1. かもすハウスの時間
  2. 22 インテグラル理論をゆるー..
2025-05-30 1:22:20

22 インテグラル理論をゆるーく深掘りしながら解説する番組(四象限編)

アメリカの現代思想家ケン・ウイルバーによって提唱された"インテグラル理論"ー統合的で包括的なメタ思想と言われてるけど、それって結局どういうことーー?素也さんがゆるい解説を試みる糖分必須なハード回。

あたりで紹介している言葉は、正確には「すべては正しいが、部分的である」でした。

📝説明資料
https://x.com/kamosuhaus/status/1928705071132582238

参考

インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル|ケン・ウィルバー
https://amzn.to/3Z47Ehi

入門 インテグラル理論 人・組織・社会の可能性を最大化するメタ・アプローチ|鈴木規夫, 久保隆司, 甲田烈
https://amzn.to/43tMACc

収録日 : 2025年5月20日
ホスト : 塩田素也, のぞみるき, おとわはるか

アートなよりあい「かもすハウス」では、今日もよもやま談義に花が咲いています。気になる話題が聞こえてきたら、どうぞふらりとお立ち寄りを…

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Sounds by 八木映美と静かな実験 / Amy &her quiet experiments

サマリー

インテグラル理論に基づく複雑な現代社会の理解を深めるための考え方が探求されています。ケン・ウィルバーの著作を通じて、科学的視点と非科学的視点を統合する重要性が述べられ、すべての視点の正しさを認めることで新たな理解が得られることが示唆されています。このエピソードでは、インテグラル理論についての基本的な概念が解説され、特に四象限モデルと発達段階の考え方が紹介されています。四象限モデルは、対象を内外と個人と集団の視点から分析する方法で、深い着眼点を提供します。 このエピソードでは、インテグラル理論に基づく内側と外側の視点が解説され、個と集合の関係が探求されます。特に、リンゴの例を通じて、個体と集合がどのように社会的に位置付けられているかが考察されます。インテグラル理論の四象限を通じて、個人の価値観や倫理観がどのように形成され、集団との相互作用によって影響を受けるかが探られます。特に、外側の科学的視点と内側の個人の感覚の違いについて、具体的な事例を交えながら深掘りされます。 インテグラル理論における真善美の概念について、個々の美意識や内面的な価値基準がどのように影響するかが探求されています。また、禅の考え方とそれに基づく倫理観が、個々の美意識の発展にとっていかに重要であるかが議論されます。

インテグラル理論の紹介
かもすハウスの時間、しおたもとやです。
おぞみるきです。
もとははるかです。
はい、えーっと、今日はちょっとめまいが出ています。
大丈夫?
前にも一回なったやつで、
一応自然に、時間が経てば軽くなっていくはずなんだけど、
若干ふわふわして、
でもふわふわしてる状態の方が、
今日の話がちょうどいいのかなみたいなことになったので、
そういうテーマなんだね。
しゃべってみようかなということです。
お願いします。
で、あの、あれですね、再開して初めて撮った時の中でね、
なんか雑談的な話をしていこうかなみたいな、
なんかあんまりテーマとか決めて、
あー言ってたね。
ね、やると、
もうちょっと雑記的な。
そうそうそうそう。
って言ってたわりに、いきなりテーマ。
がっちりテーマ。
がっちり結構しっかりテーマ。
ややこしいね、ふわふわ回だけど、がっちりテーマがあるね。
まあ、ていうかそうだね、雑談というよりは、
ちょっとテーマに沿ってしゃべってみようかなという話です。
で、何かというと、最近読んだ本で、
なんか自分の中で結構面白かった。
で、それをでも解説できるほど別に、
ちゃんと理解できているわけでもないんだけど、
なんか結構こういうのって、
その説明することで定着するみたいなのがあるから、
まあそういうのもあってね、
なんかしゃべっておくと面白いのかなという。
だからちょっとあんまりその内容の正確さは、
あれなんですけど、
自分の理解した部分をしゃべっていくというか、です。
で、タイトルはインテグラル理論という。
インテグラル理論。
このインテグラル理論という、
まあ一つのなんか思想というかな、考え方があって、
それをテーマにして、
この著者のケン・ウィルバーという人が、
いっぱい昔から本を書いてきている中の、
まあ一つの翻訳されたやつなんで、
なんかこの本の中に書いてあることだけで、
全部が説明されているわけでもないみたいなんだけど、
いろんな本のまとめ翻訳ってこと?
えっとね、これは多分、
そうだね、過去の出した本とかも引用しつつ、
本人がちょっとまとめ直したみたいなものなんじゃないかな、多分。
なるほど。
だし、まあなんかこの考え方自体は、
このケン・ウィルバーという人が、
これアメリカの人かな、
がまあその中心になってなんかを書いてるんだけど、
これをもとにしていろいろ他で、
独自で考えている人もいて、
派生系みたいのがいっぱいあるという感じなんで、
正直その全体像がどうなってるのかな、
結構難しいというか、
なんか複雑な話なんだけど、
でもなんかこれ自分の読んだ感じとしては、
正確に細部を理解することが必ずしも別に重要な話でもなくて、
ざっくりこういう考え方があるということだけ理解した上で、
なんかその自分の身近なことにちょっと当てはめて考えたときに、
だんだん役に立ったりすることもあるのかなみたいな話で、
自分はなんか断片的にその情報は知ってたんだけど、
一冊まとまって読んで、
だいぶその何が言いたいのかみたいなの部分はわかってきたかなっていうところで、
ちょっと一回しゃべってみようかなって感じです。
社会の複雑さと考え方の統合
きっとね、一言で言えるようなものじゃないから、
対話の中で聞いてる人も立体的にちょっとこう捉えられるようになったらいいかな、みたいな感じですかね。
今回の中で。
そうだね。
今からね、ちょっとずつなんか要素を出していくけど、
結局このいろんな物事を統合するための考え方っていう、それを目指してる考え方なので、
だからなんかそのちょっと捉えづらいというか、
具体的な何かに対してそれを分析していくとかではなくて、
いろいろな考え方を統合するときにこういうふうに考えたらいいんじゃないかみたいな、
そういう考え方とかなんか視点の置き方の提案みたいなことなので、
結局自分の何か具体的なテーマに当てはめながら考えないと、
なんかそのこの理屈だけを聞いてるとだんだんわけわかんなくなってくるというか、
ふわふわってなっちゃうっていう、
そういう意味でちょっと説明しづらい話だなぁと思ったりしているんだけど、
そうだね。
一旦、じゃあなんでその統合しないといけないのかみたいなとこで言うと、
今の社会がそもそもすごい複雑になってきている。
で、なんかいろんな考え方を持っている人がいて、
それぞれにちょっとずつ正しさはあるみたいな、
そういう感覚の人は多分増えていると思うんだけど、
それをそのまま受け入れるだけだと、やっぱなんかパンクしちゃう。
自分の自我の中で処理しきれなくなっちゃうっていうところで、
そうするとなんかその、じゃあ都合の悪い意見とか考え方を切り捨てるのかとか、
どうやってそれに対処するのかみたいなところで、
まあ多分悩む人が今時代的にますます増えてきているのかなぁと思ったりしていて、
まあそういう意味で多分この考え方っていうのは結構前から、
この著者の人はどんぐらいだろう、60年代とか70年代とかぐらいだったかな、
なんかだいぶ前からその基礎的な考え方はずっと書いてるみたいなんだけど、
最近になって多分より必要とする人が増えてきているんじゃないかな、みたいな。
時代が追いついてきた。
だし、まあこれからもどんどん増えていくだろうなっていうところですね。
で、そうだね、あとなんかさっき捉えどころがないというか、
捉えづらいって言ってたのの理由のもう一つ、
本を読んで自分が思ったのは、さっきのいろんな考え方があるみたいなのの中に、
やっぱ今の現代の社会ですごく支配的というか力が強いのは、
やっぱその科学的な見方、
なんか客観的に観察ができることに対してそれを分析して、
その理論立てて結論を出したものっていう、
なんかそれが一番物事の捉え方として正確だというのが、
まあ共通認識になっているかなと思うんだけど、
まあでもそれもそのある意味その見方をするという選択をした人の中での正しさなので、
そうじゃない正しさで動いている人も当然いて、
でそのインテグライロンが目指しているのは、
そういうその科学的じゃない考え方で動いている人の正しさっていうのも含めて、
一つにできないかっていう話なんで、
だからなんか科学的にそもそも網羅できる世界っていうのと、
そこからこぼれちゃう世界みたいなのを、
両方を一緒に扱おうとするっていうことをしているから、
なんかその科学の外側から見た科学の世界と、
科学的じゃない世界みたいなのを見ている感じの考え方になるので、
なんていうかな、多分その今の一般的に筋が通っている考え方みたいなのって、
結局科学的に証明ができるような考え方なんだけど、
それの外側からこう捉えるっていうのあると、
なんかやっぱその半分ぐらいちょっとこう、
科学的に見るとふわっとしている部分が出てくる。
なんかそのスピリチュアルとか、なんかその精神的な話も入ってくるし、
文化的に共有されている善悪みたいな話とかっていうのって、
なんかやっぱ科学的に決定ができないこと。
そういうのも含めて全部を一箇所に集めてみられるように考えるっていう話なので、
なんかその科学的な思考の仕方で、なるほどってなる話じゃないっていう。
どうしてもその構造的にそうなっちゃうっていう話だなぁと思って。
でもより包括的な視点を与えてくれるみたいな感じなのかな。
そうだね、だからなんか多分ここの部分が一個この考え方で、
具体的な考え方と実現の難しさ
ふに落ちる人と落ちない人が分かれてくるんじゃないかなというところで、
なんかそういうその定義付けが難しいこと、
なんか主観的に感じているだけのことみたいなのも、
それの正しさもその科学的な正しさとある意味、
対等な重み付けをして考えるっていうことになるので、
なんかそこのそれがこうある意味信じられてないと理解しづらいというか、
なんかその自分の主観みたいなのにも一定の正しさがあるよなっていうのを結構納得できてないと、
結局その科学的な正しさの方に重みを付けた判断の方がいいんじゃないのって多分なっちゃうと思うので、
そこが多分こうまず引っかかるポイントの一つなのかなと読んでて思った。
でもなんかこう、科学的か非科学的か、
両方の考え方ってどうしてもこう対立構造になっちゃって、
どっちかを信じると一方を否定するみたいな、なんかすごいよくあることだから、
そこのなんかつまらなさをめっちゃ感じてきたので、
どっちも正しいんだみたいな、ある意味どっちも正しいって見れる、
それを包むしざが持てるっていうのはなんかわくわくしますね、わくわくしました。
そうだね、なんか本の中に出てきた表現で、
まあ割とその今の感覚をシンプルに表してるなっていう思ったのは、
その全ては正しいか部分的に間違ってるみたいな言い方をしていて、
だからあらゆることのその正しさと間違ってることみたいなのを、
全部等しく一回並べて、それを眺めた上で考えるっていう、
その前提がまず必要になってくるという、
なんとなくわかりましたかね、目指している方向性は。
聞く姿勢は整ったよ。
で、そうだね、これでまあこの本の中身としては、
今みたいな方向性でその統合をどうやったら一つの価値として受け取れるのか、
みたいなことを考えていこうという前提があって、
で、あとはそのそれを具体的にどう考えるのが良さそうかという、
そこに関しては結構多分、最終的にはこれが正しいというものはそもそもない、
という前提で話が進んでいくというか、
多分そのイデア的なものというか、
全部が統合された状態という、なんかイメージはできるかもしれないけど、
それを実現するっていうのは多分すごく難しい。
実現?
本当に満遍なくすべてを統合しようってすると、
本当に漏れなく考えなきゃいけなくなるわけで、
それはなんかその人間の能力をそもそも、
それができたらそれはもう神でしょみたいな、
そういうことになっちゃうので、
それが完璧にできるということよりは、
その方向に向かって考えるためには、
どういう姿勢でいたらいいかみたいな、
なるほど。
あとその頭のなんていうかな、
思考回路みたいなのをちょっと整えていくというか、
その一個のものを見るときにこういう視点で見たら、
漠然と眺めている時よりは統合された状態で見えやすくなるみたいな、
だからそうだね、
これアートやってる人だと、
そのなんかデッサンの仕方を説明してるのとかにちょっと似てるかなと思っていて、
デッサンの目的って、
なるべく正しい狂いがないものを画面上に映しとるってことじゃん、
そういう意味でなんか正確にその世界を捉える、
その目の使い方とか手の動かし方、
そういうのを教えられるわけだけど、
でもそもそも平面にしてる時点で、
正確なわけがないじゃん、
立体ではないっていう、
立体のものを平面にしちゃってる時点で、
偽物ではあるし、
あとまあその石構造とかだとあんまりわかんないけど、
人とかだったら動いていくわけだから、
その固定してる時点で偽物ではないしみたいな、
世界の見え方
そういう不完全さも当然出てくるんだけど、
ただまあなんかそのある一定の範囲内で、
その精度を高く見るっていう、
その練習はできるよねっていうことで、
それをそのなんか、
いろいろな目に見えるものだけじゃなくて、
世界全体の見え方をそういうふうに、
なるべく正確に捉えられるにはどうしたらいいのかっていう。
なるほど。
なんとなくわかるかな。
難しいことなんだなっていうのがすごいよくわかった。
そうだね。
我々はね、10件でデッサンをやってきたから、
大変だよね。
そう、でもなんか多分デッサンとまさに同じで、
なんか難しいけど、
そのやらなければいけないこと1個1個はすごい単純みたいなことでもあるというか、
なんか別にすごい複雑なことをやってるわけじゃないんだけど、
1個1個ちゃんとやらないといけないっていう、
そういう難しさみたいな感じかな。
そっか。
やればある程度上手くなるし、
でも絶対こうバイアスじゃないけど、
理性みたいのは出てくるってことね。
そうそうそう、出てきちゃう。
そうだよね。
そしてなんか最終的なアウトプットとしてその、
なんていうかな、スーパーリアルみたいなのが、
常に必要なわけでもないっていうことでもあるし、
なんかそのイラスト化して結局その人に伝えるときは、
そういうその分かりやすさみたいなのが大事だったりもするけど、
まあ自分の中でその見る見方としては、
そのそういうのが欠けるぐらいちゃんと見て、
見た上でそれをどう出すのかはまたそのシチュエーション次第だったりすると思うんだけど。
すっごい分かりやすいわ。
そうだね、なんかちょっとその世界の見方についての話っていうことだね。
なるほど。
すごい要約すると。
しっくりきた。
その見方が歪んでたらね、アウトプット絶対歪んじゃうし。
四象限模型の説明
見方をまず整えないと、その見えてる以上のものは結局ね、書けないから、
そういう意味でのその見方を整えていくという。
なるほどね。
で、そうだね、このどう見ていくかみたいなのがやっぱり、
それこそデッサンと同じで、細かく細分化していくとすごい色々な要素が出てきちゃう。
ややこしいんだけど、なんか大きく分けると2つあって、
一つはその四象原って呼ばれているやつで、
何か一つの対象に対してそれを4つの角度から見る方法っていうのがまずあると。
で、もう一個は発達の段階っていう考え方があって、
それは今のその世界の見え方っていうのが、そもそもその人によって結構違うじゃないっていう。
で、その見え方が根本的に違う人がいるという前提で捉えないと、
まず正確に見えてないんじゃないかっていうような話をしている。
これがだから一個一個が結構ちゃんと説明しようとするとボリュームがあるんだけど、
でもこの2つだけだったらまだちょっとかいつまんでもしゃべれるのかなっていうところなので。
この2つっていうのはさっきの?
今のその四象原っていうその見方と発達段階。
で、そうだ、どっから説明しようか。
まあ、四象原をまず1回説明した方がわかりやすいかな。
えーと、これはあの、なんか、たの字を書いて考えるっていう。
今、書いてくれてますね。
このために用意されてたんですよね。
何も書かれてないのに置いてあると思って。
そう、これ書きながらの方がわかりやすいと思う。
で、上が、たにした時に、2つの軸でこう、2つの軸を書いて4つのエリアに分割してるって状態。
田んぼの種。
真ん中の線がX軸Y軸ってことだよね。
そうだね。で、上下が子と集合かな。
集合とか集団とかの軸。
子と集団。
で、左右の軸が内と外で。
内と外。
なってて。
一応、この本の中ではこの子と集団、子が上で集団が下で、内が左で外が右っていう。
これを前提にして、なんか右上とか左上とかいう話をするんだけど。
とにかくこの2つの軸で上下左右分けて1つの対象を捉えると、一応ざっくりと全体が見えるよねっていう話をしてますと。
で、多分わかりやすいのはまずその左右の内と外の世界の見え方で、内の左側半分と右側半分で分けたときに、
さっき言ってたその科学的な見え方っていうのはもうこの右側の外の世界っていう捉え方をしていて、
で、内の世界っていうのは、そもそも見えない、主観を分けるとしたら主観客観だし、目に見えない世界と見える世界。
あとは、計測不可能なものか、計測可能なものか。
内外の視点を考慮する
あとは感じるものと観察するもの、みたいなそういう分け方で内と外っていうのを言ってました。
これなんかちょっと具体的な何かをあった方がわかりやすいと思うんだけど、何がいいですか?
え、何を言えばいいの?
なんか、テーマみたいな、モチーフみたいなのね。
そうそう、モチーフがあると多分より、
りんご。
りんご出てきた。
ちなみにこれAIに1回台本を書いてもらったんだけど、
そんなことしたもんね。
試しにね、どんな感じに書くかなと思って、それでもやっぱりりんごをモチーフにした。
モチーフといえば、りんごですよね。
デッサンもね、最初はりんごですよね。
さっきデッサンの話だから、それで見るとわかりやすい。
デッサンで言うと、例えば1周、1回ぐるっと回ってから書き始めましょう、みたいなことを言われたりする。
それで、そのものをものとして捉える。
自分の今見ている視点、書く時の視点から見たものだけを見てると、多分ちょっとのっぺりした存在になっちゃったりするんで、
その物質感というか、その存在感を確認してから書き始めたほうが、想像して書けるみたいな。
感覚としてだから、その話と全く同じというか、
今デッサンで書いてる、書く側にいるのが外側から見た視点で、書く人が見ているのが外側から見た視点だとすると、
その裏側の見えてない部分っていうのが必ず出てくる。
だから、その裏側の見えてない部分を考慮せずに書き始めた絵と、1回裏側見てから書き始めた絵だと、
なんか違うよねっていうのがそのデッサンのね、うまく書く方法の一つだと思うんだけど、
それに近いのかなという気はしていて、分かりますか?
何が近い?
一つの今、リンゴの話をしようとしてますってなった時に、
リンゴの話し始めた時に、書く人っていうのはこっちの外側からしか見れないと。
こっちから、こういう感じで外側からしか、さっきの図で言うとこの右側のから見たリンゴしか見えませんと。
リンゴを真ん中に置いた場合、右側から、右半分のリンゴしか見えてない状態で絵を書きますってなるわけですね。
でもそのデッサンをする場合でも、やっぱなんかそのここの視点だけにとどまって書いてるよりは、
その1回このぐるっとリンゴの周り一周してから、これを書くぞっていうその意識を持ってった方がその捉え方が変わる。
一周するっていうのは、さっきのその4、なんだっけ、4現象?
4証言。
4証言を一周するっていうのと重ねてるの?
そういうことです。
なるほどね。
だからこれをなんていうかな、この上から見た図という風なイメージかな。
一応さ、あれだよね、そのリンゴの周りを一周するっていう言い方だと、結局その外側を見ているっていうだけにならないから、
なんかデッサンで言うとよく言われるのは、手に持ってみましょうとか、匂いを嗅いでみましょう。
なんなら食べましょうみたいな、味わう。
で、食べてみて何を感じたかをちゃんと感じましょうみたいなこととかまでやると、さっきの4証言の内側とかからも見てることになる。
そういうのを含めて書いた方が絶対上手く書けるから、そういうことかな。
そうだね。
あとみんなの意見も聞いてみましょうとかなのかな、集団とかだと。
みんなはリンゴ好きですか?リンゴってどういうイメージありますか?
そうだね、だから確かによりその、なんていうかな、この内と外に当てはめて言うと、そういう話になるかな。
なるほど、なるほど。
すごい上手に書けそうな気がしてる。
そう、だからスタンスとしてはそういうこと。
なんか一周こうぐるっと、なんていうかな、全部の視点をめぐった上で書きましょうということで。
そうだね、だからその物理的にその裏側を見るっていう意味でもあるし、
もっとね、その物理的じゃない部分での見えてない部分っていうのも含めてみましょうっていうことでもあるしということなんだけど。
そうだね、だからリンゴで言うと、この外側の話っていうのは、
どんな味なのかっていうのを、例えば成分的に糖度がいくつとかって表現している。
だからそのリンゴ食べた時の印象っていうのだけで考えても、
そういうこの計測できる形で表現することもできるし、計測できない、なんかその、あの味みたいなのを。
で、結局この内側の話っていうのは外側に持ってこないと人と共有できない。
内側は外側に持ってこないと共有できない。
基本的には共有できない。
この集団という話が出てくるとちょっとまた、もうちょっと複雑になるけど、
基本的に外側の言語化するとか、視覚化するとか、なんかその外側に持ってくることで、
こう人に伝えることができるようになる。
なるほどね、じゃあテレパシーとかはどうなるの?
うん、なんかそこら辺が多分ちょっと難しいところだと思うんだけど。
テレパシーはあるとするのかどうかにもなるけど。
テレパシーの存在をどう捉えるかみたいな話だけど、
そうだね、一旦ちょっとそんな感じ。
そこ。
濁されてる。すいません、はい。
でも、だからテレパシーの話っていうのを例えば考えるとすると、
科学的にそのテレパシーが発生している時って脳内で何が起こっているのかみたいなのを見るのがその外側の話で、
それが確認できるとテレパシーっていうのってなんかどうも存在するらしいっていう共有しやすくなるけど、
なんかテレパシー感じるんですみたいな、できるんですみたいな主張をしている人っていうのは基本的にね、
信用されないというか、それってやっぱ共有できない。
その人の中ではなんか感じているというのが明らかで、
もうそれをその外側に出す手段がないと、やっぱりそのどうしてもこう、多くの人には納得してもらいづらい。
そうだね、おもろいね。
ということで、
なので、このインテグラ理論の中でまず一つ目の話として、この見方をすごい重視しているのは、
やっぱ今の世界がどうしてもその外側から見た見方というのを、
めっちゃそう思った。
重みをつけすぎているっていうことをすごく問題にしていて、
で、それをバランスをとる方法がなかなか難しい。
やっぱその共有ができないから、その人の中ではそうなんだろうけどっていうレベルで話が終わってしまう。
感じられるよね、どうしたって。
ってなっちゃうんだけど、このインテグラ理論の前提に立つと、
一旦じゃあその人が感じているということ、その事実はそれはそれで正しいよねと、
そう感じてるんだっていうのは、
それはなんかその外側で観察できないとしてもそう感じてるって言ってるんだから、
まあそうなんだろうっていうことで一旦置いておいて、
内外の視点の調和
で、じゃあそのそう感じてるって言ってるのが、
外側から見た時になんでわかんないんだろうかっていうことを考えていけばいい話で、
その外側で見えてないから、こっちの内側で起きていることがないわけではない。
少なくともそこでちょっとその考え方がバランスが取りやすくなる。
あ、そうだね。
なのでなんかこの内と外で見るだけでも、
だいぶ世界の捉え方をどっちに偏って今見てるのかっていうのを意識ができるようになる。
逆に言うとその内側の世界にすごいとらわれすぎちゃってる人もいるわけで、
その自分がこう感じているということを正しいけど、外から見たらそれわかんない。
なんでそう感じるのか、外の人には外から見てもう全くわからない話をしているってなった時に、
でもそのわからないのがひどいのかというと、
わかんないのはしょうがないみたいな部分もあるから。
いやー面白いじゃん。
でもそれを分けて考えるっていう発想があるだけでも、
だいぶその内側の話を今自分はしたいから、
そもそもその客観的にさっきの言うのだと、目に見える形とか計測できるとか観測できるみたいなこととして、
そもそも伝えられないのはこの内側の話をしたい、今したいと思っているからなんだっていうふうに思えば、
ちょっとそのわかってもらえないみたいなこととかもそうだよなっていう風になるし、
逆に言うとわかってもらうためには何かしらこの外側を意識して考えないと、
どうしようもないっていうのは、何ていうかな、覆せないことなので、
どうしたらそれが外側に伝わるのかっていう、そっちの発想に持っていきやすくなるかなっていう。
どうしたら伝わるのか知りたい。
個と集合の関係性
そうだね、知りたい、そこが気になるね。
でもね、結局アーティストのやることって、すべてそれなわけ。
そうだね。
ちょっとその話またその次でもう一回改めてできると思うんだけど、今のがうちと外の話。
あと個と集合があって、それで分けることで、上下で分けることでまた4つに分かれるんだけど、
個と集合は人間で言えば結局その個人と組織とか社会とかの関係で、
だからさっきのリンゴの話でここで持ってくるとすると、
リンゴのここのさっきのその味の成分がどうみたいな話っていうのは、
どっちかというとそのリンゴの個体を分析している話。
で、じゃあその集合的なリンゴって何かというと、
例えばで言うと、なんだろうな、
これってこの社会の話が大体その集合、外側の集合の話になるんだけど、
だからリンゴそのものというよりは、このリンゴがどのようにして、
例えば日本にこう伝えられたのかみたいな、その経緯を学ぶとか、
その歴史的な経緯で、このリンゴが今日本でこの品種が食べられるのは、
この時にこういうことがあってみたいな、
そうやってそのリンゴにまつわるその関係性、いろんな物事の関係を見ていて、
その中でこのリンゴっていうのがどういう位置づけなんかっていう話になってくるから、
そのリンゴそのものをほかぼりしているというよりは、
リンゴがどういう位置づけ、その社会の中でこういう位置づけになってますっていうこと。
だから学問とかで言うと、社会学とかが一番わかりやすいけど、
社会のがどういうふうになり立っているのかみたいなのを観察したり、
今みたいなそのやっぱり計測可能だったり、客観的に分析できるものだったり、
目に見えるものからこう理解していこうとすると、
その外側の集合の話になる。
この集合の話はちょっとね、だから複雑になってくるの、これだけで。
文化と倫理観
わかったよね、わかったよね。
その概念になってくるってこと?
概念というか、だから関係性と言った方がいいかな。
社会との?社会の中での?
そうだね。
集団の外側の話というのは、その仕組みとかシステムの話?
そうだね、だから今歴史の話をしたからちょっとわかりづらかったかもしれないけど、
例えばその輸入される果物とかだったら、
それがどういう経路で輸入のシステム、流通の仕組みみたいなのがどうなっているのか。
その流通の仕組みがそもそもないと、これは日本では食べられませんみたいな果物とかが、
例えばあったとする。
それはだからその、果物そのものについての理解ではないけど、
それに関する仕組みとかシステムがどうなっているかっていうのをわからないといけない話で、
だから何て言うかな、例えばバナナすごい好きって人がいたとして、
バナナがなんでおいしいのかっていうのは、さっきのこの外側の話として、
こういうその独特な香りが、こういう成分がバナナのその味の特徴になってます。
で、その香りが好きなんだなみたいな話になるけど、
バナナをこれからも食べ続けるにはどうしたらいいのかっていうところ。
で、考えていくとこの流通のシステムとか、バナナがどうやって生産されて日本に届いているのかみたいなのを理解した上で、
それが持続可能かどうかみたいな話をすることで、
バナナ好きな人がバナナをずっと食べ続けられるかどうかみたいな話ができるわけ。
だからそのバナナの話するにしても、バナナとは何なのかみたいな、
単純にそのバナナ自体を分析していくこともできるし、
このバナナってそもそもどっからどうやってきたんだとか、
なるほどね。
その側面もあるよね。
この側面が何で大事かっていうと、今の世の中の話でいうと、
全部自己責任論になっていっちゃうと、
この外側の話として、努力が大事みたいなところに全部押し払われてしまいがちなんだけど、
でもそもそも仕組みとして、どんだけ頑張ってもこういうことできないよねとか、
例えば家庭環境が良くないと、どうしても学力が上がりづらくて、
なかなかいい仕事につきづらい人が出てきちゃうっていうような話を、
全部この子の外側の話だけでいうと、勉強頑張ってないじゃんみたいな話で終わらせてしまえるけど、
勉強、個人の努力として勉強を頑張ったとしても、
家庭環境が良くて、最初から進路がある程度家庭の中で設計されている家で、
もうお前はこれを勉強しなさいみたいな、それがいいか悪いか別として、
言われてたら、なんとなくそっちに進みやすくなるわけで、
それをそもそも選ぶ選択肢を想像できないっていう家庭環境に置かれている人だと、
子の努力というだけでは解決できない問題がありますよねっていう話を、
そういう話の中で出てくるのが、この外側の集合的な考え方が必要になる。
じゃあ今、現代はその子の方にみんな集中しがちで、
集団とかのからの見方、分析が甘くなりやすいってこと?
そこはね、なんとも言えないところはあるけど、
最近の傾向としては多分この集合的な見方をより大事にしないといけないという、
なんか風潮にはなってきていると思うんだけど、
特にそのなんていうかな、ある程度よく考える人たちの中では。
構造理解しようとかっていうのはそっちってことだよね。
そうそう、構造理解みたいな。
だからポッドキャストで言うと、古典ラジオとかがやってるのは、
完全にこの外側の集合の話を、
めっちゃしてるね。
この視点を広げるための番組とも言えるというか。
個人の深掘りっていうのも側面もあるにせよ、
でもなんかその全体としてみると、やっぱその歴史をやっぱ知るということ自体が、
人間という集団がどうやって延伸してきたのかっていう話なので、
やっぱりその歴史の中でね、個人の果たせる力って、
なんかでっかいようで、でもやっぱその時代の波に飲まれて、
そうせざるを得なくてやってるみたいな外だったりとかもするから、
両方の側面あるんだけど、やっぱどっちかだけで見てると、
なんかそういうちょっと極端な個人主義みたいなことになったりするし、
逆にこの集合的な方だけで見てると、なんか個人の意思みたいなのが全くないみたいな、
なんていうかな、もうシステムの中で飲み込まれて、
全てもシステムによって支配されているわけだから、
自分がどう頑張っても意味ないというか、努力しても意味ないみたいな考え方にもあるから、
それはそれでちょっと極端だと思うんだけど、
ということで、今の外側の個人と集合っていうのはそういう話かな。
勝手。
で、まあ内側の集合の話もちょっと捉えづらいんだけど、
文化とか、文化的にそのリンゴというのが、
例えばリンゴっていうモチーフをこういうふうに捉えるみたいなのってあるじゃないですか、
文化圏ごとにそのリンゴと言ったらこれみたいななっているので、
なんか必ずしもそれが名文化されて共有されてなかったりするんだけど、
なんとなくそのみんなが感じる印象が近いっていうことで、
そういうリンゴの捉え方が出来上がっていくっていうことだったりとか、
あとはまあなんかすごい、もっと狭い話で言うと、
さっきのだからおいしいみたいなものが、
長野県とかそうだと思うんだけど、リンゴの品種がいっぱいある地域だと、
やっぱなんかうちはこのリンゴ、うちの家族はこのリンゴが好きみたいなのってあるじゃん。
それってなんか味の好みをなんか共有していて、
リンゴといえばこれだよねみたいな、好きなリンゴがあるみたいな状態っていうのは、
個人の感覚の話でもあるけど、それを家族内で共有して、
その家族のちょっと文化っぽくなっているっていう、
家庭の味みたいなものとかはちょっとそれに近いと思うんだけど、
でもなんかその家庭の味って具体的に何ですかみたいなこと言われたら、
結構難しいじゃんね。
観測可能な形にしてくださいって言われたら困るというか、
お袋の味って何ですかみたいな話になってくるわけで、
それもちろんなんか調べたらわかるかもしれないけど、
別に調べなくてもなんかそのあるよねっていう認識できてるものとかはあったりするわけで、
そういうものが集合的で内面の話。
で、まあそうだね、この内面の話でもさっきと同じようなことなんだけど、
多分その文化的に共有されているこうだよねっていう前提、倫理観みたいなこととか、
さっきのこのうちの味ってこれだよねっていうのも、ある意味その善悪の判断になっている。
極端に言えば、この味はうちの味じゃないっていうそのジャッジをしてるわけだね。
でもそれを別になんか客観的な基準とかじゃなくて、
すごい感覚的に内面的に共有されているなんか暗黙の了解で、
これはうちの味じゃないよねみたいなことを言うっていうのは、
一つの倫理的な小さい倫理観なわけで、
それを個人のどっちが先なのかみたいな、ニワトリが先か卵が先かみたいな、
その個人の好みがその集団の好みを作ったのか、
全体で共有されているものを受け継いで自分がそれを好きになったのか、
なんとも言えない部分があるけど、でもやっぱその関わり合っている。
やっぱその家庭の味を大人になって再現したくなるみたいなことって、
それをやれと言われたわけじゃないけど、やっぱなんかそっちに引っ張られやすくなってるよねっていう。
それってその人が独自でたどり着いた答えではないから、
なんかしら家族とか親族の中で共有されていた価値観が引き継がれているっていう捉え方になる。
だからやっぱなんかその人のなんか感じ方みたいなのが、
なんか偏ってんなみたいにふうに思ったとして、
価値観と集団の影響
でもそれがその人自身がそう思おうと思って持ってるのか、
なんかそういう環境にいたからその判断基準ができたのかみたいなのは、
やっぱりなんか一概に言えないし、
まあ両方ここも相互作用がある話だなっていう。
そうだね。
相互作用あるものだけど、そこを分けて考えることで、
もう一回自分で選び直せるとか。
そうね。
家族から受け継いできた価値観を大人になって、
本当に今必要なのかみたいな内在化させちゃったけど、
切り離して考えてもいいかもとか。
そうね。だからなんか今の料理の話で言うと、
なんかみんな美味しいって言って食べてるから食べてたけど、
なんかよく考えてみるとあんまり自分これ好きじゃなかった。
みたいな風に大人になってから思うこととかってあると思うんだけど、
それも集団的に与えられたものが絶対ではないっていう感覚がまずないと、
やっぱり抜け出せないわけじゃん。
そうだね。
この集団の内面にこだわりすぎてると、
自分がなんか違和感があってても、
みんなこれをいいと言っていたとか、
みんなこれで喜んでたみたいなことが、
それが自分もそうするべきなんじゃないかっていう風に思いやすくなっちゃう。
だからやっぱりその倫理観の話とかが難しいのはそういうことで、
その人がそう思うと思ってそうなったのかっていうと、
周りのみんなが誰もそれを良しとしていなかったから、
自分もなんとなくダメだと思っているみたいなことが例えばあるわけ。
多分だからこの話はすごいポリアモリとかでもしやすい話でね。
複数人で恋愛をするということがダメっていうのを、
その人の個人の感覚として本当にどこまで思ってるのかっていうところは難しいところ。
ほとんどの人がそれをなんか良くないって思ってる中で育ったら、
やっぱりなんか良くないのかなっていうのが先に多分出てきやすくなる。
けど実際ね、自分が本当にどう思うかみたいなのをちょっと聞いて考えたら、
別にそんなにそこ重要じゃなかったかもみたいな、
こだわりいらないかもって思う人が例えば出てくるっていうところで、
倫理っていうのが個人の中で完璧に対応しているものではないよねっていう。
その人のいる集団の中でなんとなくこの辺りだよねっていうのが決まっているだけで、
ちょっと離れて考えると、正確にそれと自分の感覚一致してなかったかもみたいな。
インテグラル理論の四象限
そこがこの集団の内面の上下で分けて考えるとちょっと分かれてくるかなって。
いいね。
いい?
いいですか?
ちょっと楽になる。
一体化しちゃってるとか。
そうだね。
この見方だけでも結局バラバラのものを一つにまとめる力もあるし、
逆に必要以上に癒着しちゃってるものを分けるということもできるし、
この4つの他の字に分けて考えるということが、
それをきっちり一個一個を等しく見られるようになると、
確かにちょっと世界の見え方がより正確になってくるというか。
多分人によってこのどこが得意みたいなのがあると思って、
パッと考えたときにここから考え始めやすいなみたいな。
この視点からどうしても見がちっていうのがあると思うので、
それをまずこれで考えてみて、ここら辺だなっていうのが分かってると、
それじゃないところで考えるとどうなるのかなっていうのを切り替えもしやすくなるのかな。
それこそAIとかに聞いてもいいよね。
今このことに悩んでんだけど、4小言で言うと、4つ何に注目したらいいのかみたいなね。
そうだね。
この話の中でもね、そのAIについてちょっとしゃべろうかなと思ったんだけど、
結構だからこの見方をするということ自体が、そもそも頭に負荷がかかるから、
なかなかバランスがいいとはいえ、それをじゃあ常にできるかっていうと結構大変だと思うんだけど、
AIがいいのは、この外側を結構補ってくれるっていうこと。
逆に注意しないといけないのは、AIはこの内側は何も捉えられないっていうこと。
結局ね、この客観的に、さっきの科学的に捉えられる領域っていうのしかAIって、
基本的にその言語化とか視覚化されているものしか扱えないっていうところだけわかっていれば、
逆に言うとここが外側の方が苦手な人は、
このインテグラ理論の四小言でこの問題を見たときに、
その外側はどういうふうに捉えられると思いますかっていうことを例えば言うと、
おそらくそれなりの無難な答えは言ってくれるんじゃないかな。
だし、外側の話というのは、情報量が多ければ多いほど精度が上がる話なんで、
AIとかにある程度任せちゃっても、細かいところの正確性はわかんないけど、
少なくともあんまり勉強してない人がなんとなく考えているよりは、
バランスが取れている話ができるのかなっていう感じ。
すごいじゃん。
そうだね、だから最初のリンゴのデッサンの話で言うと、
外側を360度見るみたいなのが、AIが割と得意なところってことよね。
その外側、見える世界の中で全ての角度から見たときに、
リンゴってこういうものですよっていうことを例えば言ってくれるっていうのは、
いろいろ調べて勉強してたどり着くよりは、だいぶ早く理解しやすいかもしれない。
なんとなくわかりました。
ね、なんか活用したくなってきたね。
あ、そうだね。
というところで、とりあえずこれでだからインテグライロンのその…
やば、1時間経ってる。
全然1時間経ってる。
結局だから、これが半分というか、その大きな見方の1つ、2つのうちの1つが、
今、今日話した内容でしたということです。
すごい充実したボリュームでしたね。
充実したボリューム?
日本語編。
はい、どうですか?
自分の中ではなんとなく話そうと思ったことは、
今回のそのね、4証言の話はなんとなくはできたかな。
だいたいしゃべれている気はするので。
これさ、それぞれどこが得意なのかみたいなの聞きたかったけど、
あれか?今回に収めるとちょっと重すぎる?
でもなんかもうこの、これ結局あれだよね、しゃべって、
なんかキリのいいところで終わらせないと結局わかりづらいよね。
たぶんね、この話ってね。
だからまあいいんじゃないかね、その長さ。
結構、ポッドキャスト聞いててめっちゃ長いの垂れ流しにしてるのとかも最近結構あるなと思うから、
聞きたい人は聞いてください。
ぐらいで。
ちょっとね、若干詰めるかもしれないけど。
感想と合わせてね、どこが得意か聞きたいな、みんなが。
そうだそうだ、だから最後あの1個、さっきのその4つに分けるっていうので、
ちょっとやっぱりなんていうかな、覚えづらい。
その4つのどれが何みたいなのが覚えづらいかなと思うので、
もうちょっとわかりやすい分け方もあって、
その右側をまあとりあえず一緒くたにして、外側の世界と内側の世界を2つに分けてっていうので、
これで、これに当てはめるとその昔のそのギリシャの、古代ギリシャの哲学の中で言われている、
その神前美っていう、これもだからそのインテグラル理論のもうちょっとなんか古代ギリシャ版みたいな感じで、
世界の要素をこの3つに分けて、それぞれを高めていくのが、
なんていうか人間の価値を高めるっていうようなことかな。
普遍的なその価値っていうのがその3つに分けられるよねっていう話をしていて、
神っていうのが真実の神なんだけど、これがまあ外側の、
外側。
科学的にその真実か真実ではないかっていうね、真か偽かっていう見方をするのは科学。
なんとなくわかる?
わかる。
なんかその証明ができるかできないかっていう。
わかるけど書いといてほしい。
はい、真ってね。
ここに真があって、
で、左上。
左上ね、内側で子が。
そう、内側の子が美に対応していて、
で、内側が、
内側の集団が禅。
漢字がわからないです。
なんで?こんなにね、こんな賢い説明ができるなんて。
漢字が苦手。
わかるよ、なんとなく。
禅って書いておきます。
開かない。
はい、ちょっと待って。
じゃあもう1回整理すると、
右側が全部禅。
これが科学的な、今現代でいう科学の領域で、
で、左上の子の内面が美。
自分が美しいと思うか思わないか。
まあ、そうですね。
主観だもんね。
それってだから真実がどうかとか関係ないわけじゃん。
関係ないもん、科学関係ない。
フィクションだとしても美しいと思ったら美しいわけだし。
そうだね。
思うかどうかだもんね、漢字と関係ない。
それはだからやっぱこの右側の神の世界では捉えられない価値が、
この左上の子の内面で説明できると。
で、最後にこの子の集合の中で高めるべきなのは禅だと。
禅悪の基準。
禅悪の基準をその集団的に共有している、
これがいいよね、これ悪いよねっていうのを高めていけばいくほど、
まあ確かになんか良くなりそうだなっていう。
さっきも倫理観とか出てたもんね。
そう、倫理というのが結局禅悪の話。
なるほど。
これも、でも何が禅で何が悪かっていうのって、
必ずしも正しいか正しくないかではない、
科学と美の相互関係
その真実か真実じゃないかっていうのと完全に一致してるわけではない。
そうだね、真実であっても悪はあるからね、真実とか事実であっても。
実行は可能だけど、やっちゃダメなことっていうのは、
何かしらのその基準によって決められていて、
それが禅悪の判断なわけ。
真の世界だと結局そのルールで、
例えば書いてないことだったらやってもいいよねみたいなことも言えちゃうわけだけど、
それって本当にいいことかみたいな話をするためには、
この禅悪のがまずないと、
これはさすがにダメだよねみたいなのがないといけないし、
で、それの基準を、その水準が低いとやっぱり何て言うかな、
何かお前ちょっと朝起きるのが遅いから死刑ねみたいなこととかが、
禅悪判断。
厳しい。厳しいよ。
禅悪判断が雑っていうのってそういうことじゃないですか。
朝起きれないという、何か結構それしょうがなくないみたいなことに対して、
ものすごいバッシングをするとかなってくると、
それ何かちょっとね、禅悪の基準、水準が低すぎないみたいな話になってくるし、
なるべくその多様な人を受け入れられる禅悪の基準みたいなのが必要だけど、
じゃあこれやる人って本当にいいの?みたいなことが、
どんどんその外側がね、きわどいラインみたいなのが広がっていくわけで、
難しい話ではあるけど、確かに高めていかないといけない部分ではあるよね。
なるほど。
で、そうだね。かつやっぱりこの3つを全部を高めていく。
で、それぞれの連携が必要ってことだよね。
そうだよね。
この禅悪の基準だけで全部回そうとすると、やっぱり明文化されてないっていうところで混乱が出てきたりするから、
外側で法律を作って、
若干外ずれが出てきちゃうけど、その禅悪の基準とずれが出てきちゃったりもするけど、
美意識と真実
一旦じゃあそこで決着つけて、そうしないと次に進めないからみたいなことをしなきゃいけなかったりとか、
あとやっぱその禅悪の基準がやっぱおかしいだろうって思う個人の美意識みたいなのがあることで、
その禅がよりアップデートされる場合もあるわけで、
禅悪の共有されてる中、それが絶対的なものになっちゃうと、
それはそれでやっぱりなんかそのさっきの倫理観の話と同じで、
なんか違うんだけどなって思ってるけど、なんか従わざるを得ないみたいな状態の人が出てきちゃうわけでね。
とは言ってもなんかおかしくないみたいなことを言えるのは、やっぱ個人の内面のその美意識みたいな、
なんかみんなそう言うかもしれないけど、自分はそれはやりたくないこととかを言う人がいないと、
この禅っていうのもあんまり機能しなくなっちゃうということかなと思う。
最初の方で話したけど、自分の美意識と実際それが真実かどうかっていうのは別の問題なので、
それもね、分けた上で、真実を知った上で自分の美意識をより洗練させていくみたいなことだったり、
あとその自分の美意識に従って真実をより追求していくみたいなことだったり、どっちも必要なんかなっていう。
ということで、だからこの真善美で分ける、分け方の方がとりあえずなんか頭に入りやすいなっていう。
個々の価値観の違い
そうだね、確かに。
でもこれあれだね、3人ともきれいに分かれるよね。
真善美で言うと、担当分けするとしたら、
担当分け?
得意な分野。
もったいさんは真でしょ?
そうね、しーって言うならっていう感じだけど、
なんかその、何か喋ったりとかするときは、そっちに行きやすい気がする。
アウトプットするときにってこと?
そうそうそうそう。
でもこの外側の世界が、やっぱこう、それこそその子も集団も、
フラットにまんべんなく見えてるんだなっていう印象はある。もったいさんが。
外側の。
外側のこと集合を。
そうそうそうそう。
なるほどね。
そこに偏りがないから、割とその精度が高いというか、得意っぽく見えるのかなっていう印象です。
そう、だからなんかこのやっぱ真の部分っていうのは、逆に言うとAIで結構なんか置き換えられるなぁとも思っていて、
なんかなんか自分も得意ではあるけど、あんまり別にそこを伸ばさなくてもいいかなって気もしてきているっていう感じかな。
へぇー。
そう、そっちじゃない方が、むしろそっちじゃない内面の足りなさの方が、どっちかというと気になってくるという感じがする。
なるほどね。
確かに我々のAIみたいなとこありますもんね。
そうだね。
何か見えない時に打ち込んで聞いてみるみたいな、正確に返ってくるよね。
うんうん。
で言うと、はるちゃんやっぱBなんかな?
なんかこれしかむしろない感じしちゃって。
なんか完全にこの左上だけで、なんか生きちゃってるなぁみたいなことを思った。
なんかこれ前、前かなんか聞いてもよくわかんなくて、
うーん。
でもなんか聞いてて思い出してたのは、
最近ね、自分の中でよく出てくる母親はこうあるべきみたいな、
こう、なんていうかな、自分が受け継いできた雰囲気みたいな、母親ってこんな感じだよねみたいなものから、
自由になるためにBを多分使ってるんだけど、
あーなるほど。
うんうんうん。
そうだね。
なんか前の、なんかその、えっと、なんか前もわかるのかもしれないけど、
前のその、いい状態の前っていうのが、まだイメージできなくて、
なんか、前がよくわかんないなって思ってた。
うんうん。
るんるんはね。
前だね、ここで言うとね。
美も大事だけど、より前が大事な感じがするね。
まあちょっと、なんかわかんないように解説してほしいと思って、
どんな感じなんだろう。
どんな感じですかね。
どんな感じだろうね。
でもなんかやっぱるんるんの方が、その人の意見の合わせた中でのバランスで判断しようとする。
あー。
なるほどね。
し、その、そうだね、その意見がよりなんていうかな、その内面的というか、
それぞれの感情とか、なんか思いみたいなものに気を使って答えを出すみたいな、
あー確かに。
考え方になりやすいのかなって。
そうそうそうそう。
なるほどなるほど。
あーちょっと、わかった、じゃあるんるんみたいな感じね。
わかるか。
わかりやすいよ。
でもそう、前がしっくりくるのは、
私が見ているところが常に、集団の感情とか空気感みたいなのを受け取ってて、
自分の気持ちというよりは、みんなが何を感じてるかっていう方が結構集中している。
その始まりと、あと最終的に、やっぱ本当になんかその、そうだね、正しいのかどうか倫理的にみたいなことをすごい悩むことが多いから、
終わりと始まりがなんか前みたいな。
で、その間にたぶん美とか真も通っていくけど、スタートと終わりが前が多いなっていう感じ。
そうそう、だからまさにその、なんか日本でいう空気みたいなのは前の、前というかね、集団の内面の話っていう風に、
なんかその日本の人がこのインテグラル理論を研究してる人が出してる、もうちょっとこの現状よりも整理されてるというか、
なんかやっぱオリジナルで書く人ってその癖があるから、ちょっとこう、なんていうかな、人によって相性ある。
もう少しなんか入門書的に整理されてるやつの中では、そういう風に日本の社会に当てはめると、
内面の集合というのは空気って言われるものだとわかりやすいかなみたいな話をしてて。
なるほどね。じゃあ美はなんだ?なんかフランスとかかな?
フランス?でもやっぱそのね、日本だとその美意識で生きてる人は、なんかちょっとこうね、それこそ空気読めない人ってなりやすいよね。
美意識か、この真実にこだわりすぎてる人も空気読めない人になりやすいではあるかな。
真実そうだね。
美意識もそうか。
そうだね、なんか美しいかどうかで判断してるもんね。
そのやることが、自分なんか、
そうだね、ハルちゃんめっちゃそうだね。
生き様が美しいかどうかみたいなところだけ、なんかそこ、最終判断そこだよね。
話しててもめっちゃそうだよね。ハルちゃんは美しいかどうかで最終的に決めるし、私はやっぱ正しいか正しくないかみたいなことがすごい気になる。
ポリアンモリーとかも、善だと思うからできるけど、みたいな。
そのポリアンモリーを自分が選択することが周囲にとっても良いと思えたらできる。
より良い善だなって思うからできる。
あー面白い。それを美でポリアンモリーを選んだ理由を言うと、
そうだな、愛の一番豊かな部分を感じられる関係性が美しいから、ポリアンモリーを選んだという感じだから、
真で言うとどうなんですかね。
真で言うと結局合理性があるかどうかみたいな。
そもそも人間のライフスタイルって、
めっちゃ面白い。そうだよね。
これが必ずしも自然なライフスタイルではないという事実が歴史上もあるわけだし、
社会の仕組みとして、結婚制度っていうの1対1でいるってことが必ずしも良いことなのかっていうのを、
事実として見た時に別にそんなことはなかったりするわけで、
って考えると、そこの複数人1対1かっていうのって、別にどっちでもいいというか、
善悪というよりは、どっちも成立するじゃんっていう、同じ土俵に乗れるよねっていうような感じかな。
なるほどね。真の方で見ると。
面白い。それぞれ本当にそうなんだなって思う。担当が。
そうだね。
自分の感覚からすると、多分この真の世界から自分入っていくんだけど、
そこを突き詰めて考えていくと、その中で説明できないことが出てくるっていう感じがしていて、
片方からめっちゃライト当ててたら、逆にその影がすごい際立ってきて、そっちが気になるようになってくるみたいな感じかな。
こっちがよく見えるほど、こっち側の見えてない部分がむしろ目立ってくるというか。
で、多分そこで、あれ、なんかこれ全部見えてなくないかってなって、なると、今のこの視点がより捉えやすくなるのかなっていう気がする。
じゃあ、自分はBでライト当て続けたら、外側ももうちょっと見えるの?
だから、多分Bで突き進んでいくと、絶対その外側の世界で問題が起きてくるじゃん。
ぶつかるよね。
で、そこで結果的に、自分のB識との対立をどうするかっていう問題が、自然的に出てきちゃうというか。
そこが、今のね、真の世界から見ると、そのBとか全で動いている世界っていうのとの対立がどっかで出てくるわけね、突き詰めていくと。
そこをどう考えるかっていうことで、それがないものとして無視するのか、それもこっちの世界もあるなっていうふうに見た上で、
でも、自分が大事にしている、今大事にしているのはここだから、そこと折り合いのつけ方を考えていくのかとかっていう話かなと。
まあ、禅の話もそうだよね。禅だけにとらわれていると、やっぱり自分個人のB識みたいなのがどんどん抑圧されていったりするわけで、そことの衝突が出てきたりするよね。
インテグラル理論の理解
だし、結局B識を磨いていかないと禅も伸びない、真もそうなんだけど、そこの協力関係じゃないといけないっていう感じがするね。
だからその禅の世界だけにのめり込んでると、そもそもその禅じゃなくなっているみたいな。
あ、そうそうそうそう、なっていくようになるよね。
禅悪にただこだわってる人みたいな低いところでってなるかな。
だから美もね、同じだと思うしね、結局トータルで見たときに本当に美しいかみたいなことを考えていくと、
たぶん今見えている美みたいなのが、もっと洗練させる余地があるものかもしれないみたいな考え方もできるし。
なるほどね。
そういう感じで、この3つなり4つなり、それぞれの領域が境界線でバチバチするんだけど、
それを単純に対立として避けるというよりは、切磋琢磨する方向に持っていくための見方ということです。
なるほど。
なんかすごい頭文使った気がする。
そうだね、これなんかおやつが欲しくなる話だった。
リスナーさんも大丈夫?ついてこれてるかな?
ね、大丈夫かな?
みんなあの田んぼの田を書きながら聞いてもらってね。
この写真をあげといたら。
そうだね、あげときましょう。
一旦これ終わりにしますか。
前半だけでもだいぶ。
また次の機会に。
よかったです、聞いて。
聞いてください。
これで懲りてなければ。
聞いてくださいね。
ということで、かもしハウスの塩田茂部屋と、
のぞみるきと、
音羽晴香でした。
01:22:20

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