小滝裕二と梓倉香音、7歳の時に運命の出会いを果たした二人の四半世紀に渡る物語を書いた感動作ということなんですけど、
これ実を言うとですね、プルーフ版ということでこちらにあるんですけど、後ろに一応道さんの手書きでね、
今までで一番自信がありません。でも今までで一番小説書いたって気がしていますと書いてあるんですけど、
これはどういうゆえんでこんな言葉が出てきたんでしょう?
いつも自信ない?
いつもないですね。基本的にいつもないんですよ。ある人って何であるんですか?
僕もいろんな小説家の方インタビューしてきて、あんまりこういうことは聞いたことないんですけど、
フラットな方もいるじゃないですか。特にないけどあるわけでもない。
でも一応自信がないけど、でも今までで書いたっていうのはどういうゆえんなんですかね?
一口言うと名前のつけられない感情とか名前のつけられない関係って言うのは簡単なんですけども、
それを描こうとした時に、絵画で言うと印象派みたいな影を描くことで光が見えるみたいな書き方って、
私にとってはまだすごく難しいことだなって思いながら書いていることが多かったんですよね。
どうしてもわかりやすく説明をしたい。こういうふうですよって紙砕いてしまいたいっていう気持ちがあって、
言ったら鉛筆とかペンで重線を書いて、こういう輪郭のこういう形のっていう説明をどうしてもしたくなってしまって、
それも自信のなさの現れなんですけれども。
そういう方向に行こうとすると、担当さんがこれは書かなくていいですというような軌道を修正してくださって、
名付けないものを名付けないまま書き終えることができたなっていう手応えがあるのは本当です。
自信がないっていうのもそういうことで。
でも今その影を描くことでというか、その辺がなかなかっておっしゃいましたけど、
スモールワールドとかパラソルでパラシュートとかもそうですけど、僕個人の印象ですけど、
いわゆる普通の人で何もあっけらかんとしている人でも、そういう人にも必ず何か表に見せないものが当然あるみたいな。
そういったものを結構フィーチャーされて描かれているように私は受けたんですけど、
そういう意味では影の部分っていうのは今までも当然描かれていたような気がするんですけど、それとはまたちょっと違うんですか?
そうですね。枚数的に長いっていうのもありましたし、
今までより少し大きいキャンバスで描いてみたっても、色数的にはそんなに多くないっていうようなところで、
結果的にいろんな挑戦をさせてもらったなっていう気持ちですね。
いろんな挑戦っていうのは例えば?
そうですね。女の子同士で、友情でも恋愛でもないような。
なかなかこれ、人にあらすじを説明するのが難しいと思うんですけれども、
そういう明確な起承転結、必ずしもあるものでないニュアンスっていうのをやらせてもらったっていう感じがします。
これそもそものいわゆる今おっしゃった、よくも悪くもではないですけど、ちょっとファジーなというかね。
ゴミあるような曖昧な先抽象画みたいな話もありましたけど、客層とかテーマとかどの辺まで一般者さんの方から
ある程度こういう感じで書いてくださいっていう感じだったのか、どういう経緯なんでしょうね。
担当さんからは具体的な要望っていうのは特になかったと思います。
それこそ寝る前にちょっとずつ読んで、読んだ後大事にしたくなるような本を作れたらいいですねみたいな感じだったんですね。
2020年に初めてお会いして、実際連載始まったのが2021年からだったので、
第1話を書き上げたのが本当に2020年の年末ぐらいっていう、結構なかなかスタート切れないっていう。
それを動画を見るのに達成した動画ですよね。
まさにそうです。
さっきちょっとお話いただいたんで、そこに伺っていきたいんですけど、やっぱりスモールワールドだと家族のいびつさみたいなのが描かれていたように思うんですけど、
今作はそれとはまた異なる形で、個人的な家族ってなんだろうって考えさせられたんですね。
それやっぱり全編通してなんですけど、読み終えて今思うのは、やっぱり良い悪いではなく、自分以外は全部他人。
家族も恋人も友達も、あと異性間の愛だろうが同性愛だろうが、みんななんかイコールかなっていうふうにちょっと思ったんですけど、
その辺さっき一生さんがおっしゃってた、この2人の関係性は恋愛でも何でもないっていう、ちょっと近いものはあるんでしょうか?
そうかもしれないですね。他者との距離っていうか。
なんででしょう?すみません、僕もちょっと分かりにくかったかもしれないですけど、具体的にこの中でちょっとだけネタバレしちゃいますけど、
ユズとカノンの言葉で今僕が申し上げたことをその両立に感じた部分があって、一つはどっちも最後の方かなと思うんですけど、
ユズの心の中の家に誰をどこまで入れるか自分で決めていいっていう文章と、
カノンのそばにいてご飯を食べさせて愛情をかけるのは誰だっていいんだよ、人間のすることだけは特別で尊いなんて思わないって2つがそれぞれあったと思うんですけど、
どちらもそれぞれ別の言葉なんですけど、ある意味同じというか、そうすると関係性って何なんだろうって考えさせられたんですよね。つまり血縁とか家族って。
家族だからどうこうとか母親だからどうこうっていう風に一義的に決められることに対して、私はあまり好きじゃないですよね。
自分は子供いないですけれども、ヤフコミとかでそういうのを見るだけでもイラッとしますよね。
母親なのにこんなことするなんて。
家族って何だろうと同時に愛って何なんだろうみたいに思って、編集者の担当者の方で、紹介文にもありますけど、35歳、男、趣味はゴルフ。
読書の感動を伝える定期的として、これは自分の物語というものがありますが、最初自分の物語ではないなと思いました。でも、読んでそれはすぐに消えたってあると思うんですけど、
僕も本当に撮ってつけたわけじゃなくて、全く同じことを感じて。もっと言うと、アニメ版ですけど、イエスかノーか半分かを見させていただいた時に、
やっぱり国江田と鈴木さんとの関係性を見て、あちらにもキスシーンがあって、こちらにも女性同士の近いものがあったと思うんですけど、
その時に最初関係ないなと思ってたけど、誤解を恐れずには、僕どっちもすごいドキドキしたんですよね。
今までそういう経験はないんですけど、その気持ちがわかるみたいな。ちょっと興奮したところも正直あって。
家族って何なんだろうもそうだし、愛って何だろうとか、その辺がいい意味でイチホさんがこの作品を描かれることで、
さっき決めつけたくないって決められるのが嫌だっておっしゃってたと思うんですけど、全く同じように感じて。
その辺がすごく不思議で、読み終えた時には、自分の物語じゃないと思ったけど、なんかわかるわみたいな。
そういうものって、イチホさんが描かれる時に、その辺を読者に感じてもらいたいとか、何かあったんですかね?
それか、今までの作品でも常に個人的な通ずるところがあるよね。
そうだな。同じ人が描いてるので、どうしても通定するものっていうのはあるのかなって。
でも描いてる時は、あんまり作品とかラストを決めてなかったんですね、これに関しては。
もう連載なのをいいことに、とりあえず今後の締め切りを乗り切ってから考えようみたいな。
ドラえもんの話で、タイムマシーンで翌週の漫画を読みに行くっていうのがあるじゃないですか。
おしし仮面っていう漫画の続きを読みたくて行ったら、結局漫画の先生が未来から持ってきた原稿を見て描いてるみたいな話があったと思うんですけど、
あれはたぶん藤子先生の心の叫びだったんだなと思うとともに、すごいわかると思って。
未来の自分のカンニングをしたいと思うぐらいに、悪い言葉を言えば行き渡りばっかりな部分を、何とか物語として収束してほしいなっていうところで描いてたので、
何かそういうメッセージ的なものって、いつも私何にもないんですよね。
出たとこ勝負、こんなんできましたみたいな感じですね。
じゃあ今おっしゃったように、藤穂さんが全部描かれた作品なんで、
藤穂さんの作品は、そこに残る読者の独語感とか、そういう世界観っていうのは当然通ずるものがあると思うんですけど、
もうそこはあまり意識して描かれてないっていうことなんですか?
そうですね、全く意識してないと思います。
決める決めないっていうのは結構、決めつけるとか、最後は自分で決めとか、
決めるっていう言葉が、藤穂さんのような過去のイントネーションを見てきたり、先ほどのところに出てきたと思うんですけど、
他人に対しては決めつけないっていうのと、先ほど心の中の家に誰をどこまで言うか、自分で決めていいってあったと思うんですけど、
それと他人に対しては決めつけないって、これ2013年の三浦詩音さんとの対談の時に、
ふったら土砂降りでしたっけ、そこで登場人物を描く時には誰も否定しないようにと思っていると。
今回はそう思えたんですけど、決めつけないとか、否定しないとか、その辺をすごく受けるんですけど、
先ほど話してもそういうのはあるっておっしゃってたと思うんですけど、そういうバックグラウンドって考えたことないかもしれない。どこから来るんですかね。
バックグラウンドですか。やはり自分自身、子供の頃ってあまり家は裕福でなかったとか、
あとは、昭和の最後の方の子供なので、今の子みたいに情報量のあふれた中で生きてないですよね。
僕も昭和最後なんで一緒です。
だから、今自分が例えば中学生とかで、アニメイト近くにあったら欲しいものありすぎて、のたわち回ってると思うんですよ。
こんなにもいろんなものにあふれてるって思うんですけど、でも今自分の子供の時代を思い返すと、わりと貧しいよなと思って、平成初期の感じって。
自分の親の子供の時の話とか聞いてると、ありえないと思うんじゃないですか。
でも、自分が例えば年下の会社の子とかに、おばちゃんの子供の頃はさとか言ったら、マジありえないですねみたいな感じで言われて、衝撃を受けるんですよね。
でも、子供の時代って欲しいもの買ってもらえないとか、あれふれた話ですけど、親は自分のことわかってくれないなっていうことがあったりで、
あまり好きなところに行けるわけでもないので、必然的に図書館に行くことが多かったんですよね。
その時から今もなんとなく思ってるのは、結局自由なのって頭の中の世界だけだから、その頭の中の自由っていうのを私は誰にも飽き渡してはいけないし、
それと同じように人の頭の中にもその人の世界っていうのはあるんだなっていうのは漠然と思ってた気がします。
本を読むっていうのはまさに、誰かの頭の中を見せてもらうことなので、
そうやって大きくなってきた自分が、誰かの頭の中を否定したらいけないなっていうのは思います。
なるほど、なんかすごいフに落ちましたね。
そのヒカメのところにいてねって、今までの作品とは当然話が違うんですけど、
この作品の中で今までにないようなご自身にチャレンジしたことって、何かあるとしたら、抽象的なこと、具体的なこと、どんなことでもいいんですけど。
分厚さ。
あと長いスパンで登場人物。
四半世紀ですからね。これ最初から考えてたわけじゃん。
子供から大人になるまでっていうふうにはしようかなって思ってました。
年齢をどれくらいジャンプするかとか、最終的にいくつになってるかっていうのは流動的な感じで、とりあえず7歳からやってみるかっていう感じですね。
あとはそうですね、プロットを立てない分、先が見通せないっていうことが怖くて、一歩先は見えてるんですけど、それを書いてしまって、行き止まりだったらどうするんだっていうのが怖いんですよ。
一歩書いたら、言ったら水面の飛び石をずっと移動するような感じなんですね。石を一個行くと次の石が見えた。
でも見えなかったらどうしようとか、戻れるのかなとかグルグル考えてしまうので、次の石に踏み出すことがもう怖くて書けないっていう。
思いついてるところを書いて、あと何も出ませんでしたってなったらどうしようっていう不安に駆られて。
日程が迫ってくると、さすがにそっちの方の不安が大きくなってくるんですね。
そうなると、横になっても動機で眠れなくなるので、やばいって思って起き出して、とにかく何でもいいから日本語を書くんだみたいな。
何がしかの日本語をまとまった分量でお送りすれば、あとはそこからの話で別のフェーズにはなれるだろうっていう開き直りに至るまでの迷いが長いんですよね。
その過程だけを話してると結構しんどいですよね。
しんどいですね。
だからこそ動画というか、ある種の現実逃避というか必要ですよね。
村上先生は多分何の迷いもないような感じですね。
困ったことないって書いてらっしゃいますけどね。実際どうかってありますけどね。
そういう意味で連載が逆にあったのが苦しいながらも良かったと思うんですけど。
そうですね。これ書き下ろしでって言われたら、たぶんまだ書いておきますね。
連載と締め切りなかったら一応かなりかかる可能性がありますか?
そうですね。そもそも発注がないと書きもしないタイプなんですね。
マチコーバーなので発注あってこそろ納品。
でも現実的な問題として、締め切りがあるから書けるっておっしゃいますが、そういう時に乗り越える。
そうやって乗り越えなきゃいけないと思うので、一方道なりの習慣とかルーティンって何かありますか?
さっきの動画見るとかもそうだと思うんですけど。
強いて言うなら、どうしてもしんどい時は手で書きます。キーボードでなくて。
手を動かすって文字通り?
文字通り手を動かすんですね。
したら言葉が出やすいんですね。
私、昔は全部手書きでしてる時期もあったんですけれども、ちょっと手首が痛くなるんで今は程々にして。
やっぱりキーボードだと何か違うなと思ったら全部消しちゃうじゃないですか。
そしたらこの1時間で2行かみたいな。
ますますやる気がなくなるんですけど、手で書いてると消せないんで、絶対違うなと思っても次書いちゃいってなるんですよ。
あと書いた感ありますもんね。
そうなんですよ。目に見えるので。それでちょっと弾みつけるようなところはありますね。
パソコンだと消せちゃいますからね。一日今日何やってたんだろうみたいな。やっぱりありますか?
ありますあります。残しときゃいいんですけどね。消しちゃいますよね。