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人間不信になりそう|人を見抜くことは「不可能」なの?
2026-05-25 17:16

人間不信になりそう|人を見抜くことは「不可能」なの?

いろんなことが重なって、人間不信になってしまいそう。「やっぱりクズだった」を繰り返してしまう人、人を見抜こうとして疲れている。

そもそも、人を見抜くということが原理的に難しいのではないか、という話をしました。

癖と野生のあいだで、身体に何が起きているのか。質問回答エピソード前編です。


ソマティックスタジオサポーターからいただいたDM質問への回答です。


最初の印象では良くない感じがした人。

話してみたら心地よかった。

でも、会話の中の言葉から「この人はクズみたいな人だ」という感じが立ち上がる。

それでも信じて関係を進めてみたら、やっぱりクズだった。

そういうことが、最近続いている。

ラベルは必要なのか。感覚だけではダメなのか。


そんな悩みを起点に、「見抜くこと自体が原理的に難しい」という入口から、野生・理性・癖の三層整理、そして「身体の反応は、ただ起きている事実」というところまで話しました。


「あの人がクズかどうかは、本当のところはわからない」──この一言が、たぶん前編の核心です。


続きの後編では、「信頼は結果と関係がない」「現象学のエポケー」「キリストと身体合理性の極限」まで踏み込みます。


ブログ記事「信頼するから、関わり続ける」と合わせてどうぞ。


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大沼鍼灸 宛


話している人について

https://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma

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サマリー

このエピソードでは、人間関係における信頼の難しさ、特に「人を見抜く」ことの原理的な困難さについて掘り下げています。リスナーからの「人を信頼することに悩んでいる」という質問をきっかけに、第一印象の違和感、会話から受ける印象、そして関係を進めた結果の失望といった経験が語られます。話者は、人を「見抜く」という行為自体が、過去の経験に紐づいた「癖」というフィルターを通して行われるため、本質的に難しいと指摘します。野生(本能的な反応)、理性(論理的思考)、癖(過去の経験による無意識の反応)の三層構造を説明し、私たちの身体の反応や判断は常に「癖」の影響を受けていることを明らかにします。そのため、「あの人はクズだ」といったラベリングや判定は、相手の全体像ではなく、自分自身のフィルターを通して作り上げられた像に過ぎないという結論に至ります。この理解に基づき、自分自身を客観視し、他者との関わり方を見つめ直すことの重要性が示唆されています。

リスナーからの質問と人間不信の悩み
こんにちは、大沼竜也です。
身体の教養ラジオ、今日ものんびんだらりとやっていきましょう。
今日はね、質問をいただきました。
Somatic Studioサポーターの方からの質問に答えていこうと思います。
でね、いただいた質問をちょっと僕なりに整理して読み上げていきたいと思います。
質問してくださった方が聞いていたら、ちょっと違うんだけどというのがあったら言ってくださいね。
またDMでちょっと連絡してください。
お話しましょう。
はい、じゃあちょっと読み上げますね。
人を信頼することに悩んでいるんです。
最初に会った時はなんとなくいい感じがしなかった。
でも話してみたら心地が良かったと。
楽しかったんだね。
一方で会話の中の言葉から、
この人はクズみたいな人かもっていう感じが立ち上がったと。
引っかかる言葉っていうのがあったんだろうね、キーワードが。
で、心地良さを信じて関係を進めてみたけど、
やっぱりクズだったと。
で、最近そういうことが続いている。
裏切られるようなことがいろいろあったのかもしれませんね。
そう考えるとこの人はこういう感じ、こういうキーワードを使う人ってこういう人かもみたいなラベルっていうのは必要なのかもって思ってるんですと。
感覚だけではダメなのかなって。
それと前女の先生が言ってた癖と野性の違いって何なんでしょうか。
私は何を信じればいいのか分かんなくなっちゃったっていうことですね。
ありがとうございます。
「人を見抜く」ことの原理的な困難さ
でね、この質問を頂いてすぐ返信できなかったんですよ。
どこからどう整理していいかなと思うくらい
僕が普段お伝えしたいなと思っていることの
結構確信をついてきてくださっている質問だなと思ったんです。
で、やっぱりクズだったっていうような
そういうある種なんだろう、自分の期待を裏切られるような
そういう体験っていうのを何度も繰り返してしまうっていうのは本当に疲れることだと思います。
しんどいですよね、やっぱ。
で、期待して信じてみて、また裏切られて
で、そのうち自分の判断にも自信が持てなくなっちゃったりとかして
私って人を見る目ないのかもなっていう風に
自分を責め始めちゃうっていうのが一番怖いことだなと思うんです。
だからしっかりちょっとこれは伝えておきたいんですけど
見る目がないとかね、見抜けなかったっていうわけじゃないんですよ。
そもそも見抜こうとするっていうこと自体が
難しい、構造的に不可能に近いんじゃないかっていう風に僕は思っています。
僕臨床の中でもね、こういろんな方の話を聞いたり
お体の状態聞いたり、お体触ったりとかね、動かしたりとかする中で
この人のこと分かったぞーみたいに思うことってほぼないんですよ。
なんとなくこっちなのかな?みたいなこう
当てがいろんなところでつくだけで
あ、そうなんだ、なるほどこうなのか、こっちなんだっていうような
そういう驚きの連続なんですね、こういう対人支援で人と関わるのって。
多分それってこういう専門職だけじゃなくて
日常の人との関わりっていうもの全て多分そうなんじゃないかなと思ってます。
びっくりすることばっかり。
で、まず聞いてくれた問いにまず答えてみたいと思います。
野生、理性、癖の三層構造
癖と野性の違いって何だろうっていうことですね。僕がよく使う言葉で
理性と野性と癖っていう風に言ったりします。
野性って言ってるのは
本来はね
今までの経験とかっていうものに関わらない、もう
なんだろうな
言葉とか
いろいろこう論理的にものを考えたりとかっていう、それ以前の
体の本能的な働きです。これを野性っていう風に言っています。
その場の体の直接の応答のことをですね、なんか熱いもの触った時にアツッってなったりとか
大きい音になった時にビクンってなったりとか
エネルギーが不足してくればお腹空いた
目の前のものにガッツクとかね、そういうのも野性だと思っています。
分かりやすいのは睡眠、性欲、あとなんだっけ、食事か
みたいなものですかね。三難要求みたいなもの。こういったものが一つの野性だとする。
対して、対させるつもりはないんだけど
分かりやすく区分するものとして理性っていうのは
本来は純粋な論理とか反省のことです。
AIとかLLMが得意な分野ですよね。こういう風にしたらいいんじゃないか、こうこう、こうだからこうじゃないか
っていうものです。過去のことを振り返ったりとか、未来のことを考えたりっていうのもこの理性の働きですね。
そして癖っていうのは
過去の経験というものが体に染み付いて、自分の無意識レベルにまで染み付いて
自動で動くようになったもの。心理学の用語でバイアスって言ったりとか
するものだったり
あとは現象学的な身体論とかで言うと身体図式って言ったりします。
まあざっくり言うと自分の中の当たり前っていうことですね。
普通こうじゃないとか自分の中の普通、当たり前っていうことです。
これって今までの経験が
作っているものなんですよ。これは良い癖だろうが悪い癖だろうが関係なくて
なんか物事があった時に良い方向に捉えるっていう癖がある。
なんか物事があった時に悪い方に捉えるっていう癖があるっていうようなもんで
精神的なそういう癖っていうもののものもあるしその基盤の
その基盤として
ニュースを聞いた時に身体がこわばる癖があるとか
それに対してふわっとしたいつもの緩んだ状態で力抜けた状態でそのニュースを見れるっていう癖があるっていうような
理性の癖、その基盤には野性の癖っていうものがあるっていう風に考えるんですよね。
野性も理性も純粋なものとしては現実に取り出せないものなのかなって僕は思っています。
野性理性って言葉で並べてみるとそれぞれこう別物で
愛対するものっていう風に見えるかもしれないんですけど
僕らの実際の反応の中ではいつも何かしらの形で過去の経験っていうものが
つまり癖ってものが混ざってくるものなんですよね。
これがないっていうのは経験が一切ないっていうことでもあるし
なんなら遺伝子レベルでも僕らの癖っていうのはおそらく形成されているんだと思います。
だから第一印象で例えばフラッと立ち上がるような違和感
会話をしていて立ち上がってくる違和感っていうものとか
話していて感じる心地よさみたいなもの
それから言葉からその言葉キーワードを聞いた時に
こういう人ってもしかしてこういう人かもっていうような
そういう理性での癖っていうものも
どれも過去の積み重ねが絡んでいるわけですよね。
だからこそ純粋な野性の反応とか
純粋な理性の判断っていうもの風に切り分けるのは
まず原理的に難しいです。
癖はいつもあるんですよ。
常にある前提としてね。
身体の反応と自己のフィルター
だから人と一緒にいる時
体はいつも何かしら動いています。
肩がふーっと固まったりとか
もしくは胸が広がったりとか
もしくは呼吸が浅くなったりもしくは深くなったり
自分でもなかなか意識に昇ってこないレベルで
いろんなことが起きています。
そういう反応が起きている。確かに起きている。
これは事実ですよね。
反応が起きているっていうのは起きているっていう事実だけなんですよ。
なんかちょっとこう難しくなってきたね。
それを僕らっていうのは
やっぱりこれも本能的な一つの癖なのかもしれない。
人間としての癖なのかもしれない。
体が怖がったからこの人は危ない人だとか
体が緩んだからこの人は安全な人だっていう風に
何かを結びつけたくなっちゃうんですよね。
その因果っていうものを求めたくなっちゃうもの
らしいんですよ。
でもよくよく考えてみればね。
シンプルに机の上に並べてみれば
体の反応そのものには相手のことがそのまま現れているわけじゃないんです。
自分というフィルターを通している。
自分の癖っていうフィルターを通しているから。
ただ反応は起きている。
それ以上でもそれ以下でもないっていうことなんですよね。
だからこそこの人はこういう人なんだ。
体の反応がこういう風になっているからこういう人なんだろう。
この出来事っていうのは体の反応がこうだからこうなんだろうっていうような
一つ結びつける動きっていうのは
反応とは別のところで起きているわけです。
別の作業だよね。
そしてその結びつける作業っていうのが
多分過去の経験から学習されたパターンですよね。
つまり自分の癖だ。
自分が怖がったらそういう人だっていう繋ぎ方も
これもまた癖なんですよね。
体の反応を信じるっていうような方向性で考えたとしても
その結びつけ方を選んでしまっている時点で
もう癖にとらわれているわけです。
これってとらわれているからだめだよじゃなくて
みんなそうなんですよ。そういうもんなんですよ。
だとするとそういうもんなんだなっていう状態で
自分を客観的に見る、眺めていく必要がある。
できる限りね。
心理学とかで言うメタ認知っていうところに
含まれてくるのかもしれません。
ラベリングと自己の癖
質問の中にもう一回戻っていくと
キーワードから立ち上がったクズだっていう感じが
結果として当たっていたと。
心地よさっていうのを信じてたけど
どうやら外れてしまったようだと。
これを読んでね。
だからラベルの方を信じればいいっていう風に
読むこともできるし
体の中の警告を聞けばいいという風に
読むこともできます。
でもこれももうちょっと客観的に見てみると
クズだったと感じた。
関係を続けられなかった。
傷ついた。
こういう事実、それは事実ですよね。全部ね。
だから否定しなくていいんですよ。
本当に起きたことだし
感じたことだし
思ったことだから。
だからこそ
その事実から
あの人はクズだった。
だからレベルが上がって
ラベルって当たってたんだ。
私の見たって当たってた。
っていう風に結びつけて
ある種ね、一定の判定っていうものを
作り上げる動きっていうのは
起きた事実とは別であるわけですよね。
それの作業っていうのもまた
自分の癖なんですよ。
何回も言うけど
この癖は悪いわけじゃないですからね。
事実としてあるということです。
で、こういう場合は
こういう人だったっていうような
ラベルをね
自分の記憶の中に焼き付ければ
次に似た場面が来た時
同じような状況って
おそらく何回も人生の中であると思います。
また同じラベルっていうのが
自動的に立ち上がってきます。
人間は賢いんでね
前あったことっていうのを
過去の経験から
計算するようになる、反応するようになる
癖ですよね。
すごく合理的なんですよ。
だけど
そうすると目の前の新しい人を
過去の枠で
見るようになってしまうわけです。
そしてまた判定して
また記憶して
またジャッジメントして
癖が癖を育てて
いくわけです。
それを繰り返せば繰り返すほど
自分が
自分の癖に縛られて
いくんですよね。
世界がどんどん狭くなっていってしまう。
こういう問題が
歪症化されていって
しまうんです。
多分ね
相手の全体像を捉えることの不可能性
あの人がクズかどうかっていうのは
本当のところは
多分わからない
んですよ。
質問者さんが
間違ってるってわけじゃないからね。
そう感じたのは本当。
そういう事実があったのも本当だし
そう思ったのも本当だし。
だけど
その人にも
相手にも
その人の事情とか状況っていうものが
おそらくあると思います。
別の場面では別の顔があるかもしれない。
僕らが見ている
っていうものは
その人と関わったときの
自分の体の反応と
自分の中に立ち上がるラベル
っていうところだけなんですよ。
実はこの多様にできるところってね。
目で見えてるじゃん
っていうその見ているところすらも
僕らの
自分の癖っていうものに制限されて
います。
街を歩いててもさ
よくあるよね。
街を歩いてて
車好きな人って
車ばっかり目に入ってくる。
お洋服が好きな人は
お洋服ばっかり目に入ってくる。
同じ景色が
同じ視覚情報として
入ってきてるはずなのに
焦点が合うところっていうのは
やっぱりその人によるんですよ。
つまりその人そのものを
まるまる客観的に
しっかり見るってことは
僕らは実は構造的に無理で
それと向き合ったときに
どういう反応が出ているのか
それに対してどういう
身づけをしているのかっていうところ
でしかないんですよね。
実は。
でしかないって言うと寂しい感じするな。
そういうふうに
世界っていうのを僕らは
作り上げているんですよね。
その世界で生きている。
なのでやっぱりこの人クズだった
っていう判定はその人の全体像
を捉えたものじゃなくて
自分の中で組み上がった像なんですよ。
で、その
組み上げる作業っていうのは
自分の癖なわけだ。
もちろんね
今後の姿勢と行動指針
誠実みたいなのは倫理的にある
と思いますよ。みんなが共有できる
ようなこと。で多分
僕もこの
質問者の方
知ってるっていうか
何回かDMさせていただいて
交流させていただいているので
多分僕も
その相手の人が
いたら
嫌だなって多分思うような人
だったのかもしれない。
そう思うと思います多分ね。
なんだけれど
その倫理的な
一般的な話っていうのは
置いといてあげると
また別のとこに置いといてあげると
こっから
僕らがどういう姿勢を取ればいいのか
どういう風に行動していけばいいのか
っていうのがどこを向いていけばいいのか
っていうのがすごく明確になりやすい
と思います。
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