いろんなことが重なって、人間不信になってしまいそう。「やっぱりクズだった」を繰り返してしまう人、人を見抜こうとして疲れている。
そもそも、人を見抜くということが原理的に難しいのではないか、という話をしました。
癖と野生のあいだで、身体に何が起きているのか。質問回答エピソード前編です。
ソマティックスタジオサポーターからいただいたDM質問への回答です。
最初の印象では良くない感じがした人。
話してみたら心地よかった。
でも、会話の中の言葉から「この人はクズみたいな人だ」という感じが立ち上がる。
それでも信じて関係を進めてみたら、やっぱりクズだった。
そういうことが、最近続いている。
ラベルは必要なのか。感覚だけではダメなのか。
そんな悩みを起点に、「見抜くこと自体が原理的に難しい」という入口から、野生・理性・癖の三層整理、そして「身体の反応は、ただ起きている事実」というところまで話しました。
「あの人がクズかどうかは、本当のところはわからない」──この一言が、たぶん前編の核心です。
続きの後編では、「信頼は結果と関係がない」「現象学のエポケー」「キリストと身体合理性の極限」まで踏み込みます。
ブログ記事「信頼するから、関わり続ける」と合わせてどうぞ。
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大沼鍼灸 宛
話している人について
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サマリー
このエピソードでは、人間関係における信頼の難しさ、特に「人を見抜く」ことの原理的な困難さについて掘り下げています。リスナーからの「人を信頼することに悩んでいる」という質問をきっかけに、第一印象の違和感、会話から受ける印象、そして関係を進めた結果の失望といった経験が語られます。話者は、人を「見抜く」という行為自体が、過去の経験に紐づいた「癖」というフィルターを通して行われるため、本質的に難しいと指摘します。野生(本能的な反応)、理性(論理的思考)、癖(過去の経験による無意識の反応)の三層構造を説明し、私たちの身体の反応や判断は常に「癖」の影響を受けていることを明らかにします。そのため、「あの人はクズだ」といったラベリングや判定は、相手の全体像ではなく、自分自身のフィルターを通して作り上げられた像に過ぎないという結論に至ります。この理解に基づき、自分自身を客観視し、他者との関わり方を見つめ直すことの重要性が示唆されています。