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2022-08-06 43:01

【第13.5回】≪出張!特別インタビュー★≫ 平山郁夫美術館 平山助成 館長

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【特別インタビュー】

 

平山郁夫美術館 平山助成 館長


日本を代表する日本画家である平山郁夫の実弟であり、広島県瀬戸田町にある平山郁夫美術館の館長。



    ~平山 郁夫 -HIRAYAMA Ikuo-~

        (1930 - 2009)


 ・日本画家年

 ・ユネスコ親善大使、世界遺産担当特別顧問


 昭和5年(1930)6月15日、広島県瀬戸田町(現・尾道市)生まれ。昭和20年(1945)15歳の8月6日、学徒勤労動員先の広島陸軍兵器支廠で原爆に被爆する。その後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科卒業。昭和28年(1953)、「家路」で院展初入選。昭和39年(1964)日本美術院同人、平成8年(1996)日本美術院理事長に就任。平成10年(1998)文化勲章を受章。その他に東京国立博物館特任館長、文化財赤十字活動を提唱する文化財保護・芸術研究助成財団の理事長などをつとめた。

 平成21年12月2日永眠(満79歳)。※平山郁夫美術館公式ホームページより引用


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00:09
皆さんこんにちは、行きたくなる世界遺産です。
この番組は、世界遺産について、私みどともう一人ですね、トークを展開するトーク型のラジオ番組になっています。
今回は特別企画のインタビューとして、広島県にある千歳町平山育夫美術館にお迎えさせていただいています。
今回はですね、インタビューとして、美術館の館長様でいらっしゃる平山さんにお迎えいただいています。
どうぞ今日はよろしくお願いします。
まず平山育夫さんのお話も伺っていきたいなと思うんですけれども、平山さん自身の自己紹介といいますか、簡単にはなるんですけれども、お願いいただけますでしょうか。
私どもは8人兄弟です。男3人、女8人。育夫は兄、姉、育夫というか子で、次男の3番目です。
私はちょうど12歳下で、私は17年生まれなんですけれども、同じところで育ったんですけれども、世田谷高校を出た後、横須賀にあります後援大学校へ進学しました。
その後も海上自衛隊の各部隊を回りながら、航空職域だったので、部隊にいた時は航空職域の航空整備を担当していたんですけれども、
定年後、こちらに帰ってきまして、平成の15年にこの館長になりました。
この建物自体はいつ頃からできたものですか。
建物はですね、ちょうど館長は平成15年なんですけれども、建物は1997年、平成の9年、4月の5日開館ことで、もう25年過ぎました。
4半世紀。
そうですね、早いものでですね。
私自身も実は先ほど平山さんと録音前にお話させていただいて、横須賀に勤めているということで、そういった共通点もあり、航空業界に携わっていたこともあったので、そちらの部分でもお話を盛り上がっていたんですけれども、
今回は平山育夫先生、日本では本当に代表される画家さんで、ユネスコの文化財だったり世界遺産を守っていく活動にかなりご尽力された経歴があるということで、ぜひ話をお伺いしたいと思いまして、私からこういった形でオファーをさせていただきました。
今日はよろしくお願いいたします。
はい、こちらこそ。
まずなんですけれども、皆さん結構世界遺産とか勉強されている方が聞いていらっしゃる方で多いと思うんですけれども、改めて平山育夫先生、どういった方なのかというところをお伺いできますでしょうか。
03:11
昭和5年、1930年生まれです。
小学校、地元の小学校なんですけれども、そこに入学したのが昭和12年、日中戦争が始まったとき。
昭和16年の12月8日、太平洋戦争が始まりましたけれども、戦争の拡大している中で小学校時代を過ごしています。
この旧正の中学校、東南にありませんので、広島の修道中学校に進学したのが昭和18年4月なんですけれども、
戦時職は一職の中で、小さい頃から絵が描くのが好きだったんですけれども、お暇があったら絵を描く。
しかも外でスケッチなんかできませんので、屋内で模写を中心に自分の好きな絵を描いていました。
昭和20年になりますと、授業よりも勤労動員の日が多くなって、8月6日の早朝、一回修道中学校に集まって、
作業分担を、どこで何人誰がどういうメンバーで一回組み分けされた後、
今の広島大学の医学部があるところが全部陸軍の兵器補給所だったわけです。
そこで着替えて、汗びっしょになりますので、着替えて準備をしようとしたところ、
作業部屋があったので、5人が一つのグループだったようですけれども、
あれだけが爆音が聞こえたので、外に出ると南からB二軸が三軒隊で侵入してきたんだそうです。
その時にパラシュートが3つ開くというのを目撃しています。
で、変なものが落ちてきたということで、その小屋に入って、
友達に一緒に見ようという格好で声をかけようとして、炸裂。
直接ずっと見つけていけば多分命なかったと思うんですけれども、
小屋の遮蔽物で、あるはせんのような強烈な放射能は見なかったんですけれども、
その直後に大爆発、爆音ですよね。
火薬庫が爆発したんじゃないかと思って外に出ますと、
キノコ雲がもくもくと上がっている。
5人がそれぞれ、広島市内の出身の人が立ち入ったので、バラバラになりまして、
中学校に行って指示を受けようとしたら、倒壊している。
06:02
市内、今の2号線沿いに、こちら東にあるもので東に移動しながら、
川沿いにちょっと爆心地が、爆心地は北にありますので、
爆心地の方へ行ってみようと思ったら、被爆された人たちが、
このような幽霊ですかね、散々とどんどん落ち出される。
結局は、ひじ山の陰で、表でも全然目を開けたんですけどね、
黄金山のところで雛がいたようです。
多分、向かいながら海灘市まで行って、くだびれちゃったので、
列車があったので、ここでちょっと一休みさせてもらおうと思って、
乗り込んだところ、もう疲れ切ってたので、寝込んでしまったそうです。
たまたま呉線の列車で、気がついてみたら、
津波の手前で目が覚めましたね。
そんなところまで行ってたんですかね。
その時に津波の駅でおりまして、
黒岩は帰って来れたんですけど、
それまでは呉だとか、あちらこちら空襲を受けたのがですね、
学生ですかね、学びながら、何でひじ山にそういう攻撃がないんだろう、すぐ近くですから。
と思ってたら、瞬間で広島市内、壊滅したところを目撃しているわけです。
そういう爆体験だったわけです。
その後の平山先生の、画家としてなっていくまでの間なんですけども、
かなりそういった被爆経験っていうのが、
やはり後々のご人生というか、ご活躍につながってくるんでしょうか。
売れなかった時代、被爆の状況を描いたらと言われたことがあるんですけどね、
それは絶対に描けないんだ。
で、画家の能力とはおかしいですけども、デジカメのように映像として覚えちゃうんですよ。
案内さんのことをちょっと立場が変われば、自分になっていてたまたま生きながらいたんですけれども、
その惨状は描けませんで。
だけども、それが二度と繰り返されないように、絵の中に平和の思いを書き込みながら描いていったんですけどね。
で、それから34年経ちまして、広島庄編図、庄編図は生まれ変わってほしいという、
それを惨状をただ告発するだけでは前に進めませんので、
それをどう乗り越えて、それが二度と繰り返される、忘れることはできませんけれども、
09:00
そういう惨状が二度と起こらないようにするためには、やはりどういう立場でやっていかないかということですね。
平和の祈りを込めながら描いたわけです。
平山先生の作品の中で、原爆といいますか、台座にした作品は庄編図1点ですか?
庄編図1点だけです。
他の世界の国々の文化財ですとか、それこそ世界遺産の絵はかなり残されているんですけども、
やはり原爆ドームといいますか、上記が書いたものが1枚しか私もちょっと認識していなかったので、
今そういった思いがあったなというところで、ふいに落ちたようなところがわかります。ありがとうございます。
グレンのほうに、これが四極の描画なんですけどね。
グレンのほうに包まれた広島市内を不動明王が上から見上げて、
その不動明王はフェニックス、不死鳥の意味を持った神様ですからね。
さらなる発展をという、この創世参上は二度と繰り返されないようにことでですね、
原爆の世の中ではそういう仏様をおかけで唯一になるかと思いますけどね、描いてます。
ちなみにその広島庄編図はこちらの美術館で見ることが…
いや、広島県立美術館がありまして、まもなく8月6日平和記念式典が行われますけども、
その時には多分今ぐらいから広島県立美術館では展示をしていると思います。
もしお聞きの方がいたら、一目見てみたいという方がいれば、原画はそちらの方で。
私、作品集をご購入させていただいて、その中でしか見たことはないんですけど、かなり印象を受けた作品なので。
紅蓮の炎、全面を尽くしているような赤い秘植なんですけどね。
ぜひたくさんの方に見ていただきたいなと、私自身も思った作品でした。
そこから平山一光先生が、画家といいますか、絵を描き始めていくというふうなところまでは、どういった経緯でなっていくんでしょうかね。
修道中学校で学んでいたとき被爆したんですけども、広島市内、下宿棟がなくなっちゃって、すべて破壊されましたんで。
辿海中学校へ転校せざるを得なかったんですけども、辿海中学校へ転校したときにお世話になったのが、私どもの母方の大叔父と呼んでいたんですけども、
母方のおばあさんの兄が清水南山という同勤家だったんです。
その方が西崎にお住まいがありましたので、そこの家に出宿をしながら辿海中学校へ通うとともに、
12:02
その南山が小さい頃から絵を描いていたのは知っていましたので、美術学校を受けるという学校で、
昭和22年に受けて辿海中学校を4年修了できましたら、16歳のときに合格しましてね、
美術学校で学び始めて、絵画の道を志したわけです。
在学中に芸大になったんですけども、最初の卒業生として芸大の方に補職をして、本格的な絵を描き始めたんですけども、
風鞘の状況を描いていたんです。のどかな風俗家ですよね、漁夫だとか漁船だとか、みかん畑等ですね。
なかなか経済的にも大変になる、自分の主体が決まらないときにですね、昭和30年に仏教伝来という、
玄女さん同士の午後の旅を描いた絵が、注目を集めた一作目になるんですけども、
やはり一番迷ったときに仏教に道を求めたという。
それからは仏教を中心とした、日本文化とはどういうところからどういう伝わってきているか。
特に自然崇拝的な神道がもともとあったわけです。
その中で古墳だとかいろんなものが作られたんですけども、改めてきちんとした形を整えて伝わってきたのが仏教だったわけです。
経典だとか仏像、お坊さま含めて仏教美術とも含めましてね。
普通だったら排除し合うんですけれども、日本の場合にはもともとあった神社系の神道的な自然崇拝と、
きちんと形を整えた仏教が集合しましてね。
文庫とか修行っているんですけども、料理している、使い分けのような感じで、
宗教戦闘とかほとんど起こっていません。
それが日本の大きな特徴、文化取り入れる場合には排除するんじゃなくて、
特に中国、日本が奈良時代以前ぐらいから東の国に学びに行って、
日本の国づくりをした行政から文化を含めましてね。
できたのが平城教なんですけれども、そうした時に行った人たちが検討し、
世紀にいたのは15回なんだそうですけれども、5世紀で大体100人が1世紀に乗って出かけたんだそうですけれども、
まともに帰ってきた人たちがいないぐらいの、本当に命がけで学びに行って、
いろんな国づくりのもとをしていると。
15:02
それで日本文化にかつてあったものと一緒になりながら、
特に政治的には武芸政権が成り立った後、約800年にわたって続いているという政治体制ができたんですけれども、
その中で得意なものが一つあるんです。天皇制度。
この天皇制度には奈良時代までは直接政治に変わったんですけれども、平安時代になってきたら摂関政治。
二十八代中心とした貴族階級が権力を握るんですけれども、天皇はどういうことをやっていたかというと、
権威とともに文化、あるいは一応遺跡にできないものが、天皇権を徴収した人たちが守っている。
片一方はどんどん変わっていくわけです。
特に三国政権になっては実力闘争で、だけど何かあった場合には、
大体天皇の権威でいろんなものが収まって、うまく収まっていくと。
だから、戦国時代を含めて内乱状態になっても、そんなむちゃくちゃな戦い方は行われていなくてですね。
特に江戸時代になってきますと、京都は神方、権威だとか文化、そういうもので栄える。
実、商売に至るはおかしいです。商工業は大阪を中心といったところ、政治の中心は江戸という格好でそれぞれが分担されながら、
本当に平和の時代で、通常平和になれば内を守りになるんですけども、
幕藩制ということで各藩がそれぞれ独立しながら、徳川幕府という中央政権じゃなくてまとめ役ですので、
270年以上にわたって平和の時代が続いたわけです。
その中で発展したのが文化関係です。
中国から学んだもの化しながらですね、非常に武士は藩校で、庶民の人たちは寺小屋で学んで、
もう江戸中期以降は多くの人たちが読み書きができたという、これは世界的にも珍しい。
普通時代階級とか一部の人が勉強するんですけども。
士農校長の身分制度は階級制度はあったんですけども、
勉強ができる人たち、各藩で有志の人たちはそれぞれの道でですね、
そういう藩中に囚われずに文化、絵画とか彫刻を含めまして、
いろんなものが自由にできていたよう、世界的に見ても非常に珍しい政治体制が続いたと思います。
18:01
そうですね。仏教伝来のさまざまな作品も私ちょっと見させていただいたんですけども、
そこから作品がシルクロードですとか、今の中東あたりのパルミラ遺跡だったりだとか、
西洋に近い文化の作品も残されているのが印象的だったんですけども、
そのあたりも先生は実際に取材に行って書かれたというふうに伺ったんですけども、
そのあたりのお話も伺えていきますでしょうか。
最初に訪問したいといったら国はヨーロッパなんです。
ユネスコの奨学金の応募が昭和37年にありまして、応募したところ合格しまして、
仏教伝来の昭和30年の作品なんですけれども、仏伝シリーズ、
お釈迦様の生涯の逸話だとか物語がありますので、それを書きながら発表していたんですけども、
イタリアを中心としたキリスト教美術、東西の宗教美術の比較研究テーマで、
イタリアを中心として5カ国回っています。半年間にわたって。
その時にじっくりヨーロッパを勉強したわけです。
その時の印象としては、特にイタリアなんか行きますとね、
ちょっと北の田舎に行けば教会の中にステンドグラスがある、街角にはモニュメントがあちらこちらにある、圧倒されるような感じだったんですけども、
岡倉天心が、美術学校の初代校長ですけれども、アジアを一つということ、自分のテーマとして訴えています。
それは何かというと、文化的にアジアは一つのグループになる。
それを身をもって体験しまして、アジア全域対ヨーロッパだったら全く引け取ってない。
大航海時代から植民地になりましたけれども、それまでは中東を含めまして中国、インド、西洋に栄えていたわけです。
それが近代化の時に植民地されましたけれども、決してそうではない。文化的には台東以上のものである。
昭和41年になりまして、東京芸術大学のオリエント古代美術関係の研究ということで、
イザンチン時代のカプトキアがあるんですけども、カプトキアの祈願院ですかね、修道院でとか、
キリスト教の教会に書かれた絵の模写と研究に行っています。約4ヶ月間入っています。
ヨーロッパと違って中東というところをじっくり体験したわけです。
それをした後、昭和42年に、昭和24年に法隆寺の壁画が傷つき、火山により焦燥したんですけれども、
21:11
それ以前に撮影された写真を元にしまして、焼ける直前の法隆寺近道壁画再現事業というのを国として取り組んだわけです。
その時に12面があるんですけれども、3面ずつ、4チームで当時の画家が集結しましてね、
チームで模写作業、大きいですから画面が。1年ぐらいでやろうという格好で。
手分けをして描いたのを一つの画面にしたんですけれども、兄は一番若くてですね、37の時に一人で描き上げたんです。
その描いている手法が1300年前の描き方と一緒で、それが日本画の原点になる絵になりますので、
どういうところが日本に伝わってきたか、ぜひ自分の目で確認して関連を調べたいということを、
私からすれば義理の兄なんですけれども、連れ合いは芸大の同級生ですので、絵も描けることでですね、
夫婦ともどもそれを調べに行こうというので、最初の訪問として行ったのが仏教遺跡の西の位置、
西の端に位置しているアフガニストのバーミアンの大石仏群だったわけです。
そこで石骨の中に描かれている絵の比較研究をしているんですけれども、それが最初の取材旅行になったわけです。
中国文化大革命の末期で入れない、それがきっかけになりましてね、
玄女三蔵法師を描いたという格好で、薬師の方、創建当時の建物群に復元したいという発願されていたわけですけれども、
社教をする般若心経という経典を社教することによって定罪を集める。
その般若心経をまとめられたのが玄女三蔵法師なんです。
薬師と今奈良にあるお寺の中で、幸福寺は法相宗、宝の相手の相宗という、
意識の全ての問題は心の問題であるという教えなんですけれども、
その集和で、それをまとめられたからの玄女三蔵法師ですので、
薬師としては創建当時のがらんに復元するとともに、新たに玄女三蔵法師を検証する建物をぜひ作りたいというのを発願された高田孝恩氏がですね、
24:08
兄と知り合いになりまして、話したところ、私は玄女三蔵法師の旅の状況を想像で書いたんですけれども、
じゃあどういうところを旅をしたか、改めて取材し直して、その中に得手をして収めましょうということ、お互いが約束したわけです。
ですから玄女三蔵法師が歩かれたところとシルクロードがつながりますので、仏教が伝わってきた道というのがですね、
一本の筋で玄女三蔵法師のつながりで出てきたわけです。
ですから薬師だとか法律上ですね、当時の東の都、東が国際として世界で一番発達した都市の一つですので、
そこで学ばれて、しかも玄女三蔵法師が新しい仏教、既に千年にわたっての仏教で、
最新の教えである発想宗、唯識論をですね、学ばれたのが日本に伝わってきて、法律だとか薬師だとか作られた、これ間違いないと思います。
そういうのでつながっていきますよ。
私、先生の合集を見させていただいたときに、シルクロードへの思いで、
シルクロードでキャラバンが行き交う時、この情景だったりとかがまさしく平和そのものだと。
戦争が行われるとやはり攻撃の道が閉ざされる。
だからこそ、シルクロードというのが一つの平和の象徴じゃないですけど、というお言葉をちょっと目にしてかなり感激したんですけど、
やはりそういった思いも、被爆を経験された先生だからこそ強かったんでしょうかね。
今年は年中以降、国王が開きましてね、まもなく50年の節目になるんですけども、
兄が中国を初めて思う最初は50年の7月からです。
一番行きたかった場所がですね、トンコの爆口屈なんですけども、
当時はですね、今のシルクロードは入れなかったそうです。ほとんど未公開で。
それをなんとかということで各所中を全部回ってるんですけども、
トンコに入りましたのが昭和54年の9月なんです。
文化大革命がなんとか終焉しましてね、それまで細々と研究調査が、保存等が行われたんですけども、
それがもう文化大革命で全部中断しましてね、壊されなかったんですけども、非常に高圧してた。
1年かけて法隆寺の壁画の模写をしましたので、それこそ映像の中に残ってるわけです。
27:02
石骨の中に入ったら、もうこれは完全に日本の仏教の原点、仏様から絵画、いろんなものがですね、
400年から1000年渡って造詣された、どこかと繋がってます。
それからほとんど研究者等も大学教育と受けてませんので、改めて平山彦基金というのを立ち会いましてね、
今記録を調べますと55人の研究者のたちを、ほとんど絵を描くばっかりじゃなくて、
材料とか歴史だとかいろんな分野がありますので、それぞれ中国側からこういう人を招いてほしい、弁護させてほしいのを聞いてですね、
55名の援助をしてから、あれから30年40年経ちまして、今そういう人たちが所長だとか、主要なポストになってます。
それのもとを作ったのが絵工なんですけどね、一番苦労したのはですね、清朝末期、1900年に敦古の有名な教僧塔が収められた、
今では敦古学と呼ばれる文献類、絵画を含めていろんなものが石窟の中に埋め込まれたのが発見されましてね、
当時はこのが発見されたいんですけども、中国を誰も見る苦労しない、それを目にした人たちはですね、
ヘリンだとか、中央アジアを探検隊で回ってた人たちがそれを持ち帰っていると、調べてみますと、
中国に残っている方が少ないぐらいのものなんです。それぞれのところをやって、今敦古学という資料を見ますと、
800年前後から1100年ぐらいまでの、いろんな文献がそのまま手付かずで、収められたやつを各国が手分けしながら、
こういう解釈ができたとか、分かっていくと研究し合う学会ができてます。そういうことがありましたので、
中国は今の政権が成立した時に清朝末期は、いろんなものを持ち出されていました。一部植民地化されたようなことが起こりましたので、
新しい体制としては、中国のものは中国人しか手にすることができない研究だというようなこと、
その財源底を崩すのに、兄が働きかけながら、ぜひそういうことをやってほしいと言っても、
日本で言う文化財保護法の最初の前提がそこがありますので、それを共同研究、いろんなところでできるようにしようというのを、
働きかけて法律まで変えて、初めてそれが手が出せるようになっています。
それは当時のいろいろな首相まで、東商医さんだとか、いろいろな人たちに働きかけて、ぜひやろうという格好でですね。
30:03
先生が画家として歩まれたところから、文化財だったり遺跡などの遺産群を守っていく活動の本当に発端になったところなのかなと聞きながら感じたんですけれども、
先生はその後、ユネスコの親善大使になられて、さまざまな遺産の保護活動にご尽力されているというふうに伺ったんですけれども、
代表的なところであるアンコールワットですとかというところは、すごく私も拝見させていただいたんですけれども、
そういった先生の研究から文化財のユネスコの活動の一環で守っていく、保護していく活動の中身だったりとかを簡単にではありますけれども、ご紹介いただけますでしょうか。
一番力を得たのがトンコなんですけれども、今私もトンコ3回行ったんですけれどもね、行くたびに観光化されちゃって、多くの方が群がっているような状況です。
保存といわゆる公開で多くの方が見てもらうので愛があちまつのでね、今はレプリカですかね、複製のいろんな手段がありますので、
なるべく大切なものは精密な複製を見てもらって、本物は保存するということをやっていかなければという時代になりつつあると思うんですけれども、
多くの方が注目されてくると中国だけで、俺ぐらいの人に訪れているようですので、そのも含めてやはり保存はやっていかないと残らない。
劣跡はですね、かつての映画が痕跡で残っているわけです。そこで途絶えちゃっているわけです。
だけどそれを辿っていくにはやはりきちんとしたものを残していきませんと、洞窟なり戦乱なり、今僕らに残っていますけれども、一発当たればこのようになっちゃうわけです。
自然災害を含めまして、やはり人為的に守っていかないと、いくら文献で写真であっても現物があるのとないと全然違いますので、
今の状況をそれ以上痛みをちょっとでも送らせる体制をとって、後世に伝えないと、今まで残ってきたわけですから、
何でもかんやって壊してしまって、新しい建物を作るのが近代化じゃないと思いますので、そういうのを呼びかけています。
私も世界遺産を学んでいく上で、世界遺産というものは決して観光を推進するものではなくて、
過去の映画の絵を描いていますと、こういうことが起こられたんじゃないかと筆を取っていますと、ものすごく楽しいそうです。
こういう使い方は最初に出たら、柱一本石柱であちらこちらにありますけれども、
33:00
それが前世時代はどういう格好だったのか想像を巡らすと非常に楽しいですよ。
それは画家ですから、想像でどんどんできるわけです。
だけど廃墟としてはこうなっているけれども、本当に王城を忍べばですね、そういうまで繋げていくと楽しいんじゃないかと。
やはり今はレプリカでジオグラみたいに元はこうだったらできますよね。
みんなが作り合ってから、かつてこうだったんじゃないかと。
まさしくバーミアンなんかはレプリカというか、もう一回作ろうじゃないかみたいな動きも。
あれはですね、爆破されたといったり、あれはこういう愚行を繰り返さないためには、原爆ドームだとアイシュビッツのような悲劇を繰り返さないために残すのも一つの手じゃないか。
決してコンクリートでレプリカを作れば、観光の対象になるけど信仰の対象になりませんので、保存の仕方も考えないと。
ただ復元すればいいものじゃないですよと言っています。
全く同意見と言いますか、全く同じ気持ちなんですけれども。
本当にちょっと悲しいというか、ロシアによるウクライナの文字紛争だったりとか、結構それで大切な文化財だったり、東ヨーロッパの重要なものが破壊されているというものをニュースで目の当たりにしたりするんですけれども、
その中で私かなり感銘を受けたのが、ヒレマユコ先生が構想された文化財の石十字構想というものを伺ってかなり感銘を受けたんですけれども、
この文化財の石十字構想というものをちょっとご説明いただいてもよろしいでしょうか。
今、トンコに入りまして、トンコは非常に高圧しているので、法律まで変えながら国としてやるべきものの政治の力が随分ありますので、だけど共通項なんだよ。
法律時の壁画の元絵はですね、229世紀、東の時代、642年に描かれた絵と同じものがあります。
それは東の都でお寺のいろんなところで描かれたものが、片一方は2000キロ離れたトンコ絵、片一方は海を隔てた絵、同じく2000キロ離れた7に伝わってきて、以前に残っているわけです。
そういう繋がりをやっていきますと、やはり残さないといけないとともに、日本はかつて戦争でむちゃくちゃになっちゃったわけです。
そういうので、ある程度余力ができた時にですね、やはりそういう困っているところ、掘っていたら凍屈されたり、ちょっと手をかければ助けることができる、保存することができることですね。
働かけるにはやはり積水構想のようなものを提唱しながらですね、物を渡すにあって現地の人たちがそれをできるようにと育てながらですね、自分たちのものとしないとイベントで単なるお祭りをしてもなくなりますので、自分たちのそこに住んでいた過去の人たちが作ったモニュメントなわけです。
36:16
そこの現地の人たちがそれをもう盛りつけない限り、いくら外からやれやれ言ってもできませんので、そういう働きをかけるにはやはりそういう構想のもとにですね、共通のものとして、できる時もあればできない時代もありますので、できる国がちょっと手助けをすれば、
まず生活ができないとダメなんですけれども、ちょっと余力ができた場合にはそういうのも配慮する必要があるじゃないかと。文化が共通口になります。
こういうのをどこが拝んでいるか、いろんな人が何とかいろいろ、それぞれのところで、じゃあうちはどういうものがあるかというのをやってくると、形違うけど人間様ですからやってることは同じようなことだと思います。
多神教と一神教の違いがあるんですけどね、それを懸せ合いじゃなくて、日本の場合は、もともとあった、あちらこちらにあった自然崇拝的なものに仏教が来ても、私はいつも思うんですけどね、
家とか個人の場合にはお寺さんを使う、お墓を含めましてね、先祖崇拝。神社もそういう機能はありますけれども、周域、そこの地区なり、そこの周りをいろんな盛り上げていこうといったときは、神社を中心に盛り上げていると。
それは誰が決めたのかといったら、昔からなんです。家庭物の世襲場合はいいじゃないかといっても、両立、それぞれ役割が違うんで、役割分担みたいにしてる。ところが一神教になってくると、ちょっと違いで壊し合いがあっちゃう。
だけど日本の場合にはそういうのがなくて、いろんなところで古いものを断熱しながら新しいものを入れてくる。古いものを残すような機能が天皇制度のような制度があったんじゃないかと。断熱してないんです。唯一、ずっとたどっていけるんです。
要するに民族が変わる、国が変わる、やったときに一回断熱になって、特に植民地なんかされると全部潰されてしまうんですけど、日本の場合にはそうじゃない。自分たちで出産選択しながら、中国の物を自分たちの使いやすいように変えながら、自分のものにして残している。古いものも大事にしながら、新しいものをそれと融合させながらやっていっている。
私も戦時制の作品誌の中で、石十字構想のできる前の追い立ちで、戦時に石十字社の理念として敵味方なく人命を守っていくように文化財も敵味方なく守っていくことが必要なんだということを説いていらっしゃって、その部分がすごく感銘を受けたんですけど、
39:14
お話もまだまだ聞きたいことがあって、できればずっとお話を伺っていきたいんですけど、最後になるんですが、私もそうなんですが、世界遺産だったり、世界遺産ではない文化財だったり、過去の人たちが作り上げてきた英知だったり自然、信仰の対象とするようなものをこれから守っていきたいという方々がかなりたくさんこのラジオを聞いていただいていると思うんですが、
そういった方に向けて何か一つメッセージをいただけますでしょうか。
技術の伝承はですね、大伊勢さんです。戦偶、それはもう作った通りに作った当時の道具で、かつてはこういうことを作ったということで伝承していく。古いものをきちんと学んでないと新しいものが出ないと思います。
すべてが今、コンピューターが万能なく、コンピューターは道具でやってですね、新しい作る知恵なんか出ないわけです。それはやっぱり古いものからずっと編成を得て、こういうものがこういう機能がこんな便利になりましたようには、元があって初めていろんな工具ができますので、突然プツッと切られちゃうと、そこで進歩が停滞するような気がします。
だから人間は、今ウイルスといってあれのことになったんですけども、最初のところはウイルスのようなDNAのものがずっと編成を経て私どもが作られているような気がしますよね。生命体も同じだと思います。ですから最初がオリジナルから進化と経て複雑になっていくという。
それを忘れちゃうとやはり生命体とか何とか踏みましてね、命が大事だと言っても必ず性あるものがなくなっちゃう。それを遅らすのが保存だとか何とか手立てができるんですけども、永遠に残すことができるかというとできないわけです。
地球の長さを探したら本当に一部ですから。だけどもやっぱ人間、人類の属性を辿るには、そういうのを辿ってきたいうのを大事にしてないと、全てが万能になるわけですね。子供が最初、子供が覚えてきますけども、あれと一緒でですね、最初からずっと、現在に至るまでが大きく引いてますのでね。それがものとして残っているのは文化財だと思います。
私もこういったラジオだったりとか配信をする中で、やはり文化財だったり過去の人たちが残してきた素晴らしさというか、それがあっての今ということをかなり痛感してまして、だからこそそういった世界遺産がどうしてもメインになってしまうんですけども、その他にも重要なものだったりというものをしっかり伝えていかないとなと思いながら、こういった活動をさせていただいています。
42:27
私自身もかなり本当に貴重な時間になったんですけども、聞いている方もですね、本当に世界遺産を学ぶ中での一番根本となる部分を大事にしていただきたいなと思いました。
今日は広島県にある平山美術館に訪れさせていただきました、館長の平山さんでした。どうもありがとうございました。
ありがとうございます。
43:01

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