アリストテレスの重要性
やっぱり西洋哲学を学ぶには、プラトンとか、プラトンもそうなんですけど、やっぱりアリストテレスがわからないと、なんかわかんないなーって感じが出てきたので、
アリストテレスの手元にある本からちょっとずつ読んでいこうかなとも思っています。
ハイデガーとかニーチャとかヘゲルとか読むと、やっぱりアリストテレスがどうしても出てきて、ちらついてきて、
ああいうアリストテレス的な西洋の地の在り方みたいなものが、根底というか基盤にあるので、そこを知らないとよくわからない。
理屈がよくわからないし、アリストテレスの大切さっていうのは結構感じてるので、そこは読んでいきたいなと思っています。
最近はカシマ・トールのハニア・エタガト存在論を読んだんですけど、前も一回読んだんですけど、再読なんですけど、
やっぱり4章が結構面白くて、存在論が引き詰まっているっていうのを、西洋哲学との対比で批判していて、
司令について、やっぱりカシマっていう人は、カシマ氏っていうとエレファントカシマ氏みたいですけど、
カシマ・トールさんは1章から3章が好きなタイプのハニアオタクで、やっぱり1章から3章はどうしても人気が高いんですよ。
ハニア読みからしても、司令ファンからしても、それは典型的な司令ファンで、1章から3章は満成なんですけど、
それは別に全然いいことだし、それは1理というか500理ぐらいあると思うんですけど、40理ぐらいあると思うんですけど、司令だけに。
でも、そこから5章とか7章とか9章を断罪してるので、その面での偏りというかパースペクティブの偏りはあるんですけど、
特別的なものはあるっちゃあるんですけど、すごくハイレガーとかカントリーとか読んで、そういう枠組みで司令を断罪してるのですごく爽快というか、非常にちゃんと読むべきだなと思ってます。
ハニアが意中論に傾いたから批判してたりするんですけど、こういうところに行くべきだったみたいなものはあるんでしょうけど、
そうはじゃないと言ってるんですけど、そういうのを吹きかちまったハニアの存在論で、4章が一番ピークですけど批判しています。
この辺だけで読むだけでも面白いかなと。あとはそうみたいな感じの議論が多いので、4章は読んでいっても図書館とかで損はないと思います。買ってもいいですけどね。
哲学と文学の関係
あと司令の1巻を読んでるんですけど、結構司令とかになると、何回も読んでるので、このシーンを忘れたなとか知らないなという瞬間が少なくなってきたのが嬉しいです。
結構長い長説なんですけど、だいたいここは読んだなみたいな。表現は覚えてるみたいなのが覚えてきたのは嬉しいです。
パラパラ読むっていうのはかなり大事なんで、通読するっていうのは一回目は大事でしょうけど、そのあとはパラパラ読んで記憶していくっていうのが大事なんで、
そこをガンガンやっていったほうがいいんで、そこはわかってきます。
この世界が幽霊屋敷であるとして、この辺とか面白いです。
はっきり言って、そこら辺の文学が全部爆発するぐらいの面白さがあります。正直言うと。
まあ確かに一流一山賞を信仰する山本一馬氏の言い方もありだとは思うんですけど、それはまあいいと思います。
でも僕はもうはっきり言って、5章、6章、7章、8章、9章あたりの後半も、
はっきり言って、そこら辺の文学を爆発させるよりまたすごいパワーがあると思うので。
1章から9章あるのに、1章から3章と5章から9章を分けてやるっていうのは、
鹿島の場合は存在論っていうタームで西洋哲学との対比で何とか持ってるけど、
普通に好みの問題で論じちゃうともう完全に崩壊するので、それはやめたほうがいいし。
鹿島の論もはっきり言って、文学のドストイスキーとかサルトルとか竹田大順とかがタニアにあった影響とか、
文学的なポリフォニーとモノフォニーの技法とか文体とか種子の論とか、
そういうところについては全然深められてないっていうか、そういうところを無視して哲学的な観点で書けてるっていうだけなので、
そこら辺のところを全然やってる人はいない、はっきり言っていないので。
藤風野とか結構面白かったけど、
ぶっちゃけシャニアを創活できてないっていうのは日本の文学として情けないし怖いので、
村上春樹さんも読まれてないし、何読んでるかわからないですけど、みんな他のを読んでる時点でしょ。
ハニウイとかが創活できてないっていうのは完全に終わってるので、そこら辺は終わりを始めらせたほうがいいと思います。
いいと思いますって言うか、僕はします。誰もやってないので僕はします、しょうがないと。
僕もそんなことやってる場合じゃないんですけど、するしかないっていうのがあります。
まあしょうがないですよね。誰かやるしかないんですからね。
まあ楽しいしね、司令を読みつく。
ただ司令について誰も向き合ってないので、はっきり言って、
僕に向き合ってないし、向き合ってた人でもまあまあっていうので終わっちゃってるので、
さっき鹿島の本とかも正直まあまあだったんですけど、
できないじゃないですか、はっきり言って。
伴奏者いないですけど、でも自分一人でやっていくっていうのも楽しいと思います。
誰か、ハニウイについて語り合うみたいな人がいたらいいね、連絡ください。
喧嘩とかしてる人間じゃないので僕は大丈夫です。
あとは、すごい面白い試合だと思いますね。
熱量がないっていうか、エントロピーが進化してるっていうか、
まだトランプとかイーロンマスクとか行ってる人たちもいるんで、
そういう人たちは、橘隆とかに行ってる人いるんで、
そういう人たちはまあいいんですけど、まだ暑いんでしょうけど。
そういうのも終わったって感じがあって、まさに終焉のような感じになってます。
もちろん全部世界が終焉するってことはないんで、それはもう理屈としてはないんで。
事実は他に盛り上がる話題が出てきたりしたら、僕たちもそういうふうに、
まあそういうふうにやりたいというか、
アリストテレスっていうのは分類をした、カテゴライズした人だと思ってるので、
範疇を作ったり、博物学とかをやってるんですけど、
それをやらないといけないんですよね。
一番大事なのは、
一番大事なのは、
アリストテレスっていうのは分類をした、カテゴライズした人だと思ってるので、
範疇を作ったり、博物学とかをやったり、そういう人だと思ってるので、
そういう考え方っていうのは西洋のすごいことだと思うんで。
はっきり言って、カテゴライズする地のあり方、体系、学問みたいなのがなければ、
西洋の思想って、
東洋、日本のお坊さんでもいいですけど、
そういう人に全然別に混ざってるわけでは全然ないので、
はっきり言ってそこが限界というか、
限界ではあると思います。
なので、アリストテレスさえ抑えれば、
西洋っていうのはパンパン限界とか射程が分かってくるし、
もちろん良さっていうか活用方法も分かってくると思うんですけど、
人気とかハイデカルレベルになってもやっぱりアリストテレスの影響っていうのは強いので、
むしろだからこそ強いので、やっぱりそこはちゃんと見ていこうと思います。
現代人っていうのは学問的知性っていうと学問的な知恵っていうのがしかなくなったんですけど、
なんでかっていうとやっぱり狩り狩猟とか農耕しなくなったのが一番大きな原因で、
やっぱり大地とか自然とか、そういう関連的な言い方になっちゃいますけど、
そういう大地とか自然とか動物とかそういうものに対する知恵とか感覚が、
洞察とかがなくなっていって、
大学に行って勉強してみたいな、論文書いてみたいな感じになるの。
本読んでみたいな感じになって、それが知の体系って言われてるので、
それがやっぱり現在の人間の知性なので、
そういう意味ではアリストテレスっていうのは絶対外せないと思うし、
逆に言えばアリストテレスって呼んじゃえば、
もう俺たちの限界ってここにあるんだみたいな感じがあると思うので、
アリストテレスは現代人よりすごいと思うんですけど、
最近は存在論とかをペラペラ喋ったりしてるんですけど、
存在論って一番危険だと思っていて、
あんまり突き詰めすぎちゃうと、
ろくなことがないっていうか、
死ぬしかない人もいるじゃないですか。
死ぬしかない人もいると思うんですけど、
現代って行き詰まりすぎてて、
錯覚かもしれないですけど、存在論しかないみたいな突破口が可能性もあるんで、
それは僕は、
あんまり突き詰めすぎちゃうと、
死ぬしかない人もいるじゃないですか。
存在論突き詰めすぎて、
死んだりなんかもう絶望したりっていう人もいるじゃないですか。
だからもう存在論とかあんまり怖いと思ってるんですけど、
でもやっぱり、
書き手だなっていうのはあって、正直言って、
それならもう虹とスイレンでしたっけ、
そんな感じの虹と、
何ていうかっていう、
ハニー・ウェダー・ガロンみたいなのがまだ文学的な方面から、
宗教的な方面から書いてるんで、
いいんですけど、
ハニー・ウェダー・ガロンの存在論だけじゃないんですけど、
それだけを哲学的に、思想的に断罪するっていうか、
批判するとは全然ありだと思うんですけど、
そういう人って、その方面でしか切ってないんですよ。
だから文学って総合的なものなんですけど、
退職観と言ってもいいんですけど、
宗教とか文学とか、
哲学とか科学とか、
人間学とか全部入れちゃうんですけど、
自然観とか感覚とかもね、
それを一つの方向だけで切るのはいいんですけど、
切った後に、やっぱり違う方からも切っておかないと、
それこそ総合的な批評にならないんですよ。
総合的な文学は、
文学が総合的だからそもそもできちゃうんですけど、
それでも質のいいアレありますけど、
スカスカのとかミチミチのとかありますけど、
総合的な批評っていうのはなくなってるっていうか、
あったのか知らないですけど、
僕ぶっちゃけ小林秀夫とか伊沢小一とか言うのもあんまりよくわかんないんで、
そんなに面白くないっていうか。
西谷誠とかも文学とかじゃないし、
文学評論で面白いのって、
誰?
あんまりいないっていうか、
僕は批評が合わないだけかもしれないですけど、
批評家の比較
本当に江藤潤とか小林秀夫とか、
その他いろんな人いますけど、
羽生たかだって批評家の面はありますけど。
あと吉本高垣とかね、
ああいうの読んでもあんまりパッとしないというか、
やっぱ三島幸男とか、
三島幸男が一番批評家としては、
これ鹿島茂さんでしたっけ?
鹿島徹じゃなくて、
鹿島茂さんが文学者に言ってましたけど、
三島幸男の評論はやばいって言ってましたけど、
それはわかる気がして、
戦後最大の批評家とか言ったけど、
鹿島徹が。
三島とか読んじゃうと、
小林秀夫はまだ文体があるからいいけど、
言ってる内容はぶっちゃけ、
僕が見れば知説というか、
もっと小林秀夫の意見聞くなら、
ぶっちゃけ中世の僧侶とか、
源氏物語とか古典とか読んだほうがいいんじゃないかと思うんですよ。
小林秀夫の価値観ってそこなのかなって感じで。
もちろん乱暴で格闘してるとか意見とかあったりして、
独卒式で格闘してるとか、
ぶっちゃけ格闘とかいいんですよ、僕には。
自尊的な格闘とか文学格闘とかは、
いいんですよ。
みんなもいい人は多いと思うんですけど、
多くなくてもいいんですけど。
格闘が好きな人は格闘してればいいんで。
そうじゃなくて、
ちゃんと総合的な比喩を書くっていうのは格闘することじゃなくて、
格闘しつつ、
ちゃんと客観的に突き放してみつつっていうのを、
横をやってるのかもしれないけど、
それでもあんまり面白くないんで。
小林秀夫の独卒式論とか、
どうしてこれ書いたんだろうって感じがするんですけど、
乱暴論は読んだことすらないんですけど。
ああいうのってどうなんですかね。
もっと批判されてるかもしれないけど、
よくわかんないですね。
ここは非常にいいですけどね。
人間の建設とか、薄いのはいいし。
吉田松陰もなんでこれ書いたのか感はあるけど、
文体が凝ってるから、
文学としては面白い。
批評じゃないと思うんですけど。
だから何が言いたいかというと、
批評の歴史
なんでサムエルベケットとか三島由紀夫の評論がいいかっていうと、
あるいはプルーストとかの作品とかに、
文学者が批評家になっちゃってるんですよ。
昔の批評家、古典時代の批評家って、
アリストテレスとかさっきのニーチェとかもそうですよ。
あるいはハイデガーとかもそうですね。
批評家・注釈者って、超圧倒的に批評感があるやつ、
批評精神があるやつ、頭いいやつとか、
圧倒的に超人的にやばいやつじゃないと。
古典時代って、紫式もそうですけど。
紫式はあれ、難しいな。
すごいことだったんです、批評するって。
ホメロス一つ評するにも二島あたり一つ評するにも、古事記一つ評するにも。
誰でもやれるもんじゃなかった。
詐欺みたいなことで人を騙せるもんじゃなかったんですよ、批評って。
批評っていうのは文学だったんですよ。
物語と別にね、神話とか物語と別に文学が批評でもあった。
近代小説とかそうでしょ。
でも近代小説以外にもそうだったんですよ。
原子物語なんか読むとわかりますけど。
批評精神が。
だから文学史、近代、現代で。
森川春樹さんとか批判されますけど、
僕は結構あの人批評精神あると思っていて、
つまり本当はあるんだけど出さないだけだと思っていて、
結構そこはすごいと思うんですけど、
一流の文学者のほうが批評家より批評できるのかっていうと、
批評精神があるからなんですよ。
能力高いってことですよ、文学者。
売れる本とか売れない本とか関係なく、
批評精神ある文学者が物語的なものを書くから小説足りえるんだって。
それは昔からそうなんですよ。
近代小説とか元気報道とか言わずにね。
ずっと昔からそうなんで。
そこはね、騙されちゃいけないっていうか、
小説でも書かない批評家っていうのが、
どんだけ日本っていうかな、
技研で文学を適当にしてきたかっていうのはね。
西洋とかまだアリストシャレス以来の学問の伝統があるんで、
政治的に学問的に書いてるんでまだいいんですけど、
ハルロとブロームとか読みましたけど、
あれは学問的ですよね。
読み込んでるなって感じの。
文学好きなんやな、英語の文学だけどっていう。
だから僕にはよくわからない部分もあるけどっていう感じですけど、
ハルロブロームとか読むと、
アラホナッツェはそういうふうに伝統してるんだなって感じなんですけど、
日本の伝統って言ったって、
もとに乗りながらの役を壊してはできないですよ。
江戸順だってできないですよ。
できないですよ、それは。
松井曽月だってできないんだ。
無料ガレってね。
もとに乗りながらの次に来るって誰?っていないでしょ、そういう人はね。
古典を徹底的にしてないからですね。
まだその学者の方々のほうがね、学者は万歳じゃないですけど、
学者とかのほうが、国文学者とかの書いた、
だから最近だと古典のなんか古典の円巻みたいな、
そういう見しまい論がありましたけど、
学者の方のあれとか良かったですけど、
こういうとこは始まらないだろうと思いました。
なんか知ったようなカッパするとか言って、
知ったような寸鉄の的なアホリズムで、
バシッと文学とかをズバッと切ったような気になって、
本質を切ったみたいな、馬鹿らしいと思うんですよ。
ダメなんですよ、それは。
でもそれはさっきの鹿島徹はそれを免れてると思うんですよ、まだ。
ちょっと余談はかなりあるんだけど。
ジョジョではないし、そういうバシッと切ってやったみたいなことじゃなくて、
丹念にやっぱり哲学的思想的な言い荒らしさでチクチク、
演出的にハニアを攻めてるんで、そこはいいんですよ、逆に。
でも文学的な面はないですけど、
そういうふうにちゃんとやっていかないとダメなんですよね。
でもそれは哲学思想じゃないじゃないですか、文学っていうのは。
哲学思想はもっと狭いものじゃないですか。文学ってもっとでかいんで、
いいって意味じゃないですよ、でかい、広いんで、岩をなく。
そういうものをねちっこくやっていくには、ちゃんとリテラシーがあって、
つまり読めて書けて、ちゃんと時間をかけてじっくりとやっていくっていうことができないとダメなんですよ。
その意味では吉本高木とか結構良かったのかもしれないんだけど、まだね。
でも吉本高木自体が、あんまり三文は良くないんで、いやらしくなっちゃう。
詩はまだいいんですけど、三文になっちゃったら途端に下品になっちゃうんで、
吉本高木っていうのは土着とか言わないですけど、僕だって田舎ずらしなんで土着なんですけど、
そういう人だって品がないんで、あんまり好きじゃないですね。
好きじゃないと評価しないです。
やっぱり下品すぎるのもダメだし上品すぎるのもダメなんで。
三島なんかは本当にすごいし、大江健三郎とかもいいですよかなり。
安倍広報とかも。あの辺の七谷って有名なところで売れっこですけど、
いいものはいいんで、褒めていくしかないですよね。
ニーチェとかもすごいですよね。西洋のあったらね。あれ近代人ですけど。
ちょっと前ですけど、ニーチェなんかもすごい三文からなと思うんですけど、自分で褒めてますけどね。
あんなのが出てきちゃったら日本の資格ほとんど死にますね。
現代批評家への批判
それがニーチェの思想導入した三島とかなんでしょうけど、そういうことになるんでしょうけど。
確かに相手になりませんよね。
ああいうね、ずけずけと言うしかないですけどね。
こういうことは言っていくしかないっていうか。
じゃないとしょうもないですからね。読もうなくなっちゃうんですけど。
今のサッカー悪いんじゃないんですよ。批評家悪いんですよ。完全に。
サッカーが悪いのか批評家が悪いのかっていうと批評家が悪いんですよ。絶対。
僕は文学者全般を敵視してるっていうか嫌いですけど。
でもやっぱりサッカーはなんだかんだ言ってまだ文学が死んだ今でも文学者なんですけど。
批評家はもうなんか批評家じゃないから。
そこについては本当にもっと総括されるべきだし、たらかれるべきだと思います。
本当に学者っていうのはまだ別にいてね。批評家と別に。
学者はまあまあなんですよね。
学者でもあるって大事ですけど。ディレッタントとかもいますしね。
僕みたいなディレッタントなんですけど。
そういうふうにちゃんと厳しく取り立てていったほうがいいと思うんですよね。文学っていうのは。批評家とかに対して。
だから村上春樹さんが、ある人が批評家を嫌ってるっていう指摘があって。
そうなんだろう。それは正しいよなって思いました。
現代の批評家なんかに僕を言われたってしょうがないですよ。自分の文学が良くならないですよ。
村上春樹さんの場合はちょっと厳引すぎるところもあるかなと思うんですけどね。そういう態度がね。
もうちょっとね、気にしてもいいかなって感じがしますけどね。最近の見てるとね。
もうちょっと1984のズッコケぶりとか見てると、もうちょっと人のいいこと聞いたほうがいいんだよね。
奥さんによりしてみたいなんで、それはいいんですけど。
ちょっとね、1984ズッコケちゃうんですよ。あれはちょっと痛恨ですけど。
でもあと一作くらいは長編書けるんで。最後にね。一作か二作くらいは長編ね。
それで1984を超える大長編書いたら、成功したら、それでもう人生、人生成功なんで。
それこそね、今までいなかったような大作家としてね、ブロベリーショーを取ろうとどのままやるかと思うんで、そこはいいと思います。
別にいいんですけどね。作家として人生として成功するとかもくだらないと思うんですけどね。
虚構と文学の情熱
西本二郎なんてね、若く死んじゃったしね。本当にどうでもいいんですよ、中島さんって若く死んじゃう。
それってね、ものすごい作品残してるからね。いいと思うんですよ。どうでも。
最近面白かったのはね、やっぱりね、西間劇を書いてたんですけど、
谷崎純一郎が、虚構の虚無感っていうのを書いてて。
すごい作りも、ワンピースとかもそうなんですけど、領主喚起士とかも、こしかみとかも、虚構のなんかすごい長いものってあるじゃないですか。
文学でコーロームとか、ハンター×ハンターとか漫画だと。
ああいうのって、なんで虚構の世界をずっと描いてるの?ってなるじゃないですか。なると思うんですけど。
コーロームとか、薬水古典とか、中国だとね。日本だと謎の発見伝とかね。
とにかく長くて嘘の話をずっと書く。嘘っていうか完全な作り話を書くっていうのは、虚無感があるっていうか。
なんであそこまで高知に、漫画でも文学でも、映画もないからずっと描いてくるかっていうね。
なんとかサーガとかもそうでしょ。描いてくる情熱があるのかっていうのを、谷崎がちょっとチクッとやってたっていうのを三島が書いてて。
でも三島が持っていれば発見伝とかもそうじゃんみたいな。
そうだし、日本にも虚構に通じる虚構を突き詰めちゃう情熱みたいなのが先に出ることがあるねって言ってて。
これ全然わかってない人は、三島の作品によって虚構を突き詰めて虚無に行ってるじゃないかって言うと思うんですけど。
先回りして言っておくと、読んでくるとそうではないんで、ちゃんと全集を全部読んでください。
僕らは全集全部読んでないけど、全集全部読んだら、そういう口は聞けなくなると思います。
実は三島由紀はものすごい作家とかじゃなくて、そうじゃなくて誤読しすぎなんですよ、現代人っていうのは。
ハイデガーも誤読されまくってるって、ハイデガー詳しい人が言ってましたけど、そういうことってあって、ニージェルもそうですよね。
ある種の文学者とか哲学者とか思想家って、誤読すぎるっていうか、
一周回って俗的な解釈になっちゃうっていうか、俗的な解釈でもいいんだけど、
結局わけわかんなくなっちゃってるんですよ。
そんなに難しいことでもないことも難しくなっちゃってるんですよ、みんなの解釈のせいで。
みんなのって僕も含めてみんなのです。社会的なものです。
数年的な俗的な解釈のせいでわけわからなくなっちゃってるんですよ、全部が。
村瀬博記さんに対するわけわからない解釈のせいでわからなくなっちゃってるっていうのもあると。
僕はあんまり彼の最近とか注視してないからわからないけど、そういうとこがある。
文学者って本当に批評家のせいなんですよ、これって。しょうがないけど。
この話に、その次何書いてるか、別に三島は何書いてるかとか谷崎何書いてるかとかわけられたし、いいんですけど、
そういうことってありますよね。何でこんな続いてんの、みたいなね。
長いことはいいことかもしれんけど、それで伝えたいことあんのって言っても、円溜めながらうっすりゃいいわけですよ。
別に司令とは違うわけですよ。司令とか法上の海とは違うわけですよね。
三島の作品とかとは、大池田ブルーとは違うわけですよ。
漫画ってね、もっとヒストリアとかみたいなね、続けることに意味がある作品ってあるから、そういうのに比べると何なの?っていうのがありますよね。
文化とエンタメの問い
エンタメってどうなんですか?みなさんエンタメ好きでしょうけど、僕も好きですけど。
なんでこんなの書いてるんだろう、読んでるんだろうっていうのはあると思うんですよね、みんな。ゲームとかもそうですけど。
あれってやっぱり、もっと批評的になった方がいいと思っていて。
ゲーム歴、リアリズムとか、東さんが言ってましたけど。
もっとね、消費するっていう暴力性とか言うまでに、なんでこんなことやってんだろうっていう虚無感に気づくべきだと思いますよ。
思想も何も繰り返してるだけですからね。
繰り返してるってのは、物語が繰り返してるんじゃなくて、過去と同じことを繰り返してる。
パターンをね。物語の神話のパターンとかを繰り返してるだけなんで。
でもまあ感動はするでしょ。僕たち感動しますよ。ゲームやったり漫画読んだり、大河小説読んだりしたら、うおーってなりますけど。
なんでそこ続けてるのっていうのはあると思うんですよ。
そこの問題心から根本的に文化が出てくるんじゃないかと、適当なことを申して、これで終わりしたいと思います。
はい、文句ばっかり。30分ありがとうございました。