1. IKUKO Labo ワンダーランド
  2. 誰もが(気づかず)表現者である
2025-04-04 26:32

誰もが(気づかず)表現者である

表現するっていうのはなにも、絵や歌やダンスに限らず、日常の言動でもじゅうぶん、表現していると思う。

そう考えると、誰もがアーティストであるとも言える。

もちろん起業もアートだしね。

サマリー

金田育子さんは、自己表現やウェブに関する考えを語り、特に自由な自己表現の重要性について深く掘り下げています。また、風の時代における自己らしさの価値についても述べています。 このエピソードでは、誰もが自身を表現者として認識すべきだと話しています。人々が無自覚に行っている表現について理解を深め、自分自身の内面に目覚める重要性に焦点を当てています。

IKUKO Laboの始まり
IKUKO Labo ワンダーランド
こんにちは、IKUKO Laboの金田 育子です。
4月4日金曜日の午前8時30分ぐらいに収録をしています。
今日はお天気がめっちゃ良くて、めっちゃ晴れてて、お洗濯日和っていう感じです。
私の方、今日予定があんまりなくて、のんびりできるので、
ちょっと朗読の録音を取りためたりとか、
そういうね、やりたくない作業っていうかね、
そういうのをまとめてやっとかないといけないなって思ったりしています。
で、このIKUKO Laboっていうのも、
2025年4月っていうのは、毎年4月は私にとって新しい年度が始まる感じなので、
今年はこうだ、みたいなのがあるんですけど、
特に今年2025年っていうのは、なんかすごい大きく変化するよなって感じてて、
それ感じてるっていうか、なんていうのかな、
自分がそういうふうに変えていく人になるだろうな、みたいな予感。
で、まさにそういうことが起きてるなと思いまして、
IKUKO Laboもね、まあIKUKO Laboのーって言ってるけど、
特に実態がない野郷で、野郷?ブランド名?わかんないけど、
でもただちょっと名乗りたいから名乗ってます、みたいなものでしかなかったんですね。
いや考えましたよ、いろいろ。
IKUKO Laboとしてこんなサービスを提供できないだろうかって、
たくさんいろんなパターンを考えたんですけど、
どれも実現に至らず今日になってまして、
なんで実現しないかというと、本当のところ全然やりたくないことばっかりだからなんですね。
例えば、ホームページを作る受け負い業とか、
あるいは皆さんのこのウェブに関する疑問・質問に答えようとか、
なんかウェブ関係でなんかしようと思って作った名前なんですけど、
全然やりたくない。全く興味がないですね。
私にとってはウェブサイトを作るっていうのは趣味みたいなもんなんで、
今も、今年も久しぶりに知り合いのというかお世話になっているというか、
私このプロジェクトに参加したいみたいにちょっと思ったダンスのフェチャルマっていう、
そういうプロジェクトのホームページを作らせてくださいみたいな感じで作ったんですけど、
これは本当に人生で初めてぐらいの私じゃない人がやってることを、
ウェブと自己表現
私もやりたいみたいに思ったっていう事例です。
それ以外のことって本当に何か頼まれても、はぁーみたいな、
えーなんで私がそれ作るのーみたいな、要するに中身に興味がない。
それは私のことじゃないよねって人事で思っちゃうようなことについて、
ホームページを作れないのはやっぱり私趣味で遊びでやってるだけだからかなって思っておりますが、
なんで逆に言うと私がすごい面白いなにそれーって思うような企画を持ち込んでくれたら、
私が夢中になっちゃってちょっとこれウェブ作らせてっていう可能性はありますね。
そうすると料金とかも大相談になっちゃって、いくらでもいいよーみたいになっちゃうっていうことなんで、
やっぱり内容が大事じゃないですかね、本当に。
どこにでもあるようなことをみんな言うんですよ。
誰かと一緒のことをしようとするんですよね。
何かな、本当に例に出したら悪いけど、
リボン作りの講座に通ってリボン作りを教えていいよっていう、
そういうのを資格を取ったからリボン作りを教えますって言ったりしてくれて、
リボン作りって何かって言ったらリボンのテープをそこの境界から買ってリボン結びするんですよ。
それにピン留めとかくっつけて紙飾りにしたり、いろんなものに箱に貼り付けたりするんですけど、
リボンはリボンなんですよね。
そこの境界行ってなくても作れる人は作れるじゃないですか。
コンテンツとして弱って思うし、
一回教わったらみんなはーいって言って、
2回目からは自分一人で作るし、
そういうもののホームページを作ってほしいんですよ、
いくこさんみたいな話があった時に。
やめとけばですよね、本当に。
そんな作ってもホームページの寿命が、
人が一回見て二度と見ないんだったら、
作りたくもないし、だいたいその内容がダサいって思うわけですよ。
自分が想案した、自分が大元でこれをみんなに教えていくって言うんだったらまた話はちょっと違うと思うんですけど、
何しろオリジナルで聞いたこともないって、
見たこともない、何これっていうようなのを見ると、
私がずわずわっとやりたくなっちゃうっていうことだと思うんですけど、
まあね、見たことないんですよね、そういうことを。
みんな誰かがやってると同じようなことをただしてるだけだから、
全然やりたくない、みたいな感じで。
結局そのイクコラボの名前の話に戻りますけど、
何かしらのサービスをやろうと思って作った名前だけど、
これサービス無理だなみたいになってるってことですね。
ただそれを応用して、
結局そこでやろうと思ってできなかったようなことの延長線上にワクビスが出てきて、
ワクビスみたいにビジネス始めますっていう文脈でだったら、
そこで私の持っている知識とかを、
マーケティングの話だったりとか、基礎的なね、
ホームページは本当に必要となるまでは作らなくていいよとか、
作るんだったらペラ石で自分でまず作ってみて、
本当にこれでいくっていうコンセプト固まってから考えればいいよとか、
そういう話をワクビスではできるんですよね。
だからそれでももっと知りたい人がいるっていう人がいた場合に、
いくコラボとしてセミナーやろうかとか動画教材どうぞとか、
そういうことはあり得るので、無駄にはなってないんですけど、
まあそんな感じですよ。
で、
あの、
なんだろうな、
今日お話ししたい言葉はまあそんだけで終わっちゃったんですけど、
で、
そういうわけで私は自分のことをウェブの知識がある人っていうふうに思ってて、
だからウェブの知識を売るとか、
役立てるとかしていかなくちゃと思ってたけど、
実はウェブの作業が、
自分がやりたいと思ったことに使えるから好きなだけで、
ウェブの作業自体を面白がっているっていうこととちょっと違うなってことはもう十分、
ものすごく前から自覚をしていてですね、
でも面白いことないもんって思ってたんですけど、
まあいつも言っているように、
腰痛自粛で動けなくなったところから、
なんかダンスをやり始めるというか、
やっていたダンスをもっと、
ダンスにのめり込むって言っていいのかな、
なんかするようになってから、
2年、最初の2、3年はダンスは、
風の時代と自分らしさ
人と同じように踊れたらうまいんだって、
思っていたので、
YouTubeを見たり、あとは先生の振り付けを見て、
極力それに近づけようみたいなことを、
3年ぐらいしたわけかな。
それで結論的に、
あ、違うわ、できないわって思ったんですよ。
できないんです。
その人になれない。
身体能力が違うし、
そうですね、スタイルとかも違うから、
ポージングも決まらないし、
本当に特にポージングもそうだけど、
身体能力の違いが大きすぎて、
そんな動きそもそも絶対できないっていう感じなんですね。
筋肉のつき方とか、体幹とかが違いすぎて、
で、なんか真似っこしてるみたいになっちゃうんですよね。
これってずっとやっても、
この目標、このお手本通りにならないって分かって、
よしんば、めっちゃ練習して、
完璧にそれを振りをマスターしたとしても、
Kポップの真似なんかをしてる場合は、
本家の人たちの方がチャーミング、魅力があるじゃない。
魅力の部分で絶対本家を超えられないって思って、
当たり前なんですけど、
慣れるのかなみたいに勘違いしてたんですよね、多分、練習すれば。
練習してもその人には慣れないって思った時に、
なんかつまんないなと思っちゃって、
で、そこでなんでダンスしなきゃいけないんだろうって、
これ去年の年末あたりだと思うんですけど、
なんかもやーっとしてて、
そもそも練習はしんどいし、
自習グループでやってた時なんかは、
自分が練習するのもしんどいプラス、
みんなの練習日程を決めて、
段取りを場所取ったりとか、
音源を用意したりとか、
あと本番まで何回あるから、
今回はここまではやらないと、みたいな。
ざっくりね、そういうスケジュール感も管理。
なんで私がみたいになっちゃったわけ。
そう、誰かやってよってなったんですけど、
当然誰もやってくれず、
いくちゃんがやりたいって言うんだったら私たちやるけど、みたいな。
で、私やりたくなくなっちゃったので、消滅したって感じですよね。
しんどかったんですよ、本当に。
自分がダンスするのもしんどいプラス、
人と一緒にやるっていうその作業が、
めちゃ無理ってなって、
そこからどうしようって思って年を越したんですけど、
ふわっと年越して、ゆっくりして、
ちょっと回復したかなっていうあたりで、
言ってるフェチャルーマンの3ヶ月講座の募集があったので、
ちょっと体験レッスンに行ったりとかして、
そこでなんか新しい世界があれ?みたいな感じで、
うーんって、そんな方向性があるの?みたいになって、
今まだその3ヶ月講座の途中なんですけれども、
別に目標いらないわって、
何のためにやるとかいらないわってなって、
で、なんか動くときも自分の気持ちよいポイントを探してごらんとかって言ってもらえて、
えー、気持ちがいい角度とか、気持ちがいいポジションを探すって生まれて初めて言われたわって感じですね。
もうダンス以外のジャンルでも、自分が一番楽しい気持ちがいいところを探してごらんって言われたこと一度もないかも。
常に逆を言われてた感じですね。
辛い、無理、できないっていうことを頑張れっていう感じだったかな。
全般的にね。
で、そりゃ人生が辛くなるのも当たり前だよねって感じですかね。
で、まあとにかくそういうふうになったのは今年の1月か2月、2月ぐらいからの話なんで、割と最近なんですけど、
まあ、私にとってはただダンスの目標が見つかったっていう話じゃなくって、
人生全般が何をしなきゃいけなかったんだろうっていうことから、根底から覆ってて、
だからホームページをね、ウェブのことをやらなきゃいけないのがイークコラボだったって言ったと思うんですけど、
自分で自分の強みっていうか、みんなさんより詳しいのはウェブしかないからって思ってたんですけど、
まあヘチャルマダンスをやってると、いやいやいや、それもあるけど、そうじゃない、何もないイークコさんも、
イークコさんらしさがあって素敵だよみたいに言われてるというふうに私受け取ってて、
まあそうだよねみたいな感じですよ。
別に私無理に自分のさほど好きでないようなことを必死になって売り出さなきゃいけないようなことなくない?
じゃあ、自分的に絶対なんかをお伝えしたいよなと思うことって何?って言ったら、
それこそね、もっと自由でいいんじゃないの?とか、それとか、
なんかもっと自分の思ってること言ってもいいんじゃない?とか、
それとか、もっと自分がやりたいなと思ったことは自分がやればいいんじゃない?とか、
なんでいつも人の後ろにそうやって隠れるの?とか、
自分が先頭に立つとやっぱり風当たりとかが怖いから、
誰かが先頭に立ってる後ろにくっついていこうっていう、そういう習性ですよね、多分。
日本人の習性なのか、世界中の人がそうなのか知らないですけど、
そういうことやってると、自分らしさ、自分らしい一生って送れないよね。
そこが時代が変わったっていうところなんだけど、
多分昭和はそれで良かったんでしょう。
自分だけ突出してなんかしない方が上手くいったんでしょう。
みんなの後ろに隠れてね、いないふりしていたら、なんとなく上手くいくっていう風だったじゃないですか。
だけど、昭和が終わって、で今、もはや2025年ですよ。
21世紀が4分の1過ぎて、で風の時代みたいに言われてる時代も、あれ2020年ぐらいからなんですね。
こないだちょっとネットで調べたら。
もうすでに始まっている風の時代を生きていくのに、
人の後ろに隠れてたらその人が自分を連れて行ってくれるって、この発想そのものが消滅してませんか。
どうしてその人はあなたを連れて行く必要があるんでしょう。
一人で何でもできるのに。
表現者としての自覚
インターネット時代ってのはそういうことなんですよね。
一人で何でもできちゃうんですよ。
発信できちゃうから、その何かやろうってやり始めた人はやりますって言ったら、やりたいですって人が集まってきちゃうわけでしょ。
だったらその後ろに隠れてるあなたを連れて行ってあげる必要がないじゃないって。
もうそういう五層先端方式みたいな考え方自体が成り立ってない、成り立たなくなっていく。
これからますます。
そういう時代だと思うので、じゃあそんな時代に何が必要ですかって言ったら、
私はこう思うよって、私はこういうことがしたいと思うよって。
まず言える。
言う前に自分で気づける。
気づいてもない人がいっぱいいるので、
自分に目覚めるってことですかね。
スピリチュアルとかやってる人の中で案外多いと思うんですけど、
何もしなくても天がチャンスくれるからって言ってる人いますけど、
確かに多分天はチャンスをいっぱいその人の上に降らせてると思うんですけど、掴めないんですよね。
自分で行くって思ってないと。
全部見過ごしてる。
何もない、何もしない人生をつつがなく送って、歳をとっていくわけですけど、
天はそんなことを人に望んでないと思うんですよね。
人生における表現
人としてご対満足でこの世に送り出したからには、
ちゃんとやるべきことをやれよと言っていると私は思う。
そのためにいろんな試練を与えたりとかして、何とかその人がそういう風な道へ行くように。
その道って何かって言ったらやっぱり人を導くってことじゃないかなって最終的にはね。
導かれてずっとここまで来た私が、
導く側に変わるってものすごい逆転じゃないですか。
天と地がひっくり返るようなことで、
だいぶ前から私にはそういう道があるんじゃないかなと思ってはいたけど、
30代40代の子にそんなこと言おうもんなら、
袋たたきみたいな雰囲気だったんで。
で、袋たたきされないのは唯一ホームページが作れますとか、
だってみんな作れないからさ、袋たたきしようがないじゃん。
みたいなことしか言えなかっただけで、
本質的に私が言いたかったことはずっと若い頃から一緒で、
なんで自分はこうしたいって言って、
そのように生きちゃいけないのかわかんないって思ってたっていう。
学校の先生の時代からそう思ってたんで、
それをついに口に出して言うことができる時期が来たのかなーみたいに思ってます。
私こそ長きに渡り、
ざっくり40年ぐらいは自分の口を閉じて、
貝みたいにピタッといないふりをして、
世の中のいろんなことを見てみぬふりをしてきたなって思うんですけど、
ここへ来てそんなことしてる場合じゃないし、
言えることは言って、言ったってわかってくれない人が大半なんだから、
でも言わなかったら100パー誰にも伝わらないわけなんで、
思うことはとにかく言っていこう。
これがさ、表現するっていうことじゃん。
で、表現っていうのは常にしてるわけじゃん。
その態度、振る舞い、何食べるかとか、
こういうことが起きた時この人はどう反応するか。
全てが表現で、
何も言わずに人の後ろに隠れてる人っていうのは表現力が乏しいわけですね。
表現が小さいとか、
それに対していろんな活動をしていろんなことを言ってる人は表現力が幅広いとか、
大きいとか、
っていうその程度の差じゃないかと思って、
全てが表現だから、
私それはやりませんって言って拒否してるのも一つの表現じゃん。
なんか表現は全員が100パーしてると思うんですけど、
その内容はあまりに無自覚なので、
表現してるってことさえ気づかずに表現しちゃってる。
で、表現しない人みたいになっちゃってるだけです。
実はしてると思うんですよね。
で、表現する人のことをアーティストって呼ぶんだとしたら、
全員がアーティストだし、
何か美術の活動をしていない、
絵を描いたり彫刻作ったりしてなかったとしても、
でも何か作ったり何かしたりはするわけだから、
道を歩いたりとかね、
お買い物したりとか、
何かしてるわけだから絶対表現はしてるわけで、
じゃあ全員がとりあえずアーティストねってなった時に、
そういうことなら私この分野でもうちょっとこういうことしてみたいなとか、
あるはずだよね。
楽筆なんかで絵を描いている人がいたとしても、
いや本当は私もっとこういう感情をここに込めたいなって、
ちょっとでも思ったら使う色とか筆使いの勢いとかが、
無意識的に変わっていくだろうと思うし、
その結果出来上がったもののパワーが変わるんだろうし、
見る人が見ればね、それは伝わるんだろうし、
でもあまりにもそういう認識が、
私は表現者であるっていう認識がなさすぎて、
あまりに無自覚に絵を描いたり、
ダンスを踊ったりしているので、
なんかペラペラだねみたいに、
何も伝わらないねってなっちゃうっていうことかなって思ったりしていて、
こういうことをちゃんと色々伝え方は考えないといけないけど、
いろんな場面で語らないとダメだな。
そう、ワクビスは企業塾なんですけど、
多分みんな企業にはやり方があって、お手本があって、
そのお手本通りにやれば企業ができるんだ的なイメージを、
これは男女問わず全員持っていると思うんですけど、
型がなくはないけど、やったからってうまくいく保証はゼロですよ。
それとはまた別のことじゃん。
店もない、何もない、商品さえないのに何か売る人っているんですよね。
人が持っている商品を代わりに売っておい、売ってやったぞみたいな、
マージン起こせみたいな。
本当にね、できる人はできるんで、
準備とか全然なしでいきなり商売している人って時々いるんですよね。
それを大きくしていこうとか固定化していこうとした時に、
じゃあ店を構えるかとか会社を作るかっていう話になっていくんで、
形はあってもいいけどなくてもいいっていう、
どっちかというとその中身が先、
販売するっていう、何を誰にどうやって売るかみたいな、
そこのとこがあってこその、
じゃあどういう店がふさわしいですか、
どこに店を開けるといいですかっていう話になっていくわけなんで、
先に箱物を作っちゃうと、
それが足枷になってそこ以外のところに商売できないじゃん。
なのにみんな企業って言ったらまず資金を貯めてとか言うんですけど、
その時点でこの人分かってないなっていう、
照明みたいなもんですよね。
何が欠けてるのかって言ったら、
やっぱり言われたことを鵜呑みにするっていう、
これはこうみたいに思い込んじゃった、
思い込みが強すぎるっていう、
学校みたいにどこかに正解があって、
私はその正解を知らないから点数が悪いというあの感覚、
どうにか正解に合わせようとしていくっていう、
それを社会に出てもやり続けてると、
かもねしかならないってことですね。
私が教えましょうって必ずいるから、
でもその人が言った通りにやってもうまくできないっていう、
世の中には正解がないからなんですよね。
なんやかんややってみて成功した人がいるだけで、
企業のあり方
その人の通りにやったらその人の同じにできるかって言ったらできないっていうのは、
もう昔話で言われてる通りですよ、
隣の意地悪なおじいさんが、
いいおじいさんの真似をしてうまくいったことって一回でもありますかっていう話。
なのに自分はそれをやるんですよね。
まあ当然何事にも型は必要だから、
一回学んでみるっていうのは必要かもしれないけど、
あくまでもそれは型でしかないっていうことを認識して、
じゃあ自分はどうやってやろうかなっていうことを考えてもないっていう、
受け身でぼーっとしてるっていう、
やりたくて分かんないんですよみたいに言ってるっていうのも、
この時点で何かがおかしくないってすごい思うので、
もうそこのところの話をずっとしていくしかないのかな、
こういうふうに私が違和感を感じる人がいなくなるまでずっと喋って、
多分一生いなくならないと思うので、
これを私が死ぬまで話し続けて、
寿命が尽きたら死ぬみたいな、
それしかないのかなって思いまして、
もうウェブの話とかしてる場合じゃないっていうことですよね。
そんなことを考えている今日この頃でした。
本日は以上です。
26:32

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