1. 身体の教養ラヂオ
  2. 【後編】子供の飛び方から、大..
【後編】子供の飛び方から、大人の飛び方へ|身体の教養とは何か
2026-06-03 26:08

【後編】子供の飛び方から、大人の飛び方へ|身体の教養とは何か

自分を分析するツールはたくさん試した。MBTI、HSP、ストレングスファインダー、エニアグラム。自己理解はできているはずなのに、なぜか生きやすくなっていない──そんな停滞を感じたことはありませんか。それは「俯瞰で意識的に見つめる」つもりが、いつのまにか頭の中だけで完結する「思考の檻」になっているからなのかもしれません。今回は宮崎駿監督の「俯瞰で意識的に見つめる」を身体の方から読み替え、「身体の教養」とは何かを話していきます。「キキはなぜ飛べたのか|宮崎駿『血で飛ぶ』と身体の話」シリーズの後編です。後編(今回)でお話ししているのはこんな内容です。・宮崎駿「いくつになっても成長したいなら、自分を俯瞰で意識的に見つめる態度が必要」・デカルト「我思う、ゆえに我あり」が遺した、身体を置き去りにする思考の罠・「思考の檻」──記号と物語だけで自分を捉えようとする状態・体を観察するのではなく、体に同一化する/体に問いかける・メルロ=ポンティ後期の言葉「反省とは、自己との差異の欠如、沈黙せる同一化である」・第二次言語(HSP・愛着障害・人見知りといったラベル)と第一次言語(ふわーっと・ここが詰まる・なんて言っていいかわからないけど…)・中動態──涙が出る、眠くなる、心が動く、その仲間としての「身体に焦点を当てて待つ」・養老孟司の「手入れ」──庭師は庭を完全に管理できない、けれど手は離さない・キキの最後の飛行、トンボを助ける場面で身体に起きていたこと・身体合理性と理性の循環──野生を抑え込むのではなく、承認し、豊かに開いていく・子供のままの飛び方ではなく、大人の飛び方として3回のシリーズの締めくくりです。「学んでも変わらない」「分析するほど苦しくなる」と感じている方に、特に聴いてほしい一本です。------身体の教養ラヂオ/のんべんだらりと暮らすだけお手紙・ハガキ募集中です。〒981-0811宮城県仙台市青葉区一番町一丁目12-39-503大沼鍼灸 宛話している人についてhttps://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma#身体の教養 #ソマティクス #魔女の宅急便 #ジブリ #中動態 #養老孟司 #メルロポンティ #身体知の書庫

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:01
ここで宮崎監督がもう一歩を踏み込んで話しています。
いくつになっても成長したいのであれば,
自分の才能,つまり能力というものや自分の気持ちについて,
俯瞰で意識的に見つめる態度が必要なんだと。
俯瞰で意識的に見つめる。
この言葉というのは,ともすると自分の外側に立って,
自分を観察するような身振りに聞こえるかもしれません。
西洋の哲学というものには長くそういう伝統があったんですよね。
デカルトが,
我思う,故に我あり,
という言葉を残しています。聞いたことあると思います。
でその,そこで言っている,
思う私っていうのは,
身体から切り離された純粋な思考の場所として描かれていたんですよね。
心というのは身体から離れていて,
自分を冷静に観察できるという考え方なんですよ。
でもこうした俯瞰の態度にはちょっとある種の危うさが伴うんですよ。
身体から離れて,思考の中で自分を観察するというのは,
一見知的で落ち着いた態度に見えるんだけれども,
身体の観点から見ていくと,
これは身体を置き去りにしたまま,
頭の中だけで自分を組み立てているような状態でもあるわけなんですよ。
だって身体には身体の事情があるでしょう。
で僕らっていうのはこの身体の中に生きてますよね。
魂が身体の中に入っているのではなくて,
この身体自身が私なんだという考え方を身体論ではするわけです。
でこういうふうに,
頭か身体を置き去りにしてしまっている状態というものを,
僕は思考の檻というふうに言っています。
思考の檻というのは身体の声を遮断して,
記号と物語だけで自分を捉えようとするという状態のこと,
自分について語る言葉というものはたくさん持っているんだけれど,
身体で何が起きているかというものは置き去りになっているんですよね。
一見成熟した態度に見えるんだけど,
知的な態度に見えるんだけれど,
その実は身体合理性からはどんどん遠ざかっているわけです。
ある音楽を聴いて,めっちゃいいよね,なった時に,
その音楽によってそのいいという感覚を自分の中で芽生えているはずなんですよね。
それをありありと感じているのか,
それとも感じていないけど,
なんかこの人こういう風にこの音楽を言ったら喜びそうだなとか,
この音楽ってイケてるから自分もそれを褒めていいって思われたいなみたいに,
03:05
この音楽は何年の,どういうプレイがされてて,
どういう音楽の理論が使われてとかっていうふうにラベルで埋め尽くしたくなってしまう,
これが思考の檻の状態です。
そういった状態ももちろん知的で素敵だし,僕も好きなんですけど,
身体性の観点だけで言えば,
もうめっちゃこれ好きなんですとか,
もうマジやばいっていうふうに,
語彙が足りてなくてもその感覚っていうものを感じている,
自分の中で受け取れている状態っていうのは,
非常に身体性に富んだ素敵な人だなと思います。
これも一種の知性なんですよね。
身体値,身体知性っていうふうに言ってもいいと思います。
宮崎監督が言っているのは,おそらく校舎の方,
体の方からこの俯瞰的で意識的に見つめる態度っていうものを読み換える,
つまり体に焦点を当てる,そういう意図を持つっていうことなんですよね。
体を自分の外にある観察対象として眺めるんじゃなくて,
客観的に自分はどうかなっていうふうに評価するんではなくて,
自分の側に立つ,体の側に立つ,
体が今何を感じているのか,どう反応しているのか,
どこが楽で,どこが詰まっているのか,
どんなふうに感じているのか,その手触りっていうものに意識を寄せていく,
自分の体を対象として観察するんじゃなくて,
体に同一化するんですよね。
体が感じていることに焦点を当てると,
体を分析するんじゃなくて体に問いかけるっていうふうに言ってもいいかもしれません。
これをメルロポンティが後期に到達した言葉,晩年に言った言葉で言うと,
反省とは事故との際の欠如,沈黙せる同一化であるっていうふうに言ってます。
ちょっと難しいんですけど,難しい言葉なんですけど,
簡単に言うと,自分を見るっていうのは,
自分から離れて自分を眺めることじゃないんだって言うんですよ。
自分と自分の間で距離を作らないで,静かに自分と重なっていく,
そういう種類の見つめ方があるっていうことなんですよね。
俯瞰の高さっていうのは体から離れていく高さではなくて,
体に深く入っていくその純度,質,っていうふうに言っているわけです。
体に深く入ってくっても,そこに言葉が全くいらないってわけじゃないんですよ,実は。
06:00
むしろ体の中で起きていることに対して言葉をつけていくことでより深くに入っていける。
体の中で起きている,なんだろう,この嫌な感じ,このすごい良い感じ,
これを苦しいって言うんだ,これを嬉しい,幸せっていうふうに言うんだ,とか,
これは胸が苦しいぞ,とか,背中のところが嫌な感じがする,ぎゅーってする感じがする,
いろんなその感覚にふさわしい言葉っていうものがたくさん揃っていくと,
さらにその自分の感覚っていうのを細分化して感じ取っていくことができるんですよね。
もちろんちょっと違うんだけど,ぎゅーっていう感じに近いけどちょっと違うんだよなーって言うのももちろんあっていいんですよ。
ちょっと違うんだよなーってなることでよりその自分の感覚っていうものが浮き彫りになっていくんですよね。
無理やり言葉に当てもはめる必要はないんです。
この言葉が近いなっていう見つけ方。
メロル・ポンティはこういった自分の感覚とか言葉っていうものを第二次元語と第一次元語っていうふうに区別をしています。
第二次元語っていうものが,ナンバー1,ナンバー2のことね。
第二次元語っていうのは既に固まったラベリング記号の言葉のことです。
誰かが先に作っていてみんなの共通認識として使われるものです。
私はHSPですとか,愛着障害とか,
人見知りとか,スランプとか,不安症とかね。
こうしたラベルとか診断っていうもの,もしくはそこに物語っていうものが付随されていたりもします。
ADHDとかね。これが二次元語の領域。
第一次元語というものはまだ言葉になっていない,
これから生まれようとしている表現,
つまり体の中から始めて立ち上がってくる言葉のことなんですよ。
ふわーっとしたとか,根が詰まってるとか,だらーっとか,
なんて言っていいかわかんないけどこういう感じがするっていうものが第一次元語です。
俯瞰で意識的に自分を見つめるっていうものは,
この第二次元語の中だけで自分を分析することではなくて,
この第二次元語の固まった連鎖っていうものを一度止めて,
体の方に意識を返してあげて,
そこから第一次元語が立ち上がってくるのを待つ,促す,
そういう作業のことなんですよね。
これが僕が提唱している身体の教養としての意識的に見つめるというものになります。
09:06
体の声を聞く,自分を反省していく,
身体の教養というのは体の声を読み取って体に応答できる力のことです。
この第一次元語の声を引き出していく,
聞いていく,その作法を学んでいくということですね。
ここでちょっとウルスラの話に戻りましょう。
聞きはウルスラと話しながら自分の中の何かというものを語り直していくんですよね。
あの場面で起きていたのがまさに今話したこの作業だったんじゃないかなと思います。
自分の状態を分析する作業ではなくて,
誰かと話しながら自分の体の中からまだ言葉になっていない
あの感覚というものがゆっくり立ち上がってくる,思い出されてくる,
第一次元語が生まれなおしていく場面と言ってもいいのかもしれません。
意識的に見つめると言っても,
私自分自身が能動的に見つめるというのとはちょっとニュアンスが違うんですよね。
体に焦点を当てる意図を持つ,そこが能動的。
そこで何が見えてくるかということなんです。
何が立ち上がってくるかな?
そうすることで,おそらく自分の体はこうなんだろうという風に,
可能性を狭めないようにするという姿勢が非常に重要です。
これを能動的でもないかつ受動的でもない,
一方的にならない姿勢という意味で,
中導体という言葉を使ったりします。
私がする,体にしてやる,これが能動。
引き出されるのを待ちます,いつかそうなるはず,という風に受動する,
これが受け身ですよね,受動。
このどちらでもない,自分という場所で物事が起きているような状態というものを中導体という風に言います。
両方が起きているということですね。
例えば涙が出るとか,眠くなるとか,心が動くという,
あれって泣いてやろうというわけじゃないし,
寝てやろうと思っているわけでもないし,
心を動かしてやろうとやっているわけじゃないですよね。
何かきっかけがあって,なおかつそれに対応できる自分というものがあって,
自分の身体というものがあって,
能動でもなく,受動でもなく,それが混ざるような形で,
中導体的にその感覚,感情,行為というものが生じる,
あの感じのことです。
体に焦点を当てて待つというのも,これに近いんですね。
12:01
私が見つめに行くというよりも,
私の中で何かが見えてくるんじゃないかという風に意図を向ける,
そして促していく。
これヨロータケスさん,ヨロータケス先生,
馬鹿の壁というものを書いた有名な解剖学者の先生ですね。
という方が,
手入れという言葉で書いていた態度にすごい近いものがあります。
庭師というのは,
庭を完全に管理することはできないんだと言うんですよ。
手をかけてやるけれども,待つ。
そうすると庭がまた育っていって,またそれを手をかけていく。
庭の側から立ち上がってくるものに応答しながら,
完全にコントロールしようとはしない。
それでも手は離さない。
俯瞰で意識的に見つめる態度というのも,
こういう種類の手入れに似ているんだと思います。
庭ではなくて,
自分の体に手をかけて,応答してくるものを待つ,
また手をかける。
意図は持つけれども,結果はいそうがない。
むしろ,自分が最初意図したものとは,
全く違う形になっていくこともあるかもしれません。
結果として,その方が庭がいい方向に育つということがあるわけですよね。
つまり,環境の知恵というものも受け取っていくこともできるわけです。
一方的にはそれはできないんですよね,なかなか。
ウルスラのところで聞いているのは,
この種の関わりというものを,
自分自身の中でも,周りとの関係の中でも,
応用できるものを経験したんじゃないかなというふうに思うわけです。
そうやって,キキは最後にもう一度物語の終盤で飛ぶことができますよね。
知り合いの少年,
たぶんこの時恋してますよね,たぶんね,わかんないけど,
トンボが,トンボが,
暴走した飛行船から落ちかかっちゃう。
あれは子供流れに冷や冷やしました,すごく。
で,あの時のキキの飛び方というものは,
最初の血で飛ぶという感じとはもう違うんですよね。
血で飛んでいた頃の無自覚さというものは失われているわけ。
でもその代わりに,自分の体と目の前の状況と,
助けるべき相手,他者と,
それら全てに焦点を当てるという意図を持っているわけです。
試行錯誤しながら,頑張って飛んでますよね。
怖がって守るような頑張り方ではなくて,
どうやったらあそこに行けるんだろう,
あのトンボのところ,トンボを助けることができるんだというように,
必死に体を環境に沿わせていっている,
柔軟さを必死に取り戻そうとしながら,
15:01
時間で意識的に見つめる態度というものは,
野生としての身体値を否定するものではないんですよ。
意識的に体に焦点を当てる。
そういうふうに新天の教養というふうに僕が言っていると,
結局のところ,野生としての体,
僕らの何となくとか生まれついてのものというものを否定して,
じゃあ理性で管理すればいいのだというふうに聞こえてしまう場合もあるかもしれないんですけど,
理性で野生を抑えつけるというものでは全く違うんですね。
理性的に体を捉えようというのは,
野生を抑え込む方向に向かってしまうことが多いです,確かに。
本能を理性で制御する,
感情を理性で押し殺す,
欲望を理性で管理する,
西洋学的なこの意志というものをテーマに上らせたときに,
長らくやっぱりこういう考え方というものが行われてきました。
ストイックの語源になっているストア派,ストア派っていう,
あれはキリストかな,
考え方,当時の主流的な考え方ですよね。
僕らのストイックみたいなものというのはまさにこの理性で,
理性で野生をコントロールするという考え方なわけなんですよ。
だから僕らが当たり前に,ストイックだなあとか,
ストイックに行きたいなあとかって思うときっていうのは,
多くの場合やっぱりこの野生というものを抑えつける方法が
いってしまいがちなんですね。
一方的になってしまうということです。
でも,身体の教養でお伝えしているこの理性というものは,
ちょっと違う方向性を持っているんです。
野生であるその身体値というものが,
状況の中で常に何かに反応していると,
違和感を感じている,動きたがっている,
あるいは固まりたがっている,
その時,思考の檻というものでは,
いや,そんなことを感じてはいけない,もっとがんばれ,
みんな我慢しているんだ,
そんなふうに野生を抑え込みにかかります。
だけど身体の教養はそれと逆の方向に行く,
ああ,そっちねと,体はそう感じているのね,
うん,そっちでもいいよと,
もしくは,そう感じているのが自律だけれども,
じゃあ体に対してこういうふうに促していってあげようかな,
野生の声というものを尊重するんですよ。
そうするとその尊重された野生というものは,
抑え込まれるわけではなくて,
開かれて豊かになっていく,
野生は完全に悪ではありません。
身体知性ってさっき言ったように,
僕らの理性では抱えきれないくらいの情報を処理していたりとか,
18:00
類まれなる知性というものを持っているんですよね。
これが僕の臨床における身体合理性とか,
理性の循環というふうに呼んでいるものの正体になります。
身体合理性,つまり,
体のシステム全体が満足に,
十分にこうできているという正体は,
理性によって承認されることであって,
そうすることでさらに開かれていく。
理性は身体を制御するのではなくて,
身体が動いていく方向に,
後ろから手を添えていくということなんです。
野生としての身体が動いて反応している,
それを僕らは理性で認識して受け取っていく,
変なラベルを張らずに,
抑えつけずに,
認める,承認する,
そうすることで身体がさらに開いていく,
理性がまたそれを受け取って,
という循環が起きていくわけです。
キキが最後に飛んだ時,
彼女の中でまさにこの循環というものが起きていたのではないかと思うんですよね。
身体で飛んでいた頃のキキというのは,
野生だけで飛んでいたと,
だから新しい状況に出会った時に,
応答する手立てというものを身体が持っていなかった,
経験したことないからね。
子供ですよ,だから,そういう意味で。
ウルスラ,あの,
絵描きの女性との中で,
その女性との会話の中で,
キキというのは身体に焦点を当てる作業というものを経験したわけなんです。
自分と,自分を見つめる術というものを,
彼女から学んだのかもしれません。
そうすることで第一次元語が生まれなおして,
それを認識するようになった,
認識できるようになった。
そうやってトンボを救う場面では,
野生としての体が動こうとして,
それに対する,
それに対して進展の許容としての理性というものが,
そっちでいいよというふうに承認する。
承認された野生,
自分の中の当たり前というものは抑え込まれずに,
むしろ豊かに開かれて,
もう一度立ち上がっていった。
つまり,自分の意図するようにも
コントロールできるようになった。
コントロールというと違うな。
可能性が広がったというふうに言うでしょうか。
おそらくこういう経験を得た機器というものは,
怖い場面とか,逃げ出したくなるような場面でも,
飛ぶことができたりとか,
調子が悪いぞという日にも飛べるようになったりとか,
野生に縛られずに,
理性でも野生に縛られず,
21:00
野生の可能性というものを広げるということも,
おそらくできる方向になったんだと思います。
身体の許容としての理性というものが,
野生を引き立てる,
それがあの最後の飛行で起きていたことなんじゃないかなと思うわけです。
ここで宮崎駿監督の言葉にもう一度戻りたいと思います。
無意識に成長することは不可能である。
これを体の方から読み換えるとこうなります。
野生としての身体値,
本能だけではある段階で必ず行き詰まる。
生まれながらの応答能力というものは,
新しい状況とか,新しい関係性とか,
新しい役割というものの前で,
組み換えを要求されるんですね。
その時,意識的に体に焦点を当てる作業,
つまり身体の許容というものを持って,
自分の体の感覚というものを立ち上げて認識させるということができないと,
組み換えのプロセスというものは,
野生に頼り切るか,
もしくは,頭の中の物語と分析だけで進もうとしてしまう,
理性に閉ざされてしまうわけです。
だけど,体が動かないまま,
頭だけが回り続けるその状態というものこそが,
思考の檻に閉じ込められていくということでもありますよね。
野生には限界がある。
だからこそ理性を持って,
野生を豊かに広げていく必要があるのだと。
ただし,この理性というのは体を抑え込むわけではないのですよね。
体に承認を与えて,
可能性を広げていく,
俯瞰して意識的に見つめていくというのは,
体から離れていくことではなくて,
体に深く入っていきながら,
そこに焦点を当てる糸を持ち続けるということ,
地で飛ぶだけではある日必ず飛べなくなるわけです。
僕らもあると思うんです。
これを聞いてくださっている皆さんも,
急にできなくなる場面がね,
いつもと同じことだったけどできなくなるみたいなこともあるかもしれないし,
ちょっと環境が変わる,
ちょっと仕事が変わるというところだけでも,
あれ?みたいに思うことがあると思う。
これは壁だなみたいな,
成長するきっかけだなみたいに言う言葉もありますよね。
でもそんな時にも,
じゃあこの課題をどう解決するっていうのを,
理性だけで解決しようとするのではなくて,
野生だけに頼り切るのではなくて,
両方を立ち上げていく,
高いレベルで保っていく,
24:00
そういった考え方というものができるんじゃないかなと思いました。
つまりそれは子供のままの飛び方ではなくて,
教養を持った大人としての飛び方ということですよね。
魔女の宅急便という作品は,
もしかするとこういう話を言いたかったんじゃないかな,
いや,言いたかったって言ったらちょっとおこがましいんで,
僕はそういうふうに大人になってから見たらね,
受け取りましたっていう話です。
こういう作品はさ,
これを見てどういうふうに受け取るかっていうものは,
それこそその人の当たり前,
身体図式というものによって受け取れるものって変わってくると思います。
僕あんまり物語でこう泣いたりみたいなことないんですよ,
ちぶりとかで。
でも多分魔女宅を見ると涙が出ちゃうという方もいるかもしれないし,
あの,もしくは僕はこう,
お父さんと娘の物語みたいなものにすごく弱いんですよね。
多分それって自分に実際娘が生まれて,
子育ての中でいろんな経験をしているからこそ,
多分こうする身体というものが出来上がってきているのかもしれない。
そういうふうに自分の身体性によって見える世界というのは変わってくるんだと思います。
だとすれば,その身体性というものを広げていくことで,
世界というものはどんどんどんどん広がっていくということでもあるんだと思うんですよね。
はい,ということで今日は魔女の宅急便の話から,
いろいろ広げさせていただきました。
中で,あの,途中途中ちょっと今日難しい言葉も吐いてきちゃったりしたかなと思ったんですけど,
楽しんでいただけたら嬉しいなと思います。
今日もこれで,身体の教養ラジオこれで終わりにしたいと思います。
今日ものんべんだらりと行きましょう。
またぜひ遊びに来てください。
大沢哲哉でした。
26:08

コメント

スクロール