1. INTERVIEW │ インタビュー
  2. 「世界で生きる」うえで決して..
2023-02-28 05:20

「世界で生きる」うえで決して捨ててはいけないこと|中山豊光さん(「TOYO」オーナーシェフ/フランス)

インタビュー全編はこちらから↓
https://bit.ly/cm_toyomitsunakayama-san

「Life Update CLUB」について
動画 https://youtu.be/P6EtEcDiwwI
HP https://bit.ly/Life_Update_CLUB

 ─インタビュー概要─
フレンチから一時的に離れること。進まない独立……そんな多くの「想定外」を受け入れてきた中山さんが、いまこの世界屈指の美食の街でシェフとして活躍し続けているのはなぜか?

それは、「世界で生きるうえで、捨ててよいこと、いけないこと」を誰よりも突き詰めて考え、歩んできたからだ。
そんな彼だからこそ、従来の型にはまらない「日本食」を築き、世界中の人々をとりこにし続けるのではないだろうか。

KENZO創始者、髙田賢三さんの専属料理人もとつめたトップシェフに、お話をうかがった。
(2013年10月パリで対談/オーディオマガジン『コスモポリタン』より復刻配信)

【プロフィール】なかやま・とよみつ/1971年熊本県生まれ。91年に大阪の辻調理師技術専門学校卒業、神戸のフランス料理店「ジャン・ムーラン」に勤めた後、94年に渡仏を果たす。パリで日本料理店「伊勢」と7年間に渡るデザイナー高田賢三の専属料理人を経て、2009年に「Restaurant TOYO」をオープン。
(プロフィールは2013年10月の取材当時)

─聞き手─
早川洋平(プロインタビュアー) はやかわ・ようへい/1980年横浜生まれ。新聞記者等を経て2008年キクタス株式会社設立。羽生結弦、コシノジュンコ、髙田賢三など世界で活躍する著名人、経営者、スポーツ選手等ジャンルを超えて対談。13年からは「世界を生きる人」に現地インタビューするオーディオマガジン『コスモポリタン』を創刊。 海外での取材を本格化するいっぽうで、戦争体験者の肉声を世界へ発信するプロジェクト『戦争の記憶』にも取り組む。 公共機関・企業・作家などのパーソナルメディアのプロデュースも手がけ、キクタス配信全番組のダウンロード数は毎月約200万回。累計は3億回を超える。『We are Netflix Podcast@Tokyo』『横浜美術館「ラジオ美術館」』『石田衣良「大人の放課後ラジオ」』などプロデュース多数。近年はユニクロやネスレ、P&GなどのCMのインタビュアーとしても活躍。 外国人から見た日本を聞く番組『What does Japan mean to you?』で英語での発信もしている。

ニュースレターをご登録いただくと、最新情報を漏れなくお伝えいたします。
https://yoheihayakawa.substack.com/

#インタビュー #RestaurantTOYO #フレンチシェフ
#フランス #料理人 #海外起業

00:04
今、お店はパリに構えられているということですが、そもそもトイさんがなぜパリにいらっしゃったのかというところをもう少し遡ると、
料理人としてのキャリアにも遡っていくと思いますが、今来られて19年、そのきっかけというのはもともとお料理の仕事ですか?
そうですね。その当時働いていたレストランジャンムーランという神戸のレストランがありまして、そこはほとんどの人がフランスで働いていたことのある人ばかりで、
日本人ですよね。
そうしたらやっぱり僕だけは行っていないとか、別に深い意味ではなくて、行ってみたいなというのはありましたけど。
専門学校を卒業して、お店で働くんじゃなくて講習会?
働いてました。
働いてました。
そうしたらそのシェフの方がどこか働き口を…
そうです。
そうするとそのお店はもう辞めちゃったということですか?
そうです。田舎の家族でやっているようなオーベルジュという民宿なんですけど、そこだったんで。
そこでどのくらい?
ちょうど入って半年もしないうちに神戸地震があったんで、一回ちょっと手伝いに帰りたいなと思って、
たまたまその時に日本のレストランが西日本を車で回っているということになって、
それはテレビでも放送されたんですけど、それに合流することになって。
働いて、今度はフランスに帰ってこないといけないんで、
土方とか街の関わるような仕事をして帰ろうと思って、神戸の復興に関することで仕事をしようかなと思ったんで、
せっかく帰っているんですから。
それは日本で?
日本でいいことじゃなくて、復興にかかるために料理以外で何かしようと思って。
両方ですけど、一番手っ取り早いのがそういうところで働くっていうのが。
で、またフランスへ戻って、そのお店をそのまま続けていた。
それといろんな人から声をいただいて、こういう店で働かないかとかいうことになって、
そのくらいから労働ビザを取って、ちゃんと働きたいというのをちょっと思い、正社員として働きたい。
よく保室付けで働いたからって言って、修行したと言いますけど、
その頭数に入っていない人はあまりなんともないんでね。
結局僕が注文したものとかが足りてるとか足りてないとか言うので怒られないと、ただの研修になってしまうんだよ。
やっぱり自分もそういう目で見られたいっていうのはあるんですよね。
どうせ働くんでしたら、一員として働きたい。
で、労働ビザが必要ということで。
和食の店で働いて、労働ビザを取ってくれるっていうことなんで。
和食っていうね、フレンチで来てて思うと思うんですけど、それは声がかかったんですか?
当然ですね。
どうしても自分のジャンルと違いますよね。
03:01
っていうので迷ったりは全くしなかったんですか?
迷いもありましたけど、結構勉強になることも多くて、物の管理とか下処理っていうのはやっぱり日本はすごいですし、
カウンターの商売やってるんですけど、和食の店がなかったらカウンターで切ったり、なんとかっていうのは多分できなかったと思うんですけどね。
日本人で勝てる部分っていうのを探そうと思って、フレンチでずっと言われてるままじゃなくて、宛にしてほしいというか。
やっぱり6年って、例えば周りで同じくらいでフレンチやってた人たちが、結構メジャーになってたり、いろいろやったりしてたりの中で、焦りとか、だから日本より行っちゃうっていうのはないと思いますけど。
焦りは相当ありました。
ありました?
周りの先輩たちがもういい加減にフレンチ戻ってこいとか、日本戻ってくればとかいうことは散々言われましたけど、
日本に帰ろうというのをだいぶ考えた時期がありまして、高田健三さんという人とも出会いがあって、いろんな話をして、もしこっちでお店をやりたいんだったら協力することができるかもしれないと言って、
家で働くという条件ですけどね。
すごい大きい豪邸に住まれてたんですけど、京都から三味線のお塩さんみたいな人たちが泊まりきてて、1週間だけお料理をお願いしますって言われたんで、当然和食の人だと思ったのかもしれないですけど、
そのお客さんとかでは気に入ってくれて、ここで働かないかということになったんですけどね。
フレンチという、それでっていうのともちょっと違う。料理人として。
料理人としてですけど、いろんなパーティーがあるんで、いろんなものに対応できないといけないんで、その辺は重宝されましたけど。
ギャビンと高田健三さんのすぐ受けなかったというのは、お店でやりたいというのもあったと思うんですけど、フレンチというよりもっと広くなるということに関してはあまり抵抗はなかった。
05:20

コメント

スクロール