ファルスのスタイルと日本文学
一番スタイルが必要なのはファルスなので、ファルス衝撃と喜劇的なもの、特にファルスですね。衝撃がやっぱり一番スタイルが要るんですよ。スタイリストたるべきだっていうのがあるんですよね。
日本文学からそれが全然なってない。
小島信夫みたいな人もいますけど、あの人はスタイルっていうスタイル、スタイルはあるんだけど、もうちょっとという感じですよね。
だから、後藤明史とかもいます。後藤明史はもうちょっとスタイルはあるかもしれないけど、日本語でファルスをスタイルでやるって、坂口アンコとか言いますけど、坂口アンコはどうなのかなって感じですし。
石川隼も今日吹き替えたけど、ファルスじゃないですから。ある意味ファルスって言ってもいいかもしれない。ちょっとそれにしては違うし。
僕が言ってるのは海外文学、ヨーロッパの伝統というかね、ユーラシア大陸の伝統で、古くはラブレーですね。
ラブレーはスタイルありますよ。面白いのは、語幹がね、儀章らしいんですけど、儀章でさえスタイルを保ってるっていうかね、あの時代の混沌として豊かさっていうのがある。
バフチンはラブレーと民衆文化をある意味つなげて論じてあげるんですけど、ああいう豊かさ、豊穣さがあるんですよね。
日本語で言うとそこそこだなって感じですけど、でもやっぱりスタイルはあるんで。本当に民主的なものが出てくるって言ったら難しいんですけど。
でもやっぱりセルバンティスのトンキホーテはかなりカニバル空間を現出してますし、ゴーゴリのシセル魂なんかは。これから自分に読もうと思ってますけど、シセル魂っていうのは。
読んじゃったらすぐ読んじゃうよね。ペイシシュベイクとかね、あれも読んでいこうと思うんですけど。あの辺とか、ゴーゴリシュベイクとかハシクとか、カフカもある意味それがありますよね。シロとかね。
そういうファルフスの世界。なんと言ってもジョイスですよね。前衛にいるのはね。現代はもっといますけど、古典の位置で前衛にいるのはやっぱりジョイス。
フィネガンズウェイクとかは、やっぱりファルフスっていうのは息づくある一つの冗談としてもね、冗談のスタイルを作ったんですよ。一つの冗談としての文学のスタイルを作ったってことなんですよ。ジョイスの一番重要なところがね。
ジェームス・ジョイスはアイルランドの作家なんですけど、近代の作家ですけど、やっぱり20世紀の作家ですけどね。ユリシーズも素晴らしいんですけど。
文化的対立と革命
フィネガンズウェイクって一つの冗談、一つのファルフスっていうのを作ってしまった。
これはね、自分の精神を統合するために書いていたっていう意見もあるらしいですけど、その裂け目をなんとか繋ぎ止めるために。繋ぎ止める力としての冗談。冗談というか、イメージの連鎖。
物自体ですよね、はっきり言って。別に感動的な意味じゃなくて、世界自体を言語で表すっていうことをした。それはリアリズムの手法ではない。
あんまりシュルリアリズムの手法でもない。ジョイス語とかを作るしかない。
自分を活性源とした言語、ミームを世界レベルまで広げていくしかないんですよね、本当はね。
それができるのはあんまりないし、文学として成り立っているのかっていうのは、朧げになってくるとは評価としては朧げになってくると思うんですけど。
ある意味でやったのがジョイスであり、フェルヴァントルであり、ゴーゴリであり、カフカでありっていう人たちですよね。そこまでラブレでありっていう人たち。
スタイリストたち、スタイリっていうのがやっぱりヨーロッパ文明のある意味で、よくも悪くも発展と侵略の歴史ですけど、
そのコンテから支えたある意味で、存在の革命原理としてのパッションとカオスティックなパワー、力への意思だと思うんですね。
僕はフリル・ヒニーチェが悲劇誕生で、悲劇を追求して最後に力への意思に行ったっていうのは有名な話ですけど、
力への意思って根気的に何かって言うと、僕はパルスだと思うんですよ。衝撃だと思います。カルメン的なもんだと思います。
カルメンっていうかビゼの音楽的なもんだと思います。テッテケテケテテテケテケッていうパッション、情熱のパトスの応易図と言うか。
あとそれと、ものすごい価値転換の力ですよね。天土地をひっくり返るように。
意味白雑というか、意味白雑と新たな意味不要っていう、その流動的な力、ヘラクレイトスとかもそうですけど、炎の力とかそういうのですけど。
本当にそういう意味での、ファルス的なものが力入りの石って言うと、そのものだと思いますね。
ある意味で本当に根源的で根本的で思想的、根源大臣的なのはヨーロッパにおいては衝撃なんですよ。ファルスなんですよ。
スタイルってまとめるって、カタロジで形になるかどうかっていうギリギリのラインで、ある種の文学者たちは踏ん張ってるわけです。頑張ってる。楽しんでるわけです。
ひるがいって日本に来て優れた文学家ってやっぱり源氏とか三島行雄とかになっちゃうんですけど、ある意味でそういうものって悲劇的とも違うんですよね。
物憐れとかなんだろうね。とにかくヨーロッパのファルス的なものと違いますよね。
日本人が日本文学古典とか含めて傑作文を思想化できてないし、捉えきれてないっていうのは、捉えかねるっていうのは、
やっぱり非常にバフチン的な評論家というか学者というか文学研究者がいないっていうのはあるんで。
僕はその辺を衝撃論として書きたいと思ってるんですけど、後々ね。
日本文学におけるそういうバフチン的なもの、カニワラ的なものってのは何なのかっていうのはね、もっと考えていかなきゃいけない。
そこはそうなんですよ。ヨーロッパと日本って対峙しないって見方もありますけど、あえて対峙するとしたら、
ヨーロッパ的なファルス的なものっていうのと、衝撃と日本的な独特の文学とか古典の文化みたいな、
そういうのを研究していかなきゃいけない。
根源を根本的に掘り下げていかないと、日の幸いにいかないっていうのがあります。
村上春樹でさえ、現地物語とかの世界観ですからね、ジョイスとかラブレの領域ではないので。
やっぱり違いますよね、そこは。
そこの世界観の違いっていうのがね、ちなみにバフチンはラブレとゴーゴーリーとかを論じたりしてますからね、
一緒の本で論じたりしてますから、本当につながってるのは間違いないことであるんですね。
そういう目線が日本文学ではないから、何と言うかな、伝統的な言葉が豊富なために、豊穣なために、
しかしとなってあんまりファットした文学研究ができなかったのが、今日の文学の墜落というかね、
水滅の、水美の一端に過ぎないですけど、小さな一端にはなってるので、そこはしょうがないですけどね。
といってもヨーロッパだって別にね、ロシアだって別に、文化的に頂点に今いるわけじゃないですから、
世界的にそうですよ。文化的に頂点を、アメリカだってね、
世界的に文化的な頂点というものがね、ピークが、下のピークに来てるんじゃないかって思われるぐらいのもんですからね、明らかに。
それは皆さん、薄々わかってると思うんじゃ別に強くは言いませんけど。
ですから、精神分析なんかも盛んなったけど、あれだと別に文化じゃないですからね。
治療行為ですから、もともとはね。治療行為が文化のピークを生み出すっていうことはないので、
ラブレーだって医者でしたけど、そういう真心でね、書いてるわけじゃないですから。
狂気ですよ、やっぱり。ラブレーは医者を、ヤブ医者の精神でやってますから、文学はね。
完全に狂気の世界に書いてますから。ラブレーとか、やっぱり大したもんだなと思いますよ、ヨーロッパでも。
文学っていうものの根底には、ある種カーニバル的なものがあるっていうのはヨーロッパは間違いないです。
それは力の意思だと思います。権力の意思というか、力の意思と言ったほうがいいかな、パワーね。
それはね、変動原理なんですよ。革命原理になるってあるんですよ、明らかに。
バクチンがかっぱりしましたけど。
三島は文化防衛論で共産主義を相手にしてるって言ったけど、
ヨーロッパ的というか、反ヨーロッパ的な、ユーラシア的な、中国も含めたカーニバル意識、
カーニバル・オブ・レボリューションみたいな、そんなのが、パワーが、パワー・オブ・カーニバル・レボリューションみたいなのが、
やっぱり日本に発球すると、日本で革命起こるってのを恐れて、やっぱり天皇中心としたお祭り国家に従ってっていうふうにはあると思うんです。
文化防衛論とか、若き侍とかでちょっと書いてますけど、それであんなに死に急いだってのはあると思うんですね。
やっぱりあそこで死ぬぐらいしないと、革命止められないなっていう意識があったんでしょうね。
文化の破壊と再生
まあそれは効果的だったと僕は思いますよ。思いますけど、三島一人で何でもやっちゃったなって感じはあるので、
そこはちょっと、やっぱり常に、日本人の第二の敗戦というか、第二のギルティだと思いますけど、
三島行を死なしたっていうのは、第二の日本の敗戦とまた三島を死なしたっていう戦後日本の罪を償うべきだと思いますけどね。
太平洋戦争においては外交的な罪じゃないですか。アジアや世界中を荒らしたっていう罪がありつつ、
戦後は日本内部を荒らしたっていう罪が日本人にあるんですね。
日本内部を荒らしたのは家庭廃盤、民事かもしれないけど、それも罪は罪ですからダメなんですね。
EVをしたらどうですか。ダメですよ。それはもう本当に裁かれるべきだと思うんですけど、しょうがないですよね。
そこもハルス的なもので、もっと野蛮な力で文化がぶっ壊れるっていうことがあるかもしれない。
それは望まないけどもあるかもしれない。それはなぜかというと、カリバル的なものに対する防波堤がなくなったからですよ。
日本にたての海賊がいましたけど昔はね。もういないから。
僕はもうラブレー的なゴーゴリー的なセルバンティス的なシクピア的なある意味で、
ハチク的なカフカ的なそういうね、ハルス的なものが日本において爆発するときを待ってますよね。
待ってるってのは別に期待してるんじゃなくて、待つしかない。
それこそが本当に革命だと思います。
本当に馬鹿馬鹿しいもの、本当に帝族に生まれてるものが、本当の頂点的な、超絶的な力を一瞬だけ緩和してると。
それでまた混沌が生まれて、また新たな世界が生まれるっていう寸法ですけど。
そういうことがね、本当にアナーキーですけど、あり得るってのはありますよ。
それはハルス的な革命原理だと思います。力への意思の発言だと思いますね。
そこを見越してたラニアとかミシマは偉いんですけど、大江とかも偉い。
文学者の影響と革命原理
大江はもちろん逆にカーニバル的な、バクチン的なものを導入してそういう文学を作ってるわけですが、それもすごく偉いと思いますね。
そこらへんですかね。僕のすごく言いたいことは、ハルス的なものっていうのは、
ヨーロッパにとっくにハルス的なもの、日本における文化っていうか、革命原理としてどうこれから醸成されていくのかって、
僕は楽しみにならないんです。僕自身もかなり練ってる段階であるんですけどね。
そういうところをちょっと語りたかったとはありますね。やっぱりスタイリーですよ。
ミシマがスタイルって言ってたのは、反革命原理としてのスタイルですよ。
悲劇を描きまくったのは、やっぱり衝撃に対する盾ですよね。それは。
ミシマユキンは悲劇的なもので盾になった。衝撃的なもので。
カーニバル的なもので斧となったのが、やっぱり西洋のファルフ文化ですよ。
あんなにミシマユキンはフリーゼックスと批判したのもそういうものです。
あれはディオニソスの権限でしょ。本当の意味のディオニソス。カトリシズムってないんですよ。
カトリシズム的なものはミシマムシの親近感を持ってて、エロチックだって言ったら。
2666でボラーノが描いたようなディオニソス的な悪夢空間っていうか、
本当の空間っていうのは、革命への不安定な情動的な音楽的な空間っていうのは、そういう神がいるってことですから。
神が本当にいるっていう意味じゃなくて、そういうパワーの空間を神って呼んでるだけで、
今ではパワーの力の意思でいいんですけど。
パワー空間っていうか力パっていうのが生まれてるってことですから。そこは本当にその通りだと思いますね。
だから僕はボラーノが好きなんですけどね、かなり。
ある意味ボラーノはディオニソス的じゃなくて、アリストテレス的。
もっとアポロン的だって自分で言ってましたけど、ボラーノ自身の人と育てたいわね。
それでも抑えきれなかったような2666っていう作品を描いたのは偉いと思います。素晴らしい。
ミシマン的ではあるんですよね。ミシマンとボラーノは仲は悪いだろうけどもあっても許可しないかもしれないけど似てるんですよ。
村上春樹なんかもそうですよ。オヤケンダムなんかも。
やっぱりディオニソス的なものっていうのは文学者にとっては相当のもんじゃないと、
予知しかできないんです。予知したり防犯的なものしかできないんです。
やっぱりディオニソス的なものを本当に文学にしたら、ラブレイとかセルバンティスとかゴーボリとかカフカとか、
やっぱりある意味で異端ではあるし、パロス的なものっていうのはディオニソス的なものっていうのは本当に難しいことです。
日本文学で衝撃的なものを書いたっていうのは、大井健三郎なんかも書けなかったじゃないですか、そこまで国民的ファルスを。
やっぱりちょっと狂気ギリギリの状態だったので、その時はわずかに若早猫であればちょっと書こうとしたぐらいです。書いたぐらいですかね。
難しいってことで、日本でファルス的な文学を追っ立てるっていう潮流が生まれたら、
木下ふるくりみたいな人がもっと強調になる、もっとすごいの書くみたいな感じになるとしたら、これは日本の革命の初章ではありません。
はい、というわけで、今回は革命とファルスと文化とっていう題名にしましょうかね。はい、お疲れました。