1. ともに奏でるラジオ
  2. #41 ゲスト回19弾 谷川嘉浩さ..
2025-04-18 43:46

#41 ゲスト回19弾 谷川嘉浩さん(前編):ともに奏でるラジオ

spotify

京都を中心にジャムセッション的に活動(協奏)しているゲストをお招きしてお届けしている「ともに奏でるラジオ」。
第19回のゲストは、京都在住の哲学者、谷川嘉浩さんです。

ともに奏でるラジオを始める前から、ジャムセッションズのメンバーがゲストにいつか呼びたいねと話していた谷川さんがついに登場です!

現在、京都市立芸術大学デザイン科の講師も務める谷川さん。

前編では、哲学者がデザイン科で教えることの意味について深掘りしながら、谷川さんご自身のことを中心にお話を伺っています。

谷川さん、近日中(4/23)にポッドキャストも始められるそうです!楽しみ〜✨

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また、谷川さんのご著書「スマホ時代の哲学」が増補改訂版として発売になります。こちらも楽しみです!

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谷川さん回の後編は来週、お届けします〜お楽しみに!
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ともに奏でるラジオは、毎週金曜日(たまに水曜日)に更新しています。
次回の更新を、どうぞお楽しみに✨

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VISION:誰もが有機的につながり、協奏が生まれ続ける世界をつくる
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サマリー

このエピソードでは、京都一律芸術大学の講師で哲学者の谷川嘉浩氏を迎え、大学の授業や哲学の役割について深く掘り下げて論じます。彼の指導スタイルや学生との関わり方、さらにはデザインと哲学の交差点についての考察が展開されます。本エピソードを通じて、谷川氏が教育や哲学、特にプラグマティズムについての見解を語ります。また、学生とのコミュニケーションや創作活動における影響についても触れられています。谷川氏は、情報過多の現代における消費のあり方や、学際的なアプローチの重要性について考察します。さらに、哲学者としての立ち位置や自己表現の方法についても語られます。谷川氏が京都に住むことの価値や哲学の伝統について語り、京都の魅力が人々をどのように惹きつけるかを探ります。また、京都における文化的な動きとその影響を深く考察します。

ゲスト紹介と新年度
みなさん、こんにちは。Jam Sessionzのしょうです。
りょうこです。
共に奏でるラジオ、この番組は、株式会社Jam Sessionzが、即興演奏から生まれる協奏をテーマに、チームメンバーや様々なゲストと共に対話を繰り広げる、そんな番組です。
はい、ということで、この収録している時には、もう4月に入っておりまして、
はい、新年度になりましたけれども、
気づいたら、私4月になってました。2月、3月が来るようにすぎまして。
年度末バタバタしてて、終わったと思ったら、新年度が始まるという、落ち着く時があんまりないという感じですね。
ないですね。
特に、りょうこさんと私はですね、大学の非常勤講師もやってまして、ちょうど授業が、りょうこさんは明日からって言ってましたね。
そうなんですよ。明日、明日だと思って、なんかいろいろちょっと整ってないんですけど。
僕は来週からなんですけど。
はい、勢いでいきたいと思ってます。
なんか、落ち着く間もなくスタートするという感じなんですけど。
それにもまして、私は今日朝からそわそわしておりまして。
それはゲストの方とお話しできるのが、ということですよね。
そういう意味で言うと、今日のゲストの方も大学で教えられているので、大学関係者3人でお話ししている形になっているのが偶然なんですけど。
ということになっておりますね。
りょうこさんもすごい楽しみにしてて、私も楽しみにしてたんですけど。
早速ゲストを呼びしちゃいましょうかね。
谷川さんの教育スタイル
はい。
では、今日のゲストはですね、京都在住の哲学者、谷川嘉浩さんになります。
谷川さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします、谷川さん。
よろしくお願いします。ようこそ。パチパチパチ。
ありがとうございます。
なんと実現しちゃいましたね、正直ね。
誘おうとしてなかなか誘わなかったと。
誘えなかったんですよ。
ラブレターを渡せない中学生みたいになってましたよね。
そうなんですよ。
このともに奏でるラジオがスタートしてから、最初の方に誰をゲストに呼びたいかなみたいな話を、
ジャムフェッションズとメンバーで妄想してリストアップしてたんですけど、
最初の方から谷川さんはリストに上がってたんですけど、
まさかねえなんて言いながらね、でもしょうさんが関係性を深めてくださって、
えいやと勢いで依頼したと。
本当にありがとうございます。
ありがとうございます。
谷川さんも新年度やら、大学やらいろいろ忙しい中でね。
私も今週からですね。
ですよね。
そうですか。
いいのかな。
あ、金曜日から。
実は私も普段ですね、谷川先生が教えてらっしゃる市立芸大に私も入居してる研究センターにおりまして。
そうなんですね。
人権の研究センターなんですけど、いつかすれ違えるかななんて思いながら意外に実現してなかった。
授業中はこもってますからね。
そうですよね。それぞれ等が違ったりしますから。
なので一層楽しみでした。
これを機にもしかしたら次はキャンパスで出会うかもしれないということなので。
楽しみ。
すごい楽しみにしてお話を聞いていきたいなと思うんですけど。
私自身は結構前から別のコミュニティで谷川さんとご一緒していてですね。
谷川さんのお話もいろいろお伺いしてるんですけど。
今回こちらのともに奏でるラジオに来ていただいて。
リスナーの方でですね。谷川さんのことお名前だけ聞いたことあるとかですね。
まだどういうことをしているのかわかんないっていうとか。
哲学者ってあんまり会ったことないんですけどっていう人も多いと思うので。
ちょっと最初の方は谷川さんの活動のご紹介だったりとか。
どういう方なのかっていうのを聞いていこうかなというふうに思っているので。
制作活動とデザインの考察
ちょっとそこからスタートしていきたいなというふうに思ってます。
谷川さんね先ほどおっしゃってましたけれども。
京都一律芸術大学の講師をされているというふうにおっしゃってたんですけど。
なんか私の最初に聞いた印象だと。
なぜ芸大に哲学者がいるのかっていうのがすごく不思議だなっていう印象を私は持ったんですけど。
なんかそこら辺って谷川さんが芸大の講師になる経緯だったりとか。
どういうことを実際教えられているのかっていうところをお聞きしてもいいですか。
芸大に勤めるようになった経緯は。
私の今勤めているデザイン科の専攻が卒業論文があるんですよね。
実はないんですけど。
卒業制作の前に論文を書こうっていう授業がありまして。
制作のリサーチを兼ねて論文を書こうっていう感じですね。
その非常勤講師をしてたんですよ。
学生との相性がいいじゃないか。
学評っていうんですけど、合同好評会みたいな機会に相性が良い谷川というやつを呼んでみたらどうか。
呼んでみたらそれなりに良かった。
じゃあ来年から職人講師っていう、ある種の雇用形態で呼んでみようか。
なんかそういう感じで流れでっていう感じですね。
面白いですね。
不思議ですよね。
教えてる内容はですね、これも説明が難しいんですけど、
論文の授業は未だに持っているのと、
ゼミですね、制作指導もしていて、
うちの専攻はですね、
この先生の元だからこれを作りますっていうふうに決まっていなくて、
自由課題なんですね、ゼミでは。
そのゼミに即して、この先生はこういうのが得意だけど、
あえてこの先生の元で、この先生が特に得意じゃないと思っているものを作ります。
例えば私のゼミで家具を作ります、みたいなことも全然できるっていう感じですね。
面白いですね。
制作を指導してらっしゃる哲学者がっていうところがね。
別にゼミ中に哲学的なことは言ってないですね。
言ってない。
つまり、なんだろう、
例えばハイデガーとか言ったりしないし、
なんか真摯に言論だねとか言わないっていう感じですかね。
言ってもあんまりしか言わない。
なるほど。
だからそういう難しい哲学用語だったりとか、
哲学者の名前とか出てこないんだけど、
ただ実際指導する中で、
哲学的な思想とか考え方みたいなところはやっぱり反映されてるっていう感じなんですかね。
そうなんじゃないかなとは思うんですよね。
なんというか、私の哲学の特性でもあり私の特性でもあるんですけど、
それっぽく言うとリフレーミングをしがちっていうか、
悪く言うと天の弱なんですよね。
なんか盛り固まっていたりするような人に対して、
なんかそうじゃないこともあるよねとか、
こういうリサーチのやり方はどうだろうとか、
そういう提案を一緒に議論しながらしていくっていうイメージですかね。
なるほどですね。
必ずしもこうそういうアウトプットとして出てくる作品自体に何か指導されるというよりも、
その手前のなんか姿勢あり方だったり姿勢だったり考え方だったりみたいなところを一緒に。
結局全部やるので、
結局全部やる。
そうなんですね。
指導教員のもとに作って形になるので、
私は前しかできませんなんてことは言えないわけですよね。
はいはい。
本の指導をしますって言っておいて、私は本の読み方しか指導をしませんみたいなこともないわけです。
そうかそうか。
入り口しかしませんみたいな。
そうですね。
私の得意分野じゃないからできませんとは言わないわけで、
私にできるなりのことを言って、
あとは他の教員の力もお互いに借り合いながら進めていくっていう感じですかね。
でも意外となんとかなるもんで、
なんとか今のところなってますけど、
なんて言えばいいんでしょうね。
例えばですけど、
今年の3月で修了した学生、卒業した学生がいるんですけど、
その学生さんがテーブルを作ったんですよね。
作業するテーブルを。
作業するテーブルの足の角度が気になると。
実物大の段ボールとかで実物大の机のサイズのものと、
これくらいの太さかなっていう足を実際に作ってみて、
座ってみたりするわけですよね。
なんかどこか違和感があるんですよねみたいな。
じゃあどこが違和感なんだろうねとか、
こういうとこ気になるけどなとか、
そういうことを一緒に考えていったり、
結構違和感の原因がわかったときに、
例えば足の、足ちょっと太すぎるから、
もうちょっとほっそりした方がいいんじゃないかとか、
例えばもうちょっと机の中の方に入れることで、
足の印象をそんなに感じさせないことができるんじゃないか、
みたいなことを提案してみたりする。
実際にこう、一緒にそういうのを作っていったり、
模型を作っていったりするみたいなこともやったりしてます。
これがどれくらい哲学的かわかんないんですけど。
デザインだとプロトタイピングってやつなんですけど。
作りながら、
なんかその違和感みたいなのがきっと大事そうというか。
そうですね。
なんかそこで立ち止まれるタイプを、
つまりここなんか引っかかってるから一緒に付け詰めたいかもっていう風に、
私に訴えてくれるタイプの人はすごい向いてるというか、
一緒になんか掘り下げやすいですね。
でもなんか、もちろんみんなそんな感じでうまく言えるわけもなくて、
むしろなんか違和感感じてるけどまとめて整理しないと
言っちゃいけないんじゃないかっていう学生なんかももちろんいますね。
なのでいろんな学生さんがいるので、
学生に応じて対応の仕方を変えてくれるんですけど。
そんなようなことを大学ではしてます。
なんかむしろ今リスナーをますます混乱させてます。
いや、なんかその面白いなと思ったのが、
そもそもそのなんだろうな、
芸大の学生さんの制作活動とか創作活動みたいなものが、
なんかそれは考えてみればそうだなと思うんですけど、
一人で黙々と作っていくタイプの人もいれば、
なんかこう周りの人に意見を求めて、
それで聞いた内容を制作にフィードバックして活用していく
みたいなタイプもいるかなと思うんですけど、
なんかそういう一緒に考えてくれる人とか、
なんかもやもやしてるものを言語化してくれるとか、
なんかそういう役割の人がいると創作が進むタイプの方もいるんだろうな
っていうのは聞いてて思いましたね。
そうなんじゃないかなっていう気はしますね。
特にデザインだっていうのを聞いた気がしてて、
もちろんアートだってクライアントワークになり得るんですけど、
クライアントだったりとかユーザーみたいな存在が
アート以上にお際立って存在するのがやっぱデザインだと思うんですよね。
確かに。
誰に依頼されて作りました。
じゃあ依頼者の要望はどうなんでしょうとか、
どこで使うんですかとか誰が使うんですかとか、
使ってみて実際どうなんですかみたいなことは、
やっぱり自分がどう思うかとかどうしたいかとかっていうこととはまた別の、
もちろん自分がどうしたいかって大事なんですけど、
また別のレベルでやっぱり客観的なコメントというか、
第三者のコメントみたいなのが必要にはなってくるんですよね。
そうです。
やっぱり作る前に言語化するとか、
作ったものを説明する時に言語化するっていうのは、
おそらくアーティストであっても必要なことですし、
それがビジネスの世界であったらより必要ではなるっていうのは確かにそうだなっていうふうに思いますね。
私なんか今のお話聞いてなぜか思い出したのが、
私自身が大学生時代に塾の講師をしてた時期があったんですけど、
これこそ谷川さんおっしゃったように、
教育と教え方の変化
中学生ぐらいだったかな、小6とか中学生ぐらいだったんですけど、
生徒によって違うじゃないですか、
問題を解くときの、何ていうかな、
とっかかりをどこに出すかとか思考のプロセスとかね、
私も一人一人に応じて変えてたんですよ、教え方とか。
実は塾側から怒られちゃって、
一律にマニュアルに書いてある通りに教えてくださいみたいな。
それで私やめたんですよ。
それって何?と思って。
っていうのを思い出した。
今聞いて、教育みたいなことを、教育そのものについても、
パラレルに考えられるお話だったなっていうのをちょっと思いました。
これも私はあまり意識的に、
学生との対応の仕方を切り替えてるって印象はなくて、
勝手にそうなってるっていうんですよね。
なので、自分でもあんまり再現性がないんですけど。
例えば雑談多いほうがいい学生かなとか、
この学生は黙ってても別にいいだろうとか、
何て言えばいいんでしょう。
沈黙の時間はこの子が考えていて、
あんまり喋りかけすぎるのは良くないだろうな、
みたいなこと多分無意識に判断していて、
そういう感じで接しているので、
やっぱ一律ではないですね。
哲学と学生の影響
熱心さは変わらないんですけど。
そういうものが違うっていうのも大きいですけどね。
面白い。
谷川さんのご専門って、
哲学者である哲学研究をされていて、
プラグマティズムですよね、ご専門は。
そうです。
芸大で教えたりとか、
学生といろいろコミュニケーションを取っている中で、
谷川さんのご研究だったりとか、
あとはいろんな本を書かれていると思うんですけど、
その本への影響みたいなものっていうのが、
あるんだろうかっていうのが気になったんですけど、
それって芸大で教えることで、
例えば文章のスタイルだったりとか考え方だったりとか、
研究スタイルが変わるとか、
そういうのってあったりとかするんですか?
具体的にはこれっていうのは、
実はあんまり思い浮かばないんですけど、
本当にピンポイントとかだったら、
スマホ時代の哲学で趣味っていうことを打ち出して、
趣味っていう概念を打ち出していて、
そこで何かを作るっていうことを、
非常に大事なものとして提案しているんですけど、
これが出てきたのは明らかに芸大に横切れです。
とか、
あとは、もっと私生活の方が影響が大きい気がしてて、
物を選ぶときとかに、
学生指導をしているうちに、
目も越えていくわけなんですよね、
当たり前なんですけど。
その指導した学生のジャンルに応じて目が越えていって、
なんか、やっぱりこういうのがいいよなとか、
そういう目が越えることによって、
家に置きたいものの種類とかも多少変わってきたり、
ものづくりする否定のリスペクトが、
改めて高まったりとかの方が大きいかなっていう感じですかね。
まあでも環境が違うから、
考えることは変わってるんじゃないかなっていう気がします。
作るっていうのを鮮明に押し出したくなったりとか。
タイパに関する考察
文章を書くっていうのも一つの創作活動だったりとかするので、
共通点はもちろんあるんでしょうけど、
やっぱりこう選ぶテーマだったりとか、
そういったところに現れてきているでしょうね。
そうですね。
あとはなんていうか、
学生って異常な、
本人たちに聞くと違うっていう気がするんですけど、
暇じゃないですか。
働いてる人たちに比べるとね。
バイトとかしてるとかっていう。
なので、暇な時間があるからこそ、
その情熱みたいなものを人間関係とかだけじゃなくて、
創作にもすごく向けてるんですよね。
だから見ててすごい熱い思いにはなりますよね。
だから自分が文章を書くときにも、
負けてられるなっていうのは変な表現ですけど、
学生があれぐらいやってるんだからみたいな気持ちにはなりますね。
手を抜けないっていう感じは、
以前よりも明日かもしれない。
谷川さんの創作活動にも熱が入るようになったというか、
刺激を受けてるってことですね。
そうですね。
かなとは思いますね。
学生は知らないんですけどね。
学生はそんなに読めないですからね。
学生は谷川さんのほうはなかなかあんまり読まないんですかね。
多分。分かんないですけど。
わざわざ聞かないですけど、多分読んでないんじゃないですかね。
読んだほうがいいのにってね。
読者からすると思いますけど。
りょうこさんさっきなんかあれでしたね。
ちょっと言いかけましたね。すみません。
聞いてみたくなっちゃったのがですね、
私も教えてる大学とかで、
学生さん、本当に最近の学生さん見てると、
私が学生だった頃と比べて、
やっぱりタイパーだとかコスパーだとか、
いかに無駄を省いて、
対象の行為で結果を取るかみたいなことに
すごく執着してる学生が多いなっていう印象があるんですけど、
先ほどの谷川さんの話だと、
クリエイティブというかデザインとかをされてる学生さんにとって、
無駄を省いてたら創作なんてできないんじゃないかっていう思いもあるんですけど、
そのあたりって実際、
本当に大学によるんだなって思う。
その本部校、メインで勤めている大学、芸大では、
あんまりタイパーを感じないですね。
やっぱそうですね。
パフォーマンスとか計画とか、
もうちょっとは考えながらやったほうがいいんじゃないかっていうくらい。
逆に、もちろん。
でも、
やっぱり、
大学によるんだなって思う。
パフォーマンスとか計画とか、
もうちょっとは考えながらやったほうがいいんじゃないかっていうくらい。
逆に、もちろん。
ぐらい愚直に、
え、今からやり直すの?とか、
やらないんじゃないの?とか思うぐらい、
なんか気に入らないからやっぱやりますとか、
時間ないけどここまでやりますとか、
なんかこっちがハラハラするぐらい、
無駄なことをたくさんやっている印象はありますし、
まあでも実際、
なんて言うんでしょうね、
それがなかったらじゃあ、
すごい、いわゆる鍵かっこつきの有意義で効率的な生活ができているかっていうと、
疑問ですよね。
タイパーを意識するために、
なんかいろんな情報をスマホで触っているその時間で、
例えば映画見れるんじゃないかとか、
いっぱいしたくないとかっていうときにね、
いろんな映画調べる、
その時間で映画見れるやんか。
そういうことが実際に起こっていると思うので、
あんまり考えすぎないのが、
いいんじゃないかとは素朴には思いますけどね。
まあでも、
他の大学とかで接する学生とかを見てると、
なんて言うんですよね、
言葉選びは難しいんですけど、
こう、
すごい難しいですけど、
自分なりに賢く動こうとした結果、
結果的にあんまり機械として賢い感じじゃなくなっているんだろうなっていう風な感じのことを思うことが多いですね。
難しいですね、表現が。
コスパやタイプのようなパフォーマンスを意識するのって、
本来は目的がはっきりしてるときにすごい有効だったと思うんですよ。
確かに。
例えば、
Excelの計算表で何かこう、
関数を使ってある種のデータを得たい、
みたいなのとか、
単位時間あたりの量が増える。
これ非常に効率がいいし、
パフォーマンスが上がってる。
はい。
だから1時間で以前なら10しかできなかったのが、
15できるようになりました。
もうこれはどう考えてもやるべきことじゃないですか。
できるんだったら。
でも私生活はそうじゃないですよね。
1時間で5人に会えました。
別にだから何なんていう話ですから。
この1000円でいい映画が見れました。
それはいいことですけど。
でもその映画を調べるために5時間投資したんだったら、
それって何なんだろうね。
みたいな話になるかなって。
そうですね。
本当に何かを素早く得てるつもりが、
何かを落としていってるんじゃないかっていうね。
なんかこいつの方が気になったりしてたので。
なんかこれ結構すごく大きな問題だと思ってて、
そのタイパっていうよりも、
なんていうか、
その表現が難しいんですけど、
こっちがどれぐらいコンテンツとか現象に参加するかっていう度合いが、
非常に問われてるんだと思うんですよね。
パフォーマンスを実は意識すぎると、
目の前の状況とか関係とか作品とか対象に対して、
関わる度合いが薄くなるんじゃないかっていう気が直感的にはしてるんですよ。
具体的に言うと、
なんていうか倍速で1時間で2本見ますとか、
映画をね。
1時間は無理か。
まあ分かんないですけど、
適当な時間で映画の見る本数を増やすっていう時、
1個1個絵の参加の度合いっていうのが薄れますよね。
で、じゃあそれって記憶に残るんだろうかみたいなことをやっぱ思うんですよ。
で、あの、
ヘルトムート・ローザっていう社会学者の人が、
加速する社会っていう本、
シノーブ・バッツェフの書いてて、
その中で紹介してる概念なんですけど、
体験時間、
今自分が主観的に、
あっという間だったって思うのか、
いやなんかすごい退屈で長かったって思うのかっていう体験時間と、
早期の時間、思い出す時間っていうのを区別したらどうかって言っていて、
テレビであるとか、
なんかすごい、
私は多分、
ある種のゲームであるとか、
ある種のSNSとか、
動画プラットフォームみたいなものって、
割とこう体験時間としてはあっという間だと思うんですよね、面白いから。
でも思い出すと、
あんまり残ってないみたいな。
実はなんか、
人間は、
もっとこの早期の時間?
早期の時間をね。
のことを考えた方がいいんじゃないかなって。
なるほど。
思い出せる時間がどれくらいあるだろうかっていう。
パフォーマンス上げるとしたらそこなんちゃうかなっていう気がしたんですね。
まさにコンテンツを消費するっていう言葉をよく使いますけど、
消費するっていうことって、
まさにこう、
ちゃんと記憶に残るかっていうと、
おそらく残ってないことが多くて、
ただただ消費していって、
通り過ぎていってしまってるっていうイメージがあるんですけど、
まさにそれがどんどん加速していっているのが今の時代なんですよね。
なんかこう、
主観時間としてあっという間であること自体はすごくいいことだと思うんですよね。
楽しいってことだから。
でもやっぱ早期の時間がこう、
なんていうか後回しになってるからこそ、
なんかこう空虚感があるっていうか、
何やったらいいのこの時間っていう。
確かに。
だから数をこなせばこなすほど、
なんか逆に虚しさが、
気づいてない可能性はあるなと思いましたし、
なんか早期する時間って、
おっしゃっていただいて思ったのが、
この時間、
私もこんなに意識はできてなかったんですけど、
でも確かに、
なんていうのかな、
現代の情報消費について
いろんなものをつなげる、
なんていうのかな、
あっちで見切りしたことと、
こっちで見切りしたこと、
そういうのが、
たまにつながる瞬間とかあるじゃないですか。
そういうのって多分、
早期みたいなことをしたからそうなってるのかな、
とか思ったりしましたね。
ですよね。
なんか、
だから一概にSNSとか、
例えばTikTokとかが悪いかとか、
コスパを求めるのが悪いかとは思わなくって、
そういうもので、
いろんなものをつなげる、
そういうものをつなげる、
そういうものをつなげて、
コスパを求めるのが悪いかとは思わなくって、
そういうもので、
いいこともたくさんあると思うんですよね。
それに、
TikTokを見てるからといって、
主観的にはあっという間だけど、
早期の時間もちゃんとあるような消費をすることが
不可能かっていうと、
別にそうでもないと思うんですよね。
やっぱどれぐらい身を入れてるかっていう問題なのかなって思っていて、
しかも昔、
百報道ケトルの島小一郎さんと、
昔お会いしたときに、
確かツイッターを見ながら、
メモを取ってるって言ってたんですよね。
今もやってあるかどうかわからないですけど。
ツイッターなんて、
Xなんてずっと見てても何も残らないものの、
代表格じゃないですか。
主観的にはあっという間に時間が経つんだけど、
何一つ読んだ内容を覚えていないみたいな。
どんどん流れていく感じでね。
代表格なのに、
島さんはそんな風に接していなくて、
むしろちゃんと本を読むときのように接してるんですよ。
それはすごいことだなと思って。
逆に言うとそれぐらいやらないと、
やっぱ早期の時間っていうのは、
なんか確保できないんだろうなっていう気がしますね。
学際的アプローチの重要性
何も残んないみたいな感じに。
感覚だけが残る。
今の時代は情報が多すぎて、
もちろんコンテンツの質とか、
高い低いとかもあると思うんですけど、
多すぎて一個一個にちゃんと向き合う時間が取れなくなって、
昔って例えば新聞しかないとか、
本しかないってなったら、
それを読むしかないから、
それを真剣に読むとか、
ちゃんと読むっていう感じなんですけど、
今って多すぎちゃって、
とりあえず見ていくとか、
とりあえず目を通すっていうことの方が、
大事って思われがちなんだろうなって思っちゃいますね。
やっぱり裁くのをやめた方がいいってことなんでしょうね。
確かに。
メモを取ってると情報を裁かないってことじゃないですか。
メモを取るってことだ。
それすごい良いことだなと思って。
やっぱ裁いてるか忘れていくんだろうなみたいな、
次々、面の上を情報が乗っていってるのを見送るだけみたいな、
それは良くないんでしょうね。
もう自己紹介の時間だったはずが、
もう早速なんというかね、
なんかもう哲学してるようになってきました。
とりあえずは自己紹介の時間ですか。
忘れてた。
全然大丈夫なんですけど。
私、谷川さんのいろんな切り口をお持ちというか、
おっしゃったように哲学者でありながら、
デザイン家で創作の伴奏をしてらっしゃったりとか、
あと研究者としての切り口も、
時に社会学だったり、
すごく引き出しがやっぱり多くいらっしゃるじゃないですか。
ご自身で、いわゆる学際的みたいな言葉で捉えられてらっしゃるのか、
ご自身と関心テーマとの関係性みたいなのって、
どういうふうに認識されてらっしゃるのかなっていうのを、
言いたかったんですけど。
それは結構説明が自分でも難しいんですけど、
例えば私は、昔観光学の学会に入っていたりしたんですよね。
今はもう辞めちゃったんですけど。
他、社会学寄りの学会に入ったり、
そういう本を訳したりとか、
それっぽい論文を書いたりとか、一応してるんですよね。
ただ、社会学者とか観光学者っていうのは、
たまに言ってますけど、ちょっとためらいはありますね。
なので、そういう論文も書けるとか、
そっちに片足とかつま先を入れるっていうこと自体は、
全然できるんだろうなって思ってるんですよね。
これは逆もそうで、
他の分野の人が哲学にも足を踏み入れるっていうことは、
普通にできるんだろうと思うんですよね。
実はそんなに難しくなくて、
つまり研究者であるっていうハードルさえクリアしていれば、
いわゆるお作法みたいなものは、
一応スタートラインに立っているわけで、
分野に合わせたチューニングができさえすれば、
実はその能力っていうのは横展開できるんだろうって思っている感じですね。
結果的にそれが学際的になることもあるみたいな。
なんだでしょう。私は何をやってるんでしょうね。
観光学にちょっと学会入ってみようかなみたいな時の、
心の動きとしては何て言うんですかね。
哲学に何か結びつきそうだなみたいなのがあるのか、
その見えてるポークというか、
あんまり考えないようにしていますね。
あんまり考えずに。
つまり例えば何て言うんでしょう。
よくあるのだとハイデガーっていうドイツの研究者の研究をしていますっていう人が、
ハイデガーの影響を受けた日本の、
例えば西浅圭司とか田辺玄とか、
ちょっと思想的に近い西田喜太郎とかの研究をしています。
これもう隣なんですよね。言語が違うだけで、実際には隣。
隣でやってる。
あんまり意味ないなっていうのは、
私にとってはあんまり面白くないなっていう気がする。
みんなやってるし、
そういうその程度の反復というかずらし方っていうのは。
そうですよね。
なので、関心の飛び地を作るっていうことが大事かなって思って。
関心の飛び地。
ポンって飛ばしてみたらいいんじゃないかな。
飛ばしてみた先で、
何か結果同じ人間がやってるから、
意外な仕方で繋がるかもしれない。
そして繋がらなくても良い。
そういう気分ではいますね。
なんか今のときってすごい嬉しいです。
繋がらなくても良いっていうところが。
なんかどうしてもそうなんですよ。
私も結構その、
研究テーマがいろいろ絞りきれなくて、
哲学者としての自己表現
困ってるんですけど。
でもなんか、
いいんじゃないですかね。
でもいいんじゃないかなって思いながら、
それでこういうJam Sessionzっていう、
私にとっては実践をする実験場みたいな場所として、
実は参画させてもらってるんですけど、
すごくね、
それにいいよって言ってもらえた気がして。
すみません、
関心の富地作るのは、
あんまり人によって向いてる向いてないあると思うんですけど、
なんか福島亮太さんっていう文学研究者の方、
評論家の方が面白い表現で別のことを言っていて、
関心を滲ませるっていう表現を使ってたんですよね。
おー、滲ませる。
例えばある論文を書くとか、
あるプロジェクトに参加したり、
あるプロジェクトに参加したり、
例えばある論文を書くとか、
あるプロジェクトに参加するっていう時、
そのプロジェクトにしかフォーカスを絞らないっていうのは、
関心を絞るってことですよね。
でもそれだと発展性がなかったり、
次に繋がっていかなかったり、
次の次のことに繋がっていかなかったりするので、
ちょっと関係のないけど、
ついでにやっておいてもいいこととか、
ついでに調べておいてもいいこととかまでやるんだっていうのを、
滲ませるっていう表現を使ってます。
大きな表現。
だから飛び散るとまでは言わないまでも、
滲ませるっていうことをやってもいいんじゃないかなっていうのは、
世の中的に、世の中の人に対しても思いますね。
今のお話を聞いて思ったことがあって、
いろんなところに関心があって、
いろんなところで研究されたりとか、
いろいろ本を書かれたりとかしてると思うんですけど、
一方で名乗る時には、
哲学者っていう言葉を谷川さんは使うじゃないですか。
よく哲学研究者じゃなくて、
哲学者なんですかっていう話題とか結構聞かれると思ってるんですけど、
私はそこじゃなくて、
いろいろやってるんだけど、
でもやっぱり谷川さんのスタンスとしては、
哲学っていう軸はちゃんと持っているんだなって、
改めて思ったんです。
というのは、私は持ってなくて、
それをコンプレックスに感じてたんですけど、
最近は思わないようにしてて、
なんでその軸を持たないというか、
どっち側にもスタンスを持たないっていうふうに
最近したんですけど、
谷川さんはやっぱりいろいろ関心はあるんだけど、
自分の立ち戻り位置としては哲学っていうところに戻るために
哲学者って言ってるのかなって思ったんですけど、
そうなんですか?
そうですね、ほぼそういう感じで、
あえて付け足すとしたらその上で、
ちょっと話はそれるんですけど、
最近少し前に同人誌人論争っていうのが
ネット上でしょうもない論争であったんですけど、
同人誌のことを人って言って、
こじゃれた感じにしてるのすごい気に入らんみたいなことを
多分誰かが言い始めて、ひだねはわかんないんですけど、
人というのはマガジンの人ですので、
自分で自発的に作って流通させる、
つまりZINEですね、人って言うんですけど、
つまり自分で手作りして流通させてる小冊子っていうのを
人って呼ぶんだってアメリカのカルチャーがあって、
一方で同人誌っていう日本の文芸の世界から出てきた、
そしてコミケに繋がっていく言葉の伝統がある。
こういうのってぶっちゃけあるものを人と呼ぶか
同人誌と呼ぶかどうでもいいなって思ってて、
でもどうでもいいんですけど、もし意味があるとしたら、
私はどういう伝統に差を指しているか、
私はどういう系譜の上にいるかっていう、
自己理解でありプレゼンの問題だと思うんですよね。
どう見せるかっていう。
私の作ったものは同人誌ですっていうことによって、
ついでに歴史もついてくるんですよね、
その人が望むでも望まなくても。
ZINEって言ったら今度はアメリカで立ち上がってきた、
自分はあんま詳しく知らないんですけど、
スケボー文化だったりとか、SF文化だったりとか、
SFのファンコミュニティとかね、
そういうストリートカルチャーだったり、
SFのファンコミュニティだったり、あるいはフェミニズムだったり、
そういうカルチャーの影響を受けて作られてきた流れの上に
私は立ってますっていう宣言に実質的になってるっていうことだと思います。
これを哲学の話に戻すと、
何者となのってもいいんですけど、
何か系譜や伝統があるとしたら哲学だろうという、
そういうイメージですね。
この系譜があるかどうかってことなんですよね。
そうですね。
本当は何でもいいんですけど、
何か引き受けるとしたらそれは哲学だろうなっていう、
引き受けたいという思いもありますし、
そういう感じに思ってますね。
ありがとうございます。
京都に住む魅力
その続きで聞きたいんですけど、
京都在住の哲学者ってよくおっしゃってるじゃないですか。
もちろん大学が京大出身で、
京都に住まいだっていうところとかもあると思うんですけど、
あえて京都在住のって名乗っているってことは、
京都に対する愛着だったりとか、
京都の心地よさだったりとか、
そういったものも感じてらっしゃるのかなって思って、
そこも聞いてみたいなと思います。
京都好きです。
京都は好きですし、愛着はありますね。
ぶっちゃけ地元より好きなんじゃないかなとは思います。
それもあるんですけど、
よからしかで、
日本の読者人口の大半の部分は東京なんですよね。
東京じゃない感をちょっと出したかったっていうのは、
ぶっちゃけ、
東京に住まいで、
やっぱり哲学の伝統も日本の中で長らく続いている。
仏教を読み込んでもいいし、
仏教を読み込まなくても明治以降の京都学派の伝統があるわけで、
そういったもののイメージを借りながら、
哲学っていう言葉を発することができるっていうのはすごく大事な。
これは本当にマーケティング動向とかじゃなくて、
すごく大事なことだと思いますし、
でも一方で東京の人たちにとっては、
東京の人たちにとっては、
東京で哲学をやってるんじゃないんですよっていうふうなスタンスを取ることが、
いろいろ有意義に働くんじゃないかっていう直感もあります。
はい。
何だろうって感じですけど。
いや、分かります。
会えそうで会えないっていうのがいいんじゃないかって思ってて、東京で。
うん。
なんか分かんないですけど、
京都にいるとか関西にいるっていうことは、
哲学にとって結構いいかなって思うのは、
関西の面白い書き手がいるよね、盛り上がってるよねっていう印象も、
やっぱ関西っていう括りだったり、
京都っていう括りだったら思ってもらえるんですよ。
うん。
私東京にいたらそうはならなくて、
東京に面白い哲学者いっぱいおるんですけど、
あえてみんな東京って括らないんですよね。
うん。
関西とか京都っていうアイコンを背負うっていうことには、
業界を盛り上げるっていう意味でも、
東京の人からしてもちょっとレアっていうか、
稀人的な存在であるっていう意味もあるし、
京都の伝統を背負うっていうことも、
京都の哲学の伝統を背負うっていうこともあるかなと。
そういう感じですね。
ありがとうございます。
実際3月にも、
某コミュニティのオフ会がありましたけれども、
やっぱり京都に面白い研究者やら書き手がいるっていうので、
わざわざ東京から来てくださる方もたくさんいましたし、
某コミュニティのオフ会はなぜか、
京都でやりがちっていうところもあって。
そうですね。
京都の書き手勢揃いですかね。
そうなんですよね。
なので前回の谷川さんは来てくださって、
やっぱり読書好きとか本好きの方を引き付けるものが、
京都にはあるし、
京都ってそもそも、
京都ブランドってあるんですけど、
その文脈とはちょっとずれたところにも、
京都の魅力があって、
それを代表されているのが谷川さんなのかなっていうのは、
私は思っていて。
京都に住んでるっていうと、
結構羨ましがられるんですけど、
実際住んでると、
必ずしも住みやすいわけではなかったりとか。
そうですよね。不便なこともいっぱいあります。
だからそうじゃないよって言うんですけど、
一方で谷川さんのさっきのお話を聞いていると、
文化とか歴史とかそういう単純なものとは別の、
京都らしさというか、
京都にいることの価値みたいなものを
あるんだろうなって。
それは私も嬉しく思いましたね。
その辺、実は私たちのジャムセッションズの、
結構このラジオの、
いつの間にか裏テーマにもなっていた気がしますよね。
たまたまお呼びするゲストが
京都大臣の方が多いっていうのもあるんですけど、
京都で起こっているこの動きが
大事だと思うんですよね。
京都で起こっているこの動きは何だろう、
この面白さは何だろうっていう、
裏には京都の面白さって何だろうっていうのが
常にセットで、
それぞれの人が語っていらっしゃる気がしてて、
後半の
その辺を話せたらいいなと思いました。
なるほど。
ありがとうございます。ちょうどいい感じのところで、
哲学と文化の話題
前半戦が終えれそうなので、
一旦谷川さん、
今のお話をリスナーの方が聞いた谷川さんのことを
全然まだ僕は掘り切れてないなと思ったんですけど、
一旦ここで前半戦終了とさせていただいて、
後半戦は別のテーマで
お話を進めていきたいなというふうに思います。
ということで、
次回もまた聞いていただければなと思います。
じゃあ皆さん、一旦ここで切ります。ありがとうございました。
ありがとうございました。
43:46

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