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普通の幅を広げていく社会福祉士のお気楽ラジオ。この放送は現役の社会福祉士で、障害事故育て奮闘中のTadaが、人と環境の交互作用に着目した発信を通じ、皆さんの中にある普通の幅を広げ、誰もがお気楽に過ごせる社会になるためのヒントを共有するラジオです。
みなさんおはようございます。社会福祉士のTadaです。7月15日、今日の放送を始めていきます。よろしくお願いします。
毎日放送を歌っておりましたが、昨日はね、ちょっと急遽お休みをさせていただきました。収録はね、前日夜撮ってるんですけど、その前日夜がね、なんか調子が悪くって、めちゃくちゃなんか熱があるとかね、風邪ひいてるみたいな症状ではなかったんですけども、
なんていうのかな、これほっとくと悪化するぞっていう感じがしたんですよね。そんなわけでもうね、早めにもう本当に眠ったんですよね。
で、まぁ次の日の朝ね、昨日ですけど、昨日の朝もやっぱりちょっとね、なんか優れない感じはしてたんですけど、だいぶマシになってました。
で、日中過ごしていくにつれてね、体調もだいぶ回復していきましたので、やっぱりね、早めに寝て正解だったかなというふうに思います。
でね、昨日はね、なんでそんなに体調を戻しておきたかったかというと、友人家族とね、デイキャンプの約束があったんですよ。
そう、まぁでもデイキャンプ自体はちょっともうね、早いうちから雨予報が出ていたので、早めにね、キャンセルして、友人宅でね、お家バーベキューみたいな感じでやるっていう企画をしていました、してくれてましたので、もうそれが楽しみでさ。
ね、体調悪かったら楽しめないじゃん。
ね、ということで、本当にね、体調をしっかり治していけて、楽しめました。
本当にね、なんていうかな、僕ね、基本的に食事とかね、お茶とか誰かと遊ぶときって、まぁ2時間、長くて3時間ぐらいって考えてるんですけど、特にね、なんか予定も入れずに、まぁあの、昼前に行ってね、こうダラダラとお肉をね、焼いたり、っていうかまぁ焼いてもらってたんですけどね、
その友達家族の一人にね、キャンプマスターがいるので、はい、お家の中でしたけども、キャンプマスターがね、まぁその、なんていうんですか、アラジンの、あの、これホットプレートっていうの?あれ、なんか煙が出ないやつね、すごいですね、最近のやつってね。
それでね、もう楽しみながらさ、まぁあの、友達家族はお酒を飲んだり、まぁ僕はね、あまり基本飲まないんで、まぁあの、ソフトドリンクというかね、お水とかお茶だったんですけど、
まぁ息子もね、一緒に遊んでもらったりとかしてね、なんか気持ちいい時間だったなっていう風に思いました。
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なんかね、こう区切られた時間をね、こうたくさん上手に使っていくっていうのもね、僕は嫌いじゃないんですけども、こういう風にね、時間を忘れるように、まぁ誰かと同じ時間を時、同じ時間を同じ時を過ごしていくこと、
これもね、ホントにとっても貴重だし、幸せな時間だなっていうのをね、改めて感じたんですよね。こういう時間ももっと積極的にね、作っていければなという風に思います。
今回はね、ホントに準備から何かのね、していただいた友人にホントに感謝です。
次はね、秋口に、まぁホントにリベンジキャンプっていうことでね、楽しみにしています。
ということで、今日の本題に入りたいと思います。今日の本題は、「消えない戦争の傷跡。あなたは知ってる?中国残留法人。」というタイトルでね、お話をさせていただきたいと思います。
この話はね、先日の放送につながるのでいいか、そうか、昨日お休みしたんで、前回の放送で大丈夫なんですけど、広島出張のお話をしました。
広島出張のね、仕事の内容については前回の放送では触れなかったんですけども、今回はね、その内容に触れていきたいと思います。
っていうのが、この中国残留法人っていうね、方々に関わるお話です。
中国残留法人って知ってますか?
このお話をしようかなという風に思ったんです。まあ端的に言うと、僕は中国残留法人の支援をする仕事をしてるんです。お仕事の中の一つとしてやってます。
で、今回はその支援をしている人たちが、中四国ブロック、中国四国ブロックが集まっての情報交換会みたいなね、会議がありました。
でね、やっぱりこの話って、支援をしている担当だけが把握してるんじゃなくって、なるべくたくさんの人にね、知っておいてほしいなという風に思ったんですよ。
なのでね、今日ね、この放送でお話をしたいと思いました。
ポイントはね、昭和20年、1945年8月9日です。
この日は何の日かご存知ですか?
ね、ほとんどの人は、長崎に原爆が投下された日っていう風に記憶してるんじゃないでしょうか。
原爆の投下はね、8月6日、広島、8月9日、長崎ということで、この日本のね、戦争の敗戦を決定づけるような大きなダメージを負ったような事件だと思いますし、
その後のね、僕らの教育でも長く深く語り継がれているという風に思うんですけども、この8月9日、実は海外でも大きな事件が起こっていました。
それはね、ソ連による満州への攻撃。
歴史の授業などで結構ね、覚えてるっていう人もいるかもしれませんけど、満州ってさ、その対戦の時、日本人がね、国策としてものすごくたくさん進んでたじゃないですか。
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ね、その数、155万人だったらしいですね。
155万人ってね、本当に今の日本でめちゃくちゃ大きい自治体の1個分ぐらいのパワーがあるじゃないですか。
それぐらいの力でね、満州にはたくさんの人が住んでいました。
でもね、戦況が悪化するにつれて、そのそこにいる、満州にいる人たちも、あの開拓団とかね、そんな人たちがいたんですけども、男性の大多数がね、フィリピンの方に招集されていって、
満州の開拓団っていう人たちは、高齢者、女性、子供、これが主体になってたんですよね。
そんな中、昭和20年、1945年8月9日、長崎に原爆が落とされた日ですけども、この日にソ連の国境を越えた攻撃が始まって、満州に残った人たちは大混乱になった。
で、まあその老人、子供、女性、この人たちは気の見、気のままでね、その攻撃から逃げる、逃避行をね、歩き始める、走り始めた、逃げたんですよね。
たくさんの攻撃を受けて、本当にね、本当にソ連軍の攻撃の中で死んでいく人もたくさんいましたし、中にはもうこれ以上逃げ切れないっていうふうに思って、
子供に毒を飲ませ、自分も死ぬっていうふうなね、自決を図ったりとか、そういう人たちもいました。
で、逃避行中には疲れとか、飢餓とか、伝染病、そして生き残って収容所に入ったとしても同じように寒い、マイナス30度の極寒の地であって、食糧もなく不潔で伝染病も発生し、
っていう形でね、やはりそこでも死者が続出する、そういうふうなね、本当に悲惨な状況に陥ってました。
そういう生活状況が、もう生活する手段がない中で、残った日本人たち、生き残った日本人たちはどうしたのか。
これは、中国人、現地にいる中国人の妻になったりとか、子供であれば、孤児となって中国人に引き取られて、受診のね、身元も知らないまま過ごしていくような人たちっていうのもいたんですよね。
こういう人たちのことを、中国残留法人というふうに言っています。
同じようにね、そんな状況が中国だけではなくて、カラフトですね、カラフトでも起こっていました。
こちら全体数としては、中国残留法人に比べると圧倒的に少ないんですけども、こういった人たちをカラフト残留法人というふうに言います。
また、同じようなタイミングで、今度はそのソ連の侵攻によって、日本兵や民間人をね、ソ連に拉致していった、これがシベリア浴流ですよね。
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これに関しては、一昨年ね、ラギルより愛を込めてっていうね、小説がありましたけども、それが映画化されて放映されています。
これはね、うちもすごく好きな映画でして、よかったらね、見てみてもらえればというふうに思います。
これはシベリア浴流の話ですね。
話は中国残留法人に戻ります。
結局、そういった形で中国に残った日本人の人たち、その後どうなったか、結論から言うと115万人いたね、その日本人の人たちのうち、108万人はね、次の終戦の翌年ですよね、昭和21年、1946年から1958年か、昭和33年、12年間でね、
108万人の日本人が帰国したんですよね。
でもその期間中に、引き上げ期間って言うんですけど、引き上げ期間中にさ、もうすでに中国人と、中国の人と家庭を持ったりとか、中国の人に養われていたりとかね、そういう夫人であったり子供であったりっていうのは戻れなかったね。
なんでかって言うと、そもそもその、孤児、残された子供たちに関しては、幼少期、ほんと1歳とかの時に中国人家庭に引き取られているので、自分が日本人であることすら知らないこともあったりとかね、あとは引き上げの情報が届かなかったり。
そして、夫人であったり、中国人の男性と結婚した女性とかであったら、やっぱりね、その後中国でできた家族に気兼ねしたりとかね、いったいろんな事情があってね、ほとんど帰国できなかったみたいですね。
そして時は経って、昭和47年、1972年に日中国交正常化がね、行われて、そこからね、個別に大量の帰国が始まりました。
幼い頃にね、中国人に引き取られて生活することになった、中国残留孤児、この人たちが成人して大人になったので、自身の身元を調査して、日本人だから帰国させてほしいっていうね、要望をしたんですよね。
で、これを国はね、調査を始めて、身元の判明の有無に関わらず、帰国の道をね、開いたんです。
でも、中にはその中国にもう残るっていう人たちもいました。一時帰国者もいたり永住帰国者もいた。
参考までに、今年の5月31日現在で、中国残留法人の永住帰国者数は6725人。
家族もね、その中国人であろうとその家族の引き上げも認めたりしているので、家族も含めた総数は2912人。
ちなみに、カラフト残留法人の永住帰国者数は112人。家族を含めた総数は280人っていう風になっています。
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これはね、今も年間ね、一世帯ほどの永住帰国はね、続いているみたいなんですよね。
でもさ、問題は、帰国できたから終わりっていうわけじゃないんですよ。
実はね、むしろ帰国してからの方が、中国残留法人の人たちは大変だった。
なんでかって言うと、もう中国で生活して何十年も経ってる。
ね、まあその終戦の時に女性、成人したね、女性とかであって中国人の旦那さんと結婚したとか、家庭を持ったという方であれば、日本語も中国語も喋れたかもしれない。
ね、でも、もう、子供に関しては、そもそも自分たちが喋れる言葉は中国語しかない状態。
まあ、それでも帰国を望んで帰国をしてきた。
しかし、日本語が話せない。
ね、日本語が使えない日本人、外国人と同じ状況じゃないですか。
なかなかね、言葉の習得には時間がかかるみたいですし、それまでに保証、社会保証のね、恩恵も受けれてなかった。
ね、日本に帰っていれば年金がね、もらえたりとか、そういうことがあったかもしれないけども、
そういう社会保証の恩恵も少なかった。
じゃあ、中国残留法人たち、日本に帰ってきてどういうふうな生活を最終的に行っていったかというと、
大半は生活保護を使って暮らさざるを得ない状況になってしまっていました。
これに対してね、結局、国の責任で引き上げ、帰国が遅くなった、助けてもらえなかった人たちに対する保証としては不十分なんじゃないかということで、
平成20年の4月ですね、2008年なんですけど、まだ本当に16年前の出来事ですよ。
法律が変わりました。
ちょっとね、それこそ僕が言った広島の地からね、そういった活動、運動が始まって訴訟に発展したんですけども、
その結果ね、新たな法律が作られて、生活保護ではなく、他の制度で中国残留法人の生活の支援をしていくっていうふうな制度が作られて、今はそれで生活をされています。
結局、その方々の支援をしているっていうのが僕であったり、他の市町の職員なんですよね。
今はね、結局人数が減ってきてはいるんですよ。
そもそも終戦の時からなんで、もうね、だいぶ年月も経ってしまっていますので、お亡くなりになっている人が増えていってます。
そんなこともありつつですが、支援の制度っていうのは充実をさせていこうということでね、様々なサポートを準備しています。
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ご本人たちの苦しさですよね。その当時のことを考えると、本当にね、何とも言えないね、正直。
どうですか?日本の国策として満州に行ってた人たちですよ。
自分がとか、自分の家族が、自分のお父さん、お母さんが、そういう立場じゃたまたまなかっただけで、僕らは今ここで暮らせているわけですけども、もしそうじゃなかったとしたらって想像すると、なんかね、すごく胸が苦しくなる。
なかなかね、残留法人の人たちっていうのは、自分たちの幼少期の頃、鼻下がありません。それぐらい辛くて苦しい経験をされている人もたくさんいる。もちろんね、そうじゃない人もいるんですよ。
だけど、とっても辛い経験をされた人たちが多いっていうのは事実です。一応ね、どんなことがあったかっていうのは、YouTubeでね、上がったりしていますので、URL貼っておきますのでね、概要欄に。
よかったらね、少し見てみてもらえたら嬉しいなというふうに思います。
なんかね、これで感じるのは、自分のルーツのない恐怖っていうのをね、僕はね、感じたんですよね。
ある時突然、その育てられていた家庭から、実は君はうちの子供じゃないんだよ、本当はって告げられて。
他の国の子なんだよ。でも君のお父さんもお母さんも知らないんだっていうふうに言われたとして、
なんかね、突然そういうことを言われて知ったりしたら、ものすごく不安になるんじゃないかなというふうに思ったりしました。
なんか当たり前だから気づいてなかったりするかもしれないですけど、自分に父がいて母がいて、例えば父と母が離婚とかしていたとしても、
父がいて母がいてっていうことは認識できる。
そして祖父がいて祖母がいてっていうことも認識できているかもしれない。
この国にもそれが全然わからない人たちもいることも間違いないですよね。
でもその不安たるやっていうのを今回ね、想像することができた。
具体的にね、その会議の中で一人にゲストが来たんですよ。
それはどんな方かっていうとね、語り部って言ってね、そのもうどんどんどんどん高齢になって、
当時のことを語ることができなくなっている中で、語り継ぐ人が必要だろうということで語り部っていうのを要請してるんですよね。
で、その中にはいろんな方が語り部になってるんですけども、
昨日だね、この前ね、広島の会議に来てくれていた語り部の方は2世の方だったんですよね。
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なのでご自身も20歳の頃まで中国で生活していて、20歳の時にお母さんと一緒に日本に家族で来たという風な方でした。
やっぱね、本当に臨場感あふれるお話でね、ご自身の体験されたこと、ご自身のお母さんの体験されたことをね、たくさん話してくれたんですけども、
本当聞けば聞くほど、この人たちって何も悪くないじゃないかっていうふうに思ったんです。
なんか戦争が生んだ、終戦の混乱が生んだ、
言い方はいろいろあるけど、
一人一人に襲いかかってくる現実は一人一人にしかわからなくて、それぞれに違ってて、
それが、もしかしたら、
自分たちの身にも起こっていたかもしれなくて。
そんなことを考えると、戦争って単純に戦争が行われている時に何かを失ったりとか、被害があったり、
奪ったり、奪い合ったりっていうだけではなくて、戦争が終わった今も続いている、この消えない傷跡、
そういったものをね、感じることができました。
さらにね、中国残留法人、カラフト残留法人、そしてシベリアの抑留、
これだけではなくて、今ね、まだ問題になっているのはフィリピン残留日本人という人たちですね。
こういった人たちも同じような状況ですよ。フィリピンが最後のね、その激戦区だったわけだから、
そこにもね、同じような状況の方たちがいます。でも、なかなか日本人であることを証明できずにいる。
幸せにね、暮らせている人たちもいるかもしれないけども、結局、自分は日本人だと自覚をしながら母国語を使うこともできず、
ましてや母国に帰るなんて夢のまた夢。そんなね、生活を何十年も送り続けている人たちが、今もその国にはいるんですよ。
終戦何年だから、何十年だから、戦争のことを忘れてはいけない。
思い出そう。戦争は大変だった。っていうね、ことを考える、啓発するっていうのは非常に簡単なのかもしれないし、
端的に想像しやすいかもしれない。でも、まだまだ終わっていない戦争っていうのもあるっていうこと。
このことをね、なるべくたくさんの人に知ってもらいたいと思って、拙い話ではあったんですけども、お話をさせていただきました。
ちょっとね、今日は長くなってしまったんですけども、自分自身でまだね、本当に落とし込めてない感情とかもたくさんあって、
まだまだ知らない、もっと深く知るべき知識、そういったものもたくさんあるのもわかってるんです。
ただ、なんとなくね、気持ちが熱いうちに話しておきたいなっていうふうに思ったんで、今日ね、このお話をさせていただきました。
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長丁場でした。最後まで聞いていただいてありがとうございました。
この放送、本当にね、もしよかったらたくさんの人に聞いてほしい。
こんな話でよかったら、拡散してほしいですし、概要欄に貼っておきます資料をね、拡散していただくだけでも本当に嬉しいです。
戦争の恐ろしさは何十年も経った今も続いてるんですよね。
そんなことを考えて、これから未来をね、より良くしていく人が一人でもね、増えていったらいいなというふうに思います。
はい、最後まで聞いていただいてありがとうございました。
それでは最後にお知らせです。この放送以外にも各種SNSで発信活動を行っています。
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それでは今日も素敵な一日に。社会福祉士のタダでした。
またおいで。