どうなんだ?やっぱあれか?
最近何してた?みたいなそういう話からなんかな。
ああ、そっか。
僕はですね。
はい。
2ヶ月前に仕事を辞めましてですね。
もうひたすら家にいて、なんか本読んだり散歩したり、酒に酔いつぶれたりみたいな。
もうわけのわからん生活を。
急に書いたような。
何とは言わんけど。
生活をしております僕は。
結構ね、本読むのはね、はかどってて。
なんか、はかどってるといろんな本を買い漁ってる。
マジで。
買い漁りまくってるね。
それは何?どんな本買ったの?もう本当に雑食?
雑食やね。
はいはいはい。
まず、小説の技巧っていう。
いろんな作家がどういう導入をしてんのかみたいな。
小説のね。
なんかね、こんな感じ。
書き出しとか、もう本当にレトリック的なやつだね、文章として。
そうそうそうそう。
とか、ハマトの知的生活。
なんか、いわゆる俺とかムネとか、
創作に携わりながら知的なメディアというか、
そこに楽しみを覚える人間みたいなものを知的生活みたいな感じで言ってるんやけど。
なるほどね。
そういうのとか、セザンヌロン。
これ300円で書いたのよ。
お得。
バージニアウルフとか。
バージニアウルフ。
石室レトコさんやったっけな。
向尾田久二子とか。
向尾田久二子。
それこそ柳曽越、夏銘とか。
めっちゃ買ってんな。
中古しか買ってないみたいな。
はいはい。
なんかあれだね、ドキュメンタリーというか、本当に幅広いね。
今なんか横断したね、ジャンルを。
なんかいろいろ買ってるね。
なんかやっぱり、小説だけ読むっていう感じでもないというか、
なんか小説ってやっぱ物語って疲れるじゃん。
まあね。
うん。
なんていうか。
だからなんかいろんなエッセイ集とかも読んだりするんやけど、
なんかそれこそ最近思ったのが、読むって何よっていう。
なるほど。
そのことについて結構なんか考えてて、
なんか最後まで痛感して全て読むっていうことが、読むっていうことになるのかどうかみたいな。
多分そもそもそこからの定義を考えてみるみたいな。
まあそうよね。
ことを考えてて。
まあなんか読むっていう行為というか、そのものっていうのは主観的なものなのよね。
とても。
最後まで読んだかどうかみたいなことっていうのは。
ただそれも非常に大事というか、
まあそこがそもそもの、なんか読むっていう行為の起点になると思うんやけど、
なんかその人生で、というかこの自分の短い1年とかのスケールの間で、
そのいろんなものを知りたいとか、なんか全然そのそっちまで行けないなみたいな、その読めないなみたいなものって、
数多くあるじゃん。
数多くある。
だから、なんかNHKパックとか、なんかUNEXTとかいろいろAmazonとかであるんやけど、
なんかそれで100分で名著みたいなのがあるじゃん。
あれを買って、1ヶ月間なんか暇なとき見てたりするんやけど、
やっぱああいうのもいいなって思ったりとか、なんかブッダの言葉とかね。
なんか結構なんかね、いいのよ、あれ。
NHK強いよね、その辺は。宝の山やで、あそこは。
なんか専門家がみたいなのもあるし、ただそういうのも使いながらみたいな、
もういろんな、1日に3、4冊閉読してるみたいな感じ。
ええね、楽しい。楽しい。贅沢。そんな千人みたいな生活してる。
そう。
いいな。
寝るときとかは、久保田明さんっていう情熱大陸とかのナレーションの人。
多分聞いたら一発でわかるんやけど。
声、いい声の人や。
そう。その人が宮沢賢治とか芥川とか、そういう名作文学的なものを朗読してるのよ。
たぶんまあ、100年とか著作権的なあれで、たぶんそういうことなんやと思うんやけど。
いやー、宮沢賢治エグいよ。
贅沢や。
なんか朗読で聞いたら、いや、宮沢賢治のエグさをやっぱ痛感したね。
すごい、ほんとにすごい。
やっぱ体験としてだいぶ違うと思うよね。その朗読でかつその美声というか。
どちらかというと、演劇とかそういうのを鑑賞するのと近いような感覚というか。
そういうふうにちょっとやっぱ、その人の朗読って俺は感じとるんだけど、なんかどういうふうに違うとかある?
自分で言うのと。
例えば、なんかどんぐりと山猫っていう。
これも久保田明さんが朗読してるやつなんやけど。
おかしなはがきがある土曜日の夕方、一郎のうちに来ました。
かねた一郎さま、9月19日。あなたはごきげんよろしいほで、けっこです。みたいな。
最初のね。
そうそう。
わかるわかる。
あの、いわゆる山猫が日本の、日本というか人間の言葉を使って、一郎くんに手紙を送ってるんやけど、
一郎、その山猫の書く言葉が、文章が下手なんだと。
で、なんかこういうのも妙なそのうまさを感じるというか。
あー、なるほどね。
なんか、本来、俺がこう普通に読むときって、
この時代のバイアスもかかり、これが日本語的なのかとか、
これはただ単純に下手っていう認識でいいのかな、みたいな。
なんか、そのまま素通りしてしまう文章なのよ、たぶん俺は。
ただ、こう朗読で聞いたら、あ、そうよね、みたいな。
その下手さえだよね、みたいな感じがあったりとか。
確かに。
頭の中でこう流して、意味だけで、これは下手な文章だ、みたいな風にはっつけて、
そうそう。
次に進んじゃってるみたいなね。
そうそうそうそう。
そうなのよ、とかね。
結構、宮沢賢治の本って、なんか構造的に見てみたら、
割とその化け物が出てきたりとかするのよ、宮沢賢治って、急に。
そういうのが、なんかすごい、なんかこういう、やっぱり化け物なんやなというか。
あー、リアリティがね。
朗読で聞いてたら、そのリアリティがグッとくるみたいな。
うん。
宮沢賢治はたぶんすごい相性がいいと思う。
なんか、宮沢賢治の文章って、俺が思うには、そのイメージをする必要がない文章なのよ。
あー。
なんというか、俺もあんまり本読んでるときに、その文章の中で、
どういう、その人がどんな顔をしていて、みたいなイメージができんタイプの人間で。
なるほどね。
なんか、そういうイメージを求める、もう言葉だけで、その読ませるみたいな。
がすごくて。
はい。
なんか、その、いわゆる言ってみたら、その映像化できないやつみたいな感じなのよ。
そうだね。映像の向こう側の職者というか、写実というか。
うん。
なんか、もうすごいよ。なんか、もう全然普通にどんぐりと話してたりするからね。
なんか、どんぐりというか、その、リスとかモミの木とかと普通に喋ってるみたいなところがあるから。
うん。
あの、ありえないことを担保してるのは、そのイチロー君っていう子供であるっていうことので、それを担保させてるみたいな。
のがあったりとか。
構造的にね。
構造的にするのよね。
なるほど。
ぜひ、読んでみてください。
はい。
どんぐりと山猫。
そうね。
めちゃくちゃいいから、YouTubeで見れるし、読めるし。
そうだね。たぶん名前と、その、あの、タイトルで出てくるだろうし。
確かにね。
まあ、だから、そのリアリティだよね。そこの部分のさ。
やっぱりその、いわゆるチャッピー的存在っていうのは、いわ、まあ少なからず救いではあるとは思うから。
うん。
だからまあね、そこは何とか言えんけど。
うん。
まあある程度その制限は必要よね。
うん。
なんかAIっていうもの自体は。
だってなんかすごく昔からさ、その人間の能力みたいなところがさ、いろんなテクノロジーとかによって、まあ落ちていくんではないかという危惧みたいなのってずっと昔からあってさ。
うん。
例えばその文字文化とかもさ、いわゆる超古代ギリシャ的なところって、まあ朗読というか読むっていう世界じゃん。
うん。
言葉にして。
うん。
読むっていう文化。
うん。
でもそこに文字が入ってくると、文字っていうのは人の記憶力みたいなところにも関与してるから。
はい。
人間の記憶力がなくなっていくぞみたいな、能力落ちていくよみたいな話とかがずっと昔にあってみたいな。
うんうん。
まあ映像とかも多分そういう世界でもあるし。
なるほどね。
うん。
だからそういうその転換期にはおるよねっていう。
いますね。
うん。
あのAIっていう映画があるじゃん。
うん。
知ってる?あるんやけど。
はい。
スティーブンキングやったっけな。
なんかその。
うん。
うんうんうん。
なんかAIの逆襲みたいな、ロボットの逆襲みたいなやつがあるんやけど。
古典的なSFのね。
そう。
その子供としてのAI。
まあいわゆる最近コレーダー監督がやってるみたいな映画のやつであるんやけど。
はいはいはい。
まああれのもともとみたいな。
うん。
最初あの死んだ子供の復活としてその子供をまあ飼ってみたいな。
そうだよね。
うん。
で、その子供も多分どっかなんか壊れてしまって、なんか新しい子みたいな話やったと思うけど。
うん。
で、そのロボットのゴミ捨て場みたいなところに行ったら、
まあそのいわゆる捨てられたセックスワーカーにロボットがいたりとか。
いろんなのに会うんだよね。世界を知るじゃないけどさ。
そうそうそうそう。
なんかいわゆる冒険的な映画なんやけど。
うんうんうんうん。
全然その世界来るなーみたいな。
来るね。
感じでもあるしね。
うん。
うん。
そこまで行くと、なんだろうね。
多分その人間の人が有機体だからっていうので、もう分けるしか他ないよね。
なんか有機体と無機体でしか区別できないっていうか。
でもそれってそんなにみたいな、てんてんてんみたいな話になってしまって。
そうね。
うん。
そうなんだよね。
まあね、なんかいろんなSFとかいろんなアニメで、なんかその後の世界とか描くような作品いっぱいあるけどさ。
うんうん。
作られたもの。
だけどもう今もう完全にこう同じようなレベルまで人権というか権利がもう保証されててみたいな。
うん。
その過程もすっ飛ばしちゃって。
だからまあそういうものを学ぶ機会はいっぱいあるけど、でもみんながみんなそういうものを読んでて聞いたことがあるわけでもないから。
うんうんうん。
なんかもう資本主義的な世界でいくと誰がAIの権威を取るのかみたいなところにみんななんかヤッキーなってる感じあるじゃん。
あるね。
だから中国がちょっとAI強いですよとか。
なんかAIの映像を頑張ってますみたいなやつとか。
うんうんうん。
いろいろおるけど全然乗れんのよね俺。
なんかAIの映像に対して何も乗れん。
何も乗れんね。
でなんか今のYouTubeのサムネイルとかもさ、ゴリッゴリAIで作ってますよみたいなさ。
うんうんうん。
もう金メッキの文字とかみたいな。
はいはいはい。
こういう構図でしょみたいな。
はいはい。
なんかもう見てすぐ思うじゃん。
うん。
すぐ終わるよそのムーブみたいな。
うん。
なんかやっぱり手触りが大事だと思うのよね。
そうね。
うん。
だからどんどんその思考的にAI使ってますよ賢いですよみたいなノリの人とかも。
うん。
多分どんどん終わっていくやろうなって思ってたりとか。
そう。
逆にこの本読むとかのマジでいわゆる無意な行為、無駄な行為みたいな。
うんうん。
ことの方は結局俺意味を持っていくのではって結構思ったりしてるね。
うん。
なんかそのゼロから何かを作るっていうことが出来になるような気がする。
うん。
まあうん。
出来にくなるね。
つまりゼロっていうのは体っていうレベルだよね。
身体を使ったレベルっていうことだよね。
つまずくっていうことがないとやっぱり展開することもないから。
ないね。
小説を書くにしたってどういう入り口で書いたらいいんやろうみたいなことを最初に悩んで勉強してみたいな世界とか。
うん。
なんかそういうのを思ったりはするんやろうね。
そうね。
なんかその自分の結局さあやりたいことをやれてるみたいなさあ実体験みたいなものがさあどんどん失われるに決まってるわけじゃん。
うん。
で、記憶にも残らないしさあ作ったものも。
うん。
単純になんかそこって人生楽しくなくなっちゃうから。
うん。
うん。
シンプルにね。
それは本当にそうだし。
あと何だろうなあ。
まあ結局道徳の話とかになっちゃうけど、人としてこう磨かれていかない感覚っていうかね。
うん。
うんうん。
それはすごいあるから。
うん。
で、そのためにね使うみたいな第一前提みたいなのがあった上で使わんとやばいみたいなのはすごい花瓶にあるけどね。
なるほどね。
だってそれこそさっきのさあ事件を調べるのももう全力でAI使ってるし、
あのリサーチするの全部ネット上から得られる情報全部洗ってそのリソースも全部並べて時系列中に全て洗い出して事実だけを並べろみたいなそういう命令でリサーチするみたいな。
で、それを熟読するみたいな。
そういう感じで読んだんだけど。
うんうん。
まあでもこれはやっぱりリサーチする能力が減るし。
うん。
その文章を読み取ってそのいろんな情報を自分で収集して選択するみたいな能力を圧倒的に使わないからさ。
うん。
そこをどこまで理解してね。
でも確かにね。
やるかっていうか。
なんかそれこそさ、まあ俺らこの32、3とかさ、まあいわゆる40、今40手前の人から29くらいの人までくらいはさ、
Googleの調べ方みたいなその古着とかバンドとか。
はいはいはいはい。
カルチャーを調べるのもGoogleの調べ方でみたいな世界があったのよ。
あるよね。
いやもう全然あるし。
そう。
エンジニアとかGoogle力とか数値化される。
そうそう。
本当に。
そうそうそうそう。
どういうそのサイトとかそこでどういうそのインプットができるかみたいなのって多分すごいあったんやけど。
それがすごいあれになってるよね。
今のAIのプロトコルがそれよね。
そうだね。
何この事実だけとか、リンクはちゃんと読めるリンクにしてくださいとか、そういう世界とかあるじゃん。
Google力は無駄じゃなかったみたいな。
無駄ではないしね。
そのGoogle力って、昔でいうところのさ、知らない街でどうやってマップ作るかみたいなさ、多分絶対今できんし俺。
昔の人はもう圧倒的にそういうのをたけてただろうし、そういうことだと思うしね。
昔の人と比べて普通にみんな字下手になってきてるとか。
いやもうやばいよ。お見せできる字ではございませんので。
今も多分、小学校とかの教育とかってだいぶあれなんやろ。
なんかタブレット使ってたりとかが普通みたいな世界らしいし、
なんかノートに書くっていうこと自体が、いかに効率が悪いかみたいな。
まだ速度の問題だよね。かなりその辺の速度とか。
あとその日本の狭い土地にマッチしちゃうから、
場所がなくてもウェブ上でみたいなのが一気に加速するだろうし、
大事なところがそっちに移行させる速度っていうか。
まあね、自分の脳とか自分の体にやっぱ染み込ませる必要があるものは、
いまだにノートで書いたほうが効率いいのは裸であるしね。
でもそれマジでそうらしいね。科学的に。
そうだよね。
なんかキーボードで打つ文字の量とノートに書く文字の量って多分全然違うけど、
人間の脳速度的なところでいくと、
このノートで書くぐらいの文字速度のほうが都合いいらしい。
まあそうですよ。
実際にデジタルのほうが遅い。出すときやっぱり。
なんかやっぱちょっと工場で働いたから、
デジタルって遅いんだって。アノログのほうが早いわっていう。
いわゆる自分が目の前の事象に対して出力をしなきゃいけない。
なんかやらなきゃいけない。アクションをしなきゃいけないってときは、
自分のアナログの体じゃないと全く持ってスピードが追いつかないから。
例えばそれはどういうこと?
例えば、そうだよね。なんか割り振んなきゃいけないとか単純に。
で、そのいちいちデジタルで調べててさ、
頭の中に無かったりとか覚えてなかったりして、
その割り振るのをいちいち調べてやってたら、
もうめっちゃ遅いけど、もう全部体の中で覚えてて、
あと割り振るときの指の動きとか道順とかが体に染み付いてたら、
ものすごい速い。結局最終的に人がやるし。
たしかにね。
これは何?全部ロボットが物理的にやるとかの話はちょっと置いといてるけど、
自分の体の中でデジタルも使った上でやんなきゃいけないっていうのって、
ものすごく単純で当たり前の話だけど、
なんかこう実際に仕事にしてやっと腹落ちするみたいなことが最近あったから。
それはそうだ。
なるほどね。そっか。
やっぱりその脳というか体って意外とバカにならんというか、
例えばひらがなのアを書くときにさ、アっていうものをそう季節とも書けるじゃん。
ムでアを書くことできるじゃん。
それはアっていうものを記号化して認識してるから自動的に出てくる。
なんかアっていうものに記号化というか、
自分の身体の中に入ってきてないと、
まあそのアっていうことを書くのって難しいよなって思ったりする。
難しいのか。
だからそう考えるのも、
俺は絵描いてるんやけど、
漫画家的にその人をそのスラスラ書けるのって、
あれはもう完全に記号化してるデータだからこそ書けるっていう。
でも、人っていうものをいちいちその早期して、
まあ早期もうまくいかんから結局うまく書けみたいな世界がほとんどやと思うんやけど、
そのスケールというか、物事で見たときに、
やっぱりこういうAIとかデジタルっていうものがどんどん行きすぎると、
まあやっぱりどんどん人間的な能力っていうのは落ちていくよなみたいなのも思ったりはするね。
するね。
今の時代さ、絵とかもさ、
油絵っぽく、油絵っぽいそのペンタブのメディウムというか、
そういうふうに書くことができるとか、そういう世界だからさ、
実際にその油の調合とか、なんかそういうものがもうなくなってきて、
結局もうアナログで油絵描いてるのか、デジタルでそういうふうに見えるように描いてるのかみたいなところにもなっていくから、
なんかそうなるとねみたいな、つまらないよなみたいなのも結構感じるね、すごい俺は。
そうね。
本来的な喜びみたいなものがどんどん失っていくなみたいな感じは思ったりする。
すごい。
誰が喜ぶねんってね。
そうね、それは思うよね。
その直線描くのもさ、今の時代勝手にその直線ツールみたいなものがあるからさ、
デジタルってこうしたらみたいな感じで言ってるけどさ、
そもそもなんかハッチングっていう漫画的な斜線とかもさ、
あれとかもなんか知ってんの?みたいな、その斜線を均等に引くとか、
斜線の中でのその、こう手があるとして、これを全部斜めに描くだけとかの方法だけじゃなくて、
よりこの体のラインに合わせるように斜めっぽく描くとか、
なんかそういう描き方とかもいろいろあるし、
なんかそれはすごいルネサンスからずっとあるような技法なんやけど、
なんかそういう細やかな技術っていうのはどんどん失っていく世界ではあると思う。
確かに。
消すの簡単とかね。
まあメリットもあるとは思うんやけど。
まあまあ、練習とかだったらね、いいんだけどね。
身体制の練習みたいな。
そう、なんかそんな、昔さあ、あったさ、ボタンを押すと全部消えて、
描いた字がこうまた消せるやつあるじゃん。
あのブギーボード。
マジック。
今、そのボードでさ、こうひたすら今さ、まっすぐ描く練習してんだけど、
斜線を消してみたいな。
そういうのはなんか、まあ便利だとは思うけど、
身体制が前提にあった上でデジタル使うと、
まあこんな便利なことはないなとはちょっと思うけど、
まあ微妙なね、ニュアンスは消えますけどね、もちろん。
結果も違うし。
そうね、なんかその、それこそブギーボード、マジックボード的なやつって、
なんかフロイトがもともとこれがなんか脳の知覚とすごく似てるんだよみたいな。
面白い。
うん。
なんかもう、それは今もうスマホとかに置き換わってるんだがみたいな。
うんうんうん。
なんかね、その脳の記憶してることとインプット、アウトプットすることのその構造が、
すごいマジックボードと似てるらしいのよ。
あーでもすごい、うん、わかるよ。
なんか書き換えられてしまうみたいな全部が。
うんうんうん。
なんかそういうこととかもね、言ってて。
うん。
すごい面白い。
それがこれ、これなんですけど。
おー、新規ゴーロン。
すごいフロイトについて書いてるんだけど。
あ、フロイトも書いてあるんだ。
そう、面白いですよ。
面白い。
ジガーとSとかね。
あー、わかりやすそう。
うん。
うん。
いや、むずいよ。
めっちゃむずい。
まあそうですよね、哲学書だよね。
脳の、その近くから入ってくる脳の記憶作用みたいな、これフロイトが書いてるんやけど。
あー、なるほど。
本来、ここの線が、なんか昔の本とかでも、みんなこう、何やろ、最後のところまで敷かれてたんやって、ここ。
これね。
まだなんか頭の中でイメージできてないぞ、まだ。
これは?
これ、この、これなんやけど、これは、もともとフロイトが手書きで書いてるやつは、
まあここの線とかもちょっと微妙やったから、ただの誤植やろ、みたいな。
この下までついてないのはただの誤植だよね、みたいな感じで今までの文献、その欧米諸国、全部そんな感じやったんやけど。
図の文献の話してるのね、なるほどね。
そう、この石田さんが割とこのフロイト研究の中で見つけたのが、東大の書物のところでフロイトの初版本があって、初版本は全部ちゃんとこうなってるみたいな。
あー、なるほどね。
で、これが脳の知覚と触覚と認知と前頭腰の認知とみたいなものを、これを記号化してるのがこれなんやけど。
本来、これで合ってるんだよ、みたいな。新発見なんです、みたいなことを言ってたりとか。
ごめん、なんか全然まとまってはないんだが、なんかそういうマジックボード的なものがすごい脳の仕組みと近いんですっていう話。
どんどん書き換えられてる。そのレイヤーが縦の線なのかな、今の。
そうやね。
その都度その、いわゆるその腕が今、骨符を持っているっていうのを、今、俺が言葉に言語化するまで、つまり前頭腰に届いて、こう統合されるまでの段階をその図で表してるってことだよね。
そうそうそうそう。
で、その順番の流れのニュアンスの波が、そのぐにゃっと曲がったその線で。
脳っていうのは一気通貫で、一つの視点と終着点があってなってるっていうわけじゃなくて、
それらは反復的になってて、この循環の中で一つの像を作ってるみたいなことを言ってるみたいなのがあって、それが夢の話とかになっていくんやけど。
なるほどね。そっから始めるんだ。
記号論的な、記号論っていわゆるスマホのメディアとか映像とか文字とか、もろもろを含めてるものなんやけど、これはね、ぜひちょっとね、こういう空中講演とかこういう話が好きな人は、もうドハマリするやつ。
人間のその脳のプロ説として、なんかこういう例えというかあれがあるんやけど、
人間っていうそのものは、国関係なく文字文化は全部同じその出発点から行ってるんだみたいな話があって、
動物とかは言語を持ってないから、なんかその視覚対象として見たときに、こういう辺で見てるんやって。
ここがこう丸みがあってとか、なんかこういう風に見てるんやって。
寮って言うよりは仙だね。
そう、仙なのよ。
言い方だと。
で、この仙っていうのが本来的に文字文化のところで、これがそのいわゆる原住民族での風景、住んでるところとかを撮った風景と、いわゆるニューヨークとか東京とかで何気なく撮った風景のこの辺の比率がほぼ一緒なんやって。
はー、きも。
そう、なんかこれがこんな風な感じなのよ。
きもいな。さすが研究者。
えぐいっしょ。なんかこんなんとかあるんやけど。
さすがだね。
で、この辺がその日本、その日本語とか中国語とか英語とかの辺の比率とほぼほぼマッチングしてるっていうのがこの図なのよ。
あ、発見したとき気持ちよさそう。
すごいよね。だから、日本語も英語もほぼほぼ全部同じあれなんですよっていう。
ここにね、なんかこういう辺の種類みたいなのがあって、その分布がこうですよみたいな。
なるほどねー。
っていう話とか、まあまあ面白いので。
面白そう。
まあ結局何も入ってきてはないよね。
そうよな。なんかでも純粋に好奇心というかさ、これおもろみたいなものもさ、なんか覚えようと思って覚えてなかったりするじゃん。
でもそういうものの方がなんかやっぱ腹落ちしてて、人の前で喋ってたりするし、なんか何が正しい読み方なのかみたいなのはマジでわからん。
もうバカだからほんとその辺は。
ほんとに、ほんとね一回だけでなんか全部腹落ちできますみたいな。
まあもちろん研鑽の結果だと思うけど、枝がね幹が太くてみたいな話だと思うけど。
まあでもね、それでいいとは思うけどね。
そう、それでいいと思ってしまって、私も。
忘れていくしね、人は。
最近俺何読んだかな、読んだっていうかまあずっと同じで読んでるな。
なんか、おもろい、おもろいものがいっぱいあるね。
なんか密教とかさ、言葉足すと重たいからもう全然そんなに本格的なことやってないけど、やっぱり昔のその人が考えたそのことで残ってるもの系ってさ、ちゃんとこうロジックがあるからさ、引くよね。
もちろんその実証可能とかそういうことではないんだけど、そういうことじゃないんだけど、全部一個があって、そこの出発点から全部矛盾なくロジックが出来上がってるのが引く、ほんとに。
なるほどね。
やっぱりそれが個人の単位の、自分の中の宗教じゃなくて、ちゃんと外部にあるちゃんとした宗教になってるっていうこと自体がね。
結局、結局と言ってもあれなんだが、たぶん昔の人の方が狂気っていうものをちゃんと理解してるっていう感じがあるよね。
確かに。
なんか狂気ってヒステリックとは違うじゃん。
うん、違う。
なんていうか。
違う違う。
だから空海とかも俺狂気だと思うのよね、シンプルに。
そういうふうにしか捉えられん、私たちは。
そう、宇宙が見えるとかさ。
宇宙論だね、あれは完全に。
そう、なんか俺もさ、ちょっとこの間さ、お酒一人で飲んでて、もう自我を失うぐらいに飲んだ時があって、やばかったのよ。
もうみんなに怒られるみたいな、本当に申し訳ございませんっていう世界なんやけど。
でも、なんかそこでね、なんか面白い体験をして、なんかもう俺が完全にこの宇宙の中で一人みたいな、なんか宇宙の、なんか自分一人その宇宙船に乗ってるような感じ。
で、誰かのその信号というか、更新が来ることが、なんかもうすごい嬉しいみたいな。
何言ってるかよく分からないけど、本当にもう絶快の孤独みたいな感情になったのよ。
で、それがすごいなんか、すごい新しい発見というか、なんかその俯瞰してみたら面白かった事象で、こういう多分感覚なんやなという感じ。
体験というもの自体が。
へー、貴重な体験とか。
すごい面白かった。
なんか、そう考えていくと、なんか小説の中のいわゆる出来事、物事、小説って俺リアリズムがないと、なんかあんまり乗っていけんなっていう世界が俺の中ではあって、
なんかそんなわけないじゃんみたいなこととか、結構今まで思ってきたんやけど、
そういうなんか一種の他者性。
はい。
その、そんなわけないじゃんっていう他者性を、その出来事というか体験をしてから、なんか需要できるようになったみたいな。
おー。
なんかできて。
へー、めっちゃ面白いじゃん。
いや、でもそれすごく感じる。
俺もその、俺もうざっくり言うと、主観の果てに客観あるっていうタイプの人間だから、その。
いや、もうすごいよくわかるね。その変化もなんか、あーそうだよなって納得。
うん。
なんかあれだね、そういうのとさ、やっぱ真逆にいるイメージだったから、俺、しょうごの中。
そうやろ。
うん。
いや、俺もほんと真逆やったからさ。
うん。
いや、でも他者性大事やな。
うん。
他者性と言っていいのかわからんけど。
うん。
その、とっぴな、ありえんやろ、そんなことを受け入れられるというか。
うん。
なんかバリスっていうフィリップ系ディックの小説の中にも、なんかそういうあれがあるのよ。
うん。
なんかドラッグ決めて。
うんうん。
で、急にその宇宙人からピンク色の照射みたいな。
うん。
なんかピンクでなんか線香当てられてみたいなので、その宇宙人からの何かやみたいなっていうのをディックが気づいて。
うんうん。
ディックが二重人格になって。
で、その古代の言語が話せるようになるみたいな。
そういうとんでもない小説が。
とんでもね、とんでも小説ね、はい。
でも、あながちそれも嘘なんじゃないなみたいな。
はい。
のを感じたりとか。
で、実際にそれはフィリップ系ディックが体験した物事でもあるらしくて。
へー。
もうザ・神秘体験だね。
そう、ぶっ壊れてんのよ。
でも多分そういう空海とかもそういう神秘体験を経て、多分そういう風になってるとか。
うん、まあそう、逸話いっぱいあるね。
そういうことをすることを業としてやってたみたいな。
神秘体験ってそうよね。
なんか極限状態っていうのがまず一個乗っかってるもんね。
乗っかってる。
うん。
どういうね、経緯かどうかみたいなところは置いといて。
うんうん。
もう。
そうよね。
植物の力を使うか、自分の行でやるかみたいな。
そういう場所だから。
確かに。
そうそう。
でもなんか、ブッダ、シッタールタは、なんかそれこそ100分で明治でいたんやけど。
うん。
なんかそういう苦行っていうのをもう無意味なんだなみたいなことを思い、
その山の修行はするが、飯は食いみたいな感じだったらしい。
うんうんうん。
最初苦行からだよね。
まぁなぁ苦行。
まぁどう、なんかやっぱあれって安直じゃないよね。
なんかいわゆるその時代が変われば苦行がいる場合もあるしね。
なんかそういう話でもあるとも思うよね。
その、いわゆるその苦行も内容にもよるし。
うん。
なんか、いわゆるその方言じゃないけど、その人によってその言い方全部変えてたみたいな話とかもだし、
多分なんか絶対的なことないのが前提の話みたいな感じだからさ。
うんうんうん。
だから厄介だよね。その辺、理解が。
はい。
まぁ最初、洞窟の絵があって、そっから、記号として文字っていうものが、派生して、みたいな感じなんだけど、だと思うんやけど。
うん。
その、例えばメディアとして、カメラを今も選び続けてるわけじゃん。
うん。
その、カメラって、その楽しさを覚えるのって、どのあたりなの?
あー、カメラ、面白さか。
うん。
なんか、一個飛び出てるわけじゃん、多分。
あー。
こう、いい絵を撮る的なところからさ、
はい。
また一個出て、出てしまってるというか。
うーん、そうね。
まぁ、いい絵を撮る、まぁ構図とか、いわゆるその、ルネサンスとかの、そのいわゆる構図的な、絵画的な部分からはい、まぁ、はい。
で、出てるっていう表現があれかもしれないけど、そもそもそこに向かってないのはある。
あー。
まぁ、いわゆるその、合流するとしたら、体とか目が喜ぶ構図っていうのが、まぁある程度決まってるから、そこに構図は合うし、体で撮ってるからみたいなのはあって、
うん。
まぁ、いわゆるその、うーん、なんかしっくりくる写真とか。
あー。
いわゆるその、強度の話になっちゃうけど、その一個気持ちよさみたいなのは、どうしてもあの後で、そのタイミングから時系列がずれて後で認識するから、その時にやっぱりいいものってなるし、
で、その構図が撮れ、いい写真っていうのは、だいたいその時も気持ちいい。
あー、そうね。
うん。なぜか。認識してないけどね。
うん。ほぼ。
うんうん。
不思議なことで。
なんか、好きな構図とかあるの?
好きな構図?
結局こんな感じで撮っちゃってるなーみたいな。
あー、でもあるし、あるね。あるある。あるね。なんかやっぱりこう、俺は、あの対象物が真ん中に来ないから、その。
はいはいはいはい。
多分。
意図的にそうしてんの?
引っ張られてる感じっていうか。
なるほどね。
ダメ?ダメかな?やっぱりな、これ。
なんかね、変に言う。本当にナチュラルにそう思うんだよね。変に錯覚ってるってわけじゃなくて。
うん。
なんて言うんだろうな。多分、今、目の前にしょうごと俺の今の写ってる姿を見ながら喋ってるけど、
多分写真を撮ろうってなったら、その2人のどっちかを中心に持ってくるわけじゃなくて、
どことも認識できないところを探すっていうか、勝手に認識した人。
なるほど。
そういう気持ちよさを体が求めちゃっているから、そうなんだろうね。
なるほど。
まあね。で、それを、もちろんその写真を撮るっていう時に勝手にやってるだろうし、
あと、編集のタイミングでもそれを作り出そうとしてる。
うん。
なんとか。その時の感覚みたいなものをリアルタイムの場所以外でも発生させられるような装置というか構造みたいなものをずっと探してて、
その中に、いわゆる自分の作る理由じゃないけど、それこそさっきちょろっと言った主観の果てに客観じゃないけどさ、
自分の中を読み解く1個の手段になるとは思ってはいるけどね。
なるほどね。
だからこそ他人に絶対伝わるみたいな変な核心みたいな。
なるほど。カメラっていうものを媒介してるからこそ、純粋性的なところ、純粋性って言ったらいいのか、
自分に入ってきてるその構図と言っていいのか、身体性みたいなところが担保されてないと結構難しいよなって思って。
難しい。
なんかさっきはしたね。で、なんかもうちょっと簡単に言語化すると、
なんか自分がその、まあなんかサイトとか見て、こういう構図がいいなって思って、そういう構図だけを探して撮ったとしても、面白みが生まれにくいよなみたいな世界というか。
身体の多分、それこそ身体の筋肉の収縮がもう全体違う、どっか。そういうレベル。
なるほどね。
より微細な感覚に向かっていくんやね。
なるほどね。
なんか芸術ってすごい、自由で何でもみたいな感じに思われがちやけど、
最初にちゃんとその構図とか、その人を描くにしてもどういうその比率で目が合ってとか、
そういういわゆるアカデミックな認識を自分が体得してないと自由っていうものが生まれにくいわけで、
やっぱり技術っていうのはすごい大事なものというかね、そんな感じはあるよね。
ある。
だからこそ、そう、だからなんかこういう順番で言うと、俺もやってるよみたいな感じに聞こえちゃうけど、
構図のやっぱ勉強って大事で、やっぱいい写真とかって昔の古典の写真とかってね、
全部踏んでるからね、そういう構図とか目の視線の誘導とかね。
そうね、いや本当にそうやね、なんかもう今漫画的な構図と絵画的な構図ってやっぱ全然違うもんね。
なんか絵があって、映画があって、で、漫画みたいな時系列なんやけど、
はいはい、しっくりくるね、全然その事実は知らんかったけど、はい、確かに。
そうそう、やっぱり絵ってそもそもがカメラっていうものと違うじゃん、いわゆる2つの目を1つにしてるっていう構図だから、
カメラ的な映像とは全然違うというか、こう、なんか見え方が全然違うっていうのまずあるし、
なんか絵はもう完全にその止まってる状態で、
まあどういう含みがあってこういう絵でみたいなのがないと、やっぱり楽しめないというかね、そういうのもあるけど、
映画とか常に動いていくものやからっていうのもあったりとか、
漫画になってくるとね、もっとより分かりやすく遠近法がありみたいな世界でもあったりとかね。
だからね、本当にその構図のさ、部分って、技術でどこまでさ、その体験として無意識を作れるかみたいなところだと思うんだよね。
そこの部分を多分やり出すとどうしても心理学とかにも行くだろうし、必然的にね。
もう果てないよね。
まあ読書の話になっちゃうけど、本当にいろんなことを踏まえて、自分でどこをピックアップするかみたいなところのさ、選択。
そうね。
その写真っていうものにも、いわゆる物語があるわけ。
物語。
物語ってさ、ここが始まりでここが終わりっていうこの切り取り用物語やと思うんだよね、俺は。
面白い。
だからその終わりがどこにするかとか、始まりをどこにするかみたいな。
物自体が物語としての一番最初の基盤というか。
そうだね。物語るってそうだもんね。
ただ写真にも何か、何が言いたいのかちょっとよくわからなくなってきたけど。
まあでもすごくそうだね。物語として綴れるかどうかは自分のなんか結構外側にあるから、そこまで編集するとどうなんだろうっていう気持ちもあるけど、
いわゆるその今のさ、その写真界隈って結構物として出力しないとみたいな強迫観念が結構あるんじゃねえか?みたいなことよく言われるんだよね。
いわゆるその写真、いわゆるそのビジュアルとしての写真じゃなくて、それをどういう物に出力するか、それを物としてまたどういうスケールでみたいな。
いわゆる体験のレイヤーの方まで行けばいいんだけど、体験まで行かずにただ物として出力して終わりみたいな作品。
で、それが起こってる理由ってやっぱりその結局自分の制作過程とかを見せるとか、それ自体を物語として捉えるみたいなところに共通すると、
まあいわゆる伝わんないというか、まあ罠じゃないけど、結局体験まで、その見た側の体験まで届かないみたいな状況になっちゃうのかなみたいなね。
まあ言ってて自分がそうなりかねえんから、もう言いたくないけど。
たしかにね。ちょっとやっぱり俺写真家のそれさ目た目で見ちゃうところ正直あるもんな。
いやむずいむずい。
ごめんもうね、言ってしまうけど写真じゃんってなるのよね。
そうそうそうそう。
言ってしまったな。結構今のあった気を作った。もう断定するわ。
写真じゃんってなるのよね。
写真のそのドキュメンタリーをされてもさみたいな、機械っていうものを買いしてるからなって思っちゃうところが正直ある。
だからもう本当に超その頭のいいというか、なんかそういうものが欲しいのに、欲しいというかあれやのに、
写真家のドキュメンタリーっているのかなみたいなのを思ったりするね。
完全にそのいわゆる写真って外部のものを撮るわけじゃん。
はい。
だからなんか、いやわからん。なんかあんまりわからんけど。
いやでも漠然とするし直感的にそう思うと思うよ。
単純に絵画の努力量と一枚に蓄積される強度と写真の強度ってやっぱり、直感的にそうでしょ。
わかるでしょう。わかるというか、もちろんね、フィルムとか黄板とか、もうフィルム時代の物質性が伴っているときは、なんかそれに追従するような、いわゆるオーラみたいなものはあるかもしれないけど。
フィルムとかなら、なんか全部があれやね、なんか水墨画的なノリで全部をやっていかないといけないっていう一発的な感じやろう、あれですね。
だってね、写真にする、なんかその一気につかすとかもさ、あれも完全に技術なわけや。
本当に職人技。
アナログはまたちょっと違ってくる世界もあるね。
どうしてもテクノロジーとすごい緊密した関係にもあるよね。
まあ絵画にも全然それは言えるんやけど、油絵の露光とか。
持ち込んだね、iPadの絵は。
絵の具の作りとかもさ、かなりテクノロジーと近接してるから。
とかなんかキャンバスとか木枠とか、そこの下地材をどう塗るかとか、なんかそういうもろもろもテクノロジーとしてあるから、
そんなに俺も絵描きとして大げに写真を批判できるわけではないとは思ってるんやけど。
でもなんかあるなーみたいなところは思ったりとか。
まああるでしょうね、あるだろうし。
まあ何て言うんだろう、複雑になればなるほどゲスタル、何によりその相対としか見えなくなっちゃうしね、その。
漠然とするし。
で、それをこの複雑になったものって厚さが分かんなかったりするから。
まあでもいわゆる作家がすごいのか、写真カメラ機作ったやつがすごいのかみたいな話にもなるしね。
確かにね。
まあね、企業努力ですよ本当に。
確かにそれはね。
ありますし、まあでも何て言うんだろう、それを言われていわゆる写真撮ってる側としての反論としてはね、ありますよ。
あのやっぱり、そもそもの多分ところみたいな出発点のところがやっぱりこうあると思うよね。
結局その、どういうところまでその見た側を持っていきたいのかとか、体験、その結果、その見た側がどういうところまでを感じ取ることを目的にするのかとか、
あとそのもの自体を目的にするのかとか、
でもものがあって体験もちゃんと引っ付いてくるのがいい作品だとは思うけどね、それはそうだけど。
でその、やっぱり写真の特にデジタルの写真って本体はビットだから、ゼロイチの集まりですからね。
そのゼロイチの、いわゆるその紙一枚なんかよりも本当に信号ですよ。
最小、いわゆるその最小限のエネルギーで区別ができるものの集合体なわけじゃないですか、デジタル写真って。
それに対して、やっぱりこう人間がそれを、いつもデジタルなものを触れている我々は見て、それに対してこう体験をしているわけで、
そこにやっぱり体験自体にこう直接、これは行きやすいなとは思うよね。
そのもの自体に注釈させるんじゃなくて、体験に直に行くにあたってはすごく扱いがしやすいものなのかなってやっぱり思う。
あとこれはもう俺の持論だけど、やっぱりこう仏教の世界観じゃないけどさ、すごくその移り変わるものだし、すぐ忘れ去られるし消えるしみたいなものともすごくリンクすると思うよね。
ものよりもっと儚いっていうか、増やせるし。
たしかにね。
価値みたいなものね。
もう絵はマジで主観の産物でしかないからね。
本当に。
芸術的な写真と商業的な写真と、その切り分けがすごい難しい。
難しいね。
一時はさ、エビレストーンの写真みたいなものがさ、すごいその、いわゆるドキュメンタリーとしての消化と、人類が見れない景色を撮ってきましたっていう担保がある時代とかさ。
ストレートフォトの時代だね。
ストレートフォトっていうやん。
いわゆる事件とかをそのままの状態で、その時にそこにいたみたいなところに価値がある時代。
いわゆるマグナムフォト的な。
原流。
人たちの原流。
なるほどね。
その辺を掘れば。
今の心身経営的な写真家っていうのは割と、なんか俺の印象、なんかその芸術、いわゆる写真を撮る機器をいじったりとか、
最終的なメディア、その写真そのものの見え方というか、例えば紫をめっちゃ強くして、これ自体が一つのコンセプトとしてあって、外部に何かその写真じゃなくて、写真もそうやけど、外部にコンセプトとして持ってて、みたいな。
そういう風に結構、やっぱり現代アートやからそういう風に向かいがちではあるとは思うけど。
うん。
そうね。
シンプルに写真っていうものの見方がわからんみたいなところも結構、現代写真っていうところで。
現代写真の問題だと思いますよ。
見方がわからんみたいなところもあるよ。
やっぱ強いもん、古典の1枚の絵でさ、なんかもうものすごいぞっていうのが直感できる絵って。
単純にね。
確かにね。
それはそうなんですよね。
どこかしらやっぱり憧れるしね、憧れるっていう構図になるしね、体験としてね。
その物質にやっぱ焼き付けることによって、その物質がね、希望的価値を超えて、物質的なものとしてね、消化されるみたいなものはあるし。
そうね。だから、絵のそのものすごいエネルギー感じるところって、やっぱそういう既成事実というか、前提としてある事実みたいなものから来るものってすごいあるよね。
確かにね。
だからこそ物語としてものすごい強度が、その作家の生き方みたいなものがすごい強度を持つというかね。
アチエールっていう絵肌、語法的な絵肌もあればみたいな、ラファエロみたいな絵肌もあるし、でもまたハイブリッドのようなレンブラントのような絵肌もあるし。