の自動機械、自動的な機械ってことですね。
これは借り物の言葉でしか考えられないということです。
自分の体感から実感から来た、発せられた言葉ではなくて、
こういう人が、こういうすごい人がこういうこと言ってたぞとか、
世間ではこういうことが常識になっているでしょう。
そういう言葉でしか考えられない人のことを
言葉の自動機械っていうふうに言ったりします。
どうしてもメディアが増えた現代っていうのは
特にこういう穴に、罠にかかってしまうということはあるのかもしれませんね。
そして3つ目が法の奴隷っていう言葉ですね。
法の奴隷っていうのはルールに従うことが絶対になっていると。
そもそもそのルールっていうのは
みんなが平和で安心して仲良くするために
気づかれたもののはずなのに、
ルールがこうだからそれはダメでしょうと言って、
かえってその繋がりを立つようなものになってしまったりすることもあるんですよね。
これを法の奴隷というふうに言ったりしています。
社会が計算可能性を求めている。
計算できないものは排除されていくと。
その結果人間の中から計算できない力というものが枯れていくと。
これが宮台真嗣さんの言う劣化になります。
劣化。この劣化っていう概念が僕にはすごく刺さったんですね。
ピンときました。
宮台さんはこういうふうに言っています。
人は子供から大人になることそのものが劣化のプロセスなんだというふうに言っています。
子供のとき振り返ってみてください。
僕たち何をしていましたかね。
遊んでましたよね。
無我夢中で遊んでました。
明日のこと、1年後のことなんか考えてなかったと思うんですよ。
なんなら明日のことも、5分後のことも考えてなかったかもしれませんね。
無我夢中で遊んでいたわけです。
時間を忘れて
それが得なのか損なのか
この遊びをして何か得があったのかとか
何か損なのかってそんなこと考えないですよね。
夢中になってた。
その場の楽しさに全身で巻き込まれていたと。
これやった方が将来有利かななんて子供いないですもんね。
それが大人になるにつれて変わっていく。
社会の中で評価されるにはどうすればいいのかとか。
ポジションを取るにはどうすればいいのかとか。
15:02
損をしないためにはどうすればいいのかとか。
そうやって言葉で与えられた評価軸。
これに従って振る舞うようになっていく。
これが劣化ですね。
これを僕なりの
その身体論の観点から見ていく。
僕実際臨床していると
赤ちゃんとか小さいお子さん一緒に連れてきてくださる方とかもいるんですよね。
僕自身も子供が生まれて
赤ちゃんの頃から触ったりとかしてます。
触ったりって言ったらちょっと変な言い方だな。
赤ちゃんとか小っちゃい子供の体って大人の体とも全然違うんですよね。
力んでないというか固まってないというか、もう形がなんか
骨格とかは大人とほとんど同じはずなんですけど
違うんですね。
力んでないし固まっていないし
どこにも防御っていうものがない。
つまり言い換えれば体全体が環境に対して開いているわけです。
それが大人になるにつれて閉じていく。
柔らかく開いているものが固く閉じていく。
肩が上がって顎が固まって
呼吸が浅くなって骨盤が動かなくなって。
これが宮台先生が言う劣化っていうものと
全く同じことだと僕は思っています。
宮台先生が言う感情の劣化。
この劣化っていうのは感情が劣化してるっていう風に言うんですけど
僕はそれを身体性の劣化と呼んでいます。
発信見てくださっている方にはピンとくるといいなと思うんですけど
感情っていうのは身体から立ち上がってくるものだよっていうことを
久西さんはお伝えしています。
つまり感情の劣化っていうのは身体性の劣化である。
宮台さんは言葉と法と
言葉と法と存得に閉じ込められる
っておっしゃっています。
それを僕の観点から身体の側から見れば
防御パターンに閉じ込められているっていうことでもあるわけです。
社会に適応するために体を固めた。
でもその固め方が慢性化してもう解けなくなっている。
解き方がわからなくなってしまった。
子供の頃にあった開いた体っていうのが
大人になるにつれて閉じた体に変わっていく。
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これが身体のレベル、体のレベルでの劣化なわけです。
最初の質問に戻ると
私じゃなくてもいいんじゃないかっていうふうに感じるのは
自分の体がすでに社会の革の論理に
閉じ込められているからっていうふうにも言えると思うんですね。
入れ替え可能な部品として振る舞うことに
体が慣れてしまった。
そうなると本当に自分しかできないことが目の前にあっても
その手触りが感じ取れなくなる。
体が閉じて固まって閉じていると
自分の仕事の中にある変えのきかない部分
っていうものを感じられなくなってしまうことがあるんですね。
じゃあここからが今日の本題になっていきます。
宮台さんはこの劣化に対する処方箋として
2人の人物を持ってきています。
1人はイエス・キリストです。
もう1人はブッダ。
つまりお釈迦様ですね。
まずじゃあイエス様の話からしましょう。
イエス様って言ってますけど、僕幼稚園がね
これもあんま関係ないんですけど、僕幼稚園が
カトリック幼稚園っていうところに通ってて
マリア様とかイエス様って教えられてたんで
そういうのが身についちゃってるんですよね。
特にクリスチャンというわけではないんですけど
そのちっちゃい頃、幼稚園とか結構宗教法人とかが
多いじゃないですか。
特に熱心な宗教徒ではないんですけど、家も。
なんとなく触れていたそのキリスト教の感覚みたいなもの
大人になってから自分の当たり前って
意外とここで形成されたものもあるかもなっていう風に
大人になってから学んで気づいたこともありましたね。
脱線しました。
宮台新先生の話と繋がるそのイエスキリストの話っていうのは
例えば良きサマリア人の例え話です。
良きサマリア人って聞いたことある方いますかね。
なんとなく言葉だけは知ってるっていう方もいるかもしれない。
簡単に説明すると
ある人が強盗に襲われて道端で倒れてると。
昔はよくあったのかもしれないですね、そういう光景が。
そこをサイジが通りかかる。
その当時の法律、立法の専門家ですね。
でも通り過ぎると、その場を。
次にレビジンが通りかかる。
その国の人ですね。
これも宗教的な知識のある人です。
でもやっぱり通り過ぎるわけです。
21:02
法律も通り過ぎる。
宗教に通じている人も通り過ぎる。
最後にその強盗に襲われて倒れている人の横を
サマリア人が通りかかる、そうです。
サマリア人というのは当時のユダヤ社会、
イエスとかが生きていた時代のユダヤ社会
というところでは差別されていた人たちなんですよね。
法律の知識もないし、宗教的な知識というのも
ほとんどない方たちなはずなんです。
でもそのサマリア人だけが
思わず駆け寄って倒れている人を助けた。
当時差別された方たちなので、金銭的にも経済的にも
裕福じゃありません。
だけどアリガネを叩いて宿屋に
宿に連れて行った。
で、解放をお願いしますという風に頼んでくれた。
イエス・キリストはこのサマリア人を隣人と呼びました。
隣の人って書いて隣人ね。
最治、法律の専門家とか宗教の専門家というのは
なぜ通り過ぎたかというと
彼らは法律に従えば救われるという風に思っていたわけです。
つまり良いことをするのは神に救われたいから。
自分が天国に行きたいから戒律を守る。
こんな風な揶揄する話がサマリア人の例えなんですね。
良きサマリア人。
宮台先生はこれを利己的利多という風に呼びます。
利己的利多。
見返りのための善行、善業。
ご褒美のための道徳なわけです。
つまり、キブ&テイク。
キブ&テイク、さっきも言いましたけど、
全部がこれじゃないんだけどね。
一方、サマリア人はどうだったかというと
法律とか戒律のことなんて頭に浮かんでないんですよ。
そんとこを計算する余裕もないわけです。
ただ、体が先に動いた。
助けたいから助けた。
思考ももしかしたら働いてないかもしれないですよね。
体が直感的に働くわけです。
動いてくるわけ。
これが利他的利多です。
利己的利多と利他的利多。
ここなんですね。
宮台先生は宗教の話をしてるんだけど、
実はおっしゃってるのは体の話に僕は聞こえました。
法律の専門家も宗教の専門家も
頭で考えて行動を決めたわけです。
24:02
立法というルールを参照して通り過ぎた。
でもサマリア人は体が先に動いて駆け寄ったと。
この違いは何なのか。
体が先に応答できるかどうかなんです。
体の中にその人の、倒れている人の痛みに
反応する、共鳴する自分の実感とか記憶とか
回路というものが残っているかどうかなんですね。
これを宮台先生の言葉で言うと
内発性が生きているか死んでいるかという風に言います。
内発性が生きているのか死んでいるのか。
内発性。
内から沸き上がる力と申し上げます。
条件とか計算とか論理的な思考。
その手前で勝手に動いてしまう力です。
これがなければ人はどれだけ知識があっても
目の前の倒れた人を通り過ぎてしまうんですね。
もうちょっとイエス様の話をしますね。
祈りってありますよね。お祈りをする。
これがキリスト教の中での祈りというのを
2つに分けてみたいと思います。
1つ目は私がみんなを裏切らないように見ていてください。
見ていてください。私がみんなを裏切らないように。
これ、監視してくださいって意味ではないんですよ。
罰してくれとかね。そういうわけじゃない。
これは古い宗教に共通する
見る神の伝統であるという風に仰っています。見る神。
私は利他的に振る舞いたいですと。
サマリア人のように利他的に振る舞いたいんですと
手を合わせて祈ります。
でも弱い存在だから時々下手れになっちゃう。
悪いこと、人としておかしな方向に
物事を考えてしまう。そういう行動を取ってしまいそうになる。
だからあなたが見ていてくれるだけで
それに負けない力が出ますっていう。
そういう祈りなんだっていう風に宮田先生は言います。
私がみんなを裏切らないように見ていてくださいっていう風に祈る。
ダザイオさんの走れメロスってありますよね。
皆さん話覚えてますかね。
メロスっていうのは物語の中でずっと弱い人間として描かれています。
途中で何度も逃げ出すようになるんですよね。
そりゃそうですよね。あの距離を、あの時間で走らなきゃいけないみたいな。
27:04
でも友が待っていてくれている。
友が待ってくれている。見ていてくれているんですよね。
その見られている感覚っていうのが最後の力を引き出してくれた。
宮田先生はこれがイエス信仰、キリスト信仰に起きる本質的な救済だという風に言います。
キリスト教の中で救済っていう言葉が出てくるんですね。
これは天国に行けるっていうチケットをもらうことじゃない。
極楽浄土に行けるためのチケットをもらえるというわけじゃない。
永遠の命を得ることでもない。
ご褒美を得られるわけじゃないんですよね。
弱い存在のまま、それでも利他的に振る舞い続けられること。
これがサルベーション、救いなんだという風におっしゃっています。
2つ目の祈りです。2つ目の祈り。
キリスト教におけるお祈りの意味。
もう1つは私はあなたのものですっていうことです。
面白いですよね。すごく私はあなたのものですってキーワードだけ見るとすごく宗教的ですけど、
この意味をまた分解していってみましょう。
良かれと思って色々やったと。
でもそれが本当に良かったのかは自分には分かりません。
例えばナチスドイツの話が出てきます。
ナチスドイツって聞くと絶対悪のように扱われます。
のようにっていうか、ナチスの歴史があったからこそそういう風に言う人たちもいますよね。
絶対悪だ。絶対に許してはいけない。
これは昨今の日本のいじめとか暴力っていうものに関しても言われると思います。
差別とかね。
でも裏返してみれば、ナチスの歴史がなかったら今のドイツはなかったという風にも言えるわけです。
これはナチスドイツを肯定しているわけじゃありません。
暴力とかいじめを肯定しているわけじゃありませんよ。
でもこれを見ないことにしては先に進めないんですよね。
ナチスドイツっていうあの悲劇を徹底的に反省し続けたんです、ドイツ人は。
本当に申し訳なかったと。
あれだけの世界的な恐ろしい事件というものを起こして、残酷な事件というものを起こして、
もう穴に入って出てこれなくなっちゃいますよね。申し訳ない。恥ずかしい。
でもドイツ人はその罪というものを背負いながら、
30:00
それでも世界のために、自分たちの尊厳のために動き続けたわけです。
反省し続けたんですね、徹底的に。
そうすることでドイツというのはヨーロッパの中でも教国に名手になっていった。
ここで人間万事最大が馬という言葉が出てきます。
人間万事最大が馬。
良いことと悪いことの区別は、どこで線を引くかによって変わるんですね。
でもどこが終わりかは誰にも分からないわけです。
だからこそ、自分の善悪の判断に最終的な結論をつけるのをやめて、
あなたにお任せしますという風にお祈りの中で息を委ねるんですね。
これが私はあなたのものですというお祈りの意味だという風におっしゃっています。
この2つの祈り。
またちょっと体の話として分解してみます。大沼達也風にね。
そうすると、見ていてくださいというのは、
体を開いた、緩んで開いた状態を保ち続けるための支えの話でもあるわけです。
人は放っておくと自分を守りたくなります。
これは無意識のレベルですよ。防御に入ってしまう。
でも誰かが見ていてくれるという感覚があると、開いた状態を維持できるわけです。
周りとの繋がりというものを維持することができるんですね。
これって施術の臨床の場面でも起きるんですよ。言い換えられると思うんですね。
僕がクライアントの体に触れているときに、どんなに技術がすごかったとしても、
どんなにポイントをつけるような知識、解文学的な、運動的な、臨床的な知識があったとしても、
クライアントの方がリラックスして体を預けてくれないと治療の効果が出ないんですよ。
逆説的に言えば、そういったスキルとか技術、知識ももちろん大事なんだけれども、
大沼だったら任せられるなっていうふうに思っていただける、
そういう繋がりというものが相手の体を緩ましてくれるんですよね。
私はあなたのものですっていうお祈りに関しては、
身体の知恵に対する信頼の話、
頭で善悪を判断しようとするのをやめて、体が示す方向に委ねていく。
結果がどうなるかはコントロールできないけれど、
33:02
その流れの中に自分を置いていく。
これまさに身体に沿うということでもあると思います。
特に僕の発信とかに質問をいただったりとか、サポーターの方でも多いです。
自分で自分をジャッジしてしまうんですよね。
これは良いことだ、これは悪いことだっていうふうに。
でもそれを判断して良い悪い、善悪で判断するよりも、
事実こういうことがあったっていう一つの情報としてそれを得て、
それを知識として入れておきながら、
じゃあ体はどっちの方向に進みたがってるのかっていう、
その感覚の方に従っていくことが重要になってくるんですよね。
そんなようなことをこの話を聞いてて思い出しました。
もう一つですね、イエス様の話の中で大事なポイントがあります。
宮台真理先生の
一人の相手をかけがえのない存在として愛し抜く経験というものが
見知らぬ他者への愛の土台になるっていうふうに言っているんですね。
一人の相手をかけがえのない存在として愛し抜く経験というものが
見たことも聞いたこともない目の前の人への愛の土台になる。
寝ても覚めても一人の人を思い続ける。
その人のためなら命を捨ててもいいっていうふうに感じる。
皆さんは経験あるでしょうか。
その経験がない人っていうのは
駅のホームから線路に落ちた見知らぬ人を助けに飛び込むなんてことは
自分のこととして引き受けられないんだっていうふうに宮台先生はおっしゃっています。
これ逆説的な話なんですよね。
一人だけを特別に思うっていうことは
見知らぬ多くの人を助けることとは一見すると別の話に感じます。
社会性あるの?みたいな。
すごい個人的で利己的なんじゃないの?っていうふうに思うこともあると思うんですね。
でもこれ実はつながっているんです。
一人の人を深く愛する経験というのが
自己保身の論理に最初の穴を開けるんだっていうふうに言うんです。
自己保身の論理。
一番最初に話した社会システムの問題ですね。
自分より大切な存在が現れるっていうことです。
その人のためなら損をしてもいい。
危険を引き受けてもいいと。
36:01
そんなふうな存在が現れたときに
損得マシーンとしての自分に亀裂が入るわけです。
これしたら損だからなーって思ってた自分が
目の前にその人が現れたことによって
いや、損してもいいからこいつのためになることをやりたい。
この人のためにやりたい。
そうやって一度その亀裂が入ってくれると
その回路は他の場面でも発動するようになる
っていうふうに言うんです。
未知らぬ人が倒れていても
体が先に動いてしまうようになると。
ここでもやっぱり体ですよね。
完全に体の話ですよね。
恋愛とかって好きになろうって決めて
好きになるわけじゃないと思うんです。
特に今マッチングアプリとかが問題になったりとかしますけど
ラベリングじゃないですよね。
年収がこうだからとか
仕事がこういう系だからとか
美系だからとか
痩せてるから。身長が高いから。
優しいから。
いろいろ口では皆さん言うと思います。
でも、そうは言っても
それはきっかけに過ぎないと思うんですよね。
この人だったら結婚相手として
ふさわしいからずっと一緒にいるって
そんなアホな話はないわけです。
体が勝手に反応するんですよね。
恋をした時の心臓のパクパクとか
相手のことが頭から離れないとか
恋を聞くだけで体の状態が変わっていく
その感覚。
これは意思の力ではないですよね。
思考でどうこうしている。
コントロールしているわけじゃないんです。
体で起きている反応、出来事。
宮台先生はこの
体の出来事を通過すること
この反応を感じるということが
人間を入れ替え可能な部品から
かけがえのない存在へと変容させる
きっかけになるというふうにおっしゃっています。
入れ替え可能な部品から
かけがえのない存在へと変容させる。
今、宮台先生の話を引用したので
恋愛とか
憧れるくらいの
誰か愛するみたいな例を使いましたけど
全然恋愛に限って話じゃないんじゃないかな
って僕は思うんですね。
僕の場合であれば
我が子が生まれた瞬間に
ちょっと臭い言葉で言えば世界が変わりました。
同じような経験をしたという人は
とても多いと思います。
この子の今抱いた瞬間に
この子のためなら何でもする
よく言いますよね。
我が子のためなら鬼にでもなる
親ってのはそういうもんだっていう風に
39:02
それを聞いたことはあったけど
自分の体の内側から湧いてくるものとして
その言葉が思い出されたんですよ。
この感覚ってあれか
それも頭で子供を愛そう
親っていうのは子供を面倒見るもんだから
自分の親もこうやって見てきてくれたから
こう思うっていうわけじゃないんですよね。
体がそう感じて反応してしまったわけです。
意図せずに。
そういう体が先に応答してしまう経験というものが
自己保身の壁を内側から壊していくっていう風に
いうわけです。
ちょっと話が長くなってきちゃったな。
もうちょっと話したいんですけど
長すぎる。
せっかくなのでちょっと次回に
持ち越そうかなと思います。
今はね、いただいたお悩みのところから
キリストの話で色々解釈をしました。
宮大臣先生の話に応して
キリストの話で解釈をしていきました。
次回は仏陀、お釈迦様の話
仏教ですね、の話から
さっきの私じゃなくてもいいんじゃないかなっていう
その感覚について
さらに深掘りをしていこうと思います。
もし面白かったよっていう方
応援してるよっていう方は
ぜひコメントいただけると
大野本さんが大変喜びますので
ぜひよろしくお願いします。
じゃあまた次回
いらっしゃるのをお待ちしております。
それではまた。失礼します。
41:01

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