番組紹介と男女雇用機会均等法制定40周年
FM八ヶ岳 デイ・イン・ライフ 暮らしの羅針盤の時間です。池田政子が担当する第84回です。
この番組は、身近な暮らしの中にある男女共同参画やジェンダーの問題についてお話ししています。
前回は、日本で初めて女性たちの賛成権を行使してから、今年4月で80年を迎えたことについてお話ししました。
今年はもう一つ、女性たちにとって重要な法律が施行されて40年の年でもあります。
1985年に制定された男女雇用機会均等法、正式には、
雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保と女子労働者の福祉の増進に関する法律という長い名前なんですが、
この法律が翌、1986年4月1日に施行されたんですね。
今日はゲストをお招きしています、北都市にお住まいのあずまひでみさんです。
山梨日日新聞、3月27日の私も言いたい欄に、NOといった女性たちの戦いという見出しで、あずまさんの投稿が掲載されました。
均等法の制定で賃金体系が変わって、一見男女平等の格付け制度になった、評価制度のことですね。
でも蓋を開ければ男女差別は明らかだったというのです。
そして40年前、あずまさんはどうしたのかというようなお話を伺いたいと思います。
あずまさんどうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
東秀実さんの投稿と均等法の背景
まず40年前のことを、なぜ新聞に投稿しようと思ったのでしょうか。
3月8日の国際女性デーを前に、都道府県別のジェンダーギャップ指数が発表されましたが、
山梨県は本当に低い位置にいて、いたたまらない感じがしたんです。
男女格差の解消というのは、やっぱり自らNOと立ち上がらなければ解決しないということを、
経験者が皆さんに伝えることも大事かなと思って、
毎年国際女性デーになると思い出す出来事を投稿しました。
それで男女雇用機会均等法が制定されたのはなぜかということですが、
1979年に国連総会で採択された女性差別撤廃条約を日本が批准するためには、
国内の法律を整備する必要がありました。
その一つが雇用機会均等法でした。
雇用の際の募集・採用、職場での配置や昇進などについて、
男女を均等に扱おうということですが、最初はあくまで努力目標でした。
その後の改正で、男女差をつけることが禁止されました。
私は1976年に当時の山梨県立女子団体に着任したのですが、
その頃の女子学生に対する求人票には男女別の処人給が書かれていましたし、
採用面接で結婚したら退職するという年賞を書かされた学生もいました。
また、県内の役場で定年退職の年齢が女性の方が早いところもありました。
それが一応は、男女を均等に扱うように努力してくださいということになったわけですね。
3月のこの番組で、内閣府の初代の男女共同参画局長された坂東麻里子さんにお話を伺いましたが、
この均等という言葉が使われた背景には、当時の経済界の強い反対があった。
女性と男性とで結果を平等にするのは大反対だ。能力も違う。働き方も違う。
せいぜい機会の均等なんだということで、罰則なしの努力器具。
差別してはいけないのではなく、差別しないように均等な機会を与えるという生ぬるいものを作った。
でもそのおかげで女性差別撤廃条約の批准ができたとおっしゃっていました。
東さんの会社員時代と労働組合との出会い
梶間さんは1947年生まれ、東京都の出身。私より1歳お姉さんですが、2人ともいわゆる団塊の世代ですよね。
で、高校を卒業してすぐ化粧品メーカーの研究所に就職されたそうですけれど、
それが1965年、ちょうど均等法制定の20年前、そして今から60年ほど前になります。
その当時、女性差別だと感じることはどんなことがありましたか?
採用募集の時から男性と女性の賃金に差がありましたが、社会全体も当たり前のように男女差を容認していましたし、
私自身も意識が低く、何の違和感も持ちませんでした。
でも働く中で、大学卒の人との賃金や待遇の差も感じ、葛藤があって退社してしまいました。
辞める時、ことぶき退社じゃないの?と、ことぶき退社だと退職金が増額されるのにと、総務の人に言われました。
ことぶき退社というのは結婚退職を指す言葉で、当時はおめでたいという感じで使われていたかと思います。
でも退職金の増額なんていうことがあったんですよね。
そもそも60年ほど昔の女子高校生の梓山さんは、職業を持つということをどういうふうに考えていらしたんですか?
両親の仲があまり良くなくて、母は私たち子供に愚痴ばかり言っていました。
食べていけないので、別れることができないと。
母は反面教師になり、私は経済力を持たなければ弱いんだというふうに感じました。
最初の会社を辞めた後、1969年に今度は東京の大手の企業に入ったわけですね。
当時は高度成長期だったんですが、開発の補助要員募集という求人がありまして、そこで試験を受けました。
補助要員と言っても正社員なんですけど、仕事はカラーテレビの色を選別する機構についての開発の部署でした。
高卒の女性が何人かいたので、とても気が楽でした。
そこで労働組合の運動に出会ったわけですね。
入社した1969年当時は、ベトナム戦争反対の運動が盛んな時で、
私も政治や社会の問題を考えるようになっていました。
毎朝本社前でビラを配っている組合という存在も気になっていましたが、
でも当時は正社員として採用されても全員が入社後、
3ヶ月間はシロバッチと言われるお試しの期間で、何かあれば本採用されません。
そこで3ヶ月はおとなしくしてよと。
本採用になった時に組合がどういうことをしているのか気になっていたことを、同じ職場の人に聞きました。
1969年といえば学生運動はそろそろピークに差し掛かった頃で、
ちょうど東京大学の安田行動事件があった年なんですけれども、
労働運動も政治的な動きというよりも、暮らしを良くするための賃上げに重点が置かれた時代だったでしょうか。
そうですね。組合に入っている人が配っていたのは、
新党やボーナストースの経過、職場で起きている問題などの報告が載っているビラでした。
そのビラを配っていたのが今の夫です。
でも、私が組合員である彼と接触しているのを知った課長は、
同じ課の人を使って、食事やお茶に誘って、私が組合に加入するのをやめさせようとしました。
組合や会社を壊そうとしている。騙されるなと断ることに言われました。
私はまだ22歳で、精神的にとっても疲れ、体調も崩しましたけれども、
職場の環境を良くするために戦っている組合に入るのは当然だと思って、組合に入りました。
そして、そのビラ配りをしていた男性と結婚されたんですね。
はい。1970年です。
結婚についても、あいつはおかしな考えを持っているからやめた方がいいと課長に言われました。
でも、いろんな崩壊にあっても、彼は自分の信念を曲げませんでした。
そんなところに惹かれたのかもしれません。
上司がそんなことを言うなんて、今では考えられないことですけれど。
結婚、出産、そして保育所での悲劇
結婚しても、あすのさんは働き続けたいという気持ちを持っていらしたと思うんですけれども、
パートナーの方はどうでしたんでしょうか。
1970年頃というと、結婚後も働き続けた女性は、まだ2割から3割程度だったんですけれども。
夫が3歳の時に父を亡くして、母は一人に育てられました。
5人の子供を育てながら働く母を見ていて、私の働き続けるという気持ちを理解していました。
結婚の翌年、1971年の9月に長男が生まれました。
まだ民間企業では、子供を育てながら働く女性は少なかったので、周りの女性たちも理解してもらえず、
出産前はあんな大きなお腹をして働くなんてみっともないなどと陰で言われていました。
育児休業制度は1991年制定ですから、その20年も前の時代ですよね。
3前3後休暇も6週間で、1時間の育児時間がやっとでした。
それすら他の人より労働時間が少なくなるので、周囲の目を気にしながら、
資料を打ち抜き返っての残業もよくやっていました。
私も育児休業のない時代に2人目の子供を産みましたから、
県立女子短大の校庭の隅っこに夫が赤ちゃんを車で連れてきてくれて、
授業の合間に車の中で授乳したこともあります。
当時、女性が結婚出産で退職する人が多かったのは、
一つには保育所が足りなかったという理由がありました。
幸い、山梨は東京に比べると保育所が多かったので、
その子も上の子の通っている保育所で、0歳から預かってもらえたんですけれども、
でも、東京で保育所のカーズがニーズに追いつかなくて、圧倒的に不足していた時代です。
当時、それを補うために、無人家のいわゆるベビーホテルと言われるものが作られました。
産休明けに仕事を続けるためには、家をなく、
そういうところに子どもを預けなければならない親がたくさんいたわけですよね。
そして、あずまさんは、預けた先でお子さんを亡くされたと伺いました。
その辛いご経験をお話しいただく前に、
あずまさんからのリクエスト、中島みゆきの時代をお聞きください。
事故の追及と「保育を考える会」の結成
それで、どんなことが起こったんでしょうか。
産後休暇が終わる前に、足立区に相談に行きました。
児童課に紹介してもらった無人家保育所、竹之川ベビーセンターに子どもを預けるということになったんですけど、
4月に公立の保育所に入るまでのつなぎと考えていたんです。
ところが、朝元気に預けてきた長男が、
うつ伏せ寝で土砂物をつまらせて死んだと連絡がありました。
1972年の12月14日、1歳2ヶ月でした。
1歳2ヶ月ですよね。
乳児のうつ伏せ寝というのが死亡原因にもなることが広く知られるようになったのは1990年代なんですけれど、
それにしても赤ちゃんの様子をきちんと見ている保育者がいれば、入った時にすぐ対応できたはずですよね。
そうなんです。なぜ経緯中を失せてしまったんだろう。
足立区が紹介してくれたところだからと、内容をよく調べないで、
安易に竹之川ベビーセンターに預けてしまった自分たちを責めました。
後から分かったのですが、足立区に申請していた子どもの数の倍ぐらいの子どもを預かっていました。
それでほぼの人数が足りないから、子どもの様子がおかしいことに全く気づかなかったのです。
でも、新聞に事故のことが載ると、自分が育てていないからこういうことになるんだ、反省しろという批判の手紙が舞い込みました。
それから、うちの子が死んだというのを新聞で知って、1人減っただろうからと言って預けに行った親がいたのです。
本当にそれだけ保育所が不足していたということですね。
働きたいと思うことはいけないことなんだろうか、夫と2人でいろいろ考えました。
そして、子育てしながらも働き続けたいと願うことは間違いではない。その環境を整えていくことが必要なんだ。
だから、保育行政を良くしていかなければいけないという結論になったのです。
それで保育団体に相談に行きましたが、この事故を追及すると、ポストの数ほど保育所をと言っている運動の妨げになると言って断られました。
ポストの数ほど保育所というスローガンは、1960年代の後半から1970年代にかけて、保育所が圧倒的に足りない状況の中で、
働く女性たちが自分たちに必要なものを求めた、とても切実な運動だったと思います。それでどうされたんですか。
その後、女性が働き続けることをテーマにした講演会に行ったんですけど、その時に、男と同じようにがむしゃらに働くのではなくて、子育てしながらでも働く環境を作っていくことを目指そうという考え方に出会いました。
その講演会を主催した団体に相談に行きましたら、私たち夫婦の気持ちを受け止めてくれて、多くの方に呼びかけてくれました。
そして1973年3月に、保育者、働く女性、職場の労働組合員などが集まって、長い名前なんですが、圭一ちゃんの死を無駄にしないために、保育を考える会という団体が結成されました。
そして、働きたいという思いは悪いことではない。女性が働きやすい環境にしていく必要があると訴えました。
それで裁判を起こそうとして、最初女性の弁護士さんを頼んだら、解剖処刑が突然死というふうに、出た以上はほぼ確実に負けると。
そのベビーセンターの方は保証金500万円を出すというふうに言っているんだから、むしろ和解して、そのお金を保育運動に使ったらどうかというふうに提案されたというふうに伺いました。
でも東さんは、保証金をもらったところでお子さんは帰ってこない。親であるというだけでお金を受け取るのは筋違いだというふうに思われたんですよね。
ベビーセンターのようなひどいところに預けてしまった親として、そういう保育状況を変えなければいけないのに、お金をもらってしまっては買いようという情熱を失ってしまうというふうにお考えになったわけですね。
別の弁護士さんを頼みまして、1974年に国と東京都と足立区、そして竹之鶴ベビーセンターを相手取り裁判を始めました。
裁判闘争とベビーホテル規制への影響
裁判は小児科医の森たねきさんが協力してくださったのですが、私たちにとっても大きな支えでした。
森さんは、保育園での事故をあいに突然して片付けてはいけないと言われました。
森たねきさんというのは、1970年代から80年代にかけて、育児の方法とか思想について、とても影響力のあった方ですよね。
それで、ケイチの事故を調べていくうちに、事故に遭われた方と知り合いましたが、自分が働きたいという英語で子供を預けたからと苦しんでいる方がいらっしゃいました。
そういう中で、どこも事故例を調査していないということがわかりまして、私たちが調べようと新聞記事を集め始めました。
そうしたら、朝日新聞の松井弥生さんが各支局から事故例を集めて協力してくださいました。
松井弥生さんも、女性の人権とかアジアの女性問題についての著作で有名な方です。
この当時、後に千葉県知事になった堂本昭彦さんが、TBSテレビでベビーホテルについて取材した番組をやりだしていたんですけれど、
私がたまたま見ていたときに、「ベビーホテルは便利なところです。」というような放送がされていたんですね。
私はすぐTBSに電話して、「あれは間違っている。そういうベビーホテルは劣悪なところがたくさんあるので、もっと調べてから報道してください。」って言いました。
このTBSのベビーホテルキャンペーンは、社会的に大きな反響を起こして、私も当時、82例までわかっていた事故例の調査結果を番組で訴えました。
赤ちゃんを鋭利の対象にしてはいけないという訴えによって、国会で厚生大臣が、「ベビーホテルは問題がある。」と発言することになりました。
そして、その結果、ベビーホテルへの規制とか、届出制度が整備されたり、立ち入り調査、行政による指導の強化、そういうことにつながったわけですね。
私たちはそれと同時に、130例、そこまで調査してきたんですけれども、それを分析して、保育者への提言として出版しました。
130の小さな叫び、保育施設での事故来報告書というものです。
裁判の敗訴と職場での昇格差別との闘い
あそこまでされたんですよね。裁判のほうの結果は、結局どうなったんですか。
11年かかったんですけど、結局、東京地裁、東京高裁、最高裁と全面敗訴でした。突然死だからということでした。
保育現場にいる方々にとっても、もちろん大きな問題だったわけですよね。
裁判に負けたとしても、こういう事故があるということを、目に見える形で世の中に発信して、認識させて、保育のあり方にも影響を与えたということは、すごいことだと私は思います。
裁判はとても費用もかかりますし、長い年月がかかります。事務局になってくださった方は、手弁当で参加していただいたり、そのほか支援してくださった方がいたから、戦えたことだと思っています。
2人目のお子さんは、1973年に生まれたんですね。
はい。次男が生まれた時には、所属長も辞めて自分で育てるんでしょうと言いました。職場の人や親戚も同じようなことを言っていましたが、私は働き続けると周囲に答えて、批判されながらも、ここで辞めたら負けだという気持ちでいっぱいでした。
当時ゼロ歳で保育をしているところは少なかったので、保育環境の良い品川区に住まいを通して、妊家保育所に産後休暇明けの43日目から預けて、4月に公立保育園に移りました。1歳2ヶ月になるまでは、毎日死んではいないかと不安な日々を過ごしました。
そういう時代に、東さんはお子さんが亡くなって裁判闘争もされて、同じ職場の中で働き続けた。これ本当に大変だったと思います。そういう中で、1985年に男女雇用機会均等法が制定されたわけですが、この内容はどういうふうに社員に知らされたんですか。その時に女性たちはどういうふうに受け止めたんでしょうか。
会社からは、男女雇用機会均等法の制定で賃金体系が変わると言われたと思います。組合もそのことで会社の人事部と団体交渉がありましたが、組合は男女差別というよりも、格付けによって働く人を分断するから反対という、そういう立場でした。
女性たちは、当時の男女差別ありありの賃金体系から変わるかもしれないという期待感が大きかったです。
はい、そして実際にはどうだったでしょうか。その前にリクエストの2曲目、貞政氏のカカシですね。
はい、これは息子が実家を出て暮らし始めた頃のことを思い出させる、とても懐かしい曲です。
男女雇用機会均等法が制定されたから、女性たちは男性との格差がなくなるのかなというふうに期待したけれど、でも実際にはそうならなかったというわけですね。
はい、ランク付けはS1からS5まで5段階、その後係長代理、係長というランクに分けられていて、そのランクによって賃金の上げ幅、それからボーナスの支給額が変わってきます。
その当時、職場の中は1割程度が女性だったんです。
入社した当時と異動してまして、その時、1割程度の女性の中で、事務職、設計部門、経理部門など様々な部署で皆さんが働いていました。
みんな10年以上勤めていて、S2ランクまでは一徹と思います。毎日自分の業務を難なくこなして、自信を持ってやっていましたから、均等法とか言っても、それまでと少しも変わらない男女差別が明確な事例を受けて、唖然としました。
同じような年で、同じような業務をしていた男性と3ランクの差がありました。
それでどうされたんですか。
女性たちの抗議と交渉、そして達成
この程度しか評価されていないのか、みんな怒り浸透だったと思うんですけども、職場近くの喫茶店に集まって口々に愚痴を言い合いました。
でも話し合う中で、愚痴を言っていても始まらないから、課長になぜこのランクなのか聞きましょうということになりました。
男性たちは皆さんの起こしたそういうアクションをどういう風に見ていたと思われますか。
男性は女性たちを自分より低い存在と見ていたので、何を騒いでいるのかという目で見ていたと思います。
何人くらいの女性たちが一緒に行動したんでしょうか。
初めは10人くらいでした。
そもそも労働組合は動いてくれなかったんですか。
当時組合の執行部は男性だけでした。
相談しても具体的な戦術は教えてもらえませんでしたし、私自身、長男の裁判の時に自分で考えて行動を決めないといけないということを学びましたから、自分たちで考えていきました。
それぞれがまず自分の直接の上司に自分たちの疑問を話したわけですね。
どうなりましたか。
交渉を始めて1年後にワンランク上がった時にはみんなやればできるんだと、ノーと言わなければそのままだったと、みんなお喜びでした。
課長たちは思ってもみなかった女性たちの抗議にたぶん驚いたでしょうし、一つランクを上げることはさほど大変ではなかったんだろうなと思います。
でも私たちの目標は男性と同じS5ランク、まだ2ランク上でした。
何度交渉しても課長は繰り返し、女性はいつ辞めるかわからない、期待度が薄いと言うばかりで、その上の部長に私たちの抗議が全く伝わっていなかったんです。
それで部長交渉をすることに切り替えましたが、この時点で何人かはもういいと諦めています。
残ったメンバーで部長に申し入れをして交渉を始めました。
最初の人が自分で学んで努力して設計の部署に移動できたし、辞めることなど考えていないと訴えましたが、部長は課長と同じように女性はいつ辞めるかわからないので期待度が薄いと答えました。
でも次に交渉した私に部長は辞めるつもりがないことはわかった。
でも会社全体の女性たちに影響するので、単独でうちの部署だけ上げるわけにはいかないと言いました。
それで私は、うちの部の女性たちのランクが上がれば会社全体の女性のランクも上がるので、部長の決断で会社全体の女性が救われます。女性を平等に扱うような管理職のお手本になってほしいと訴えました。
なるほど。部長の理屈を逆手に取ったということですので、どうなりましたか?
部長は人事部と交渉してくれて、2年後にワンランク上がってS4になりました。
真摯に向き合ってくれた部長が移動すると聞いた私たちは、バレンタインデーにチョコレートを届けて、人事部に交渉してくれたお礼を言いました。
また何か交渉かなと軽減な顔をしていた部長が笑顔に変わったのがとても印象的でした。
良かったですね。でも目標のS5ランクにはあとワンランク届いていませんね。
部長が変わった後も交渉を続けまして、初めの交渉から7年目にやっと男性と同じS5ランクになりました。
その時にはNOと言って本当に良かった。団結する力は強いと達成感と喜びでいっぱいでした。
昇格差別の影響とこれまでの活動の意義
労働組合としても遅ればせながら男女格差是正に取り組み始めて、少しずつ会社全体の女性のランクが上がっていきました。
7年もかかったんですよね。でもとにかく最初におかしい。交渉しようと思わなければそうはならなかったわけですよね。
そう思います。その後、S5ランクになっていなければ受けることができなかった昇格試験を受けて、私も含めて3名の女性が係長代理になりました。
でも格付けランクの男性との違いは賃金やボーナス、もちろんその後の年金にも影響しています。
そうですよね。とても重大なことですよね。山梨で私が知っているのは、合併前の伊沢町役場に1967年に就職した内藤文子さんという方の例です。
安妻さんの就職時期とほぼ同じですよね。同じ高卒で同期に採用された男性と自分との昇格時期を比べているんですけれども、同期の男性は45歳で課長になりました。
彼女はそれから12年後の57歳、60歳定年を目前にやっと課長に昇格しました。そしてその同期の男性にどれくらい年金額が違うか教えてもらったんですよね。
同じ条件で役場に入ったにもかかわらず、男性であるというだけで年功序列に従って承認昇格してきた人と女性である自分の給与や年金額との差があまりにも大きかったというふうに言っています。
安妻さんは今振り返ってみて、どうして7年もかけてそこまでやれたと思いますか。
この昇格差別の問題を取り組む前に、職場でいくつかのことを改善してきました。
例えば女性だけ30分前に出勤して、みんなの机や灰皿の掃除をすること、お茶組みを廃止する、それから男性だけの会議に女性も参加できるようにと要望して、コツコツと改善していった経過がありまして、それが今回の格差別を是正する戦いにつながっていったのではないかなというふうに思っています。
私の場合は、自分が働き続けたいと願って子どもを保育園で亡くしています。
生半可な気持ちで勤めてきたわけではありませんし、その本気度の中で女性だけに課せられる様々な問題を解決していかなければ、子どもを亡くしてまで働く意義がありませんでした。
55歳で退職した時、体はボロボロでしたが、息子と同年代の若い女性2人が子育てしながらも働き続けていて、あずまさんがいたので働きやすかったと感謝の気持ちを伝えてくれた時には、本当に頑張ってきた甲斐があった。
子育てしながら働く人たちのためになっていたと、今までの辛さや苦しかったことが吹き飛び、嬉しさに変わりました。
現在の暮らしと平和への願い
大変な思いをされたでしょうけど、若い世代にそういうプレゼントができてよかったですよね。
そしてその姿、2002年の6月に当時の大泉村に移住されたんですよね。今、山梨での暮らしはいかがでしょうか。
カイコマ畑をはじめとする南アロプスの山々に魅せられて移りました。遠くの山を見ながら庭には好きなサイヤソウが季節ごとに咲いて、本当に何者にも買いがたい環境です。
同じ価値観を持つ素晴らしい友人たちもたくさんいて、ここで最後まで過ごしたいと思っています。
今は戦争に突っ切り進まないよう、憲法9条を守っていこうと、天敵死を犯すという既刊誌を発行しています。
【佐藤】今日は、男女雇用機械均等法施行から40年にちなんで、働く女性、母親として様々な問題と格闘してこられた、北都市のあずまひでみさんにお話を伺いました。
ワロード分野でのジェンダー平等はまだまだという状態ですが、おかしいと思ったら声に出そうということ、そして声を出せば同じ思いの人につながれるということ、あずまさんのお話から感じていただけると嬉しいです。
ごめんなさい、おつらいことも含めて貴重なお話を聞かせていただいて、どうもありがとうございました。
【あずま】こういう機会を与えていただき、こちらこそありがとうございました。
FM八ヶ岳、池田雅子がお送りする暮らしの羅針盤。
今日も聞いてくださってありがとうございました。
バラ褒めて、怪欄盤を渡しけり。
バラ褒めて、怪欄盤を渡しけり。
まさこ。
ご近所の方が毎年、丹精込めて手入れをしているバラたちが、今年も一斉に花を開く季節となりました。
こういうのを元服のお裾分けと言うんですね。
ではまた。