ちょっとそこからスタートしていきたいなというふうに思ってます。
谷川さんね先ほどおっしゃってましたけれども。
京都一律芸術大学の講師をされているというふうにおっしゃってたんですけど。
なんか私の最初に聞いた印象だと。
なぜ芸大に哲学者がいるのかっていうのがすごく不思議だなっていう印象を私は持ったんですけど。
なんかそこら辺って谷川さんが芸大の講師になる経緯だったりとか。
どういうことを実際教えられているのかっていうところをお聞きしてもいいですか。
芸大に勤めるようになった経緯は。
私の今勤めているデザイン科の専攻が卒業論文があるんですよね。
実はないんですけど。
卒業制作の前に論文を書こうっていう授業がありまして。
制作のリサーチを兼ねて論文を書こうっていう感じですね。
その非常勤講師をしてたんですよ。
学生との相性がいいじゃないか。
学評っていうんですけど、合同好評会みたいな機会に相性が良い谷川というやつを呼んでみたらどうか。
呼んでみたらそれなりに良かった。
じゃあ来年から職人講師っていう、ある種の雇用形態で呼んでみようか。
なんかそういう感じで流れでっていう感じですね。
面白いですね。
不思議ですよね。
教えてる内容はですね、これも説明が難しいんですけど、
論文の授業は未だに持っているのと、
ゼミですね、制作指導もしていて、
うちの専攻はですね、
この先生の元だからこれを作りますっていうふうに決まっていなくて、
自由課題なんですね、ゼミでは。
そのゼミに即して、この先生はこういうのが得意だけど、
あえてこの先生の元で、この先生が特に得意じゃないと思っているものを作ります。
例えば私のゼミで家具を作ります、みたいなことも全然できるっていう感じですね。
面白いですね。
制作を指導してらっしゃる哲学者がっていうところがね。
別にゼミ中に哲学的なことは言ってないですね。
言ってない。
つまり、なんだろう、
例えばハイデガーとか言ったりしないし、
なんか真摯に言論だねとか言わないっていう感じですかね。
言ってもあんまりしか言わない。
なるほど。
だからそういう難しい哲学用語だったりとか、
哲学者の名前とか出てこないんだけど、
ただ実際指導する中で、
哲学的な思想とか考え方みたいなところはやっぱり反映されてるっていう感じなんですかね。
そうなんじゃないかなとは思うんですよね。
なんというか、私の哲学の特性でもあり私の特性でもあるんですけど、
それっぽく言うとリフレーミングをしがちっていうか、
悪く言うと天の弱なんですよね。
なんか盛り固まっていたりするような人に対して、
なんかそうじゃないこともあるよねとか、
こういうリサーチのやり方はどうだろうとか、
そういう提案を一緒に議論しながらしていくっていうイメージですかね。
なるほどですね。
必ずしもこうそういうアウトプットとして出てくる作品自体に何か指導されるというよりも、
その手前のなんか姿勢あり方だったり姿勢だったり考え方だったりみたいなところを一緒に。
結局全部やるので、
結局全部やる。
そうなんですね。
指導教員のもとに作って形になるので、
私は前しかできませんなんてことは言えないわけですよね。
はいはい。
本の指導をしますって言っておいて、私は本の読み方しか指導をしませんみたいなこともないわけです。
そうかそうか。
入り口しかしませんみたいな。
そうですね。
私の得意分野じゃないからできませんとは言わないわけで、
私にできるなりのことを言って、
あとは他の教員の力もお互いに借り合いながら進めていくっていう感じですかね。
でも意外となんとかなるもんで、
なんとか今のところなってますけど、
なんて言えばいいんでしょうね。
例えばですけど、
今年の3月で修了した学生、卒業した学生がいるんですけど、
その学生さんがテーブルを作ったんですよね。
作業するテーブルを。
作業するテーブルの足の角度が気になると。
実物大の段ボールとかで実物大の机のサイズのものと、
これくらいの太さかなっていう足を実際に作ってみて、
座ってみたりするわけですよね。
なんかどこか違和感があるんですよねみたいな。
じゃあどこが違和感なんだろうねとか、
こういうとこ気になるけどなとか、
そういうことを一緒に考えていったり、
結構違和感の原因がわかったときに、
例えば足の、足ちょっと太すぎるから、
もうちょっとほっそりした方がいいんじゃないかとか、
例えばもうちょっと机の中の方に入れることで、
足の印象をそんなに感じさせないことができるんじゃないか、
みたいなことを提案してみたりする。
実際にこう、一緒にそういうのを作っていったり、
模型を作っていったりするみたいなこともやったりしてます。
これがどれくらい哲学的かわかんないんですけど。
デザインだとプロトタイピングってやつなんですけど。
作りながら、
なんかその違和感みたいなのがきっと大事そうというか。
そうですね。
なんかそこで立ち止まれるタイプを、
つまりここなんか引っかかってるから一緒に付け詰めたいかもっていう風に、
私に訴えてくれるタイプの人はすごい向いてるというか、
一緒になんか掘り下げやすいですね。
でもなんか、もちろんみんなそんな感じでうまく言えるわけもなくて、
むしろなんか違和感感じてるけどまとめて整理しないと
言っちゃいけないんじゃないかっていう学生なんかももちろんいますね。
なのでいろんな学生さんがいるので、
学生に応じて対応の仕方を変えてくれるんですけど。
そんなようなことを大学ではしてます。
なんかむしろ今リスナーをますます混乱させてます。
いや、なんかその面白いなと思ったのが、
そもそもそのなんだろうな、
芸大の学生さんの制作活動とか創作活動みたいなものが、
なんかそれは考えてみればそうだなと思うんですけど、
一人で黙々と作っていくタイプの人もいれば、
なんかこう周りの人に意見を求めて、
それで聞いた内容を制作にフィードバックして活用していく
みたいなタイプもいるかなと思うんですけど、
なんかそういう一緒に考えてくれる人とか、
なんかもやもやしてるものを言語化してくれるとか、
なんかそういう役割の人がいると創作が進むタイプの方もいるんだろうな
っていうのは聞いてて思いましたね。
そうなんじゃないかなっていう気はしますね。
特にデザインだっていうのを聞いた気がしてて、
もちろんアートだってクライアントワークになり得るんですけど、
クライアントだったりとかユーザーみたいな存在が
アート以上にお際立って存在するのがやっぱデザインだと思うんですよね。
確かに。
誰に依頼されて作りました。
じゃあ依頼者の要望はどうなんでしょうとか、
どこで使うんですかとか誰が使うんですかとか、
使ってみて実際どうなんですかみたいなことは、
やっぱり自分がどう思うかとかどうしたいかとかっていうこととはまた別の、
もちろん自分がどうしたいかって大事なんですけど、
また別のレベルでやっぱり客観的なコメントというか、
第三者のコメントみたいなのが必要にはなってくるんですよね。
そうです。
やっぱり作る前に言語化するとか、
作ったものを説明する時に言語化するっていうのは、
おそらくアーティストであっても必要なことですし、
それがビジネスの世界であったらより必要ではなるっていうのは確かにそうだなっていうふうに思いますね。
私なんか今のお話聞いてなぜか思い出したのが、
私自身が大学生時代に塾の講師をしてた時期があったんですけど、
これこそ谷川さんおっしゃったように、
文章を書くっていうのも一つの創作活動だったりとかするので、
共通点はもちろんあるんでしょうけど、
やっぱりこう選ぶテーマだったりとか、
そういったところに現れてきているでしょうね。
そうですね。
あとはなんていうか、
学生って異常な、
本人たちに聞くと違うっていう気がするんですけど、
暇じゃないですか。
働いてる人たちに比べるとね。
バイトとかしてるとかっていう。
なので、暇な時間があるからこそ、
その情熱みたいなものを人間関係とかだけじゃなくて、
創作にもすごく向けてるんですよね。
だから見ててすごい熱い思いにはなりますよね。
だから自分が文章を書くときにも、
負けてられるなっていうのは変な表現ですけど、
学生があれぐらいやってるんだからみたいな気持ちにはなりますね。
手を抜けないっていう感じは、
以前よりも明日かもしれない。
谷川さんの創作活動にも熱が入るようになったというか、
刺激を受けてるってことですね。
そうですね。
かなとは思いますね。
学生は知らないんですけどね。
学生はそんなに読めないですからね。
学生は谷川さんのほうはなかなかあんまり読まないんですかね。
多分。分かんないですけど。
わざわざ聞かないですけど、多分読んでないんじゃないですかね。
読んだほうがいいのにってね。
読者からすると思いますけど。
りょうこさんさっきなんかあれでしたね。
ちょっと言いかけましたね。すみません。
聞いてみたくなっちゃったのがですね、
私も教えてる大学とかで、
学生さん、本当に最近の学生さん見てると、
私が学生だった頃と比べて、
やっぱりタイパーだとかコスパーだとか、
いかに無駄を省いて、
対象の行為で結果を取るかみたいなことに
すごく執着してる学生が多いなっていう印象があるんですけど、
先ほどの谷川さんの話だと、
クリエイティブというかデザインとかをされてる学生さんにとって、
無駄を省いてたら創作なんてできないんじゃないかっていう思いもあるんですけど、
そのあたりって実際、
本当に大学によるんだなって思う。
その本部校、メインで勤めている大学、芸大では、
あんまりタイパーを感じないですね。
やっぱそうですね。
パフォーマンスとか計画とか、
もうちょっとは考えながらやったほうがいいんじゃないかっていうくらい。
逆に、もちろん。
でも、
やっぱり、
大学によるんだなって思う。
パフォーマンスとか計画とか、
もうちょっとは考えながらやったほうがいいんじゃないかっていうくらい。
逆に、もちろん。
ぐらい愚直に、
え、今からやり直すの?とか、
やらないんじゃないの?とか思うぐらい、
なんか気に入らないからやっぱやりますとか、
時間ないけどここまでやりますとか、
なんかこっちがハラハラするぐらい、
無駄なことをたくさんやっている印象はありますし、
まあでも実際、
なんて言うんでしょうね、
それがなかったらじゃあ、
すごい、いわゆる鍵かっこつきの有意義で効率的な生活ができているかっていうと、
疑問ですよね。
タイパーを意識するために、
なんかいろんな情報をスマホで触っているその時間で、
例えば映画見れるんじゃないかとか、
いっぱいしたくないとかっていうときにね、
いろんな映画調べる、
その時間で映画見れるやんか。
そういうことが実際に起こっていると思うので、
あんまり考えすぎないのが、
いいんじゃないかとは素朴には思いますけどね。
まあでも、
他の大学とかで接する学生とかを見てると、
なんて言うんですよね、
言葉選びは難しいんですけど、
こう、
すごい難しいですけど、
自分なりに賢く動こうとした結果、
結果的にあんまり機械として賢い感じじゃなくなっているんだろうなっていう風な感じのことを思うことが多いですね。
難しいですね、表現が。
コスパやタイプのようなパフォーマンスを意識するのって、
本来は目的がはっきりしてるときにすごい有効だったと思うんですよ。
確かに。
例えば、
Excelの計算表で何かこう、
関数を使ってある種のデータを得たい、
みたいなのとか、
単位時間あたりの量が増える。
これ非常に効率がいいし、
パフォーマンスが上がってる。
はい。
だから1時間で以前なら10しかできなかったのが、
15できるようになりました。
もうこれはどう考えてもやるべきことじゃないですか。
できるんだったら。
でも私生活はそうじゃないですよね。
1時間で5人に会えました。
別にだから何なんていう話ですから。
この1000円でいい映画が見れました。
それはいいことですけど。
でもその映画を調べるために5時間投資したんだったら、
それって何なんだろうね。
みたいな話になるかなって。
そうですね。
本当に何かを素早く得てるつもりが、
何かを落としていってるんじゃないかっていうね。
なんかこいつの方が気になったりしてたので。
なんかこれ結構すごく大きな問題だと思ってて、
そのタイパっていうよりも、
なんていうか、
その表現が難しいんですけど、
こっちがどれぐらいコンテンツとか現象に参加するかっていう度合いが、
非常に問われてるんだと思うんですよね。
パフォーマンスを実は意識すぎると、
目の前の状況とか関係とか作品とか対象に対して、
関わる度合いが薄くなるんじゃないかっていう気が直感的にはしてるんですよ。
具体的に言うと、
なんていうか倍速で1時間で2本見ますとか、
映画をね。
1時間は無理か。
まあ分かんないですけど、
適当な時間で映画の見る本数を増やすっていう時、
1個1個絵の参加の度合いっていうのが薄れますよね。
で、じゃあそれって記憶に残るんだろうかみたいなことをやっぱ思うんですよ。
で、あの、
ヘルトムート・ローザっていう社会学者の人が、
加速する社会っていう本、
シノーブ・バッツェフの書いてて、
その中で紹介してる概念なんですけど、
体験時間、
今自分が主観的に、
あっという間だったって思うのか、
いやなんかすごい退屈で長かったって思うのかっていう体験時間と、
早期の時間、思い出す時間っていうのを区別したらどうかって言っていて、
テレビであるとか、
なんかすごい、
私は多分、
ある種のゲームであるとか、
ある種のSNSとか、
動画プラットフォームみたいなものって、
割とこう体験時間としてはあっという間だと思うんですよね、面白いから。
でも思い出すと、
あんまり残ってないみたいな。
実はなんか、
人間は、
もっとこの早期の時間?
早期の時間をね。
のことを考えた方がいいんじゃないかなって。
なるほど。
思い出せる時間がどれくらいあるだろうかっていう。
パフォーマンス上げるとしたらそこなんちゃうかなっていう気がしたんですね。
まさにコンテンツを消費するっていう言葉をよく使いますけど、
消費するっていうことって、
まさにこう、
ちゃんと記憶に残るかっていうと、
おそらく残ってないことが多くて、
ただただ消費していって、
通り過ぎていってしまってるっていうイメージがあるんですけど、
まさにそれがどんどん加速していっているのが今の時代なんですよね。
なんかこう、
主観時間としてあっという間であること自体はすごくいいことだと思うんですよね。
楽しいってことだから。
でもやっぱ早期の時間がこう、
なんていうか後回しになってるからこそ、
なんかこう空虚感があるっていうか、
何やったらいいのこの時間っていう。
確かに。
だから数をこなせばこなすほど、
なんか逆に虚しさが、
気づいてない可能性はあるなと思いましたし、
なんか早期する時間って、
おっしゃっていただいて思ったのが、
この時間、
私もこんなに意識はできてなかったんですけど、
でも確かに、
なんていうのかな、
何も残んないみたいな感じに。
感覚だけが残る。
今の時代は情報が多すぎて、
もちろんコンテンツの質とか、
高い低いとかもあると思うんですけど、
多すぎて一個一個にちゃんと向き合う時間が取れなくなって、
昔って例えば新聞しかないとか、
本しかないってなったら、
それを読むしかないから、
それを真剣に読むとか、
ちゃんと読むっていう感じなんですけど、
今って多すぎちゃって、
とりあえず見ていくとか、
とりあえず目を通すっていうことの方が、
大事って思われがちなんだろうなって思っちゃいますね。
やっぱり裁くのをやめた方がいいってことなんでしょうね。
確かに。
メモを取ってると情報を裁かないってことじゃないですか。
メモを取るってことだ。
それすごい良いことだなと思って。
やっぱ裁いてるか忘れていくんだろうなみたいな、
次々、面の上を情報が乗っていってるのを見送るだけみたいな、
それは良くないんでしょうね。
もう自己紹介の時間だったはずが、
もう早速なんというかね、
なんかもう哲学してるようになってきました。
とりあえずは自己紹介の時間ですか。
忘れてた。
全然大丈夫なんですけど。
私、谷川さんのいろんな切り口をお持ちというか、
おっしゃったように哲学者でありながら、
デザイン家で創作の伴奏をしてらっしゃったりとか、
あと研究者としての切り口も、
時に社会学だったり、
すごく引き出しがやっぱり多くいらっしゃるじゃないですか。
ご自身で、いわゆる学際的みたいな言葉で捉えられてらっしゃるのか、
ご自身と関心テーマとの関係性みたいなのって、
どういうふうに認識されてらっしゃるのかなっていうのを、
言いたかったんですけど。
それは結構説明が自分でも難しいんですけど、
例えば私は、昔観光学の学会に入っていたりしたんですよね。
今はもう辞めちゃったんですけど。
他、社会学寄りの学会に入ったり、
そういう本を訳したりとか、
それっぽい論文を書いたりとか、一応してるんですよね。
ただ、社会学者とか観光学者っていうのは、
たまに言ってますけど、ちょっとためらいはありますね。
なので、そういう論文も書けるとか、
そっちに片足とかつま先を入れるっていうこと自体は、
全然できるんだろうなって思ってるんですよね。
これは逆もそうで、
他の分野の人が哲学にも足を踏み入れるっていうことは、
普通にできるんだろうと思うんですよね。
実はそんなに難しくなくて、
つまり研究者であるっていうハードルさえクリアしていれば、
いわゆるお作法みたいなものは、
一応スタートラインに立っているわけで、
分野に合わせたチューニングができさえすれば、
実はその能力っていうのは横展開できるんだろうって思っている感じですね。
結果的にそれが学際的になることもあるみたいな。
なんだでしょう。私は何をやってるんでしょうね。
観光学にちょっと学会入ってみようかなみたいな時の、
心の動きとしては何て言うんですかね。
哲学に何か結びつきそうだなみたいなのがあるのか、
その見えてるポークというか、
あんまり考えないようにしていますね。
あんまり考えずに。
つまり例えば何て言うんでしょう。
よくあるのだとハイデガーっていうドイツの研究者の研究をしていますっていう人が、
ハイデガーの影響を受けた日本の、
例えば西浅圭司とか田辺玄とか、
ちょっと思想的に近い西田喜太郎とかの研究をしています。
これもう隣なんですよね。言語が違うだけで、実際には隣。
隣でやってる。
あんまり意味ないなっていうのは、
私にとってはあんまり面白くないなっていう気がする。
みんなやってるし、
そういうその程度の反復というかずらし方っていうのは。
そうですよね。
なので、関心の飛び地を作るっていうことが大事かなって思って。
関心の飛び地。
ポンって飛ばしてみたらいいんじゃないかな。
飛ばしてみた先で、
何か結果同じ人間がやってるから、
意外な仕方で繋がるかもしれない。
そして繋がらなくても良い。
そういう気分ではいますね。
なんか今のときってすごい嬉しいです。
繋がらなくても良いっていうところが。
なんかどうしてもそうなんですよ。
私も結構その、
研究テーマがいろいろ絞りきれなくて、