00:08
イタラジ、今回は、翻訳のお話をしていきたいと思います。
まずは、ペーター・ウッツの別の言葉で言えばからの引用を、読み上げていきたいと思います。
原作ただ一人が言っていることを、別の言葉で言うことができないのであって、原作の言葉が言うことは事実なるもの、不動のテクストなのである。
その意味で、文学作品に別の言葉で言えばはありえない。
対するに、文学作品の翻訳は常に別の言葉で言う一つの試みであり、これ弱手はそのようなものとして、文学作品の翻訳を提示してみせていいのである。
文学作品において言語形式と内容が取り結ぶ複雑な関連を、次言語において新たに言語化するためには、ある独自の言い回しを、たとえそれが時を経ずして、時代遅れの言い回しとして古びたものとなりかねるのとしても言い出さねばならない。
略。彼の翻訳は、現実につながり、原作につながり想像する行為を一言で終わらせることはできないだろう。翻訳として、それは終わりなき永遠の課題なのであり、それは潜在的に無限なるテキストを書き継いでいく行為なのである。
翻訳は、自らが言う通りのことを言っている。しかし、言うことによって違った風に語ってもいる。口頭の語りのジェスチャーを打ち出すことによって、これじゃこては、自分の翻訳が原作を同じ場法のまま別言語に置き換えるものに留まらないことを知らしめているのである。
一方で、翻訳は原作に従属するものであり、原作に依存し続ける。それは原作の別物でしかない。しかし同時に、それは訳すことにより、原作を超えた位置に立つ。なぜなら、翻訳は原文の意味を取り出し、再形式化しつつ解明・読解・解釈するからである。その限りにおいて、翻訳は原作に対する注釈であり、筒子ではない。上に、翻訳は自らの声で語らねばならないのである。
ペーター・ウッズ、別の言葉で言う。
さて、最近、アーサー・ウェイリーによる源氏物語の英訳、The Tale of Genjiが再び日本語に訳され直して、アーサー・ウェイリー版源氏物語としては話題になりましたが、これは、源氏物語の影響権の広さと複雑さを示すとともに、世界文学及び言語文化の全体の持つ、それを表していると思います。
03:01
カラマドフの兄弟の亀山役が、人の手によるものかどうかはわかりませんが、再びロシア語に訳され直して、ロシア語圏で読まれる未来などを想像するのも楽しいことです。
思えば、日本にドン・キホーテの演訳が現れたのは、島村邦月と片山のぶるの手によってでした。
初めて全体を表した近代文学の孔子は、原本だけからではなく、イギリス・フランス・ドイツの各国の訳書にわたって文部等の手で収集し、オームズ・ビーのイギリス訳を土台として初めて語り付けられたのです。
この事実には、様々なコンテクストと言語と作家、そして翻訳たちの関わる構成的な怪物を思わずにはいられません。
ペーター・ウッツの、それを翻訳した新元・フミなりの言い回しを使えば、古伝とは語り直され続けていることで、その広がりと複雑さを一層増強している一連のテクストなのだと思います。
皆さん、ご清聴いただきありがとうございました。