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2026/06/04 暮らしの羅針盤(池田政子 #85)
2026-06-06 35:15

2026/06/04 暮らしの羅針盤(池田政子 #85)

離婚覚悟で立候補、議員生活26年 ゲスト:小野鈴枝さん(前山梨市議会議員)

感想

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サマリー

本エピソードでは、26年間にわたり山梨県議会議員を務めた小野鈴枝さんをゲストに迎え、女性議員が少ない現状や、彼女自身の議員としての道のりについて語られています。小野さんは、母親の経験から経済的自立と自己肯定の重要性を学び、自身の人生を見つめ直す中で政治の世界へ飛び込みました。家族の反対や離婚という困難を乗り越え、女性だけの選挙運動を展開し当選。議員として開かれた議会を目指し、地域活性化にも貢献した経験が語られました。女性が政治に参加することの意義や、今後の課題についても考察されています。

番組紹介とゲスト紹介
FM八ヶ岳 レインライフ 暮らしの羅針盤の時間です。池田政子が担当する第85回です。
この番組は、身近な暮らしの中にある男女共同参画やジェンダーの問題についてお話ししています。
先月第1回のこの番組では、1946年4月10日、日本の女性たちが初めて賛成権を行使した時のお話をしました。
それから80年経ちましたが、その間、山梨県でも多くの女性たちが市町村議員や県会議員、そして国政選挙にも立候補してきました。
それでも山梨県の市町村議会の半数以上は、女性議員がゼロか一人かのゼロ案議会です。
そんな中で、今日のゲストは、26年間山梨の議員を続けて、昨年退いた小野鈴恵さんです。どうぞよろしくお願いします。
小野 よろしくお願いいたします。
小野さんは、私が代表している山梨地域女性史・劇学プロジェクトというグループのメンバーでもあります。
そして、この番組でお話しする時にも、資料にしている、戦後初めて女性が参加した選挙の時からの山梨県内の女性立候補者についてリストを作成してくれています。
今回そのリストを調べてみたのですが、この80年間で20年以上、議員活動をしている女性は、小野さん何人いたと思いますか?
小野 15人?10人ぐらいですかね。
小野 私の調べた限りでは、小野さんを含めて7人です。
現在一番長い議員歴を持つのは、新崎市の小林恵梨子さんですね。
今月で30年8ヶ月くらいになります。
小野さんの26年というのは、4番目の長さです。
小林 そうなんですね。
小野 女性議員が少ない山梨で、議員としての活動を長年されてきたということは、立候補等当選を何度か繰り返してきた。
小野さんの場合は7回です。
その議員としての活動が評価されなければできないことですよね。
賛成権を獲得して女性議員が増えましたというだけではなくて、その方々がどういう議員活動をしたか、議会のあり方や地域のために何を変えたのかということも語られないと、なぜ女性議員が増えないといけないのかということにつながらない。
ということで、議員生活の長い小野さんにそういうお話を伺いたいと思います。
小野鈴枝さんの生い立ちと母の教え
小野さんは1949年生まれ、勝沼のご出身です。
大正15年、1926年生まれのお母様三森美音子さんが、90歳の時に聞き取りをして、私たちのグループが刊行した聞き書き証言集、伝えたい山梨の女性たちの第3週に入っています。
私はその時に初めて、治すとか治るという言葉を知りました。
今の若い方が聞いたら驚くかもしれませんね。
母は戦争末期の昭和19年の1月に三重県から勝沼に来て、武道農家の長男と結婚したんです。
自分の親が強く勧めたようです。
でも半年後には、その夫は出世することになって、沖縄に送られて昭和22年に戦死したことが分かりました。
そして葬儀をしたその翌日に、ちょうど親戚が集まっているからということで、夫の弟と結婚式をあげたんです。
家というものを継いでいくため、当時はよくあったことのようです。
母からすれば、義理の弟だった男性との結婚ですが、それが私の父です。
その後、武道だけではやっていけないということで、お母様は化粧品を扱うお店をご自分で開いたんですね。
母は子どもたちの学費や生活費は、すべてそのお店の収入から賄ったと言っていました。
そしていつも、これからの女性は経済力が大切と言っていました。
また、自分というものをしっかり持っていけなければダメだとも言っていましたね。
先ほどの証言集の中で、お母様は、自分自身を振り返ると、母親に言われるがままの結婚も、そして再婚の時も、自分に経済力がなかったので受け入れざるを得なかった。
いくら戦争の時代とはいえ、悔しいと思っている。
長女は、こんな私の思いを強く受け止め、結婚してからも女性の自立を目指しているようです。
男だから、女だからと決めつけないで、一人の人間として強く生きたいと思っているようだ、と言っていらっしゃいますよね。
そういうお母様の思いを感じながら育って、高校はどちらですか。
進路選択と美容師への道
かつまだと、当時の県立は山梨高校か、ひかわ高校だったようですけれど。
はい、もう60年も前の話ですけど、ひかわ高校に入りました。
当時山梨高校はまだ女子校だったので、男子がいないというのはおかしいなと思ったんです。
そして卒業してから、東京の静野が経営していた美容専門学校に入りました。
その東京に出ることについて、ご両親の反対はなかったんですか。
反対はなかったです。私は本当は先生になりたかったんです。
当時の家計の状態では、東京の四年生大学に行かせるのは大変だから、県内の大学にしなさいということだったのですが、受験に失敗しちゃいました。
ちょうど私が落ちて泣いていた時に、市政堂の販売促進の方が母の店に来ていて、一年で美容師の資格が取れるからと声をかけていただいたんです。
手に職はつけたいという気持ちはありましたので、親も4年間学費を払うのは大変だけど、一年ならということで、東京に出て寮に入りました。
浪人するという選択肢はなかったんですか。
なかったですね。そんな贅沢は許されないと思っていました。
弟は親も男だから大学に行くのは当たり前と、当然のように東京の私立大学に行かせました。
その後は。
美容師の免許を取って山梨に戻ってきて、母の店を手伝ったり、交付の当時の岡島デパートにあった美容室に勤めたりしましたけど、
23歳で結婚をして仕事は辞めました。
子育てと地域活動、そして人生の転機
2人目の子どもが30歳の時に生まれました。
離婚したのは50歳です。その間20年ありますよね。
私、子育てが楽しくて夢中で過ごしていたんです。
その時に友達がたくさんできました。
ママ友だったり、PT仲間だったり、それから山梨に共闘子ども劇場というのを作って代表になって、その活動も一生懸命やっていました。
それに息子たちもスポーツをやっていたので、その応援に出かけたりして、でも子育てが終わって2人とも東京に出て行った時に、すごい寂しさが急に出てきて。
いわゆる空の昇降群というわけですよね。
そうですね。それをきっかけに、自分がこれからどう生きるのかということを考え始めました。
さっきおっしゃった子ども劇場というのはどんな活動ですか。
親子で公民館などで生の舞台を見るという活動です。
夏休みは親子でキャンプもしたり、とても楽しい回でしたね。
10年やって一釘をつけました。それがもう50になる時です。
政治への目覚めと議員への道
それでどうしたんでしょうか。
それで子育てが終わってポカッと穴が開いてしまったので、さあこれからどうしようと自分の生き方自体を見つめ直した時に、ちょうどピュア総合でいっぱい学習会があったんです。
それで私も毎週のように出かけていきました。
1996年頃からです。
そんな中で男女共同参画のことを学んで、自分が何かおかしいな、家庭にいても何かおかしいなということがいろいろ解きほんされていきました。
これはやっぱり男性優位の考え方で地域でも何でも全てそうなっているということを改めて気づいたんです。
勉強する中で1998年にリメイク農村という団体が主催の女性を議会へという半年間の講座があったんです。
友達のお母さんで山梨も女性が議会になきゃおかしいということを言っている方がいらして、こういうことを勉強した方がいいと勧められて、それでその半年間の講座に参加しました。
どんな内容だったでしょうか。
いろんな分野の専門の方がそれぞれ来て、とても気になる講座でした。
その同じ年の9月か10月に、当時女性団体の会長をしていた飯窪坂江先生が中心になって、女性模擬県議会が開かれました。
応募者が大勢いたらしいのですが、私は運よく当選しました。
本会議での質問もありました。私は教育関係の委員会に入って質問もさせていただきました。
何回かの勉強会でしっかり学んで、単に傍聴じゃなくて、模擬県議会なので質問するという経験もしました。
そういう経験をされて、立候補されたのが1999年です。
この年は男女共同参画社会基本法が制定施行された年ですが、第14回目の統一地方選挙が行われて、
山梨県では県市町村議会で合わせて47名の女性が立候補して、それまでの選挙の中で一番多くなりました。
私たちの資料では当選者は37名、当選率は78.7%となりました。
で、なぜこの時立候補することになったんですか?
はい、私は自分の得た知識を自分だけにしておくのはもったいないと思って、
山梨で当時の仲間に学習会をしないって声をかけたんです。
どういう学習会ですか?
ちょうどその年に男女雇用機会均等法が開始になった時で、県の方に来てもらって、
賃金の男女の格差がなくなるというような話もしてもらいました。
私たちの中では、次の年、1999年の統一地方選に向けて、
女性たちで一生懸命学んでいけば、誰か出てくれる人がいるかもしれないという思いがありました。
環境のことも学びました。
まだリサイクルという言葉自体が知られていない時でした。
そして、1999年の1月か2月に、女性を議会にという題目で、
舛添町の議員になっていた永井ひろこさんに、
こういう理由で女性が議会に必要なんだという話をしていただきました。
そして、3月の初めの最後の学習会で、この中から誰かを送り出そうということにしたんです。
その学習会に参加したお仲間は、子ども劇場からつながっていたということなんでしょうか。
そうです。子ども劇場のつながりが一番強かったんですが、
その他に、私のママ友だったり、PK活動をしていた時の友達だったり、
私は当初は、この中から誰かが育って、やりたいという人が出てくればいいという気持ちだったんですが、
何回話し合っても、一番強い思いを持っている小野さんがすればいいんだよってなっちゃったんです。
普通はそうなりますよね。
家族との葛藤と離婚、そして決意
女性が立候補を考える時、高いハードルの一つは、今でも家族の反対だと思いますけれど、
小野さんの時はどうだったでしょうか。
はい、ということでリクエストの1曲目です。
賠償知恵子の下町の太陽ですね。
はい、母の好きな歌でした。中学生の時に初めて買ってもらったレコードです。
1962年に大ヒットしたデビュー曲で、映画にもなりました。
はい、それでご家族の反応はどうでしたか。
いろいろ学習会をやっていて、まだ本人は決めていないのに、小野さんが出るらしいということが、
同居している夫の父の耳にも入りました。
その時、俺のご飯はどうするで、と言われました。
義理の母は車椅子生活で介護が必要でしたし、
ご飯と介護なんですね。で、どう返事したんですか。
ご飯ぐらい買ってきてでも用意するよって言いました。
夫にも出たいと言いました。
そしたら夫は学ぶはいい、応援もする、協力もしてきた。
ただ、お前が出ることはない。
お前よりもっと優秀なやつはいっぱいいるだろうと言われました。
そしてそれほど出たいんだったら離婚だということでした。
離婚ですか。
子供二人は東京の大学に行ってましたので、東京まで子供に相談しに行きました。
お父さんは離婚すると言ってるけど、どうしたもんだろうかと。
そしたら子供は、もうお母さん50になるんだから、好きなように生きればいいと言ってくれました。
で、夫にはそんなことで離婚っておかしい、不倫したんじゃともかく、
選挙に出たいというのが離婚の理由にはならないと言いました。
はい、そして離婚だぞというのを振り切って離婚したわけですね。
そうです。で、その時夫から、今は急だから俺の気持ちも決まらないけど、
4年後ではどうかって提案されました。
その時に私はきっぱりと、4年後は自分の気持ちがどうなっているかわからない。
今これだけの高鳴りがあるけど、これがそのまま4年後にあるかどうか、
仲間も一緒、私も一緒、だからそれは無理と言いました。
やっぱりタイミングですよね。
はい、自分自身のこの思いは今だって私も言ったんです。
ちょうど50歳になる時で、これからは自分自身の生き方を考えた時、
子育ても終わり、家族と向き合った時に、これからは私自身の生き方をしたいと思いました。
自分で決断して生きていきたいと思ったんです。
で、父は私の友達のところに行って、何とか止めてくれないかと頼んでるんです。
家族の協力と選挙活動
でも友達もみんな無理ですと言ったらしくて、父はそこで折れたそうです。
夫は子供たちが反対すると思ったらしいんですよ。
でも子供たちは離婚してもいいって言ってくれてるって言ったら、
私が諦めないっていうのがわかったらしくて、
立候補表明をする直前に2人とも応援するっていうことになりました。
応援っていう言葉をちゃんともらえたんですか?
いいえ、認めるっていうことですね。
もう好きにすればいいって言う。でもそれからも面白いんですよ。
父はもし選挙に出て落選したら、俺たちはこの地に住めなくなるって言うんです。
それで私はその時にはっきりと父と夫に言ったんです。
まず選挙に出てもし私が落選しても、
それはまだまだ山梨市に女性議員が必要だというような意識がないっていうことだから、
私が悪くてと落選するわけではないと説明しました。
それから2人は落としては困るという意識が動いてくれて、それで一生懸命になりました。
父は結構交流が広かったので、いろんなところに挨拶に連れてってくれて、
だから当選できたのは父の力も結構あったと思うんです。
夫も同級生や仕事関係の人に一生懸命働きかけて、
理由は落選したら困って恥ずかしいっていう、そういう理由だけですけど。
普通女性が不利なのは、一つには結婚で外からその地域に来て、
いわゆる遅延が薄いからっていうことが大きいわけですけど、
それを夫とそのお父様が補ってくれたわけですよね。
公約と初当選、そして議会の現実
どんな選挙の仕方だったんですか。
それまで選挙にはお金がかかると聞いていたので、
とにかくお金のかからない選挙をしようと思いました。
仲間は主に私の子育て中の友達です。
PK活動ママと子ども劇場の仲間でした。
本当に女性だけの選挙でした。
全部で7回の選挙をしましたけど、7回とも変わらずに女性だけの選挙をしました。
今までは女性が誰かの選挙の手伝いをしても、お茶組ぐらいでした。
それが一緒に車に乗って、一緒に手も振って、頭も下げてということをするんです。
確かに地域の中で顔が見えるっていうことですよね。
立候補を決めた時、リメイク農村の講座を受講したらいいって
リメイクで進めてくれた友達のお母さんに、友達と5人で挨拶に行ったんです。
その時、その方が私にではなくて、一緒にいた友達に
自分が出る気持ちでなきゃダメだよ。そうじゃないとこの人は当選しないよって言ってくれたんです。
それは私すごくありがたかったです。
25年以上前で女性だけの選挙って確かに難しかったでしょうね。
商売している友達も1週間選挙間に乗ってくれましたけど、
お店を誰かに頼むということは、家族の供養力がなければ無理ですよね。
特に商売屋さんは選挙で誰かを支持するということで、お得意さを逃してしまうかもしれない。
なのに皆さん、それもあえてしてくれました。
家族の協力を取るのにみんな苦労したと思います。
なるほどね。立候補する女性だけでなく、応援する女性も
家族の承認を取り付けるのが大変だったっていうことですね。
だから女性が選挙に出るということは、要するに仲間もそういう意識改革をしていかなければいけない。
それがみんなの意識の変化につながっていったとすごく感じました。
確かにそういう効果もあるわけですよね。
その時の公約はどういうことでしたか?
開かれた議会。女性の視点での議会活動でした。
初めて立候補する人が開かれた議会っていうのは、どうしてそういうものを掲げたんでしょうか?
議員になってからも市民に開かれていないと感じましたけど、議員になる前に私が議会の様子を知らないということ自体が市民に開かれていないということですよね。
情報を取りに行くことも大切だけれども、議会自体が全然市民に発信していないということだったと思うんです。
これもなるほどですね。
そしてその時、女性が3人当選という結果になりました。
女性が3人も立候補すること、私も蓋を開けて初めて知ったんです。自分のことで一生懸命だったので。
1999年の山梨市で女性3人が立候補して全員当選という結果になったわけですけど、
現在の山梨市という地域で見ると、その前に女性が立候補したのは1948年の統一地方選挙で、東山梨郡の諏訪町と八幡村で女性が立候補して2人とも当選しています。
その後50年以上の空白があったわけですよね。
では尾野さんのリクエスト2曲目、中島美雪の地上の星をお聞きください。
そして25年以上前に初めて議会の一員となった時に、まずどんなことを感じましたか。
まるっきり男社会でしたね。開かれた議会を目指していた私にとっては、むしろ開かなくていい議会でした。
例えば私は当選してから、静岡医大寄りという活動報告をするペーパーを発行して、市民に議会がどんなところか丁寧に説明していたのです。
でもある時先輩議員に呼ばれて、もちろん男性ですが、こんなに詳しく議会のことを説明しなくてよい。市民は議会のことは知らない方がいいと言われたんです。
本当にそんなこと言ったんですかっていう話ですよね。
それからもう一つ、議会事務局から聞いたのですが、私たち女性3人がいきなり当選したので、議会の研修は今まで夜の食事の時にコンパニョンを呼んでいたそうですが、私たちが文句を言う前に自主的に廃止したそうです。
コンパニョンって何?という方もいらっしゃるかもしれません。宴会の席でお釈迦をしたりして接客をする女性のことです。
議会事務局も泊まることが多かったみたいで、やはり市議会の委員会研修の時に、女性は私一人だったんですが、当時はまだビジネスホテルが一般的ではなく旅館に泊まったんですね。
事務局長さんに女性一人で一人扱うと費用がかかるので、男性と一緒じゃダメだねって言われてびっくりしたこと、今でも覚えています。結局一人にしてもらいましたけどね。今はビジネスホテルでみんな一人ずつですけど。
すごい話ですよね。議会がいかに男性だけのものだったかということがわかるエピソードですよね。そうして7回も選挙して当選した。長い議員生活の中で取り組んできたことはどんなことですか?
議員としての取り組みと地域貢献
いろいろありますが、難しかったのは議会改革でした。議会改革ということが叫ばれ出した時期に、私たちも北海道の三瀬湖市に研修に行ったりしました。議会が終わった後に、議員が市民のところに説明に行く議会主催の報告会をいくつかの地域に分かれてやっていました。
そういう事例を見てきたので、そういうこともやりたいと思いました。でも一人二人が行っても、議員全員がまとまらないとできないことなので、すごくそれが難しかったです。
そういうことが難しくなっちゃう理由っていうのは何なんですか?
住民がそんなに知らなくてもいいという気持ちでしょうか。住民に説明する、議員として報告会をするということ自体自信がないという人もいました。
そうですね。何と言ったらいいかという感じなんですけれども、とにかく議会改革はやろうとしたけれども難しかった。では、これはやったぞということはありますか?
山梨市の駅前を何とか活性化したいということで、NPOを立ち上げて朝市を駅前の広場で始めました。今は私は引退させてもらっていますが、朝市は続いています。
それからひと休みというお店のこともちょっと言ってください。
ひと休みは朝市のメンバーで作った山梨市の駅のそばにあるお店です。当時は朝市に出している出展者の方たちが常設店が欲しいということで始めたお店です。
手作りのもの、手芸品やお菓子などいろいろ置いてあります。今はもっと広く自由に皆様が利用できる中高年の寄り場となっています。
昔はどこの家にも縁側があって、そこでお茶を飲んでお話をしてそういう文化がありましたけど、今はなかなか近所の方とお話しする機会がない。
そうですね。
そういうことに変わるようなお店になりつつあるかなという感じです。今年で19年目になりました。
はい、私も伺いましたけれども、そういう感じがすごくしました。というふうに地域づくりにも貢献してきた小野さんのリクエスト3曲目です。
女性議員の意義と具体的な活動事例
大好きなうなぎかずおの高校3年生です。
これも大ヒットした1963年のデビュー曲ですね。山梨市は小野さんが当選された1999年からずっと女性議員が3名か4名いるときが多くて、県内でも女性割合が高い議会です。
現在は女性議員4名で割合は22.2%県内で5番目でしょうか。これはもちろん女性議員の方々の努力もあると思いますが、どんな理由があると思いますか。
私が思うには、いきなり3人当選できたということが多かった。それだけ市民の意識が高かったと思うのです。女性がいなきゃねという思いが強い人たちが先輩の女性の中にも大勢いらっしゃったので、そういう意識が強いのではないかと思います。
それにそれぞれの女性議員の方たちも頑張ってきて、実は女性がいるのが当たり前、普通だという意識が続いてきているのではないでしょうか。
その女性議員が一定数いるということは、どんな意味があると思われますか。
地方議会は特に介護のこととか教育のこととか環境のこと、まさに暮らしに直接関わることを決めていく場ですけど、でもそれを実際にやっているのは女性ですよね。
だから現場にいる人たちの声がそのまま議会に届くためには、女性がどうしても必要と最初からそう思っていたんです。
私が議員になって1年目の時のお話ですが、市の学童保育がちょうど始まる年だったんです。
看護師として働いている若いお母さんたちが10人ほど集まって、小野さんに相談したいことがあるって呼ばれました。
学童保育の説明を市から受けたけれど、学校が始まっても給食が出ない。
4月1ヶ月はまだダメ。給食が始まる5月から学童保育も始まるっていう説明があったというんです。
でもそのお母さんたち困っちゃったんですよね。
看護師さんなので、4月をどうにかしてもらえないと仕事を休まなくちゃならない。
でも休めないし、4月問題です。給食を4月から始めてもらえれば学童保育も始まるというんです。
今はもう入学式で次の日から給食があって、学童保育もすぐ始まってるんですが、最初はそれがなくて、
お母さんたちが市役所でそのことをお願いしたら、担当の課長さんに、
市がせっかく学童保育を始めてやるのに、まだ贅沢を言うんですか?
まだこれ以上の要望があるんですか?って言われたんだそうです。
初めてやるっていうわけですね。
それである男性議員に相談したら、通り一辺の返事でどういうふうに動いてくれるのかも言ってくれなかった。
それで私のことを紹介されましたというので、その方の意見を聞き取って、
3月議会で詳しい現状を訴えて質問したんです。
そしたら課長さんから、全処しますという答弁をもらえたんです。
それでそういうことは女性でなければ、やっぱり自分の身としてわからないのだと思いました。
要するに時代がどんどん変わって、男性の方もそういうケア労働をするようになれば違ってくるでしょうけど、
まさに当事者としての受け止め方が違うわけですね。
違うと思うんです。
その時の看護師さんたちの中にまだ勤めている方がいて、病院に行った時その方が、
小野さんですよね。もうその時の子が成人して立派に働いています。
でもあの時のことは未だに覚えてますって言ってくださったので、
一つでもそういうことができたのは良かったかなと思っています。
環境問題への取り組みと他議員の経験
環境問題も要するにゴミ捨て問題から始まってます。
山梨市は区にリサイクルステーションがあって、そこにいつでも持っていけるんです。
そういうことも仲間とゴミ減量の調査をして、そのデータをもとに質問したので取り組んでもらえたと思っています。
現在議員歴が一番長いというふうにご紹介した、
ニラサキ市の小林恵理子議員に直接伺ったんですけれども、同じような経験をされています。
ニラサキ市で当時はなかった学徒保育をつくりたいという、
共働きの親御さんたちと一緒に署名活動とか声援活動をする中で議会に女性を送りたいという、
そういう共通の思いが広がっていった。
そして当選後は児童センターとか放課後児童クラブの実施につながったというふうにおっしゃっていました。
もっと女性議員が増えるためにはどうしたらいいと思いますか。
女性議員増加への提言と現状への懸念
何と言っても学習の場が必要だと思います。
そのことによってみんなの意識改革をすることが必要だと思います。
それは本当にそう思いますよね。
尾野さんが参加したような長期の学習機会というのがあるといいというふうに私は思っています。
一方で、この4月の藤川長期選のように決意が生じたり、それから開始のように投票率が4割を切るというような、
現在の状況をどういうふうに受け止めていますか。
どうして住民の方が関心がないのか本当に不思議です。
自分たちの生活そのものが議会で決定されます。
それに関心を持たないのは結局自分の暮らしに跳ね返ってきます。
市民の声が届かなくていいのかと思います。
立候補を考える女性へのメッセージと番組を終えて
では、そういう現状を踏まえて立候補を考えている女性たちに何か一言お願いします。
何か自分がしたいことがあって立候補しようと決めるのだと思うので、
強い意志を持ってそれを貫いていただきたいと思います。
はい、ありがとうございます。
今日は山梨県内の女性議員の中でも在職年数26年と長く、
私たち山梨の女性子の研究グループのメンバーでもある、
前山梨市議会議員の鈴江さんにお話を伺いました。
小野さんは4月から山梨市の男女共同参画推進会の委員に委嘱されたそうです。
ぜひ経験を生かして住民と議会をつなぐ、そういう役割もしていただければと思います。
それから一休みは今後も続けるんですよね。
リスナーの皆様も山梨市駅北口徒歩1分ですので、どうぞ一度お立ち寄りください。
どうもありがとうございました。
FM八ヶ岳池田雅子がお送りする暮らし野良新版、聞いてくださってありがとうございました。
今日の最後は短歌をたしなみ、いくつかの受賞もされている小野さんのお母様三森美音子さんの歌を読ませていただきます。
赤髪を手にうろたえる妻我におめでとうという人の小ぞり手
赤髪を手にうろたえる妻我におめでとうという人の小ぞり手
赤髪って何という方もいるかもしれませんね。
召集令状を赤い紙に印刷したんです。
召集令状とはお前は兵隊になって戦地に行くことが決まったからどこどこへ出逃せよという国の命令書ですね。
そんな赤髪が夫に来たのに周りの人たちはみんなおめでとうと言った。
二度とこんな世の中になってはいけないと強く思います。
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