1. 神田大介の経験
  2. 日本にある2つの手話
2024-04-03 10:24

日本にある2つの手話

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手話。一応、手話って言われてね。なんだ、炭酸飲料か、みたいなね。あるいは、ウルトラマンが宇宙へ飛び立つのか。
ウルハラじゃね、これ。ウルトラマンってみんな知ってると思ってるんじゃねえよ、って話ですけれども。
手話。手の話と書いて手話ですね。聴覚障害者の方ね。耳の聞こえがあまり良くない方なんかに対して、
手で文字というか言語、言葉を表現するっていうのがありますね、手話ね。
私は全然手話のことは知らないんですが、最近というかちょいと前に知識として知ったのが、手話って2種類、日本にはあるそうですね。
まず、そもそも手話って手を動かすわけじゃないですか。
なんかほら、全然知らないなりに物の形とか見えるっていう字は、目の上に手をクルンとやって望遠鏡を見るみたいな形にして表してるな、みたいなのがありますよね。
ってことは、そもそも聴覚がそんなに聞こえなくてもわかる言葉っていうことですから、もしくは全く聞こえなくてもわかる言葉っていうことですから、世界共通の言語なのかなと思いません?
だってそうじゃないですか。山とか、高い山とかあったとして、手で表すんだったら同じ形で表せそうですよね。
ところが全然違うんですよね。おおむね国によって違う。だから日本の手話とアメリカの手話って違うんですよ。アメリカ人が手話をやっても日本の人には意味がわからないですよね。
それだけならまだしも、日本の中にも手話って2つあって、日本手話と日本語対応手話ってあるんですよ。
で、今ちょっとしたブームになっているのが日本語対応手話の方だそうです。
どういうことかっていうと、歌なんかに手話を重ねていく。歌詞を手話で表現するっていうことが、一部のアーティストの方とか、あるいは歌ってみたみたいなね、歌い手の人とかに流行っていると。
で、これちょっと聞くといい話じゃないですか。まあちょっと聞くとじゃないのかもしれない。
だってね、それで聴覚障害者の人に歌詞の意味が通じるんであれば、本来そういう音楽とかはなかなか聞くことができない人たちにも、多少このね、全然その音楽を聞いてもらうこととの体験とは違うかもしれないけれども、少なくともこちらとして伝えたいメッセージの一部を伝えることができる。
ASDGSじゃないですか。
ところがですね、この日本語対応手話っていうのは、実は手話を知っている人でもほとんど理解できない場合が多いそうです。
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というのは、日本手話っていうのは日本で使われている手話なんですけれども、日本語の文型、全然違う体型で言語が構成されているんですよ。
だから何て言うんでしょう。私は何か物を食べましたみたいな順番で手を動かすってことじゃないんですよね。そうじゃないです。全然違う体型でできてるんですよ。
お腹が減ったとか、何か食べたとかっていうのは違う言葉のつながりで、手の動かし方で表現がされる。
日本語対応手話っていうのは、要するに我々がよく知っている日本語に対応する形の手話なんですよね。
一つ一つの単語とかに手の動きを割り振って、その手話で表現をすると日本語が表現できるわけです。
ローマ字みたいなもんですよね。アルファベットでも日本語って表現できるじゃないですか。
私はっていうのは、W-A-T-A-S-H-I-H-Iとかって書けますよね。
それと同じような形で手話を書く。ただローマ字で書いたって、じゃあアメリカ人がそれを読めるかって言って読めませんよね。
読めるっていうか、発音することができる。日本のローマ字の発音とはちょっと違っちゃいますけど。
ウイオーとかケーキとかって読んじゃうから、とも表面的に読むことはできるんだけれども、意味は当然わかりませんよね。
なぜなら文法が違うからですよね。
アップルをリンゴっていう風にR-I-N-G-Oって書かれたって意味わかんないわけですよ。
それと同じことが手話の世界でもあって、多くの手話が理解できる人っていうのは日本手話を学んでるんですよ、習得してる。
この日本手話っていうのは、もともと日本で聴覚障害者の方を中心に積み重ねで、こういう風に表現するとわかりやすいなとか、
こんな風に表していくとお互いに表現、感情をコミュニケーションするのが早すぎるなとかっていうことの経験から蓄積されてできてるものなんですね。
ちなみにだからこれは他の言語も一緒ですよね。日本語もそうじゃないですか。
山がなんで山っていう名前なのかって別に誰も説明はできないんですけど、そういうのが積み重ねで昔からそういう風になってきて、それはそれでいいねっていう形になってる。
ほとんど誰も、誰一人でしているだと思いますけれども、この動詞は語弾活用か、紙一弾変格活用なのかとかって考えてしゃべってないでしょ。
全部の言語はそうですけど、別にこれは過去完了形かって思ってアメリカ人はしゃべってないし、これはパッセコンポザかランパンフェかっていう風にフランス語は考えてないわけですよ、フランス人はね。
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言語というのはそのようなもので、後から習得する場合にはそのような文法とかも考えなきゃいけないけど、基本的には先人から積み重ねでできてきたものを解説しているっていうことですよね。
手話も一緒です。だから日本語対応手話って、多くの手話ができる人には意味わかんないのにやっちゃってるっていうところで言うと、それやってるアーティストの自己満足なんじゃないのかっていうような指摘がされてるわけですよ。
もちろん日本手話でやってる人もいるんでしょうけど、そうなると結構本当に日本語を英語に変えるような感じで、全然違う訳し方というか文章になっていくと思うので、相当ハードルは高いような気がしますけども、やっている人ももちろんいるでしょうね。だからそれはすごいですね。
いずれにしても千にしろやる。これが表しているのは何かっていうと、同じ日本で使われている言葉でも全く体系の違う言語っていうのはあるんだよっていうことで、たぶん書き言葉と話し言葉も本来それぐらい違ってたと思うんですよ。
今までの話を聞いてくださった皆さんだったら多分我転移行くと思うんですけど、文言と口語って違うものだったんで、それをわりかしえいやでくっつけてきたのが現在の日本社会なのかなと。
そうなってくるとですね、それはそれで結構なことなんですけれども、他方、もともと違うものだったのが一緒くたになっちゃってるっていうところがあって、それによって生まれる悲劇がおそらく会話ベターとか会話上手とかっていうのの違いなんじゃないかなと思いますね。
丸原とかもまたそういう現象の一部なのかなっていうふうに思うんですよね。
これだから、もともとは我々はおそらく会話が先にあった言語っていうのは話し言葉から始まってるんですけれども、それと書き言葉っていうのは必ずしも話し言葉をそのまま落としこむという形で発達してないんじゃないかなっていうことなんですよ。
これね、またね、書き言葉の発祥が何かっていうのはすごい難しい話にはなってくるんですけれども、一説によると過平とかっていうのがことの起こりっていう話あるんですよね。
何言ってんのって思うかもしれませんけど、要は昔々こうね、仏仏公館の時代に市のみたいなところで、公益の場でいくつのものがここにあるっていうのを示せたのに、土器に貝殻をくっつけて、押し付けて、これで表現してたみたいな話があるわけですよ。
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これで数字、これは何か5つ分だ、だったら貝が5つ土器にくっついてたわけですよね。
っていうところから多分数字が始まって、それがだんだん言語に変わっていく。
言語の始まりは年句っていう話ありますね。
これ知りませんよ、本当かどうかね。ただ、ソヨウチョウとかって習ったじゃないですか、我々もね。
ああいうふうに戸籍を作ろうと思ったら言語が必要なわけですよ。
みんな当時は名前とか大してついてなかったと思いますけど、どこそこの集落に何人人がいて、男女それぞれどれぐらいいて、だから年号はこんだけ収めなきゃいけないみたいなものを管理しようと思ったら、文字が必要なんですよね。
それを最初にやったのが中国だった、我々の社会だとね。
中国が先にやって、その漢字を持ってきたのが日本だというような話。
それを日本語に当てはめた時にひらがなとかカタカナとかもできてきたっていうような、そんな流れみたいですよね。
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