1. 神田大介の経験
  2. マルハラの本質って
2024-04-04 09:52

マルハラの本質って

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おそらく、文語が交互に寄せられていた時代っていうのは、双葉手氏名とか。双葉手氏名って、私の高校の先輩なんですけどね。
だから一応浮雲とか読んでみますけど、全然面白くない。私には面白くなかったっていう、なんか思い出がありますけど、ごめんなさいね。
が、文章を書いていた頃には、点とか丸を使うっていうことの方が、むしろ我々が普段使っている話し言葉の感覚に似てくると。
点や丸があった方が似てくるっていう手触りがおそらくあったんですよね。
で、それがなんとなくわかるところがあって、つらつらつらつら文章が並んでいるのって、例えば教科書とか法律の文章とかそうですけれども、めっちゃ読みにくいじゃないですか。
点と丸があると少なくとも行き継ぎとかできるし、それから切れ目も明らかになる。ないよりは読みやすいですよね。
という工夫だったのかなと。ひょっとするとそれは別に二羽手締めがどうこうとかじゃなくて、漢文を読み下しているときに使っていた記号っていうのが、これは便利だなっていう認識っていうのはもっと前にもあったのかもしれませんね。
で、今今度逆に丸がついていると丸腹だと、冷たい感じがするとか、何かそこに意味合いがあるように感じてしまうっていうのは、
テキストによるコミュニケーションっていうものが、そういう文章、小説の文章みたいなものとはまた全然違うんだっていうところに、みんなが自覚的になってきた。
何回か前に言ったんですけど、私もその丸腹の気持ちわかって、なんかそのテキストで日本語の文章で自分の感覚、感情、空間、
大体雰囲気みたいなのを書くのって、難しいんですよね。それこそ夏目漱石村上春樹レベルだったらできるのかもしれないですけれども、そんなもん、普段の我々には全然難しい話で、難しいから国語のテストってあるわけですよね。
問題があって、この時の気持ちを答えなさいとか、この四字熟語は何を指してますかとか、答えさせられるわけで、それぐらいテキストの読解、書き言葉の読解って難しいわけですよね。
読解が難しいというのは書くのが難しいということではないですか。一方で、我々の社会ってどんどんタイパーといって、時間を有効に使っていきましょうねという意識が強くなっていく。
ポッドキャストも1.5倍速、2倍速で聞いてますよという人も多い世の中だとなってきたときに、テキストによるコミュニケーションの関連さっていうのは一方であるわけじゃないですか。
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LINEをなんでみんなあんなに使うのか。
たぶん昭和の人ってもっとめっちゃ長電話してたと思うんですけども、なぜLINEのこういうテキストコミュニケーション、あるいはスタンプを押すだけみたいなのがこれだけ広まったかって言ったらやっぱり手軽だからじゃないですかね。利便性。
電話って何しろ相手を捕まえないとできませんよね。同じ時間帯に電話に向かっていないと通話って基本的にできない。留守番電話とかありますけど、あれはコミュニケーションではないですよね。
一方でLINEのようなテキストコミュニケーションって、SNSとか全部そうですけれども、受け取りたいときに自分でそれを受け取ることができる。決められる。自分で決められるということなんですよね。
ここが大きなポイントだろうなと。自分で決めることのできるコミュニケーションで、決して別に文字でやり取りをしたいというところが中心にはないと思うんですよ。漢文とかと違って。漢文とか古文も思い出してほしいんですけど、あれみんな詩とか文学じゃないですか。
日記文学とか結構微妙な感じするなと思うけど、枕草子、春は明けものとかだって、おそらくは練り練って考えた末にああいう表現になってるんだろうなと思われますよね。
っていうのと、今LINEで我々が交わしているコミュニケーションっていうのは明らかに別物ですよね。あっちは作品じゃないですか。枕草子みたいな。そうじゃなくて、LINEのコミュニケーションっていうのは、ただ文字が使われているっていうだけであって、全然共通点はありません。
そこに丸っていう文学で使われるようなものが入り込んでいるっていうことに対する違和感が出てきてるのかなというふうに思いますね。これって結構本質的な話で、そうなんですよ。
コミュニケーションにおいて有用なのは、やっぱり話し言葉の方だし、丸がないような言葉。話し言葉に丸はないって前にも言いましたよね。こんにちは、丸。僕、点、神田大輔です、丸。とは誰も喋んないわけで、その話し言葉が文字化するっていうことが非常に多くなっていると。
これはすごく面白いですよね。だから文字の使われ方っていうのが、実は平安時代とか江戸時代とかと現代では違うんだというところですよね。
おそらくは感情の表現とかも違うんでしょうね。だから昔は単価とかを読むことによってしか心を表現できなかったものが、今では別に口で言えるでしょう。
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ただ、じゃあ何でも口で伝えるのが良いのかっていうと、今でもそういうのはラブレターみたいな手紙を書きますよって。手紙もたまにもらうといいもんですよねって人もいるだろうし。
それはコミュニケーションの幅は広がっているわけですよ。少なくとも庶民は紙を買えないとかね、そういう時代ではないわけで、パピルス合うのかみたいな時代とはわけが違うわけですから、いろんなやり方はできるんだと。
でもいずれにしてもやっぱりそういう練り上げた作品性の高い表現というものと、もっと気軽な表現っていうのは、それは両方あってそれぞれに良さがあるんでしょうけれども、普段から我々が使いやすいのは校舎ですよね。
気軽にできるやつ。だから映画みたいな表現が映像の中の作品性の高いものだとすれば、YouTubeとか生配信みたいなやつなんかは本当に誰でもできるし、気軽なんだけれども見る人がたくさんいるっていう意味では、よりコミュニケーションの方に近いやり方だ、作品性というよりはコミュニケーション性を重んじた表現だというふうには言えると思うんですよね。
この辺が実は我々、話し言葉か書き言葉かとか手話か活字かとか、そういう見た目で違いを判別しがちだけど、そうじゃないんだっていうね。
どの表現にもどの見た目のやり方も使えるっていう。
だからポッドキャストにもビデオポッドキャストってありますけど、映像がついているポッドキャスト。意味わかんないという人多いわけですよ。私も実はあんまりわかんないところもあるんだけど、ポッドキャストの良さっていうのは、今しゃべってるようにラジオのように耳から聞こえるっていうところだっていうふうに思うじゃないですか。
別にじゃあ映像がいらないかっていうと選択できてもいいわけですよね。実際そのビデオポッドキャストが人気になっている人もいれば、普通にユーチューバーなんだけど、それもビデオポッドキャストだよねみたいな人もいるわけですよね。
つまり同じ表現なんだけれども、それを表す見た目として表すやり方が複数あるよっていうわけであって、そこに本質的な差はないと。だけど本質的な差があるとすればやっぱり作品性の高さなのかなと思いますね。
だからそのポッドキャストでも上根隆平さん、元テレ東のね、上根さんの作ってる番組とか聞くとやっぱり作品性を高めようとしてるのをすごく感じるし、実際上根さんは小説を書いてますよね。
たぶんそっちの世界の人、映像にもすごいこだわりを感じますもんね。ハイパーハードグルメレポートとかって、苦労を基調とした映像ね。
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そうじゃない表現っていう、ポッドキャストの多くはやっぱり、今私が喋ってるような飾り気のない気取らないおしゃべりみたいなところがありますよね。
それは両方あると。ただ、多くこれまでテレビとかで見られてきたものは全社、たぶん新聞も全社、作品性を高めるって方向に行ってたと思うんですよ。記事であってもね。
っていうのとは違う流れが来ているんだよっていうところは、丸原っていうものを見てもわかるんじゃないかなっていうふうには思いますし、これ結構本当に奥深い話だなと思っております。
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